第9話 階段裏の湿気

旧館の階段は、閉館後になると昼間より長くなる。

利用者の足音が消え、照明が一段ずつ床を照らすだけになると、踊り場から先が別の建物のように遠く感じられた。窓の外では、秋雨が細く降っている。銀杏の葉は石畳に張りつき、風が吹くたび、剥がれるものと剥がれないものの間でかすかに震えていた。

私は懐中電灯を持ち、すずの後ろを歩いた。彼女は小型の工具箱と、薄い手袋、それからいつものメモ帳を抱えている。

「本当に行くんですね」

「君が提案した」

「提案はしましたけど、こんなに早く実行されるとは思っていませんでした。普通は一晩くらい、怖がる時間を置きませんか」

「怖がる時間を置くと、床板の状態が変わる」

「湿気で?」

「あるいは、誰かが先に片づける」

すずは振り返らずに笑った。

「そういうところです。怖い話を、修繕予定表みたいに言う」

「怖さと危険は別だ」

「私には、だいたい同じです」

階段の下から三段目で、踏み板が軋んだ。以前から変わらない音だった。乾いた木の音ではなく、湿気を含んだ板が、足の重さをいったん受け止めてから返す音。すずは足を止め、懐中電灯を床へ向けた。

「ここ、昨日より沈んでます」

「昨日も見たのか」

「見ました。床のことを言ったら、柊真さんが『記録にない』って顔をしたので」

「そんな顔はしていない」

「してました。紙に書かれていないものは、存在しないことにしようとする顔」

「記録にないものを、存在したと決めることもできない」

「決めなくていいんです。まず、沈んでいると書けばいい」

すずはメモ帳を開き、日付と時刻を書いた。それから、階段の段数、床板の位置、湿気の程度まで記していく。書きながら、彼女は周囲を見回した。

旧館の階段裏は、長く使われていない空間だった。階段の壁と書庫棟の外壁に挟まれた細い空洞で、昔は小さな資料置き場として使われていたらしい。今は案内札も外され、入口には薄い木板が立てかけられている。

その木板の表面には、古い紙の擦れた跡が残っていた。

私は指を近づけた。木の表面は冷たく、湿気を吸って少し柔らかい。右下に、丸い凹みがある。押印の欠けた跡と同じ形だった。

「触る前に、写真を撮ります」

すずが携帯電話を取り出した。

「写真に残るほどのものではない」

「残るかどうかを決めるのは、あとでいいです。撮らない理由がないなら撮る。柊真さんがいつも言っていることですよ」

私は黙った。

言葉は記録されると、言った人間の手を離れる。すずは私の言葉を、私が忘れたあとも覚えている。記憶に頼らないために記録を集めていたはずなのに、いまは彼女の記憶にも支えられている。

すずが木板を外すと、湿った空気が流れ出した。

古い木の匂い。濡れた土の匂い。乾ききらない紙の匂い。

それに混じって、わずかな焦げ臭さがあった。

私は呼吸を止めた。

胸の奥が先に反応し、肩が硬くなる。火の気は見えない。それでも、身体は記憶より早く、あの夜を知っていた。

「柊真さん」

「大丈夫だ」

「その言い方は、もう信用しません」

「信用しなくていい。ただ、進める」

「進む前に、息をしてください。焦ると呼吸が浅くなるでしょう」

すずは私の前へ回り、懐中電灯を私の顔ではなく足元へ向けた。

「見えるものだけ見ましょう。火はない。床は濡れている。紙の匂いがする。いま分かっているのは、それだけです」

「君は、いつからそういう言い方をするようになった」

「誰かに教わったんです。記憶のない人に、記憶で勝負させるなって」

「誰に」

「秘密です」

軽口だった。けれど、その最後だけ声が薄かった。

私は一歩、階段裏へ入った。

床は土間ではなく、古い板張りだった。中央に向かってわずかに傾いている。壁際には、かつて棚が置かれていた跡が残っていた。木の色が周囲より濃い。棚が長年、湿気と埃を遮っていたのだろう。

すずがしゃがみ込んだ。

「ここです」

彼女は階段の最下段と壁の境目を照らした。木目の剥げた踏み板の端に、細い隙間がある。隙間は板の反りではなく、誰かが一度外し、戻したために生じたものだった。

「釘が一箇所だけ新しい」

「新しいといっても、数年前だ」

「周りの錆び方と違います。しかも、釘を抜いたあと、同じ穴へ戻している。板を外して、また閉じた」

「工具は」

「必要ありません。これで少し浮かせます」

すずは工具箱から薄い金属片を取り出した。差し込むと、板がきしんだ。木の内部に溜まっていた湿気が押し出され、土と紙の匂いが濃くなる。

私は懐中電灯を近づけた。

隙間の奥に、灰色の紙端が見えた。

すずの指が止まる。

「紙です」

「引き抜けるか」

「無理に引くと破れます。周囲を広げます」

「待て」

私は手袋をはめた。指先を紙端に触れさせる。湿っている。紙は水分を含み、繊維が互いにほどけかけていた。それでも角だけは折れていない。折れないよう、何かに包まれていたのだろう。

「誰かが、丁寧にしまった」

「それは見れば分かります」

「いや。紙を守るためではない」

私は紙の端をなぞった。

「見つけた人間が、続きへ進めるようにしまった」

すずは返事をしなかった。代わりに、工具の先を持ち替え、板を少しずつ浮かせた。

板の下から、紙束が現れた。

厚みは指二本分ほどしかない。だが、周囲を古い布で包み、さらに油紙で覆ってある。油紙は湿気で波打ち、端に赤茶色の粉が付いていた。朱肉か、焦げた木の粉か、判別できない。

「これ、返却不能資料箱から消えた目録写しです」

すずが一枚目を見て言った。

紙の上部に、旧館の棚番号が記されている。一七―四。文字は薄く、鉛筆の芯が途中で折れたように震えていた。

「箱の記録では、五年前に廃棄」

「廃棄されたものが、ここにある」

「正式には、廃棄ではない。記録上そうなっているだけだ」

「柊真さん」

すずは紙束を見たまま言った。

「記録上そうなっているだけ、って、かなり怖い言い方ですよ」

「事実だ」

「事実だから怖いんです」

私は紙束を一枚ずつ床へ並べた。

目録写し。閉架整理記録の控え。白紙の付せん。棚札の裏側。資料番号のない貸出票。どれも同じ場所を指している。消えた地方史資料は、資料そのものだけでなく、その周囲にあった記録の束と一緒に移されていた。

いちばん下から、薄い封筒が出てきた。

封筒は閉じられていない。表には何も書かれていない。だが紙の質が、毎年届く葉書のうち最初の一枚と同じだった。古い礼状用の紙。表面の繊維に小さな黒い点が混ざっている。

私は封筒を持ち上げた。

中には、折り畳まれた紙が一枚入っていた。

広げると、短い文があった。

――この人には、見せないで。

文字は早瀬静のものに似ていた。けれど、完全には一致しない。葉書の筆跡と同じように、横線の最後がわずかに右へ流れている。だが、文字の始まりには別の癖があった。書き手は右手で書いている。葉書の何枚かに見られた左手の震えとは違う。

「これは、誰に向けた言葉ですか」

すずが尋ねた。

「分からない」

「柊真さんのことかもしれません」

「そうとは限らない」

「でも、あの夜の記憶で、誰かが『見ないで』と言っていた」

私は紙から目を離せなかった。

文字の下に、薄い跡がある。何かを消したのではない。別の紙へ書き写したあと、筆圧だけが残ったような跡だった。

「下に、もう一行ある」

「読めますか」

「消されたわけではない。上に別の紙を重ねていた」

私は指先を紙から離し、懐中電灯を斜めに当てた。

圧痕が浮かぶ。

――返す時まで。

その下に、日付があった。

十月十七日。

すずは息を吸った。

「返す時まで、見せない」

「そう読める」

「誰が、誰に返すんでしょう」

「資料かもしれない。記憶かもしれない」

「ありがとう、の葉書も?」

私は答えなかった。

紙束の中に、一枚だけ別の葉書が混じっていた。まだ文字はない。官製葉書ではなく、古い図書館用の便箋を切り、葉書の大きさに整えたものだった。四隅は丸く切られている。切り口は粗くない。何度も刃を当て、紙繊維を潰さないように切った跡がある。

裏面に、鉛筆で小さな印があった。

三センチ二ミリの線。

すずがその長さを測った。

「葉書の封筒と同じです」

私は紙束の目録写しを、年ごとの葉書の控えと並べた。

線の長さ。押印の欠け。紙の継ぎ方。封筒の折り目。すべてが同じ手順の上にある。

書いた人間と、資料を移した人間は、同じだ。

ただし、その人間が早瀬静であるとは、まだ言い切れない。

目録写しの最後の紙に、名前のない整理記録が挟まっていた。そこには、火災未遂の夜の簡単な時刻が残っている。

二十時五十分。早瀬静、閉架へ。  二十一時五分。久保田咲枝、入庫。  二十一時十二分。柊真、入庫。  二十一時十六分。通報。

その間に、もうひとつ、細い線があった。

二十一時十四分。閲覧室へ移動。

記入者の名前はない。

「柊真さん」

「私が移動した?」

「記録では、そう見えます」

「だが、私は覚えていない」

「覚えていないから、記録が必要だったんでしょう」

私は目録写しの下に指を入れた。さらに一枚、白紙の付せんが出てきた。中央に、焦げた跡がある。何かを包んだときに火が移り、すぐに濡れた手袋で押さえたような跡だった。

指先に、かすかなぬくもりが戻ってきた。

誰かが私の右腕を掴んでいる。

煙の中で、私を引き戻している。

私はその手を振り払っていない。むしろ、伸ばしかけた手を止められている。

見ないで。

その声が、今度ははっきり聞こえた。

早瀬静の声だった。

「思い出しました」

声が自分のものではないように聞こえた。

すずは何も言わず、私の手元を見ていた。

「早瀬さんが、私に見せなかった」

「何をですか」

「資料ではない。火の中にあったものを」

「誰かを守るために?」

「たぶん」

「たぶん、ですか」

「まだ、全部は思い出せない」

私は白紙の付せんを見つめた。

「でも、私が何かをした。誰かを逃がしたか、資料を運んだか、そのどちらかだ。早瀬さんは私に見せないことで、私が証言できないようにした」

「それは、守ったんでしょうか」

「分からない」

「またそれです」

すずの声が震えた。彼女は笑わなかった。紙束の端を揃えようとして、途中で手を止めた。

「柊真さんは、ずっと事実を知りたがっていました。でも、知った事実が自分に向いていると、すぐに分からないと言う。自分が救われたかもしれないことまで、罪みたいに扱う」

「救われたとは限らない」

「でも、見捨てられたとも限らない」

すずは紙束の上に手を置いた。押さえつけるのではなく、風で飛ばないように添えるだけの手つきだった。

「もし、早瀬さんが柊真さんに見せなかったものが、誰かを傷つける記録だったら。もし、柊真さんがそれを見ていたら、今とは違う人生になっていたかもしれない。忘れたことは、失ったことだけじゃなくて、背負わずに済んだことでもあるんじゃないですか」

「それを、私が選んだのか」

「選んだのは早瀬さんかもしれません。でも、柊真さんがいまここで紙を捨てずにいるのは、あなたの選択です」

私は彼女を見た。

すずは目を逸らさなかった。怖がっているのに、逃げなかった。明るさで空気を薄めることも、冗談で話題をずらすこともせず、ただ紙束を守るように立っていた。

「この資料を持ち出すべきだと思うか」

「分かりません」

「君も言うのか」

「はい。分からないものを、分かった顔で動かすのは嫌ですから」

すずは少し息を吐いた。

「でも、ここへ戻すだけでは駄目です。返却不能資料箱へ戻したら、また誰かが見つけるまで時間がかかる。戸田さんへ預けるのも、全部を警察の記録にするのも、たぶん違う。だから、まずはこの場所と、見つけたものを正確に記録します。持ち出すかどうかは、そのあと決める」

「記録している間に、誰かが来るかもしれない」

「来たら、来た人の手も記録します」

「君は、強くなったな」

「最初から強かったんです。柊真さんが気づかなかっただけです」

すずはメモ帳を開き、紙束の位置、床板の状態、包みに使われた紙の種類を一つずつ書き始めた。私は懐中電灯を支え、彼女の手元を照らした。

そのとき、階段の上で音がした。

誰かが一段、踏んだ。

木が低く軋む。

私とすずは同時に顔を上げた。

階段の上には、誰も見えない。照明の届かない踊り場が、黒く沈んでいる。けれど、空気だけが動いた。古い紙の匂いに、雨に濡れた布の匂いが混じる。

「誰かいますか」

すずが声をかけた。

返事はない。

私は紙束を包み直した。端を揃え、油紙の折り目を元の位置へ戻す。最後に、白紙の付せんだけを手帳へ挟んだ。

「持っていくんですか」

「これは、資料ではない」

「でも、手がかりです」

「だから、私が預かる」

手帳の内側へ付せんを入れる。焦げ跡が紙の背に触れないよう、古い貸出票を一枚、間に挟んだ。

その動作に、覚えのない手順が混じっていた。

誰かが以前、同じように紙を包んだ。燃えかけたものを、濡れた手袋で押さえ、角を傷めず、あとで見つけられるようにしまった。

私はその手を知っている。

自分の手だった。

階段の上で、また木が鳴った。

すずが私の袖を掴んだ。今度は私を止めるためではなく、離れないためだった。

「戻りましょう」

「誰かがいる」

「だからです。紙を守ることと、紙のためにここで立ち尽くすことは違います」

私は最後に、床板の隙間を見た。

そこへ紙束を戻す。完全に隠すためではない。誰かが勝手に持ち出せないよう、しかし見つけようと思えば見つけられるよう、元の角度に合わせた。

戻した場所を、すずが写真に残す。

階段裏を出ると、湿った空気が背中から離れた。けれど、焦げた匂いは消えなかった。私の袖口に染みついたのか、記憶の内部から立ち上がっているのか、もう区別がつかない。

閲覧室へ戻る途中、私はふと足を止めた。

窓から二つ目の長机に、白い封筒が置かれていた。

今夜、誰も入れないはずの閲覧室に。

封筒には宛名がない。消印もない。口は一度折られているだけだった。

すずが、息を呑む。

「まだ、届くんですか」

私は封筒へ近づいた。

紙は湿っていなかった。乾いている。けれど、角の一箇所だけ、指で丁寧に押さえた跡が残っていた。

中には、葉書が一枚入っていた。

文字は、これまでのどの筆跡とも違っていた。線はまっすぐで、迷いがない。右手でも左手でもない。誰かが、最後に残していた自分の字へ戻ったような筆跡だった。

表には、いつもの言葉がある。

ありがとう。

その下に、初めてもう一行が添えられていた。

――返事を待っています。

私は葉書を持った。

胸の奥に、遅れて熱が広がった。感謝の言葉が、今度は過去からではなく、現在の私へ向けられている。

「柊真さん」

すずの声が、背後で小さく震えた。

私は葉書を裏返した。

何もない。

だが、紙の中央に、薄い押印の凹みが残っていた。右端の欠けた、古い印影。その隣に、鉛筆で一七―四と書かれている。

私は返却不能資料箱の鍵束を握った。

古い鍵の歯が、掌に食い込む。

返事をする相手は、まだ見えない。

それでも、返事を置く場所は、もう一つしかなかった。

私は葉書を手帳に挟まず、長机の上へ戻した。角を揃え、文字の面を上にする。

返却するためではない。

受け取ったと、初めて自分の手で示すために。

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階段裏の湿気 - 返却不能の手紙 - 誰でも作家life