第1話 紙の朝

秋月市立図書館の朝は、銀杏の葉が石畳に貼りつく音から始まる。
雨は夜明け前に止んでいた。中庭の並木から落ちた葉は水を含み、靴底に踏まれるたび、乾いた音ではなく、薄い紙を指で押しつぶすような音を立てた。旧館の窓はまだ白く曇っている。私は鍵を回して扉を開け、誰もいない閲覧室に入った。
木の匂いがした。雨を吸った古い梁の湿り気と、長く閉じられていた本の背表紙から立つ乾いた匂いが混ざっている。私はこの匂いが嫌いではなかった。むしろ、朝の自分を決めるために必要なものだった。
カウンターの内側に鞄を置き、返却票を日付順に並べる。左から右へ。昨日の分、その前の日、その前の週。端の揃っていない紙は一枚もなかったが、私はそれぞれをいったん持ち上げ、角を確かめてから重ね直した。
紙の状態は、文字より先に多くを語る。
湿気を含んだ票は中央がわずかに膨らみ、急いで乾かしたものは端だけが反る。誰かが強くつまんだ跡は、印字のない余白に指の丸みとして残る。私はそういうものを見つけるたび、そこに触れた人間の手つきを想像した。人の顔や声より、紙の端のほうが嘘をつかない気がしていた。
カウンター脇の棚札が二ミリほど右にずれているのを見つけ、私は赤鉛筆の背で押し戻した。
「朝から測量ですか」
背後から声がした。
朝倉すずが、両手で新しい棚札を抱えて立っていた。薄い灰色のカーディガンの袖から、細い指が覗いている。彼女は何かを見つけるとまず笑う癖がある。今も口元だけが先に上がっていた。
「二ミリは、棚札にとって大きい」
「棚札に人格を与えないでください。傷つきます」
「傷つくのは利用者だ。探している分類番号がずれる」
「利用者さんは、二ミリで人生を見失いませんよ」
「君は見失わないのか」
すずは答えず、抱えていた棚札を机に置いた。紙の束が、ぱたん、と小さく鳴る。彼女は一番上の札を取り、端を揃えた。
「私は三ミリで見失います。昨日、児童書の棚で一冊だけ前に出ていた本があって、戻したら後ろから古い貸出票が出てきました」
「何の本だ」
「町の昔話です。題名は普通でしたけど、貸出票の裏に赤いクリップが挟まっていて」
すずはメモ帳を開いた。端に小さな丸がいくつも描かれている。
「誰かの忘れ物でしょう」
「そうかもしれません。でも、赤いクリップは事務室のものじゃないんです。古い型で、いま使っているものより針金が太い。だから捨てずに取ってあります」
「君は、そういうものを何でも取っておくな」
「柊真さんにだけは言われたくないです。返却不能資料箱の鍵、いくつ持ってるんですか」
私は胸ポケットの上から鍵束に触れた。金属が布越しに冷たかった。
「必要な数だけだ」
「その必要が、年々増えているんですよ」
すずは笑った。私が返事をしないでいると、笑みを少しだけ薄くした。軽口で空気を整えようとしたが、整わないと判断したときの顔だった。
そのとき、書庫棟へ続く廊下から鍵の触れ合う音がした。
久保田咲枝が現れた。閉架書庫の鍵束を掌に載せ、歩くたびに小さく鳴らしている。彼女はカウンターの前で足を止め、鍵束を所定の位置に置いた。置いたあと、鍵の向きを直した。歯の長い鍵が右、短い鍵が左。いつも決まっている。
「おはようございます」
すずが声をかける。
「おはよう」
咲枝はそれだけ言い、書庫の出納簿を開いた。ページの角を指で押さえ、昨日の欄を確認する。視線は動いているのに、表情はほとんど変わらない。
「昨日、閉架に誰か入りましたか」
私は尋ねた。
咲枝の指が止まった。
「職員が二人。研究閲覧室からの請求が一件」
「記録は」
「残っている」
「なら、聞く必要はないでしょう」
咲枝は顔を上げた。視線が私の目ではなく、胸ポケットの名札に落ちる。
「記録が残っているかどうかを、あなたはよく聞く」
「確認しているだけです」
「確認は、同じことを何度も訊く行為ではない」
声は平らだった。咎められた感じはしなかったが、私の中のどこかが薄く擦れた。
「忘れるので」
口にしてから、その言葉が思ったより大きく響いた。
咲枝は返事をしなかった。出納簿を閉じ、紙の端を二度撫でる。それから鍵束を一度見て、廊下の奥へ戻っていった。
すずが棚札を持ったまま、私の横顔を窺った。
「いまの、言わなくてもよかったんじゃないですか」
「事実だ」
「事実でも、毎朝カウンターの真ん中に置かなくていいものはあります」
私は返却票の束を見た。数字は揃っている。日付も、分類番号も、記入者の印も。けれど、私自身のことになると、どれも急に頼りなくなる。
図書館で働き始めてからの記憶は、途切れ途切れではあるが、業務の手順として体に残っていた。どの棚にどの分野があり、旧館のどの窓が雨の日に鳴るか。書庫棟の階段は下から三段目だけ軋むこと。閉館後、研究閲覧室の照明を消す前に、窓際の椅子を一脚だけ机に戻すこと。
覚えている。
ただ、ある十月十七日の前後だけが、紙を切り取ったように抜けている。
そのことを、私はいつから知っていたのかも、はっきりしない。
閲覧室の奥で、椅子が引かれる音がした。
私は反射的に顔を向けた。
長机の上に、白い封筒が置かれていた。
さっきまでなかった。少なくとも、私が窓を開け、返却票を並べ、すずと話している間には見ていない。閲覧室にはまだ利用者がいない。正面玄関は施錠されたままで、裏口の警報も解除されていなかった。
封筒には宛名がなかった。差出人もない。糊づけされた跡はなく、口は一度折られているだけだった。
私は長机へ歩いた。
朝の光が、封筒の白さを薄く青く見せていた。指先を近づけると、紙にわずかな湿り気がある。雨に濡れたというほどではない。誰かがついさっきまで持っていたような、手の温度に似た柔らかさだった。
「触っていいですか」
すずが聞いた。
「手袋を」
「こういうときだけ急に職員らしいことを言いますね」
彼女は事務室から薄い手袋を持ってきた。私は封筒の下に指を差し入れ、折り目を傷つけないように持ち上げた。中に葉書が一枚入っている。白い、ありふれた官製葉書だった。切手はない。消印もない。
表には、文字がひとつだけあった。
ありがとう。
万年筆でも、ボールペンでもない。線の一部がわずかに沈み、インクが紙の繊維に吸われている。筆圧は浅い。最後の「う」の終わりだけ、ほんの少し右へ流れていた。
私は葉書を裏返した。
何もない。
「毎年、ですか」
すずの声が低くなった。
「君は知っているのか」
「知っているというほどじゃないです。見たことがあるだけです。去年も、その前も」
「誰から聞いた」
「誰からも。朝、そこに置いてあって、柊真さんが返却不能資料箱にしまいました」
「私が?」

「はい」
すずは少し考えてから、言葉を続けた。
「正確には、しまったというより、戻した、です。自分のものではないから預かる、と言っていました」
私は葉書を持ったまま動けなかった。
自分が言った言葉なのに、記憶のどこにも引っかからない。ただ、「預かる」という響きだけが、喉の奥に薄い熱を残した。
「去年の葉書を見せてくれ」
すずは頷き、旧館の隅にある返却不能資料箱へ向かった。
箱は木製で、蓋の角が何度も擦られて白くなっている。貸出も廃棄もできない資料を一時的に保管するためのものだ。誰にも返せず、正式には捨てられず、行き先を失った紙片がそこへ入る。
私は鍵束から古い鍵を選んだ。鍵穴に差し込むと、金属の奥で小さな抵抗があった。回す。蓋を開ける。
紙の匂いが立ち上がった。
すずが身を屈め、箱の中を覗き込む。古いパンフレット、破れた目録カード、白紙の付せん、片方だけのしおり。その下に、薄い封筒の束があった。封筒は年ごとに分けられている。綴じられてはいない。誰かが、順番だけを崩さないように重ねていた。
私は一番上の封筒を取り出した。
葉書が一枚。
ありがとう。
去年のものだ。
その下にも、同じ言葉。その下にも。文字の形はそれぞれ違っていた。細い鉛筆、太いボールペン、濃い青の万年筆。右手で書いたような傾きのものもあれば、左手でなぞったように線が不自然に震えているものもある。
「差出人不明で受け入れた記録は、ありますか」
「たぶん台帳に。十月十七日で探せば出ると思います」
すずは事務室から受入れ簿を持ってきた。私は机に広げ、年を遡った。
十月十七日。
十月十七日。
十月十七日。
日付は毎年同じだった。
だが、ある年の欄だけ、紙の色が違った。周囲よりわずかに白く、新しい紙を継ぎ足したように見える。糊の境目を指でなぞると、ページの下から上へ、ごく浅い段差が返ってきた。
「ここ、貼り替えられてます」
すずが言った。
「分かるのか」
「紙の毛羽立ちが違います。前の紙を切ったあとに、新しい紙を貼っている。しかも、上から押さえたものが丸い。たぶん蔵書印か、古いスタンプ台です」
彼女は笑わなかった。
私は欄外の記入を読んだ。受入れ資料――葉書一枚。差出人不明。受入れ日、十月十七日。
その文字を見ていると、視界の端に何かが揺れた。
暗い書庫。床に散った紙。誰かの袖口。焦げた匂い。右の袖を押さえる自分の手。どこかで、金属が落ちる音。
私は反射的に右腕を押さえた。
「柊真さん?」
「……何でもない」
「何でもない人は、そんなふうに腕を掴みません」
「記憶の問題だ」
「その言い方、便利ですけど、便利すぎませんか」
すずの声は責める調子ではなかった。だから余計に、逃げ道がなくなった。
「覚えていないことがある。十月十七日を境にして、その前後が曖昧だ。葉書も、これまで届いていたことは記録にある。でも、私は受け取った記憶がない」
「葉書を送ってくる人は、柊真さんが忘れていることを知っているんでしょうか」
「分からない」
「じゃあ、ありがとうは誰に向けた言葉なんでしょう」
私は葉書の文字を見た。
短い言葉だった。感謝の言葉としては、あまりにも足りない。何に対するありがとうなのか、誰のためのものなのか、いつのことなのか。そのすべてが抜け落ちている。
けれど、言葉が足りないのではなく、私たちの側に何かが欠けているようにも思えた。
「返事を出したことはありますか」
「ない」
「どうしてですか」
「返す相手がいないからだ」
「相手が分からなくても、返事はできますよ。宛名のない手紙なら、宛名のない返事を書けばいい」
「図書館の受入れ記録に、私信を綴じる規則はない」
「規則の話じゃありません」
すずは葉書を見つめたまま、指先で机を二度たたいた。怖い話題に触れたときの癖だった。
「返事をしないことと、返事ができないことは、同じじゃないですよね」
私は答えなかった。
窓の外で、銀杏の葉が一枚、ガラスに貼りついた。黄色い葉脈が、曇った空を細かく区切っている。
長机の上には、今年の葉書と、何年分もの過去の葉書が並んでいた。どれも同じ言葉なのに、紙の厚みも、インクの色も、最後の文字の止め方も違う。違う人間が書いたように見える。けれど、同じ日付に、同じ場所へ、同じ一言だけを置いていく。
私は葉書を一枚ずつ重ねた。
角を揃える。押印の凹凸を確かめる。紙の湿り気を指先で読む。
その動作は、何かを探すというより、祈りに近かった。
やがて、旧館の玄関から開館を知らせる電子音が鳴った。外で待っていた利用者たちの話し声が、扉越しに薄く流れ込んでくる。町の人々は本を返し、本を借り、誰かの書いた言葉を手にして帰っていく。図書館は今日も、忘れられたものを受け取り、別の誰かへ渡す。
私は今年の葉書を封筒に戻さなかった。
「すず」
「はい」
「十月十七日の記録を、全部出してくれ」
すずが顔を上げた。
「閉架の整理記録も?」
「全部」
「寄贈者名簿も、修繕メモも?」
「あるものは、すべて」
「久保田さんに怒られますよ」
「怒られる理由が記録に残るなら、構わない」
言い終えてから、自分の声が思ったより固いことに気づいた。すずはしばらく私を見ていたが、やがて小さく笑った。今度の笑みには、場を明るくするためではない、決めた人間を見送るような色があった。
「分かりました。じゃあ、まず棚札から探しましょう」
「なぜ棚札から」
「柊真さんが、いちばん信用しているものだからです」
私は返却不能資料箱の蓋を閉じた。鍵を回すと、古い金属が喉の奥で鳴るような音を立てた。
胸ポケットの名札に触れる。薄い金具は、まだ他人のもののようだった。
それでも私は、葉書を手帳の内側に挟んだ。
返事をする相手が分からないままでも、まずは、届いたことを記録する。そのために私は、図書館の奥へ歩き出した。
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