第2話 十月十七日の記録

開館から三時間ほど経つと、旧館の閲覧室には人の気配が薄く積もっていた。
窓際では、町史を読む老人がときどき咳をし、児童閲覧室からはページをめくる音が流れてくる。中庭の銀杏は風が吹くたびに葉を落とし、ガラス越しの黄色が少しずつ地面へ沈んでいった。
私はカウンターの奥で、受入れ簿を開いていた。
葉書の受入れ日。差出人不明。資料種別、その他。備考欄には、毎年ほとんど同じ文言が並んでいる。
「閲覧室長机上にて発見。保管」
誰が書いたのかは、年によって違った。咲枝の硬い字もあれば、前任者の丸みを帯びた字もある。私の筆跡らしいものもあったが、書いた記憶はなかった。
十月十七日。
私はその日付の上に赤鉛筆を置いた。
受入れ簿の紙は、年ごとに厚みが違う。古い頁ほど乾いて硬く、新しい頁は指に吸いつくような柔らかさがある。だが、ある年の十月十七日の欄だけ、頁そのものの感触が違った。紙色がわずかに白く、周囲の繊維が不自然に寝ている。
貼り替えられている。
私は眼鏡を外し、布でレンズを拭いた。見間違いではない。頁の中央から少し下に、横方向の浅い境目がある。新しい紙を上から貼ったのではなく、元の欄を切り抜き、その大きさに合わせて別の紙を継いでいる。
継ぎ目の右端には、丸い凹みがあった。
押印の跡だ。
「やっぱり、そこですか」
すずが声をかけてきた。両手に書類の束を抱えている。束の上には、細い定規と小さな赤いクリップが乗っていた。
「そのクリップは何だ」
「朝の忘れ物です。見せるだけ。持って帰れと言われたら困るので」
「誰に」
「誰にも言われてませんけど、柊真さんは何でも箱に入れるでしょう」
すずは私の向かいに書類を置いた。置いたあと、紙の角を揃える。軽口を言いながらも、手元は几帳面だった。
「十月十七日の受入れ簿、過去七年分です。去年と一昨年は、柊真さんの記入。三年前は久保田さん。その前は前の館長代理。葉書が届いたこと自体は、全部記録されています」
「葉書は毎年、同じ場所に置かれていたのか」
「記録には、閲覧室としか書かれてません」
「実際は」
すずは少し黙った。
「長机です。窓から二つ目の席。毎年、ほとんど同じ位置」
「ほとんど?」
「机の木目で数えると、右端から十一センチくらい。去年だけ、九センチ。誰かが置いてから、少し動かしたんだと思います」
「誰が」
「そこまでは書いてありません」
すずは笑いかけたが、笑顔は途中で消えた。彼女は重要なことほど、メモの端に小さな丸を描く。今も新しい丸がひとつ、紙の隅に増えた。
「毎年、誰かが同じ日に、同じ机へ置く。なのに受入れ記録は残っていて、置いた人間の記録だけがない」
「記録を残せない事情があった」
「それは推測です」
「そうだな」
「柊真さん、最近、推測を否定しなくなりましたね」
「否定する根拠がない」
「それ、肯定より怖いですよ」
私は受入れ簿を閉じた。閉じる前に、継ぎ足された紙の端を指でなぞった。糊の乾いた硬さが指腹に残る。
紙の継ぎ目は、乱暴に隠したものではなかった。端はきれいに切られ、貼り合わせた部分に浮きもない。誰かが時間をかけ、見つからないようにではなく、後から見つけられる程度に整えたように見えた。
「返却不能資料箱を開ける」
「またですか」
「前の葉書を確認したい」
「確認したばかりですよ」
「記録と実物が一致しているかは、別の問題だ」
すずは小さく息を吐き、鍵束を見た。
「久保田さんに断ります?」
「必要ない」
「必要あります。あの箱の管理責任者は久保田さんですし、勝手に開けると、あとで紙より人間のほうが破れます」
「咲枝は、何か知っている」
「知っているように見えるだけかもしれません」
「君もそう思うのか」
「思うというより、そういう人を何人も見てきたので。秘密を持っている人は、隠そうとすると動きが丁寧になります。でも、何も知らない人が疑われたときも、同じくらい丁寧になるんです。自分の無実を、物の置き方で証明しようとするから」
「咲枝はどちらだ」
「私に聞かないでください」
「君は、物を見て判断する」
「柊真さんの専売特許を取った覚えはありません」
すずは冗談めかして言ったが、すぐに声を落とした。
「ただ、久保田さんが葉書を見たとき、最初に文字を見なかったのは覚えています。紙の角を見て、それから裏面を見た。誰が書いたかより、どこから来た紙かを確かめていた」
私は返却不能資料箱の鍵を握った。
金属の冷たさが掌に沈む。鍵束には大小四本の鍵がある。そのうち古い一本だけ、歯の先端がわずかに丸くなっていた。いつから使っているのか、私は思い出せない。それでも、鍵穴に差し込むときの角度だけは手が知っている。
箱は旧館の隅、かつて新聞閲覧台が置かれていた場所にある。窓から差す光は薄く、木箱の蓋に積もった埃だけを白く浮かび上がらせていた。
鍵を回す前に、私は周囲を見た。
書類棚の前で、佐伯理香が立ち止まっていた。朗読会の台本を抱え、利用者に笑顔で挨拶をしている。けれど、こちらを見た瞬間だけ、台本のページを指でなぞる動きが止まった。
「理香さん」
私が呼ぶと、彼女はすぐに振り返った。
「あら、柊真さん。そんなところで宝箱を開ける顔をして、どうしたんですか」
「この箱に保管している葉書を確認します」
「まあ。図書館の宝箱に入っていたのが、金貨じゃなくて紙切れだと分かってしまいますね」
「葉書を知っていますか」
「知っていますよ。毎年、十月になると届くもの」
「誰が置いているかは」
理香は台本を胸の前で抱え直した。紙の端が、彼女の指の下で少しだけ鳴った。
「知っていたら、柊真さんに最初に教えています」
「本当に?」
「疑うんですね」
「確認です」
「同じことです」
「違います。疑いは結論を含む。確認には、まだ余白がある」
理香はしばらく私を見た。人の目を見るのが苦手な私でも、彼女の笑顔が薄くなっていくのは分かった。
「柊真さんは、余白が好きですね。台帳の空欄も、返事のない手紙も、誰かが言わなかったことも、全部そこに置いておく」
「置いているのではない。残っている」
「残っているから、拾うんですか」
「拾わなければ、なかったことになる」
「それが人を救うとは限りません」
「救うかどうかは、まだ判断していない」
「でも、知ろうとしている」
「知ることは、傷つけることと同じではない」
「同じではありません。でも、知った人が何をするかで、傷は深くも浅くもなるんです。図書館の記録は、誰かの人生を預かっています。町の人が置いていった本や手紙は、ただの資料ではありません。名前を残したくない人が、名前の代わりに紙だけを残すこともある。紙を見つけたからといって、すぐに持ち上げて光に透かせばいいわけではないんですよ」
「では、見つけた紙を暗い場所に戻せばいいのか」
「戻すだけではありません。そこにあると知ったまま、触れない選択もあります」
「それは記録を守ることか」
「守ることです」
「隠すことではなく?」
理香の唇がわずかに動いた。返事の前に、いつもより長い間があった。
「隠すことと守ることは、外から見ればよく似ています。だから怖いんです。守ったつもりで、誰かを閉じ込めているかもしれない。けれど、全部を明るみに出せば、それで正しいとも思えない。正しさは、声が大きいほうへ人を連れていくことがあります。でも、傷ついた人は声を出せないことがある。声を出せない人の沈黙まで、同意だと決めつけたくないんです」
「十月十七日のことを言っているのか」
理香は台本を閉じた。
「その日付だけは、どうしても急いで読めないんです」
それだけ言うと、彼女は利用者のもとへ戻っていった。歩き出す前に、書類棚へ一度だけ視線を向ける。その棚には、古い寄贈帳の控えが収められている。
私は鍵を回した。
蓋が開く。
古紙の乾いた匂いに混じって、かすかに湿った木の匂いがした。箱の中には、古い目録カード、破れた館内案内、返却期限を失った貸出票、白紙の付せんが重なっている。誰かが捨てることをためらったものばかりだった。
すずが横から覗き込む。
「封筒、ここです」
彼女は束を取り出し、机の上に置いた。年ごとに分けられている。封筒には日付も名前もない。ただ、端に細い鉛筆で小さな線が引かれていた。
「この線は、前にもありました」
「どこで」
「棚札の裏です。差し替えたもののうち、古い番号が残っていた札。線の長さが同じ」
すずは定規を当てた。
「三センチ二ミリ。全部同じです」
私は封筒を一枚ずつ手に取った。紙の厚み、角の摩耗、折り目の位置。古いものほど端が柔らかく、新しいものほど硬い。だが封筒のどれにも、郵送された形跡がなかった。
この葉書は、郵便で届いたものではない。
誰かが館内へ持ち込み、長机に置いた。
「受入れ簿では、差出人不明の資料になっている」
「でも、郵便物じゃない」
「そうだ」
「じゃあ、葉書じゃなくて、置き手紙ですね」
「葉書の形をした」
私は封筒の束を裏返した。その一枚の底に、薄い茶色の跡がある。円形で、中心だけ色が濃い。朱肉ではない。古いスタンプ台の油分が紙へ移った跡に似ていた。
受入れ簿の継ぎ目にあった凹みと同じ形だった。
すずが息を止めた。
「これ、押印の跡ですか」
「直接押されたものではない。何かを挟んで、上から圧がかかった」
「スタンプ台を重しにした?」
「たぶん」
「どうしてそんなことを」
「紙を押さえるためだ」
「誰かが、急いで貼り替えた紙を乾かした?」
私は答えなかった。
箱の底から、一枚の白紙の付せんを取り出した。文字はない。だが、裏面の端に赤い粉が付着している。朱肉の粉だろうか。指でこすると、粉はすぐに消えた。

その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
赤い光。低い煙。机の上で開いた台帳。誰かが「触らないで」と言っている。声は女だった。続いて、鍵が落ちる音。私は腕を伸ばし、燃えかけた紙の束を引き寄せている。
視界が白く揺れた。
私は箱の縁に手をついた。
「柊真さん」
「大丈夫だ」
「大丈夫な顔じゃないです」
「覚えている」
「何を」
「いや、まだ……映像だけだ。記録にはならない」
すずは私の腕を掴まなかった。代わりに、机の上の葉書を一枚、私の前からそっと遠ざけた。紙の湿り気が、指先にまとわりついていた。
「記録にならないものは、信じないんですか」
「信じるには、根拠が足りない」
「でも、なかったことにはしない」
「それが私の仕事だ」
「仕事じゃなくても、そうするでしょう」
私は答えられなかった。
すずは白紙の付せんを裏返し、赤い粉の跡を見つめた。
「この紙、誰かが文字を書くために使ったんじゃない」
「何のためだ」
「何かを包んだ跡があります。折り目が四つ。中央だけ、少し油が残ってる。火を消すときに、濡れた布か手袋で包んだんじゃないですか」
私は付せんを受け取った。紙の折り目に沿って、かすかな焦げ臭さが残っていた。
古い紙の匂いの中に、ほんの少しだけ、乾ききらない火の匂いが混じっている。
「返却不能資料箱は、いつからここにある」
「少なくとも、私が来る前からです」
「記録を見れば分かる」
「見れば、分かるんですか」
すずの問いは柔らかかったが、逃げ場を塞いだ。
私は白紙の付せんを封筒へ戻し、葉書を年順に重ねた。薄い紙の束は、手の中で思ったより重かった。何年も返事を待っている言葉は、文字数の少なさとは関係なく、手首に沈む。
そのとき、書庫棟のほうから咲枝が現れた。
彼女は私たちの前で止まり、箱の中身を見た。表情は変わらなかった。ただ、右手の指が貸出票の端を爪でならしている。
「許可を取ったの」
「確認です」
「その言葉は便利ね」
「記録を見たい」
「何のために」
「十月十七日の葉書が、いつから保管されているか知りたい」
「もう分かっているでしょう」
「受入れ簿にはある。保管の経緯はない」
「経緯まで残す必要がある?」
「ある」
「なぜ」
「誰かが残したものだからです」
咲枝はしばらく黙っていた。閲覧室の奥で椅子が引かれ、ページをめくる音がした。その日常の音が、私たちの間に薄い膜を張っている。
「柊真さん」
咲枝の声は低かった。
「記録は、残せば正しいものになるわけではない。残したことで、誰かが追いつめられることもある。名前が書かれた一行が、その人の逃げ道を全部塞ぐこともある。あなたは記録を信じているけれど、記録はいつも、書いた人間の都合を含んでいる」
「だから確認する」
「確認して、どうするの」
「事実に筋を通す」
「筋を通すという言葉で、切り捨てられるものもある」
「曖昧なままにするよりはいい」
咲枝は私の手元の葉書を見た。
「本当に?」
「……分からない」
言葉が口から出たあと、胸の奥が遅れて痛んだ。私はいつも、分からないことをそのままにするのが嫌だった。だが今は、分からないことを分からないまま抱えるしかない。
咲枝は目を伏せた。
「なら、急がないで」
「あなたは何を知っている」
「知っていることと、言えることは違う」
「誰かを守るためか」
「守るためだけではない。自分が壊さないためでもある」
咲枝は箱の中から、古い目録カードを一枚取り出した。角の擦れたカードだった。裏には、棚番号のような数字が書かれている。
「これを返して」
「どこへ」
「元の場所へ」
「場所が分かるのか」
「分かる」
「なぜ、ここに入っていた」
咲枝は答えなかった。カードを受け取ろうとする手が、空中で一度止まる。その手袋の指先には、薄い灰色の汚れがついていた。
私はカードを渡さなかった。
「これは記録です」
「返却不能資料箱の中にあるものは、返却先がない」
「なら、なおさら残す」
「あなたは、残すことを正しさだと思いすぎる」
「違う」
自分でも驚くほど、声が硬くなった。
「私は、覚えていないから残す。私の記憶が信用できない以上、紙まで消えたら、何も確かめられなくなる。自分が何をしたのか、誰を傷つけたのか、誰に助けられたのか。そのどれも分からないまま、毎年ありがとうだけが届く。私はそれを、受け取ったふりをして箱へ戻すこともできる。でも、戻した場所が正しいとは思えない。返事のない言葉を、返事のないまま積み重ねることが、誰かを守っているのか、ただ忘れさせているのか、今の私には判断できない。だから、少なくとも、ここにあるものが何なのかだけは知りたい」
咲枝は黙って私を見た。
やがて、カードから手を離した。
「その言い方を、前にも聞いた気がする」
「誰から」
「あなたから」
胸の奥で、何かがゆっくり沈んだ。
咲枝は箱の蓋を閉じるように手を伸ばしたが、途中で止めた。
「受入れ簿の継ぎ紙を調べるなら、寄贈者名簿も見て」
「なぜ」
「同じ紙が使われている」
「継ぎ紙と、寄贈者名簿に?」
「十月十七日の欄だけ。あなたが見れば分かる」
「あなたは見たのか」
「何度も」
「そこに何がある」
咲枝は目を逸らした。
「ないものがある」
それだけ言うと、彼女は書庫棟へ戻っていった。鍵束の音が、廊下の奥へ細く遠ざかる。
私は目録カードを机の上に置き、受入れ簿と葉書の束を並べた。
紙は、それぞれ違う形をしている。
葉書。封筒。台帳。白紙の付せん。目録カード。
けれど、どれにも同じような手つきが残っていた。何かを隠すために折られたのではなく、誰かがあとで見つけられるよう、角を傷めずにしまわれた手つき。
私は一枚目の葉書を手帳へ挟んだ。
「ありがとう」。
短い言葉の下に、まだ何も書かれていない。
いや、何もないのではない。書かれなかったものが、紙の重さとして残っている。
私はすずに言った。
「寄贈者名簿を出してくれ」
「はい」
「それから、閉架書庫の整理記録。十月十七日の前後三日分」
「三日で足りますか」
「足りないかもしれない」
「じゃあ、前後一週間にします」
すずはメモ帳に書き込み、最後に小さな丸をつけた。
「柊真さん」
「何だ」
「これ、調べ終わったら返事をするんですか」
私は葉書を見た。
窓の外では、銀杏の葉がまた一枚、濡れた石畳へ落ちた。音はほとんどしなかった。けれど、落ちた場所は分かった。
「分からない」
「またそれですか」
「ただ、届いたことは残す」
「返事より先に?」
「返事をするには、まず受け取ったと認めなければならない」
すずはしばらく黙っていた。それから、いつものように少しだけ笑った。
「じゃあ、今日は受領印からですね」
「そうだ」
「押す場所、間違えないでくださいね。継ぎ紙の上に押すと、また誰かが貼り替えます」
私は受入れ簿を開いた。
十月十七日の欄には、白い紙の継ぎ目が横たわっている。その下に何が書かれていたのか、今はまだ分からない。
けれど、紙は完全には沈黙していなかった。
指先を置くと、糊の境目がかすかに返事をした。
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