第1話 焼けたスタンド

県大会の最終種目が終わったあとも、瑞雲総合運動公園陸上競技場の熱は、すぐには引かなかった。
照明塔の白い光が一つずつ落ちていく。観客席のざわめきは薄くなり、場内アナウンスの残響だけが、屋根の下に取り残されていた。誰かが遠くで笑い、誰かが大きな声でチームメイトを呼ぶ。その声も、広い競技場の中ではすぐに輪郭を失った。
スタンドのコンクリートは夕方の空を吸ったまま、座れば体温を返してくる。青葉台高校のユニフォームを着たまま、僕は階段の途中に腰を下ろしていた。足は使っていないのに、ふくらはぎの奥が鉛みたいに重かった。
喉が乾いている。汗はもう引きかけているのに、首筋には薄い塩のざらつきが残っていた。腕を曲げると、ユニフォームの脇から、乾いた汗と土の匂いが上がってくる。今日一日、何度も同じ匂いを嗅いだ。走る前の緊張した匂い。走り終えた身体の匂い。誰かが脱いだスパイクの中にこもった、湿ったゴムの匂い。
それらを、僕はずっと近くで嗅いでいた。
けれど、自分の順番は来なかった。
隣では三枝蓮が、何度も口を開きかけては閉じていた。
蓮はリレーの主力だった。今日も予選から決勝まで走り、最後の種目が終わったあとでさえ、肩がまだ競技の形に張っていた。首元を指でなぞる癖が出ている。走る前にも、蓮はよくそうする。呼吸を整えるためなのか、緊張を隠すためなのか、僕には分からない。ただ、何かを言おうとしているときにも同じ仕草をすることだけは知っていた。
蓮の足元に、県大会の配布タオルが落ちていた。僕は拾おうとしたが、蓮の手の方が先に伸びた。
「……これ、持つ?」
蓮はタオルではなく、僕の横に置いていたバッグを指した。
「いい」
「そっか」
蓮はそれ以上、何も言わなかった。
少しして、彼は立ち上がり、自動販売機で買ってきたスポーツドリンクを僕に差し出した。冷えたペットボトルの表面で、水滴が夕方の光を細かく弾いている。
「飲む?」
「あとで」
「うん。あとでいい」
僕は受け取った。ラベルの水滴が指に触れ、手のひらだけが冷えた。栓を開ける気にはなれなかった。
蓮は、たぶん「おつかれ」と言いたかったのだと思う。あるいは「残念だったな」と言おうとしたのかもしれない。どちらも間違ってはいない。けれど、どちらも今の僕の肩に軽く触れすぎる。
おつかれ、と言われるほど、僕は疲れていない。走っていないからだ。
残念だったな、と言われるほど、簡単なことでもない。僕は今日だけ走れなかったのではなく、三年間、走る順番を何度も他の誰かに譲ってきた。その全部を、ひとつの大会の感想みたいに扱われたくなかった。
だから、蓮が何も言えずに隣にいることは、少しだけありがたかった。
スタンドの前列では、別の学校の選手が泣きながら荷物をまとめていた。泣いているのに、周囲の仲間は笑っていた。肩を抱く者がいて、タオルを渡す者がいて、何かを何度も謝っている者がいる。負けたのか、走り切ったのか、僕には分からない。ただ、その輪の中には、走った者だけが持つ熱があった。
僕のユニフォームにも、同じ大会名が印刷されている。胸元に学校名があり、腰にはゼッケンの安全ピンの跡が残っていた。それでも僕は、その輪の外側にいた。
取り残されたみたいだった。
実際には、誰も僕を置いていったわけではない。蓮も、他の部員たちも、さっきから何度か僕を振り返っている。小野寺先生は競技場の出口近くで、部員の荷物が揃っているかを確認していた。僕のバッグがそこにあることも、僕自身がここにいることも、みんな知っている。
それなのに、自分の中だけ時間が遅れていた。
競技場全体はもう、次の場所へ進み始めている。選手たちは着替え、監督たちは大会本部へ向かい、トラックの上では係員が風で飛ばされた紙を拾っている。なのに僕だけが、いつまでもスタートラインの手前に立っていた。
今日一日、僕は何度もストップウォッチを握った。
蓮が招集所へ向かう前、予選の組を確認したとき。リレーの二走がスタート地点へ歩いていったとき。決勝の選手紹介で、青葉台高校の名前が呼ばれたとき。僕はそのたびに、数字を測る準備をしていた。
指先は迷わなかった。
押すべき瞬間に押し、止めるべき瞬間に止める。タイムを読み上げ、記録用紙に書き写す。数字の並びは正確だった。僕が見ていたのは、選手の表情よりも足音の間隔で、声援よりもラップの差だった。
それなのに、自分がどれだけ時間を過ごしたのかは、よく分からなかった。
「高瀬」
不意に、下の方から小野寺先生に呼ばれた。
僕が立ち上がると、ふくらはぎの筋肉が遅れて軋んだ。使っていないのに、走り終えた脚みたいだった。
「荷物、まとめたか」
「はい」
「忘れ物は」
「ありません」
「本当に?」
先生は僕の顔ではなく、足元のバッグを見ていた。チャックの閉じ方や、外ポケットからはみ出したリストバンドを確認するような目だった。
「……たぶん」
僕が言うと、先生は眉をわずかに動かした。
「たぶん、は確認じゃない」
「すみません」
「謝る前に見ろ」
先生は顎でバッグを示した。
僕はしゃがみ込み、外ポケットを一つずつ開けた。予備の安全ピン、ボールペン、使いかけのテーピング、折れた鉛筆。大会プログラムの間には、今日のスタートリストが挟まっている。僕の名前は、男子百メートルと二百メートルの補欠欄に印刷されていた。
高瀬悠斗。
その下に、出場選手の名前が並んでいる。
僕は指で自分の名前をなぞりかけて、やめた。
「ありました」
「何が」
「忘れ物は、ないです」
「そうか」
先生はそれだけ言った。先に歩き出し、階段を下りていく。僕はバッグを背負った。肩に重さがかかる。走っていない身体には、その重さがかえって現実的だった。
蓮が階段の途中で待っていた。
「高瀬先生のチェック、厳しいよな」
「普通だろ」
「俺、去年、スパイク片方忘れて帰ったけど」
「知ってる」
「知ってたの?」
「翌朝、先生が部室の棚に置いてた」
蓮は、少しだけ笑った。笑ってから、僕の顔を見た。その笑顔が続かなかった。
「……なあ、悠斗」
僕は返事をしなかった。蓮の声が、いつもより少し低かった。

「今日のこと、さ」
「うん」
「俺が何か言っても、たぶん違うと思う」
「何が」
「分かんないけど。たぶん、違う。俺、走れた側だから。走れなかったやつの気持ちを分かったみたいに言うの、違うだろ」
蓮はそこで言葉を止めた。いつもの彼なら、何か冗談を足して空気を軽くする。けれど今日は、手で髪を乱暴にかいただけだった。
「でも、何も言わないのも、なんか逃げてるみたいで嫌なんだよな。俺だけ走って、俺だけ悔しがって、俺だけ次の話をするのは。……おまえがずっと隣でタイムを取ってたのに、俺、それを当たり前みたいにしてたし」
「蓮」
「うん」
「今、言わなくていい」
思ったより強い声が出た。蓮の肩が、ほんの少し下がる。
僕は続けようとしたが、言葉が見つからなかった。言わなくていい、というのは、聞きたくないという意味ではない。ただ、今日の僕には、今すぐ受け取れる形にできないというだけだった。
蓮はそれを分かったのか、分からないまま受け入れたのか、短く息を吐いた。
「分かった」
それから、僕のバッグを見た。
「それ、持つ?」
「持てる」
「うん。知ってる」
蓮はそう言って、自分のバッグを肩にかけ直した。二つのバッグを持とうとしないところが、蓮らしかった。手を差し出したまま、断られたら引く。僕が自分で立っていられるなら、無理に支えようとはしない。
その距離が、今日はありがたかった。
出口へ向かう途中、僕は一度だけ競技場を振り返った。
トラックの赤茶けた表面には、夕焼けが低く落ちていた。白いレーンの線はところどころ光を失い、走り終えた選手たちの影だけが長く伸びている。風のない場所にはまだ熱がこもり、空気が薄く揺れていた。
あの線の上に、僕も立っていたはずだった。
アップをして、招集所へ向かい、名前を呼ばれるのを待っていた。補欠として呼ばれる可能性は、最後までゼロではなかった。誰かが棄権するかもしれない。脚を痛めるかもしれない。そんなことを考えながら、僕は何度も靴ひもを結び直した。
けれど、順番は一度も回ってこなかった。
それを、僕は今日まで「仕方がない」と言い続けてきた。速い選手が走る。それがチームにとって正しい。僕より速い人間がいるなら、その人間が出るべきだ。そう思っていたし、そう言い聞かせていた。
正しいことと、悔しくないことは、同じではなかった。
僕はそこを、三年間ずっと間違えていたのかもしれない。
競技場の入口から外へ出ると、風が変わった。
昼間の熱を引きずった空気の中へ、急に涼しい風が混じっていた。汗の乾いた首筋を撫で、ユニフォームの背中を薄く冷やしていく。夏の終わりの風だった。
僕は思わず足を止めた。
蓮が数歩先で振り返る。
「どうした?」
「いや」
答えながら、僕は自分の腕を見た。鳥肌が立っていた。さっきまであれほど熱かった身体が、風に触れた場所から少しずつ冷めていく。
「涼しくなったな」
蓮が言った。
「うん」
「夏、終わるのかな」
僕は空を見上げた。まだ明るさの残る西の端に、細い雲が浮いている。遠くの木々が、風に揺れていた。
「終わるだろ」
「そっか」
蓮は笑った。今度の笑顔は、さっきより自然だった。明るくしようとした笑いではなく、どうしようもなく季節を受け入れるときの笑いだった。
僕たちは駐車場へ歩き出した。
足は重かった。走っていないのに、走り終えた脚のように重かった。それでも、一歩ごとに靴底が地面を確かめている。競技場の熱を離れ、冷え始めた風の中へ身体を運んでいる。
帰れば、部室の片づけが残っている。ゼッケンをしまい、計測用の道具を確認し、大会プログラムを所定の場所へ戻す。今日のタイムも整理しなければならない。僕が走らなかった一日の最後に、僕にできることはまだ残っている。
そう思った瞬間、胸の奥に、ほんの小さな抵抗が生まれた。
それだけでいいのか、と。
僕は蓮の背中を見た。彼は前を歩いている。肩が大きく動き、疲れた脚を引きずりながらも、次の場所へ進んでいる。僕はその足音を聞いた。右、左、右、左。決勝まで走った人間の足音は、疲れているのに乱れていなかった。
僕は無意識に、その間隔を数え始めた。
一、二、三、四。
数えたところで、意味はない。記録用紙に書く必要もない。それでも足音は、夕方の駐車場に残った。
今日、僕の時間は止まっていたのだと思っていた。
けれど、止まった時計でも、手の中に持っていれば重さはある。誰かの走りを測った数字も、走れずに見送った時間も、なかったことにはならない。そんなことを考えながら、僕は冷えたスポーツドリンクの栓をようやく開けた。
炭酸ではない、薄い甘さが舌に広がった。喉を通った液体が、空っぽだった身体の奥へ落ちていく。
清々しい、と一瞬だけ思った。
同時に、悔しかった。
その二つは、どちらか一つにならなかった。夏の終わりの風が、熱を奪いながら、熱のあった場所を教えてくるように、僕の中には両方が残った。
駐車場の端で、蓮がまたこちらを振り返った。
「今度は飲んだな」
「うん」
「遅いけど」
「うるさい」
僕がそう言うと、蓮は少し驚いた顔をして、それから笑った。
大きな笑い声ではなかった。誰かを励ますためのものでもない。ただ、暗くなりかけた駐車場の中で、二人ぶんの息がわずかにほどけるような笑いだった。
僕はペットボトルを握り直した。
手のひらに残った冷たさを、しばらく離さないようにしていた。
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