第8話 知っていた、と言われるまで

白灯防波堤に着いたとき、夕日は海の端へ沈みかけていた。
僕は錆びた自転車置き場へ自転車を停めた。車輪を止めても、脚の奥にはまだペダルを踏み続けている感覚が残っている。潮見坂を上るあいだにかいた汗が、海風に触れて冷えた。汗ばんだ首筋を撫でる風は涼しいはずなのに、喉のあたりだけが熱かった。
屋根の隙間から差し込む夕日が、錆びた鉄骨の影をコンクリートへ落としている。足元には細かな砂が溜まり、歩くたびに、ざり、ざり、と乾いた音がした。
夏帆は前かごからラムネ缶を二本取り出した。
「はい」
差し出された缶を受け取る。冷たさが掌へ移り、坂道でこもった熱を少しずつ奪っていく。缶の表面には水滴が浮かび、指の関節から手首へ細く流れた。
僕はプルタブへ指をかけた。
引けば、ぷつん、と音がする。
それだけのことなのに、指先が動かなかった。
「まだ開けないの?」
夏帆が訊いた。
「海で開けるって言っただろ」
「もう海じゃん」
「堤防だけど」
「海の隣は、だいたい海でいいと思うけどなあ」
夏帆は自分の缶を指先で回した。金属の表面に夕日が赤く映り、ゆっくり揺れる。
「今日の悠真、細かいよね。坂の途中でも、信号でも、ラムネの場所でも」
「いつも通りだろ」
「そういうことにしておく」
軽い言い方だった。
けれど、その言葉は胸の奥へ沈んだ。
波が堤防の下で砕けている。白い泡が一瞬だけ浮かび、すぐに暗い海へ戻っていく。遠くで船のエンジンが低く鳴った。町の方から聞こえていた車の音は、波に押し流されてここまで届かない。
夏帆は何も言わなかった。
僕も言わなかった。
彼女は、僕が自分から話し出すまで待つつもりなのだろう。いつもなら、その沈黙は楽だった。何も話さなくても隣にいられることが、僕たちの関係の一部だった。
でも今日は、その沈黙が逃げ場をなくしていた。
僕は堤防の先へ歩き出した。夏帆が半歩遅れてついてくる。隣に並ばず、離れすぎもしない。手を伸ばせば届くようで、伸ばしてはいけない距離だった。
先端の小さな灯台は、夕日の赤を受けていた。白い柱の影が長く伸び、コンクリートの上で僕たちの足元へ近づいている。
僕は灯台の根元に腰を下ろした。コンクリートは昼の熱を残していて、制服越しに腿へぬくもりが伝わった。背中には潮風、顔には夕日の熱。両側から違う季節に挟まれているようだった。
夏帆も少し離れて座った。
彼女は缶を膝の上で回している。何度も、同じ場所を指で撫でていた。緊張しているときの癖だと、僕は知っている。
知っているのに、知らないふりをしていた。
「夏帆」
名前を呼んだ。
それだけで、次の言葉が続かなくなった。
喉の奥に、いくつもの言い方が浮かんでは消える。
県外の大学へ行く。
ここを出る。
進路調査票に書いた。
受験する。
どれも本当なのに、どれも口にした瞬間、違う形になりそうだった。
「うん」
夏帆は僕を見た。
笑っているようで、笑っていない目だった。
その返事だけで、僕は救われそうになった。急かされていない。逃げ道を塞がれていない。まだ言わなくてもいいのだと思った。
同時に、もう逃げられないとも思った。
「……あのさ」
「うん」
「僕、進路のこと」
言葉が止まる。
夏帆は黙って待っていた。視線を僕の顔から缶へ移し、缶から海へ逃がす。僕が言いよどむたび、彼女は僕を見ないようにしてくれる。その優しさが、今は苦しかった。
「県外の大学を」
風が強く吹いた。
夏帆の髪が頬へかかる。彼女は手を上げ、耳へかけた。細い指が夕方の光を受ける。その仕草を見ているうちに、僕の中に押し込めていたものが、砂袋の底から一粒ずつこぼれ始めた。
「受けるつもりなんだ」
言い切ったあと、胸の奥が大きく鳴った。
夏帆は何も言わなかった。
僕は続けた。
「ずっと調べてた。大学のことも、駅から大学までの道も、寮の場所も。地図アプリで何回も見た。何度も保存して、閉じて、また開いた。母さんには少しだけ話した。先生にも資料を見せた。でも、夏帆には言えなかった」
自分の声が、波音の中でひどく小さく聞こえる。
「言ったら、今まで通りじゃなくなる気がした。夏帆が寂しがると思った。怒るかもしれないし、笑ってごまかすかもしれない。僕は、そのどれも見たくなかった」
夏帆はまだ黙っている。
「だから、何も言わない方がいいと思った。僕が黙っていれば、夏帆は知らないままでいられる。知らなければ、寂しくならない。そう思ってた」
言葉にしてみると、それがどれだけ自分勝手な考えだったのかがわかった。
寂しくならないのではない。寂しいかどうかを、夏帆が自分で決める機会を奪っていただけだ。
「でも、本当は僕が怖かっただけだ。夏帆がどんな顔をするのか見るのが怖かった。僕のせいで、何かが変わるのが怖かった。だから、夏帆のためだって言いながら、自分が何も見なくて済むようにしてた」
缶の水滴が、掌から手首へ流れ落ちた。
冷たい。
なのに、指先は熱かった。
「僕は、たぶん……」
そこでまた言葉が止まる。
行きたい。
その二文字が喉の奥にある。
言えば、決まる。言わなければ、まだ戻れる。進路調査票に書いた大学名も、地図アプリに並ぶ駅名も、全部ただの迷いに戻せる。
僕は、そうやって何度も戻ろうとしてきた。
けれど、夏帆の隣で、もう一度それをすることはできなかった。
「……出る」
やっと、声にした。
波にかき消されてもおかしくないほど小さかった。
それでも、僕自身には聞こえた。
「県外へ出る。受験して、受かったら、ここを出る」
言い切った途端、周囲の空気が少し変わった。
海は同じように波打っている。灯台も、堤防も、自転車置き場も、夕日の色も変わらない。ただ、僕の中で、名前のなかったものが初めて形を持った。
夏帆は目を伏せた。
笑おうとして、うまく笑えない顔をした。唇の端だけがわずかに上がり、それから静かに戻る。
「知ってた」
その声は、軽くなかった。
けれど、重すぎもしなかった。
「……いつから」
「いつからだろうね」
夏帆は海を見たまま言った。
「進路調査票を出したあとくらいから。悠真、前より返事が遅くなった。前は『別に』ってすぐ言ってたのに、最近は一回考えてから答える。しかも、答えたあとに相手の顔を見るのが遅い」
僕は黙って聞いた。
「自転車の漕ぎ方も変わった。前は坂で無理して、途中で急に力を抜いてた。でも最近は、最初からずっと強く踏む。ハンドルも握りすぎ。グリップ、白くなってるでしょ」
僕は自分の手を見た。
擦れた白いグリップが、夕日の中で浮かんでいる。
「それに、知らない駅の名前をよく見てた。悠真が地図を見るときだけ、顔が変わるから」
「顔が?」
「うん。ここにいる顔じゃなくなる」
夏帆はそう言って、僕を見た。
「向こうへ行ってる顔」
胸の奥へ、細い針が入った。
「だったら、聞けばよかっただろ」

「聞いて、言えた?」
答えられなかった。
「ほら」
夏帆は小さく笑った。
「私が聞いたら、悠真は困る。困ったら、自分が悪いって思う。だから、聞かなかった。私が知りたいからって、悠真の中から無理に答えを取り出したくなかった」
「でも、待ってるだけじゃ、僕は言えなかったかもしれない」
「うん。だから、今日連れてきた」
「海まで?」
「海まで」
夏帆は缶を両手で包んだ。
「私は、悠真の決めたことを変えたくない。でも、何も言わないまま遠くへ行かれるのは嫌だった。私だけが知らないまま、町の人から聞くのはもっと嫌。悠真が私のことを思って黙っていたとしても、私はその優しさを受け取れない。だってそれは、私がどう思うかを、悠真が先に決めてるから」
風が堤防を横切った。
夏帆の髪が揺れ、彼女は今度は耳へかけず、そのまま風に任せた。
「寂しいよ」
彼女は海を見たまま続けた。
「たぶん、すごく寂しい。腹も立つと思う。どうしてもっと早く言わなかったのって、何回も思うと思う。でも、寂しいからって、行かないでほしいとは言えない。悠真が行きたいと思ってるものを、私の寂しさで止めたくない」
「夏帆は、強いな」
「強くないよ」
返事は早かった。
「強くないから、ここまで普通のふりをしてた。笑ってれば壊れないと思ってた。いつも通りにしてれば、今日がただの放課後になると思ってた。でも、無理だったね」
最後の声だけが、少し揺れた。
僕は何か言おうとした。謝る言葉が浮かんだ。けれど、夏帆が嫌がることを知っていた。
謝れば、夏帆は僕を許す側へ回されてしまう。僕が軽くなる代わりに、彼女が何かを引き受けることになる。
「……知ってたんだな」
「うん」
「それでも、海に誘ったのか」
「うん。いつもの海に行きたかったから」
「最後になるかもしれないのに?」
「最後って決めたくなかった」
夏帆はようやく僕を見た。
「今日を最後だって決めたら、全部が終わりの形になるでしょ。最後の坂、最後のラムネ、最後の堤防。そんな名前をつけたら、何をしても苦しくなる。だから、今日は今日のままでいい。変わる前の最後じゃなくて、変わり始めた日のひとつ」
夕日が海面で細く砕けている。
その光は波に乗るたび形を変え、伸び、消え、また別の場所で生まれた。
僕も、同じなのかもしれない。
変わることは、これまでを消すことではない。ここにいた時間を置き去りにすることでもない。ただ、今までの自分だけでは見えない場所へ、少しだけ進むことだ。
それでも、怖さは残っていた。
「夏帆」
「うん」
「僕が行ったら、今までみたいに海へ来られなくなる」
「そうだね」
「帰ってくる回数も減るかもしれない」
「うん」
「向こうで新しい友達ができたら、ここで話してたことを忘れるかもしれない」
「忘れるかもしれないね」
夏帆は否定しなかった。
その正直さが、かえって僕を落ち着かせた。
「でも、忘れないようにしてって、私は言わない。忘れたくないと思うなら覚えてて。思い出したくなったら、思い出して。私が寂しいからって、悠真の中にこの町を残す義務を作りたくない」
「……僕は、忘れたくない」
「じゃあ、忘れない方法を自分で考えて」
夏帆はラムネ缶を僕の方へ差し出した。
「まず、開けたら?」
僕はプルタブへ指をかけた。
冷えた金属が指先に触れる。引く。
ぷつん、と小さな音がした。
炭酸が弾ける音は、波の音に混じりながらも、確かに残った。
夏帆も自分の缶を開けた。
ぷつん。
二つの音が、少し間をあけて海辺に重なる。
「聞こえたね」
「うん」
「今日の音、覚えといて」
「覚える」
「本当に?」
「今度は、ちゃんと言う。覚える」
夏帆は笑った。
目元には夕日の赤が残っていた。泣いているようにも見えたが、彼女は泣かなかった。泣かないことで平気なふりをしているのではなく、泣くかどうかも自分で決めているように見えた。
僕はラムネをひと口飲んだ。
冷たさが喉を落ちる。甘さのあとに、少し遅れて苦みが残った。今日の全部が、舌の上で混ざっているようだった。
「行った先でさ」
夏帆が言った。
「うん」
「最初に何するの?」
「駅の周りを歩く」
「地図で見てたところ?」
「そう。駅から大学までの道。寮の近くのスーパー。雨の日に歩けそうな高架下」
「地図には匂いまで載ってないよ」
「だから、確かめたい」
「電線の音も?」
「それも」
夏帆は少し笑った。
「じゃあ、向こうの電線の音がここと違うか、聞いてきて」
「わかるかな」
「悠真ならわかる。細かいこと、覚えてるから」
僕はもう一度、海を見た。
知らない町へ行きたい。
その気持ちは、誰かから与えられたものではなかった。母の期待でも、先生の助言でも、夏帆への反発でもない。ここにいる人たちが嫌いだからでもない。
ただ、自分がまだ見ていないものを見たい。
その理由を、初めて自分の言葉で言えた気がした。
けれど、夏帆が「知ってた」と言ったことは、嬉しくて、苦しかった。
僕が隠していた時間を、彼女はずっと隣で感じ取っていた。僕が守っているつもりだった沈黙は、彼女を遠ざける壁にもなっていた。
波が堤防の下で砕ける。
その音は、何も答えを与えない。ただ寄せて、崩れて、戻っていく。
僕は缶を両手で包んだ。
冷たさが掌に残り、夕日が少しずつ海へ沈んでいく。
夏帆は隣にいる。
もう、何も知らないふりをしてはいない。
それでも彼女は、僕の手を取らなかった。僕も、取ろうとはしなかった。その距離が、今は必要だった。
沈黙は長く続いた。
けれど、さっきまでのように、ただ苦しいだけではなかった。言葉にできなかったものが、言葉になったあとに残る沈黙だった。
僕は空になりかけたラムネ缶を見つめた。
夕日の赤が、缶の表面で小さく揺れている。
海は何も変わらない。
変わるのは、海へ来る僕たちの方だった。
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