第3話 書類の端に残るもの

戸田警部補に相談するため、私は昼休みを少し過ぎた頃、図書館を出た。

雨は上がっていたが、石畳はまだ濡れていた。銀杏の葉が靴の裏に貼りつき、歩くたびに薄い紙を踏み折るような音がする。図書館から市役所へ続く道は、城壁跡の斜面に沿ってゆるく下っていた。濡れた土の匂いと、古い家々から流れてくる煮物の匂いが混ざっている。町は昼の顔をしていた。郵便配達の自転車、軒先に干された布巾、学校帰りの子どもたちの声。けれど、私の中では朝からずっと、葉書の紙肌だけが乾かずに残っていた。

ポケットの中には、今年届いた葉書の控えがある。実物は資料として返却不能資料箱に戻した。控えを取るとき、私は「ありがとう」の文字を写さなかった。文字の形を記録する代わりに、紙の厚みと筆圧、末尾の流れだけを記した。

ありがとう。

言葉にしてしまうと、あまりにも軽くなる気がした。

生活安全課の窓口で名乗ると、戸田警部補はすぐに私を奥の机へ通した。四十代半ばの男で、机の上には書類が左から右へ、日付の古い順に並べられている。湯気の消えかけたコーヒーが一杯だけ、書類の端から一定の距離を保って置かれていた。

「葉書の件ですね」

「はい」

戸田は私の顔を見なかった。差し出した控えを受け取り、まず日付欄を確認した。文字より先に、年月日を見る。次に紙の裏、最後に私の手帳へ視線を移した。

「現物は」

「図書館で保管しています。持ち出す許可が必要になるので、今日は控えだけです」

「それで結構です。現物を持ち歩くと、濡らす、折る、なくすの三つが起きる」

「ずいぶん具体的ですね」

「起きたことがあります」

戸田は淡々と言って、机の引き出しから古い捜査メモを取り出した。表紙の角が丸く磨耗している。何度も開かれた手帳だった。

「差出人不明。消印なし。毎年十月十七日。文面は『ありがとう』のみ。図書館の閲覧室で発見され、返却不能資料箱に保管。ここまでは、あなたの記録と一致しています」

「過去の記録があるんですか」

「葉書そのものではありません。相談票です」

戸田は一枚の紙を机の中央へ置いた。相談日から数年前の日付が記されている。相談者の欄には、秋月市立図書館。内容は、元職員の所在確認と、閉架資料の一部焼損について。

私は紙の端を見た。

右下だけ、妙に毛羽立っている。何度もめくられたというより、そこを押さえていた指が同じ場所へ戻り続けたような傷みだった。

「元職員というのは、早瀬静さんですか」

戸田は短く息を吐いた。

「名前を知っているんですね」

「図書館の古い名簿にありました。元司書。数年前から勤務記録が途切れている」

「失踪届が出ています。ただし、事件として扱われた期間は短い。本人が成人で、金銭や携帯電話の動きも途絶え、周囲には『しばらく一人になりたいと言っていた』という証言があった」

「亡くなった可能性は」

「確認できていません」

「では、生きている可能性も」

「否定できません」

戸田はそこで初めて私を見た。目の奥に、慰めではなく手順があった。

「事件性は薄いですね」

「そう言いながら、記録を出している」

「事件性が薄いことと、記録を見なくていいことは別です。相談を受けた以上、何が起きて、何が起きていないかを分ける必要がある」

「葉書が届くことは、何が起きた証拠になりますか」

「葉書だけなら、なりません。誰かが文字を書いて置いた。それ以上でも以下でもない。ただ、同じ日付に同じ場所へ、何年も続けて置かれているなら、行為には理由がある」

戸田は古いメモを開いた。紙の間から、薄い付せんが何枚も覗いている。

「火災未遂の報告書もあります。閉架書庫の一角で焦げ跡。出火原因は特定されず。資料の一部が焼損。けれど、報告書に書かれている焼損範囲と、図書館側の修繕記録が一致していない」

「どちらが正しいんですか」

「まだ分かりません」

「では、何を見れば分かりますか」

「時刻です」

戸田は地図を広げた。秋月市立図書館の見取り図だった。旧館、書庫棟、研究閲覧室、裏口、搬入口。赤いボールペンで何本かの線が引かれている。

「火災報告では、二十一時十六分に警備会社へ通報。消防が到着したのは二十一時二十四分。ところが、図書館の事故報告には、二十一時四十分まで職員が現場に残っていたとある。閉館後ですから、残っていた職員は限られる」

「誰ですか」

「早瀬静さん、久保田咲枝さん、それからあなたの名前がある」

紙の上の文字が、急に遠くなった。

柊真。

自分の名前が、他人の記録の中にある。私は胸ポケットの名札を指で押さえた。金具の薄い冷たさが、皮膚の下へ沈む。

「私は、何をしていたんですか」

「報告書には、書かれていません」

「書かれていない?」

「職員欄には名前だけ。行動の記述がない。報告書を作った人間が、そこを省いている」

「誰が作成したんです」

戸田は書類の下から一枚の控えを引き出した。

「久保田さんです」

名前の下に押された印影は、右端が欠けていた。私はその欠け方を見たことがある。受入れ簿の継ぎ紙に残っていた、丸い凹み。返却不能資料箱の封筒に付いていた、茶色い跡。

「この印、図書館のものですか」

「旧館で使われていたものです。現在の公印とは別の、資料保管用の印だと聞いています」

「戸田さんは、何を疑っているんですか」

「疑っているというより、順番を確認しています。火災が先か、資料の移動が先か。早瀬さんがいなくなったのは、火災の前か後か。報告書では、その二つが曖昧になっている」

「事件性は薄いのに?」

「事件性が薄いからこそ、曖昧なままにしておくと、後から何でも事故になります」

その言葉は、図書館で咲枝が言ったことと似ていた。記録を残せば正しくなるわけではない。だが、残さなければ、間違いの形すら分からない。

「事件じゃないなら、なんなんです」

私は自分でも気づかないうちに、そう口にしていた。

戸田はすぐには答えなかった。書類の端を親指で押さえ、ページを一枚戻す。その手つきは、言葉を探すというより、事実の置き場所を探しているように見えた。

「記録の穴です」

「穴?」

「穴は、何もないから穴になるわけじゃない。埋めた人がいるから穴になる」

低い声だった。

「書かれなかっただけかもしれない。書いたあとで消されたのかもしれない。あるいは、誰かが書かないように頼んだのかもしれない。どれも外から見れば同じ空白です。だから、空白だけを見て人を犯人にすることはできない。ただし、空白がいつ、どの紙に、どんな手つきで生まれたかは調べられる」

「私の記憶も、調べられますか」

「記憶は証拠になりません」

「分かっています」

「ですが、無視する理由にもならない。あなたが覚えていないことと、記録が欠けていることが同じ日付に重なっているなら、関係がある可能性は残る」

「可能性を残すだけですか」

「それ以上を望むなら、資料を集めてください。記憶を取り戻そうとすると、人は都合のいい場面を作ります。紙なら、少なくとも紙に残った傷は勝手に増えない」

戸田は図書館の見取り図を私へ向けた。

「裏口から閉架書庫へ入る動線は、職員しか使いません。ですが、旧館の階段裏を通れば、書庫から閲覧室へ戻らずに資料を移せる。ここに案内札がある」

赤い線の先に、小さな四角が描かれていた。

「案内札?」

「昔のものです。現在は撤去されたと聞いていますが、撤去記録がない」

「そんなものが」

「大きな証拠ではありません。ただ、案内札は人を導くために置かれる。置き場所が変われば、人の流れも変わる。流れが変われば、見られない場所ができる」

戸田はそう言って、見取り図を折りたたんだ。

そのとき、廊下の向こうから芦原岳人の声がした。市役所の資料閲覧室を使っていたらしい。彼は私たちの机へ歩いてくると、薄い手袋を外し、濡れた複写資料を一束、静かに置いた。

「失礼します。こちらにいらっしゃると思っていました」

「なぜです」

「柊真さんが空白を見つけたからです」

芦原は眼鏡を押し上げた。戸田の顔ではなく、机上の書類の並びを見ている。

「図書館の古い寄贈者名簿を調べていました。十月十七日に関係する記録が、火災の年だけではありません。戦前から、同じ日付の欄に欠落がある」

「毎年ですか」

「毎年ではありません。記録が改訂された年、あるいは資料が移された年に限って、欄が薄くなっている。誰かが同じやり方で紙を継ぎ足しているのです」

芦原は複写資料の一枚をめくった。紙焼けした文字の列に、何度も貼り直された跡がある。

「この資料は、焼却処分されたとされています」

「それが、なぜ残っているんですか」

「原本ではありません。焼却前に取られた複写です。ただ、複写した人物の筆跡が、早瀬静さんのものとよく似ている」

「早瀬さんが複写した?」

「断定はできません。ですが、末尾の整理番号は、現在の図書館の番号体系と一致します」

戸田が複写を受け取った。

「焼却処分の記録はありますか」

「あります。ただし、処分日は十月十七日ではない。十月十八日になっている」

「火災の翌日?」

「ええ。ところが、図書館の整理記録では、その資料は十月十六日にすでに所在不明になっている。つまり、焼却されたという記録が正しければ、焼却される前に消えている」

私は複写の端に触れた。乾いた和紙の感触が指腹へ移る。紙は古いのに、角だけが妙に守られていた。誰かが急いで扱ったのではなく、何度も折り直し、破れないようにしまってきた手つきだった。

「空白は、偶然には見えません」

芦原が言った。

「ここが抜けている。けれど、抜けたこと自体が痕跡です。資料がないことではなく、ないことにするための手順が残っている」

「それを公表するつもりですか」

私が尋ねると、芦原はすぐに答えなかった。普段なら、真実は残すべきだと迷わず言う人だった。だが今日は、複写の上に置いた指が止まっている。

「以前、似たような資料を追ったことがあります。所在を突き止め、正しい記録に戻した。私は正しいことをしたつもりでした。しかし、その記録によって、ある家族が長年守ってきた沈黙まで壊れた。史料は戻りましたが、人間関係は戻らなかった」

芦原の声は穏やかだった。

「それ以来、事実を明らかにすることと、事実を誰にどう渡すかは別の問題だと考えるようになりました。記録を隠すことが正しいとは思いません。ただ、知った者が必ず他人へ渡す権利を持つとも思わない。柊真さん、あなたが探しているのは、誰かを告発するための材料ですか。それとも、自分が何を忘れたのかを確かめるためのものですか」

「分かりません」

「その答えは、正直ですが危険です」

「危険でも、知らないままにはできない」

「ええ。あなたはそういう人です」

芦原は複写資料を閉じた。

「だからこそ、確認してください。早瀬さんが何を消したのかではなく、何を残そうとしていたのかを」

その言葉が胸の奥へ落ちたあと、少し遅れて熱になった。

私は戸田の机から、図書館の事故報告の控えを借りた。戸田は返却期限を書き、私の手帳にも同じ日付を記した。

「三日で返してください」

「調べる時間が足りません」

「返す期限と、調べ終える期限は別です。記録を持ち出すなら、戻す日付を決める」

「戸田さんは、私が何かを見つけると思いますか」

「見つけるかどうかは知りません。ただ、見つけたものを戻せる人だとは思っています」

市役所を出ると、夕方の雨が細く降り始めていた。私は複写資料を胸元へ抱え、図書館へ戻る道を歩いた。濡れた銀杏の葉が石畳に張りつき、風が吹くたびに一枚ずつ剥がれていく。剥がれた葉は道の端へ寄せられ、誰かに踏まれるまで、黄色い裏側を見せていた。

図書館の裏口へ回ると、書庫棟の窓に灯りがついていた。

久保田咲枝が、閉館後の書庫にいるのだろう。

私は鍵を取り出しかけて、手を止めた。

裏口脇の壁に、古い館内案内札の跡が残っていた。札そのものは外されている。けれど、四隅の釘穴のうち、右下だけが新しい木片で埋められていた。穴を塞いだ木の色が、周囲よりわずかに白い。

私は指で触れた。

木片の中央に、丸い凹みがある。

押印の跡ではない。ただ、何か重いものを押しつけたような浅い円だった。

朝、葉書に触れたときの紙の湿り気が、指先によみがえった。誰かの手の温度に似た、消えかけのぬくもり。

私は裏口の鍵を開けた。

薄暗い廊下の先で、書庫の空調が低く唸っている。紙の乾いた匂いに混じって、焦げたもののような苦い匂いがした。

私は戸田から借りた事故報告を鞄の中で確かめ、もう一度、日付を見た。

十月十七日。

その数字は、閉じた扉の向こうで、誰かが息を止めて待っているように見えた。

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