第10話 第十話「返事の置き場所」

翌朝、葉書は消えていた。
開館前の閲覧室は、夜のあいだに冷えた紙の匂いがした。窓際の長机には、昨夜と同じように薄い光が落ちている。机の表面には、葉書を置いた跡だけが残っていた。角に溜まった埃が、そこだけ細く途切れている。
私は指を置かなかった。
置けば、何かが戻ってこなくなる気がした。
「盗まれた、というより、返されたみたいですね」
後ろから、すずの声がした。
彼女は入口に立ったまま、机を見ている。手には開館用の札と、いつものメモ帳があった。
「返す相手がいるなら、盗むとは言わない」
「でも、置いたのは柊真さんです」
「受け取ったことを示しただけだ」
「受け取ったあと、持っていかれた」
すずは机へ近づき、葉書のあった場所を覗き込んだ。指先で触れず、目だけを細める。
「紙粉が一つ、反対向きです」
「反対向き?」
「葉書を右から左へ滑らせたときに出る跡。置いたときは、上から下へ置いていますよね」
私は昨夜の動作を思い返した。葉書を机の中央へ置き、角を揃えた。たしかに、机の手前から奥へ押した。
「持ち上げていない」
「はい。誰かが手前へ引いた」
すずはメモを取った。
「つまり、机の向こう側に立っていた人が、葉書を自分のほうへ引いた」
閲覧室の向こう側には、窓しかない。窓は内側から施錠され、外は二階の高さだった。昨夜、私たちは階段裏から戻ってきた。入口の鍵は、私が持っていた。
ならば、葉書を引いた人間は、私たちより先に中へ入り、どこかに隠れていたことになる。
私は窓の鍵を確かめた。錆びた金具は閉じたままだった。窓枠には、外から雨が吹き込んだ跡がない。
「館内にいた」
「そうなりますね」
「夜勤の記録は」
「ありません。昨夜は私たち以外、入館者なし」
すずはそこで言葉を止めた。
入口脇の館内案内札が、少しだけ傾いている。昨日、私が直したはずの札だった。下端が壁から二ミリほど浮き、札の裏に黒い線が見えている。
「また、ずれています」
すずが手を伸ばすより早く、私は札を外した。
裏面に、鉛筆の文字があった。
――返事は、同じ場所へ。
文字の下には、細い矢印が引かれている。矢印は閲覧室ではなく、旧館の階段裏を指していた。
「行くんですか」
「返事を置く場所を示している」
「返事を書くんですか」
私は答えず、職員室の机へ戻った。手帳を開く。昨夜の葉書はもうない。その代わり、最後に書かれた一文だけが記憶に残っていた。
返事を待っています。
私は事務用の便箋を一枚抜いた。図書館の罫紙ではない、白い紙を選んだ。誰かの記録へ割り込むのではなく、自分の手で新しい紙を用意したかった。
筆記具を並べる。赤鉛筆、ボールペン、古い万年筆。
最後に、書庫で使っている鉛筆を取った。
すずが隣から覗き込む。
「何を書くつもりですか」
「ありがとう、では足りない」
「謝るんですか」
「それも、まだ違う」
紙の上に、鉛筆の先を置いた。先端が繊維へ触れ、かすかな音を立てる。言葉が出てこない。記憶が戻ったわけではない。誰を救ったのかも、誰を見捨てたのかも分からない。
それでも、返事を待つ相手がいる。
私はゆっくり書いた。
――まだ全部は思い出せません。
書いたあと、手が止まった。
「続きは?」
「分からない」
「なら、分からないと書けばいいです」
すずの声は軽くなかった。
私は一行を加えた。
――でも、忘れたままにはしません。
紙を二つに折り、封筒へ入れた。宛名は書かなかった。返事を待つ場所は、相手が決めている。
朝の九時、戸田警部補が来た。
私は葉書が消えたことと、案内札の裏に残された文言を話した。戸田は机に便箋を置き、まず日付を書いた。次に、私の言葉を一つずつ確認した。
「昨夜、閲覧室へ入った時刻は」
「二十一時三十八分頃です」
「退出したのは」
「二十二時十七分」
「その間、入口は施錠されていた」
「はい」
「葉書を置いたのは」
「二十二時十六分」
戸田は手帳に時刻を書き込んだ。
「消えたのを確認したのは」
「今朝、八時二十五分」
「その間に、館内へ入れる鍵を持っている人間は」
「私、すず、久保田さん。それから館長です」
「昨夜の警備記録では、裏口が一度だけ開いています」
戸田は紙を一枚、こちらへ滑らせた。
時刻は二十二時二分。
記録上、開錠者は空欄だった。
「私たちは階段裏にいました」
「ええ。だから、裏口を開けた人間を確認する必要があります」
「監視カメラは」
「旧館側にはありません。ただ、裏口の外にある街灯が一度消えている。配電盤の記録では、二十二時一分から二十二時三分まで」
戸田は封筒を見た。
「この返事は、置きますか」
「置きます」
「危険かもしれません」
「相手は、すでに私のすぐそばへ来ています」
戸田は否定しなかった。
「なら、置く場所を決めて、触った人間が分かる形にしてください」
「それで、相手を追うんですか」
「追うというより、返事を受け取る人間の動きを確認します。葉書の文章より、紙が移動した順番を見ます」
彼は封筒を手に取らず、目だけで確認した。
「ただし、柊真さん。返事をすることと、相手を許すことは違います」
「分かっています」
「本当に?」
問いは静かだった。
私は便箋の封筒へ視線を落とした。
「許すためではありません。何があったのか知るためです」
「知ったあとで、許さないこともできます」
戸田はそう言って、椅子から立った。
昼休みが終わる頃、私は返事を階段裏へ置いた。
紙束が隠されていた床板の下ではない。そこへ続く木板の上に、封筒を一枚だけ置いた。案内札の裏に記された矢印が、正確に示している場所だった。
封筒の口は閉じなかった。
風が通れば、紙がわずかに動く位置にした。
すずは少し離れた書架の陰に立ち、私は階段の下で待った。戸田は旧館の外にいる。咲枝には知らせていない。
図書館は通常どおり開館していた。閲覧室ではページをめくる音がし、子どもが椅子を引く音がする。誰かが咳をし、誰かが小さく笑う。日常は、秘密のすぐ隣で何事もなく続いている。
午後三時十二分、階段の上で足音がした。
一段。
間を置いて、もう一段。
私は息を浅くした。
見えたのは、灰色の袖口だった。手が伸び、封筒の端をつまむ。指先は細く、紙を傷めない持ち方をしていた。
その手が、封筒を持ち上げる。
私は声を出しかけた。
けれど、袖口の内側に見えた小さな傷が、先に目へ入った。
右手の親指の付け根に、古い火傷の跡。
見覚えがあった。
火の中で、私の右袖を掴んだ手。
私は立ち上がった。
足音が止まる。
灰色の袖が、階段の向こうへ消えた。
残されたのは、封筒の下に敷かれていた一枚の白紙だけだった。中央に、鉛筆で短く書かれている。
――次は、あなたが思い出す番です。
私は紙を拾わなかった。
指先が、触れる前からその人の名前を知っていた。
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