第8話 控え帳の継ぎ目

戸田警部補から連絡があったのは、朝の開館準備を終えた直後だった。

電話の向こうで、紙をめくる音がした。戸田は話す前に、いつも手元の書類を整える。相手の声より先に、紙の順番を揃える人だった。

「市役所へ来てもらえますか。昨日の記録について、確認したいことがあります」

「火災報告ですか」

「それと、失踪届。あと、あなたが持ってきた葉書の控え」

短い返答の間に、空調の低い唸りが混じった。

「事件性が出たんですか」

「まだです。事件性を判断する前に、記録の形を見ます」

その言い方が、戸田らしかった。

私はすずに閉館までの業務を伝え、手帳と葉書の控えを鞄へ入れた。封筒の角が、鞄の内側に触れる。紙は薄いのに、その存在だけが妙に重かった。

外へ出ると、秋雨が降っていた。

雨は細く、空から落ちてくるというより、山の斜面に張りついた霧が少しずつほどけているようだった。図書館から市役所へ続く石畳は濡れ、銀杏の葉が靴底に吸いつく。踏むたび、湿った紙を重ねて潰すような音がした。

私は足元を見ながら歩いた。

黄色い葉は、水を含むと裏側の筋まで見える。葉脈は細い文字に似ていた。誰かが書いたものではないのに、読むべき順番があるように見える。私は何度か足を止め、靴の裏から剥がれた葉を道の端へ寄せた。

それは親切というより、配置の乱れを直す癖だった。

けれど、葉を拾うたび、早瀬静の姿が浮かんだ。

彼女は本を棚へ戻す前に、必ず背表紙の埃を払った。紙の角が折れていれば、指先でゆっくり伸ばした。人間に対してはあれほど控えめだったのに、資料に対してだけは、傷つけないことを要求した。

その手が、いまもどこかで紙を整えているような気がした。

市役所の生活安全課へ入ると、戸田は奥の机で書類を並べていた。失踪届、事故報告、閉架書庫整理記録。昨日と同じ資料に、今日は薄い付せんが増えている。

「葉書の控えを」

戸田は挨拶より先に言った。

私は鞄から控えを出し、机の上へ置いた。戸田は私の顔を見ず、まず日付を確認した。それから紙の厚み、筆圧の記録、文字の末尾に残る流れを読んだ。

「現物ではなく、控えでいいんですか」

「現物は図書館の保管資料です。移動させる必要はない」

「見比べたいのでは?」

「必要になれば、こちらから出向きます。証拠は動かさないほうがいい」

戸田は控えの横へ、事故報告書を置いた。

「この報告書には、閉架書庫の一角で焦げ跡が見つかったとあります。警備会社への通報は二十一時十六分。消防の到着が二十一時二十四分。ところが、図書館側の事故記録では、二十一時四十分まで職員が現場に残っている」

「誰が残っていたかは、昨日聞きました」

「ええ。早瀬静さん、久保田咲枝さん、あなたです」

自分の名前が、白い用紙の上にある。

それだけのことなのに、胸の内側がひどく狭くなった。私は名札の端を指でなぞった。薄い金具が、皮膚の上で他人のもののように滑る。

「報告書には、私が何をしたか書かれていない」

「誰が書いたかも、記載がありません」

「久保田さんでは?」

「書類の筆跡は久保田さんに近い。ただし、正式な作成者欄が空欄です」

戸田は書類の端を親指で押さえた。紙の角が机から浮かないようにする、彼の癖だった。

「私は昨日、この空白を消去の跡ではないと言いました」

「覚えています」

「ですが、ひとつ訂正します。消去の跡ではないからといって、最初から何も書かれていなかったとは限らない」

戸田が事故報告書を裏返した。

紙の裏には、浅い圧痕が残っていた。何かを書いた上から別の紙を重ね、強く筆を走らせた跡。表には現れていないが、光を斜めに当てると、いくつかの線が浮かび上がる。

私は鞄から小さな定規を出した。すずが持たせてくれたものだった。紙に触れないよう、影の角度を変える。

「数字です」

「読めますか」

「二十一……。その後ろに、十か十二」

圧痕は途中で途切れていた。書き手が筆を置き、別の紙を重ねたのだろう。戸田は私の手元へ照明を寄せた。

「二十一時十二分の出入り記録があります」

「私の名前がある時刻です」

「そうです。あなたが書庫へ入った時刻として残っている」

「その記録は、誰が書いたんですか」

「閉架書庫整理記録です。記入者欄には、早瀬さんの印があります」

早瀬静の名前を聞くと、記憶の底で何かが擦れた。

紙の束を抱えた腕。煙の薄い匂い。私の右袖を掴む手。強く引かれたのか、支えられたのか分からない。耳元で、低い声がした。

――見ないで。

声の主は、まだ思い出せない。

「柊真さん」

戸田が呼んだ。

「いま、何か思い出しましたか」

「声だけです」

「何と言っていました」

「見ないで、と」

戸田は手帳に記した。感情を書かず、言葉だけを残す。

「誰の声かは」

「分かりません」

「女性ですか」

「たぶん」

「たぶんで構いません。記録する場合は、そう書きます」

戸田は筆を止めた。

「記憶は証拠にはなりません。ただ、無視すると、あとで記録との照合ができなくなる。あなたの記憶は、証拠ではなく、照合すべき資料です」

「私自身を、資料として扱うんですか」

「あなたが自分を信用できないなら、他人が代わりに整理するしかない」

冷たい言い方ではなかった。慰めを混ぜないことで、戸田は私を現実へ繋ぎ止めようとしていた。

「報告書と整理記録を重ねると、二十一時十二分から二十一時十六分までの四分間だけ、行動が抜けています」

「火を消して、紙を移した?」

「可能性はあります。ただ、四分で何ができたかは、動線を見なければ分からない」

戸田は机上の地図を広げた。旧館、書庫棟、研究閲覧室、裏口、搬入口。その上に、赤い線が何本も引かれている。

「閉架書庫から旧館の閲覧室へ戻るには、通常なら廊下を通ります。しかし、階段裏を抜ければ、書庫から外へ出ずに旧館側へ回れる」

「その通路は、いまも使えるんですか」

「現在は塞がれている。ただし、塞いだ記録がありません」

「案内札があった場所ですか」

「ええ。古い館内案内札が一枚、記録上は存在した。撤去されたことになっているが、撤去日も作業者も空欄です」

戸田は地図を指で押さえた。

「札は人を案内するためにある。ですが、置き場所が変わると、人の流れも変わる。見える道と見えない道ができる。あなたが見つけた棚札の一七―四も、そこへ繋がっている可能性がある」

「資料が移された」

「あるいは、人が」

その言葉のあと、戸田は黙った。

私は、早瀬静の失踪届を見た。届出日は火災未遂の三日後。失踪の理由については、周囲の証言として「しばらく一人になりたいと言っていた」とある。

その一文の下だけ、紙がわずかに沈んでいた。誰かが同じ場所を何度も押さえた跡だった。

「この証言をしたのは誰ですか」

「複数です。図書館関係者と、地域の利用者」

「早瀬さん本人が言った記録は?」

「ありません」

「では、本人の意思ではなく、周囲の判断で失踪理由が決められた」

戸田はすぐに否定しなかった。

「そう読めます。ただし、周囲が嘘をついたとまでは言えない。本人が実際にそう言っていた可能性もある」

「どちらが正しいんです」

「両方かもしれません。本人が言った言葉を、周囲が都合よく使った。人は、誰かの沈黙を自分の理解しやすい形に整えることがあります」

その言葉が、私の胸に残った。

図書館にいる人たちは、誰も核心を話さない。だが、話さないことに耐えられず、それぞれのやり方で紙や手順を整えている。咲枝は台帳を揃え、理香は話題をずらし、戸田は時刻を並べる。

そして私は、空白を見つめている。

「戸田さん」

「何ですか」

「早瀬さんは、資料を隠したんでしょうか」

「まだ分かりません」

「火災の原因も?」

「不明です」

「それでも、記録には火災未遂とある」

「火の気が上がったことは事実です。ただ、何が燃えかけたのか、誰が火を消したのか、なぜ記録が抜けたのか。その三つは別の問題です」

戸田は事故報告書を閉じた。

「ひとつにまとめると、誰か一人を悪者にする形になります。火を出した人、資料を隠した人、記録を消した人。けれど、同じ夜にそれぞれ別の判断をした人間がいたなら、ひとつの罪にはできない」

「だから、空白を残した」

「空白を残した理由までは、まだ」

「守るためだった可能性は」

「あります。ただし、守ることと隠蔽は、紙の上では同じ形になる」

戸田は私の目を見た。

「見分けるには、空白の周囲に何が残されているかを見るしかありません」

そのとき、庁舎の廊下から足音が近づいた。静かだが、一定の間隔で歩く足音だった。

芦原岳人が、古い複写資料の束を抱えて入ってきた。彼は戸田に会釈し、紙袋を机へ置く前に、表面の水滴を布で拭った。資料の角を揃え、それから私を見る。

「お二人がここにいると思っていました」

「なぜです」

「空白の話をする場所が、ほかにありませんから」

芦原は眼鏡を外し、複写資料を開いた。紙は黄ばんでいた。端は柔らかく、何度もめくられた部分だけが薄く光っている。

「町史資料室で見つけました。焼却処分されたとされている『秋月町火災沿革』の複写です」

彼は見開きの中央を示した。

左側には図書館の寄贈者名簿。右側には、町の火災記録。その二つが、別々の帳面から切り取られて同じ紙に貼られている。継ぎ目には細い和紙が使われていた。

「この資料は、原本ではありません」

「焼却されたから?」

「ええ。原本は処分された。しかし、処分前に複写されたものが残っていた」

芦原はページをめくった。

「ここに、寄贈者名簿の空白があります。十月十七日の欄だけ、名前が消されている。ですが、消した跡の下に、家名の一部が残っている」

「読めますか」

「『三枝』か、『三枝谷』。まだ断定できません」

その家名を見た瞬間、私は知らないはずの風景を思い出した。

冬の朝、閉じた商店の軒先。誰かが古い児童書を抱えている。紙の間に挟まれた銀杏の葉。声を潜めて話す女たち。図書館へ持ち込まれた段ボール。誰かが「この名前だけは残さないで」と言っている。

視界が揺れた。

私は机の縁を握った。木の表面に細かな傷があり、そのひとつひとつが指先へ食い込んだ。

「柊真さん」

戸田の声が低くなる。

「大丈夫です」

「大丈夫かどうかは、こちらで判断します。座っていてください」

戸田が椅子を引いた。私は腰を下ろした。紙の匂いが濃くなる。古い和紙の乾いた匂いと、庁舎の冷めたコーヒーの匂い。喉の奥に、焦げた紙の苦みまで戻ってきた。

芦原は複写を閉じなかった。

「この一家について、町史にはほとんど記述がありません。ですが、戦前の火災記録には、彼らが保管していた資料の一部が焼失したとある。図書館創設時、その家から多くの本と記録が寄贈されている。問題は、その中に町の有力者に関わる記述が含まれていたことです」

「有力者の不正ですか」

「そこまで単純ではありません」

芦原の指が、紙の継ぎ目で止まった。

「過去の火災で、ある一家が資料を隠した。隠された資料には、町の有力者が戦時中に行った土地の接収と、寄贈者の家族が受けた被害が記されていた。公表すれば、町の名士の家系だけでなく、図書館の設立経緯そのものが揺らぐ。資料は寄贈されたが、公開されなかった。つまり、図書館は記憶を受け取ったあと、その一部を閉じたのです」

「それが、消えた地方史資料に?」

「含まれていた可能性があります」

芦原は声を落とした。

「焼却処分とされたのは、紙そのものではなく、紙に書かれた関係だったのかもしれません」

言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

「関係?」

「誰が誰から奪い、誰が誰に返さなかったのか。土地、資料、名前、沈黙。町史は出来事を年表にできますが、年表からこぼれた人間同士の関係までは残らない。けれど、そこにこそ、資料を隠す理由があったのではないでしょうか」

「芦原さんは、早瀬さんがそれを隠したと思っているんですか」

「そう考える根拠はあります。ですが、早瀬さんが何を守ろうとしたのかは、まだ分かりません」

「それでも、彼女の筆跡に見える控えを持ってきた」

「私が持ってきたのは複写です。決めつけるためではなく、比較するためです」

芦原はポケットから古い万年筆を取り出した。軸は擦れて白くなっている。

「私は以前、資料を追いかけることが正しいと思っていました。消えたものを見つければ、失われた歴史を取り戻せる。そう信じていた。けれど、見つけた資料を公表した結果、ある家族の中で、何十年も保たれていた関係が壊れた。真実は戻りましたが、戻った真実が人を救うとは限らなかった」

彼は万年筆を握ったまま、複写の上へ目を落とした。

「だから、私はいまも迷います。記録は残すべきです。しかし、残した記録を誰が、いつ、どんな言葉で読むのかまで考えなければ、資料は別の暴力になる。柊真さん、あなたは自分の記憶を取り戻したいのでしょう。けれど、あなたの記憶の中にいる他人まで、同じ速度で明るみに出していいとは限らない」

「では、何も知らないままでいろと?」

「いいえ」

芦原は首を振った。

「ただ、知ることと、裁くことを同じにしないでください。空白を見つけたからといって、そこへすぐ罪を書き込まない。空白の周囲にある紙、押印、日付、誰が折ったか。まずはそれを見てください。記録は、声を上げられない人間の代わりに残ることがあります。けれど、代わりに叫ぶものではありません」

戸田は複写資料を受け取った。ページをめくり、日付と欄外の印影を確認する。

「処分日は、火災の翌日です」

「はい」

「しかし整理記録では、その前日に所在不明になっている」

「つまり、処分されたとされる前に消えた」

「誰かが持ち出した」

「あるいは、誰かが持ち出したことにした」

戸田は返事をしなかった。複写の紙端を指で押さえ、右下の継ぎ目をじっと見ている。

「この和紙テープは、図書館の修繕用と同じです」

私は言った。

芦原が顔を上げた。

「分かるんですか」

「糊の伸び方が同じです。左から右へ押さえている。継ぎ目の右側だけ、繊維が寝ている」

戸田が複写を裏返した。

そこには、薄い円形の圧痕があった。中心だけが濃く、右端がわずかに欠けている。

資料保管用の古い印。

私はその凹みに指を近づけた。触れる前から、皮膚が押されたように感じた。

「これが、図書館で使われていた印です」

戸田が言った。

「事故報告書、受入れ簿、封筒。すべて同じ型の圧痕が残っている。紙を継ぐとき、乾くまで重しを置いた。スタンプ台か、印を押した木箱か」

「つまり、同じ手が修繕した」

芦原が言った。

「手だけではありません。紙を扱う手順が同じです」

私は複写を見つめた。

誰かが、何年も同じ方法で記録を継ぎ、空白を塞いできた。完全に隠すためではない。継ぎ目が残るように、あとから触れれば分かるように。

それは隠蔽にしては、あまりに丁寧だった。

戸田は複写を事故報告書の上に重ねた。二枚の継ぎ目が、ほとんど同じ位置に重なる。

「焼却処分されたのは、本当に紙そのものだったのでしょうか」

芦原が言った。

問いは穏やかだった。けれど、答えの逃げ場は狭かった。

私は返事をしなかった。

紙の上には、消えた資料の名前がない。名を伏せられた一家の名前も、書庫で何が起きたかも、まだ完全には記されていない。

それでも、継ぎ目は残っている。

記録を消した人間が、すべてを消し切れなかったのか。

それとも、消し切らないことを選んだのか。

戸田は複写資料を事故報告書の束へ挟み、端を揃えた。

「この資料は、預かります」

「公文書として扱うんですか」

芦原が尋ねる。

「まだ決めていません。まず、どこから来たものかを確認する。確認できないものを、確定した事実として扱うことはできない」

「しかし、保管すれば、また誰かの手元から遠ざかる」

「遠ざけるのではありません。動かさないためです」

戸田は私を見た。

「柊真さん。あなたは、これを図書館へ持ち帰りますか」

私は複写の継ぎ目へ指を置いた。

紙の表面は乾いていた。なのに、その下に誰かの手の温度が残っている。早瀬静が、何かを包み、押さえ、紙が乾くまで待った時間。咲枝が、記録の一部を消すために、消し切らずに残した時間。私が、何も知らないままその前を通り過ぎた時間。

「持ち帰りません」

自分でも意外なほど、声は静かだった。

「戸田さんのところに置いてください。けれど、預けたことと、終わらせることは別です」

戸田は一度だけ頷いた。

「その通りです」

芦原は複写を見つめたまま、眼鏡を押し上げた。

「では、これはまだ、誰のものでもない」

「違います」

私は言った。

「誰のものでもないからではなく、関わった人間が多すぎて、ひとりのものにできない」

言葉を口にしたあと、胸の奥が少し遅れて熱くなった。罪悪感と安堵が、同じ場所へ沈んでいく。私は自分が誰かを守ったのか、誰かを見捨てたのか、まだ分からない。

ただ、空白の中に自分の名前だけが残っているわけではないことは分かった。

戸田は書類の束を封筒へ戻した。封をする前に、紙の角を一度だけ確かめる。

「図書館へ戻ったら、旧館の階段裏を調べてください。ただし、ひとりでは行かないように」

「すずと行きます」

「久保田さんには」

「まだ話しません」

戸田は短く息を吐いた。

「それも記録しておきます」

「記録するんですか」

「話さなかったことも、時には重要です」

市役所を出ると、雨は止んでいた。

雲の切れ間から、薄い光が山の斜面へ落ちている。濡れた石畳の上で、銀杏の葉だけが明るかった。私は戸田から返された葉書の控えを鞄へしまい、図書館へ向かって歩いた。

途中、何度も振り返った。

誰かが後ろにいる気配はなかった。ただ、雨上がりの町は、さっきまで閉じていた窓を少しずつ開けていた。どの家からも、湯気の匂いや洗濯物の湿った匂いが流れ出している。人々は何も知らない顔で暮らしているのではない。知っていることを、暮らしの形へ折り畳んでいるのかもしれなかった。

図書館の裏口へ回ると、書庫棟の窓に灯りがついていた。

咲枝がいる。

私は鍵を取り出しかけ、壁の案内札跡へ目を向けた。四隅の釘穴。そのうち右下だけ、新しい木片で塞がれている。木片の中央には、浅い円形の凹みがあった。

私はそこへ指を置いた。

紙ではない木の表面から、古い押印の記憶が返ってくる。誰かがこの場所へ案内札を取りつけ、誰かが外し、誰かが穴を塞いだ。消されたのは札だけではない。札が示していた道そのものだった。

それでも、釘穴は残っている。

私は裏口の鍵を回した。

薄暗い廊下の奥で、書庫の空調が低く唸っている。紙の乾いた匂いの中に、焦げたものの苦い気配が混じっていた。

私は胸ポケットの名札を押さえた。

他人のもののようだった金具が、今日は少しだけ皮膚になじんでいた。

自分の名前が、誰かの記録の上に残っている。

ならば、そこから逃げるのではなく、名前の周囲にある継ぎ目を探すしかない。

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