第3話 遅れていた約束

僕はストップウォッチを胸の前に持ったまま、動けなくなった。

何かを落としたわけではない。床に転がった銀色の時計を拾い上げただけなのに、足元の板張りが急に頼りなくなった。部室の床が沈んだのではなく、僕の立っている時間の方が、ひとつ下へずれたようだった。

換気扇が低く唸っている。窓から入った風が、壁に貼られた大会プログラムの端をめくり、紙の裏側を一瞬だけ見せた。黄ばんだ白。そこにも、何年も前の誰かの名前がある。

手の中のストップウォッチは冷たかった。

冷たいのに、握っているうちに、掌の中心だけが熱を持ってくる。細かな擦り傷のひとつひとつに、これまで触れてきた人の指が残っているような気がした。

雨宮澪。

名前を思い出した瞬間、部室の空気が別の季節へつながった。

雨宮先輩が主将だった頃、僕はまだ一年生で、タイムの読み上げ方さえぎこちなかった。練習の終わり、女子の中距離組がトラックを流している間、僕はホームストレートの脇に立っていた。夕方の風が競技場の金網を抜け、乾いた土の匂いを運んでいた。

先輩は、走り終えるとすぐには止まらなかった。

速度を落とし、呼吸を整えながら、トラックの外側を半周ほど歩いた。汗で濡れた髪が頬に貼りつき、ふくらはぎには薄い筋が浮いていた。それでも足取りは乱れていなかった。僕が計測ノートを閉じるまで、先輩は何も言わずに待っていた。

「高瀬」

「はい」

「これ、しばらく使ってて」

そう言って、彼女は銀色のストップウォッチを差し出した。

僕は両手で受け取った。金属が思っていたより冷たくて、走り終えたばかりの先輩の手との温度差に驚いた。

「部の備品ですか」

「半分は。もう半分は、私の癖みたいなもの」

先輩は、時計の表面に残った汗をシャツの裾で拭った。僕は慌てて、自分のタオルを差し出した。

「これで拭いてください」

「高瀬が使った方がいい」

「でも」

「じゃあ、預ける」

先輩はタオルを受け取らず、僕の手の中の時計を見た。

「引退したら、返して」

声は静かだった。頼みごとというより、計測ノートの余白に数字を書き込むような言い方だった。

「はい」

僕はうなずいた。

そのとき、なぜ返すのかと聞かなかった。先輩が使っていたものだから。引退する人間に、持ち物を戻すのは当然だから。僕はそう思った。

たぶん、分かったつもりだったのだ。

雨宮先輩は、僕から時計を取り上げなかった。僕の手の中へ残したまま、トラックの方へ戻っていった。夕方の風が、彼女の背中を細く押していた。

僕はそのあとも、いつも通りタイムを測った。

ラップを書き、練習日誌をまとめ、器具を片づけた。先輩の走りを測ることが何度もあり、そのたびにこの時計を使った。スタートボタンを押し、ゴールで止める。呼吸の乱れを聞き、足音の間隔を数え、数字の横に短い言葉を書き添える。

そうしているうちに、時計は僕の手に馴染んだ。

馴染みすぎた。

雨宮先輩が故障して練習を休むようになっても、主将を退いても、僕は時計を部室のどこかへ戻しただけだった。返すという動作をしないまま、日々の作業へ紛れ込ませた。

部活は毎日続いた。大会があり、記録会があり、練習メニューが変わった。後輩が入り、先輩が卒業した。僕自身も補欠のまま学年を上げ、計測係として頼られるようになった。

その間、約束だけが、時間の流れから外れていた。

自分は几帳面なほうだと思っていた。道具の数を確かめ、棚の角を揃え、記録の誤差を見つければ書き直した。誰かに預けられたものをなくすような人間ではないつもりだった。

なのに、いちばん大切に扱うべきものだけを、見ないまま置き去りにした。

ストップウォッチの裏蓋に書かれた文字を、僕は指でなぞった。

返却先:雨宮先輩。

油性ペンの黒は薄れ、ところどころ途切れている。その途切れ方が、まるで僕が忘れていた時間の長さを示しているようだった。

「どうした」

背後から、小野寺先生の声がした。

僕は振り向けなかった。時計を胸の前で持ったまま、裏面だけを先生へ向ける。自分から見せたというより、隠しきれずに差し出した形だった。

先生は僕の横へ来た。靴底が、床の上の小さな砂を押しつぶす音がした。

「雨宮のか」

「……たぶん」

「たぶん、は確認じゃない」

県大会のスタンドで聞いたのと同じ言葉だった。

僕は唇を湿らせた。部室の埃が喉に貼りつき、声が少し遅れて出た。

「雨宮先輩のです」

「そうか」

先生は時計を取ろうとしなかった。

ただ、僕の手元を見ていた。責める目ではない。けれど、見ていないふりをする目でもなかった。僕がその視線に耐えられず、ストップウォッチを握り直すと、先生は棚の上にあった赤ペンを拾い、ずれていた記録用紙の束を揃えた。

「返すのか」

「はい」

「いつ」

今度は、答えが出なかった。

明日。すぐに。今日中に。どれも口にできるはずなのに、ひとつを選んだ瞬間、それがまた別の先延ばしになるような気がした。

「……今日、です」

「今日はもう遅い」

「でも、今なら」

「今なら何だ」

「忘れないで済みます」

言ってから、自分の声が思ったより幼く聞こえた。

先生はすぐには返事をしなかった。赤ペンを机の上へ置き、紙の角を何度か指先で押さえる。やがて、低い声で言った。

「忘れないために、急いで渡すのか」

「返すものなので」

「返すことと、急ぐことは同じじゃない」

「でも、僕はもう十分遅れています」

言葉が出始めると、止めるのが難しかった。

「雨宮先輩が引退したのは、ずっと前です。僕はそのときに返すはずだった。返さなかったまま、何年も持っていた。今日見つけたから返すっていうのも、結局、自分が思い出したから動いているだけで……先輩の時間を考えていない気がします」

先生は黙って聞いていた。

「僕は、記録なら間違えないようにしてきました。タイムも、ラップも、名前の順番も。でも、これは違った。預かった日も、返す日も、どこにも書いていない。だから忘れた。忘れたのに、忘れたことを確認もしなかった」

自分で言いながら、胸の奥が狭くなった。

「それで、何を返すんだ」

先生の声がした。

「時計です」

「時計だけか」

僕は答えられなかった。

先生は僕の沈黙を待ち、それ以上は追わなかった。しばらくして、鍵束を拾い上げる。金属同士が触れ、短い音が部室の中へ落ちた。

「物を返すときは、汚れを落とす。動くか確かめる。どこから来たものか、分かる範囲で確かめる。相手が受け取れる形にする」

「はい」

「返すのは、物だけじゃない」

僕は顔を上げた。

「預かった時間もだ」

先生はそう言って、壁の記録表へ目を向けた。古い紙の端が浮き、そこだけ壁の灰色が覗いている。

「記録係は、走った者の時間を預かる。数字にして、残す。だから、雑に返すな」

「僕は、ちゃんと測ってきたつもりです」

「そうだな」

「でも、自分のことは測れませんでした」

先生は何も言わなかった。

その沈黙に、僕は初めて、自分が本当に言いたかったことへ触れた気がした。僕は誰かの速さなら測れる。蓮のラップが落ちたことも、先輩の呼吸が一周目から上がっていたことも分かる。けれど、自分がどれだけ悔しかったのか、自分が何を待っていたのか、それだけは数字にできなかった。

だから、見ないままにした。

「先生は」

僕は一度、言葉を飲み込んだ。

「先生は、返せなかったものってありますか」

先生は鍵束を握ったまま、窓の外を見た。暗いグラウンドに、校舎の灯りが細く伸びている。

「ある」

短い答えだった。

「何ですか」

「言わなかったことだ」

先生はそれ以上、説明しなかった。

僕も聞き返せなかった。聞けば、先生の中にあるものまで、勝手に記録しようとする気がした。

先生は机の引き出しを開けた。

「今日はそこへ入れろ」

「でも、雨宮先輩に」

「今から行くのか」

「……はい」

「寮にいる」

僕は先生を見た。

「雨宮先輩が?」

「鍵当番の引き継ぎを間違えた。合宿寮の共有スペースに、まだ夕飯の弁当が残ってる。雨宮が片づけに来ているはずだ」

「先生が間違えたんですか」

「俺ではない。おまえたちの鍵当番だ」

先生はそう言ったが、どの鍵をどこへ置いたのかは自分で忘れていたらしい。机の端から寮の鍵を拾い上げ、僕へ差し出した。

「持っていけ」

鍵を受け取ると、思っていたより重かった。部室の鍵とは違う、細く長い金属だった。指の間で回すと、キーホルダーの小さな輪が爪に当たる。

「僕が、ですか」

「おまえが見つけた」

「先生は来ないんですか」

「戸締まりが残っている」

先生は部室を見回した。棚の向き、窓の隙間、机の上の紙の位置。何かひとつでも乱れていれば、最後まで残るつもりなのだろう。

「それに、二人で話した方がいいこともある」

「何を話せばいいか、分かりません」

「分からないまま行け」

先生は鍵を握る僕の手元を見た。

「分かったふりをしている時間の方が、長くなる」

僕は返事をしなかった。

ストップウォッチを、机の引き出しへ入れる。木の底に触れた金属が、小さく鳴った。

先生が手を伸ばした。

「持っていけ」

「え」

「返しに行くんだろ」

僕は時計を取り出した。銀色の表面を、シャツの裾で拭う。擦り傷の間に残っていた埃が、布地に黒くついた。ボタンを押すと、内部でかすかな音がした。

秒針が動いた。

細い針が、文字盤の上を一つずつ進んでいく。

止まっていたわけではない。僕が止めていただけだった。

その事実が、怖かった。

ポケットへ入れると、時計の角が太ももに当たった。歩くたび、そこにあることが分かる。なくしたものではなく、返していないものの重さだった。

「窓、閉めろ」

「はい」

僕は窓辺へ向かった。

外から夜風が入り、湿った草と土の匂いが部室へ流れ込んでいる。昼間の熱はほとんど消え、肌に触れる風だけが妙に涼しかった。遠くで、河川敷へ続く道路を車が走っている。タイヤの音が、一定の間隔で暗がりを横切った。

窓を閉める前に、僕は校舎横の合宿寮を見た。

二階の廊下に、ひとつだけ明かりがついている。白い光の中で、カーテンがゆっくり揺れていた。

雨宮先輩がいる。

その建物まで歩く距離は、たいしたことがない。部室から数分だ。なのに、今の僕には、県大会のトラック一周分より長く感じられた。

「高瀬」

背中に先生の声が届いた。

「はい」

「手ぶらで帰るなよ」

振り返ると、先生はもうこちらを見ていなかった。散らばった安全ピンを、黙って小箱へ戻している。

僕は窓を閉めた。

部室の中から、夜風の音が切り離される。埃と汗と古い紙の匂いが、狭い空間に戻ってきた。机の上には、今日の記録用紙が置かれている。蓮のタイム、リレーの通過、最後の種目の結果。数字は並んでいる。正確で、動かない。

けれど、僕のポケットの中では、銀色の秒針が進んでいた。

部室の鍵を閉め、寮の鍵を握り直す。

廊下へ出ると、校舎は祭りのあとみたいに静かだった。誰もいない教室の窓が暗く、掲示板の紙だけが蛍光灯の残り明かりを受けている。靴音が廊下に響き、僕の後ろへ伸びていった。

一歩進むたび、時計が太ももへ触れた。

その角の硬さが、忘れていた約束を、今度は忘れないように押し返してくる。

僕は合宿寮へ向かって歩き出した。

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