第2話 埃の匂い

学校に戻ったころには、空はもう暗み始めていた。
校門をくぐると、昼間の競技場に残っていた熱とは違う、乾いた匂いが鼻に入った。アスファルトが冷え始める匂い。植え込みの土と、遠くの校舎から流れてくる洗剤の匂い。その中に、蝉の声の残りかすが混じっていた。鳴いているのか、もう鳴いていないのか分からないほど薄い音だった。
古いクラブハウスの一角にある部室には、まだ誰も戻っていなかった。
扉を開けた瞬間、昼間に開け放していた窓から入り込んだ風と、閉じたままの湿気と、靴底に残った土の匂いが一度に押し寄せてきた。汗の乾いたユニフォーム、使い終えたテーピング、濡れたタオル。大会の一日が、物の形を借りて部屋の中に残っている。
僕は入口で立ち止まり、呼吸を一度整えた。
埃っぽい空気を吸うと、喉の奥がざらついた。競技場で嗅いだ汗やゴムの匂いよりも、こちらの方が身体に近い気がした。誰かが走り終えた場所ではなく、走り終えたあとに戻ってくる場所の匂いだった。
窓際の机に、小野寺先生がいた。
腕まくりしたシャツの袖から出た手で、黄ばんだ大会プログラムを束ねている。紙の角を揃え、何度か机の縁に軽く打ちつける。その動作に迷いがない。先生は片づけの順番を、最初から最後まで頭の中で決めているらしかった。
僕が入っていくと、先生は顔を上げずに言った。
「ゼッケン、先。プログラムはそのあと。棚の角、揃えろ」
「はい」
それだけだった。
先生は僕の顔を見なかった。だから、僕も余計な表情を作らずに済んだ。県大会が終わったことも、僕が一度も走らなかったことも、先生は知っている。知っていて、いま必要な作業だけを渡してくる。
僕は荷物を床に置き、ゼッケンの束を拾い上げた。
安全ピンがいくつか外れている。番号の順に並べてから、折れたものと使えるものを分けた。使い終えたテープの束、予備のピン、応急用の氷嚢、誰のものともつかない古い軍手。手に取るたび、物にはそれぞれ違う温度があった。氷嚢はまだ冷たく、テープの芯は汗で少し湿っている。軍手には乾いた土が入り込み、指先の布が固くなっていた。
物を正しい場所へ戻していくと、胸の中に引っかかっていたものまで、少しずつ棚へ収まっていくような気がした。
もちろん、そんなことはない。
ゼッケンを畳んでも、僕の名前が補欠欄にあった事実は消えない。計測用のペンを箱へ戻しても、今日、僕が走る側ではなく測る側にいたことは変わらない。けれど、手を止めてしまえば、別の考えが浮かんでくる。だから僕は、できるだけ手を動かしていた。
先生は、窓際の机で大会プログラムを整理している。
表紙には、瑞雲総合運動公園陸上競技場の写真が載っていた。青い空と、赤いトラック。今日の空はもっと白く濁っていて、トラックも夕方の熱を吸って暗く見えた。同じ場所のはずなのに、印刷された写真の中では、すべてがもっと簡単そうに見える。
「先生」
呼びかけると、小野寺先生は紙から目を離さず、「何だ」と返した。
「これ、どこまで残しますか」
「大会プログラムか」
「はい」
「全部」
「全部、ですか」
「名前が載ってる」
先生はそこで初めて、束ねた紙の一番上を見た。
「結果がよくても悪くても、名前が載ったものは残す。出たやつも、出なかったやつもな」
先生の指が、プログラムの端を押さえた。
「出なかった人の名前も、ですか」
聞いたあとで、余計なことを言ったと思った。先生はすぐには答えなかった。紙の擦れる音だけが、部室の中に残った。換気扇が低く唸り、窓の外で自転車のブレーキが鳴った。
「出なかった、で終わらせるな」
先生は短く言った。
「その日に何をしていたかは、名前の横に書いてない。だから残す」
僕は返事をせず、ゼッケンの束をもう一度揃えた。紙の角が一枚だけ飛び出していたので、指先で押し込む。
先生の言葉は、励ましには聞こえなかった。だから、かえって残った。
壁には、古い大会プログラムと手書きの記録表が貼られている。何年も前の名前が、今の名前の横で色褪せていた。数字の一部は日に焼けて読めなくなり、セロハンテープは端から浮いている。それでも、誰かが剥がして捨てることはなかった。
その文字を見ていると、まだ誰かが走っている途中のように思えることがある。
もちろん、そこにいる人たちはもう卒業している。大学へ行った人も、就職した人も、陸上から離れた人もいるだろう。それでも、記録表の上では、スタートした瞬間も、最後の一周も、ずっと終わらない。
僕もいずれ、薄く残る側へ回る。
そう考えると、胸の奥が少し狭くなった。
僕の名前は、何に添えられて残るのだろう。百メートルの記録か、二百メートルの記録か。それとも、補欠という小さな欄に、誰にも気づかれないまま印刷されたままになるのか。
僕は壁から目を逸らし、ロッカーへ向かった。
大会で使った荷物を戻すためだった。自分の棚を開け、タオルとリストバンドをしまう。県大会でもらったタオルは、ほとんど使わなかった。汗を拭く必要がなかったからだ。きれいなままの白い布地に、大会名だけが青く印刷されている。
タオルを畳み、棚の奥へ押し込んだ。
そのとき、ロッカーの下から、何かが滑り落ちた。
硬い音がして、銀色の小さな塊が床を転がった。机の脚にぶつかり、そこで止まる。
僕はしゃがみ込み、それを拾った。
手のひらに冷たさが残った。
古いストップウォッチだった。
表面には細かな擦り傷があり、縁には長いあいだ誰かが触れてきた跡のように、薄い光沢が出ている。ボタンの周りには黒ずみが溜まり、裏蓋には小さなへこみがあった。十年以上前から部室にある、SEIKO TRACK MASTER。計測係が代々使ってきた備品だ。
僕は親指で、スタートボタンの位置をなぞった。
押せば、まだ動くかもしれない。
そう思ったが、すぐには押せなかった。
手の中に収まる大きさなのに、妙に重かった。今日の競技場で何度も握った別のストップウォッチより、こちらの方が深いところまで沈んでくる。
裏返す。
蓋の中央に、油性ペンで文字が書かれていた。
黒い字は少し滲み、何度も手で擦られたように薄くなっている。
それでも読めた。
返却先:雨宮先輩
指が止まった。
換気扇の音が遠くなる。窓から入った風が、机の上のプログラムを一枚だけめくった。紙がぱたん、と鳴る。その音が、誰かの合図のように聞こえた。
雨宮澪。
引退した先輩の名前だった。
僕はストップウォッチを握ったまま、立ち上がれなかった。
雨宮先輩が主将だったころの部室が、急に近くなった。朝のまだ冷たい床。練習後の湿った空気。彼女が記録ノートを開くときの、紙の端を丁寧に押さえる指。誰かのフォームが崩れていると、叱る前にその足元を見る癖。
そして、夕暮れのトラック。
記憶の中で、彼女の声は大きくなかった。
「引退したら、返して」
何を返すのか、僕は聞かなかった。
たぶん、分かっているつもりだったのだと思う。返すものは、ストップウォッチそのものだ。練習で使い終えたら、あるいは先輩が部を離れたら、持ち主へ戻す。それだけの、単純な話だと。
けれど、僕は返していない。

いつからだったのか、分からなかった。
預かったことは覚えている。時計を受け取ったときの、手のひらに残った金属の冷たさも覚えている。なのに、その後の時間だけが、部室の埃の中へ沈んでいた。
「どうした」
背後から小野寺先生の声がした。
僕は振り向いた。先生はいつの間にか、束ねたプログラムを箱へ収めていた。視線は僕の顔ではなく、手の中のストップウォッチへ向いている。
「これ……」
声がうまく出なかった。
僕はストップウォッチを裏返し、先生に見せた。返却先の文字が、蛍光灯の下で黒く浮かんでいる。
先生は一度だけ見た。
「雨宮のか」
「たぶん」
「たぶん、は確認じゃない」
さっきと同じ言葉だった。
僕はストップウォッチを見たまま、息を吸った。埃の匂いが喉へ入ってくる。
「……雨宮先輩のです」
「そうか」
先生はそれ以上、聞かなかった。
僕は、何か言われると思っていた。どうして今まで持っていた、とか、なぜ返さなかった、とか。けれど先生は、そういう言葉を口にしない。責められないことが、かえって苦しかった。
「返します」
自分でも驚くほど早く言った。
「いつ」
答えが詰まった。
明日、と言えばいい。すぐに、と言えばいい。そう言い切れば済むはずなのに、口の中で言葉が乾いていく。
先生は僕の返事を待った。急かさず、視線も外さない。
「……今日、です」
「今日はもう遅い」
「でも」
「返すなら、相手の時間も考えろ」
先生は机の脇に置いていた鍵束を拾い上げた。金属同士が触れ合い、小さく鳴る。
「返すことは、持っていって渡すだけじゃない。相手が受け取れる状態にするところまでだ」
「受け取れる状態……」
「汚れているなら拭け。動くか確かめろ。記録があるなら、どこから来たものか見ろ。物を返すときは、預かった時間も一緒に返す」
先生の言葉は、いつもより長かった。
それでも、説明しすぎている感じはしなかった。僕が持っているストップウォッチを見ながら、先生自身にも古い何かを確かめているようだった。
僕は時計の表面を親指で擦った。細かな傷の間に、埃が入り込んでいる。
「先生は、雨宮先輩に返さなかったんですか」
聞いてから、失礼だったかもしれないと思った。
先生は怒らなかった。ただ、鍵束を握る手を一度閉じた。
「俺が預かったものじゃない」
「そうですか」
「ただ、返せなかったものなら、いくつかある」
先生はそれ以上を語らなかった。
部室の外で、誰かの足音が近づき、すぐに遠ざかった。校舎の廊下はもう暗い。窓ガラスに映る部室の中には、先生と僕の姿が細く浮かんでいる。壁の記録表も、古い大会プログラムも、こちらを見返しているようだった。
「動作確認は、明日でいい」
先生が言った。
「今日は持って帰るな。部室の机の引き出しに入れろ」
「でも、なくしたら」
「今まで、なくしていたのと同じだろ」
その言葉が、胸の奥へまっすぐ入った。
僕は反論できなかった。
ストップウォッチは、ずっと僕の近くにあった。部室のロッカーの奥、記録用紙の下、誰かの忘れ物の影。近くにありすぎて、見えていなかった。僕が大事に保管していたのではなく、見ないまま置いていただけだった。
先生は机の引き出しを開けた。
「ここに入れろ」
僕は従った。銀色の時計を引き出しの中へ置く。木の底に触れた瞬間、金属の冷たさがわずかに薄れた。
けれど、手のひらには残っている。
「鍵、閉めます」
「頼む」
僕は引き出しを閉じ、先生から鍵を受け取った。小さな鍵穴へ差し込む。回すと、内部で金具が噛み合う音がした。
その音を聞いたとき、時計がまた時間の外へ押し戻されたように思えた。
僕は立ち上がり、棚の角を確認した。テープの束は揃っている。安全ピンの箱も閉じている。黄ばんだプログラムの束は、先生が決めた位置に置かれていた。
「窓、閉めろ」
「はい」
窓辺へ行くと、夜風が頬に触れた。昼間の熱はほとんど消えていた。グラウンドの向こうから、湿った草と土の匂いが流れてくる。蝉の声はもう聞こえない。
窓を閉める前に、僕は一度だけ外を見た。
暗い校庭の端に、河川敷へ続く道が見える。部員たちが何度も走った道。誰かの足音が残り、誰かの呼吸が消えていった道。
その先に、雨宮先輩がいる。
そう考えると、引き出しの中に置いた時計の重さが、また手のひらへ戻ってきた。
返す。
今度は、忘れない。
窓を閉めると、部室の空気が少しだけ濃くなった。埃と汗と古い紙の匂いが、狭い部屋の中で静かに混じり合う。
僕は机の引き出しを、もう一度だけ見た。
そこには何も見えない。
それでも、銀色の秒針が、暗い木箱の中でまだ動いているような気がした。
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