第7話 白灯防波堤の沈黙

白灯防波堤に着いたとき、夕日はすでに海面の端を薄く赤く染めていた。
坂を下りきってから海沿いの道へ入り、堤防の脇にある錆びた自転車置き場へ自転車を停めた。車輪を止めたあとも、僕の脚にはペダルを踏み続けているような感覚が残っていた。ふくらはぎの奥が細かく震え、汗の乾きかけた首筋へ潮風が触れる。
涼しいはずなのに、喉のあたりだけが熱かった。
自転車置き場の屋根には、ところどころ赤茶色の錆が浮いている。隙間から差し込んだ夕日が、曲がった金属の影をコンクリートへ落としていた。地面には潮風で乾いた砂が溜まり、タイヤを置くたび、ざり、と小さな音がする。
先端の小さな灯台は、まだ明かりを灯していなかった。
白い柱の側面だけが赤く染まり、海へ伸びる堤防の上で、そこだけが夕暮れの中に立ち残っている。町の方を振り返れば、駅前の建物や商店街の屋根が低く連なっていた。さっきまで聞こえていた車の音も、ここまで来ると波の音に押し流されている。
僕は自転車から降りたまま、ハンドルを握っていた。
白く擦れたグリップの凹凸が、汗ばんだ掌に食い込んでいる。離せばいいのに、指がほどけなかった。強く握っていることを意識すると、ますます力が入る。
隣で、夏帆も自転車を停めた。
彼女は前かごからラムネ缶をふたつ取り出した。どちらも冷えている。缶の表面についた水滴が、赤い夕日を映しながら指の間を流れていた。
「ほら」
夏帆は僕へ一本差し出した。
僕は受け取った。缶の冷たさが掌に移り、坂道でこもった熱を奪っていく。冷たいのに、指先はすぐには気持ちよくならなかった。むしろ、身体の内側にあるものだけが、そこから逃げ場を失ったように感じられた。
夏帆は堤防の先を見た。
それから、何も言わなかった。
僕も言わなかった。
夏帆が先に口を開くことはない。僕が自分から言うまで待つ。その間の沈黙を壊さないことが、彼女なりのやり方だった。
波が堤防の下で砕けている。
寄せて、崩れて、細かな泡になり、コンクリートの壁面を白く濡らす。遠くで船のエンジンが低く鳴っていたが、すぐに波音の中へ沈んだ。
僕はラムネのプルタブへ指をかけた。
引けば、ぷつん、と音がする。
それだけのことなのに、指先が止まった。
今日のために買ったラムネだった。坂の途中で何度も開けようとしながら、海まで持ってきた。夏帆は風を確認してから開けるものだと言った。僕も、それがいつもの決まりだと思っていた。
けれど今は、開ける音ひとつで、今日が本当に最後になる気がした。
ラムネを飲むことが最後なのではない。夏の終わりに、学校帰りの制服のまま、ふたりで海まで来て、何も決めずに缶を開けることが、これで最後になる。
来年も、再来年も、海はここにある。
白灯防波堤も、錆びた自転車置き場も、夕方になると赤くなる灯台も、きっと変わらない。変わらない場所が残るからこそ、そこへ来る自分たちの方だけが変わってしまうことが、はっきりわかってしまう。
僕はプルタブから指を離した。
夏帆は見ているのに、見ていないふりをしていた。缶を胸の前で持ったまま、風に流された髪を耳へかける。何度も見てきた仕草だった。けれど、その横顔を見ていると、言わずに置いてきたものが一斉に重さを持ちはじめた。
進路調査票の控え。
机の引き出しの奥に残した、消しゴムの粉。
県外の大学名が並ぶ地図アプリの履歴。
母の前で飲み込んだ返事。
藤崎先生の、「決めたなら、決めたままにしておきなさい」という声。
そして、夏帆の前で何度も噛み殺した言葉。
どれも同じ場所に沈めていたはずなのに、今はもう浮かび上がるしかない気がした。
僕は堤防の先へ歩き出した。
靴底が砂を踏む。乾いた砂が靴の裏へ入り込み、歩くたびにわずかな違和感を残す。夏帆も少し遅れてついてくる。彼女は僕の隣へ並ばず、半歩後ろを歩いた。
昔から、こういう場所ではそうだった。
先に行きたいときは僕の前を歩き、僕が黙り込むと少し後ろへ下がる。振り返れば顔が見える距離を保ちながら、手を伸ばしても届かない場所にいる。
僕たちはその距離を、長い時間をかけて覚えてきた。
堤防の中ほどで、夏帆が足を止めた。
「先端まで行く?」
僕は前を見たまま頷いた。
白灯防波堤の先には、小さな灯台がある。子どものころは、そこまで行けば海の端まで来たような気がした。灯台の白い壁に手をつき、海の向こうを覗き込む。向こう側には何があるのか、僕たちは知らなかった。
今も知らない。
ただ、今度は海の向こうではなく、電車を乗り継いだ先にある町へ行こうとしている。知らない駅で降り、知らない道を歩き、誰も僕を幼いころから知っていない場所で暮らす。
その想像をすると、胸の奥がわずかに明るくなった。
同時に、背中の方にある町の輪郭が、痛みを持って浮かんだ。
商店街の古いアーケード。惣菜屋の油の匂い。床屋の扇風機。潮見坂の途中で鳴る電線。母の声。夏帆の自転車が少し前を走るときの、一定のチェーン音。
離れたい場所と、失いたくない場所が、同じところにある。
先端へ着くと、海の広がりが急に大きくなった。
堤防の左右に波があり、その先には夕日がある。空の青はまだ残っているのに、海面の一部だけが赤く光っていた。赤は波に砕かれ、長く伸びては消える。雲の影が海へ落ち、そこだけ濃い紫色になっている。
夏帆は灯台の根元に腰を下ろした。
僕も少し離れた場所へ座った。コンクリートは昼の熱を残していて、制服越しに腿へぬくもりが伝わる。背中には海風が当たり、前には夕日の熱が落ちていた。両側から違う季節に挟まれているようだった。
夏帆はラムネ缶を膝の上で回している。
缶の水滴が彼女の指の関節を濡らし、手首へ細く流れていく。彼女はそれを拭わなかった。
僕は海を見ていた。
何かを言うためにここへ来たはずなのに、最初に浮かんだのは、幼いころの記憶だった。
夏帆の自転車の後ろへ乗せてもらったこと。潮見坂を下る途中で、風が強すぎて目を開けていられなかったこと。坂を下りきったところでふたりとも転び、膝を擦りむいたこと。泣くほど痛かったのに、先に笑ったのは夏帆だった。
あのころ、僕たちは何でも話した。
転んだこと。母に叱られたこと。学校で誰かにからかわれたこと。海で拾った貝殻の形。夏帆が飼いたいと言った犬の名前。僕が知らない町の駅を見てみたいと思ったこと。
いつから、言えないことが増えたのだろう。
いや、増えたのではない。ひとつだけ、言えないものができたのだ。そのひとつを守ろうとするうちに、ほかの言葉まで飲み込むようになった。
県外の大学へ行きたい。
それは最初、ただの希望だった。地図アプリで見つけた知らない町。大学案内の写真に写る白い校舎。海のない朝。知らない人たちの中で、自分がどんなふうに振る舞うのかを確かめたいという、輪郭の曖昧な願い。
でも、進路調査票に書いた瞬間、それは選択になった。
選択になった途端、誰かを置いていく行為に見えた。
「ねえ」
夏帆が、海を見たまま言った。
「風、ちょっと弱くなったね」
「そうだな」
「これなら、缶を開けても音が聞こえるかも」
僕は缶を見た。
「開けるのか」
「悠真が開けるなら」
「夏帆が先に開ければいいだろ」
「今日は悠真の日だから」
「何だよ、それ」
「何でもない。今日の悠真、ずっと何かを決めようとしてるから。ラムネくらい、自分で先に決めればいいじゃん」
軽い言い方だった。
けれど、夏帆の指は缶を回すのをやめていた。彼女は僕を見ない。返事を急かさないために、視線を夕日の方へ逃がしている。
僕は親指をプルタブへ置いた。
金属は冷たかった。力を入れれば簡単に開く。簡単に開くのに、そこへ至るまでが長い。
「夏帆」
呼ぶと、彼女はすぐに返事をした。
「うん」
「今日、海へ来てくれて、ありがとう」
「何それ。呼んだの私だよ」
「だから」
「じゃあ、ありがとうは変じゃない?」
「変じゃない」
「変だよ。私が行こうって言って、悠真がついてきただけ。お礼を言われるようなことじゃない」
「でも、来なかったかもしれない」
「来たじゃん」
「うん」
「じゃあ、それでいいよ」
波が堤防の下で砕けた。
白い泡が一瞬だけ見え、すぐに暗い海へ戻っていく。
「夏帆は、今日が最後だと思ってるのか」
声にしてから、胸の奥が引きつった。
夏帆はすぐには答えなかった。缶を両手で包み、視線を足元へ落とす。夕日の赤が彼女の頬へ薄く乗っている。
「何の最後?」
「海へ来ること」
「そんなの、わからないよ」
「でも」
「最後かもしれないと思ってる」
夏帆は、僕の言葉を遮るように続けた。
「思ってるけど、最後って決めたくはない。今日が最後だって決めたら、今から全部が最後の形になるから。最後のラムネ、最後の堤防、最後の自転車、最後の帰り道。そうやって名前をつけたら、何をしても終わりの味がする」
「でも、変わる」
「うん。変わるよ」
夏帆は海の方を見た。
「悠真が行けば、今までと同じにはならない。私だって、ずっとここにいるとは限らない。今日と同じように放課後に会って、海へ行ける日が、これからも当たり前に続くとは思ってない」
「だったら、最後だろ」
「違う」
夏帆の声が、初めて少しだけ強くなった。
「同じじゃなくなることと、最後になることは違う。悠真はすぐ、全部を終わりにしたがる。終わりにすれば、変わった理由がひとつで済むから。大学へ行ったから、距離ができたから、もう戻れないから。そうやって決めた方が、たぶん楽なんだよ」
僕は黙った。
「でも、私たちは、そんなにきれいに終われないと思う。向こうへ行っても、悠真はこの町のことを思い出す。私も、商店街でラムネを見たら、今日のことを思い出すかもしれない。何年か経ってから、たまたま海で会うかもしれない。会わないかもしれない。でも、会わないからって、今まで一緒にいた時間まで消えるわけじゃない」
夏帆はそこで言葉を切った。
風が髪を揺らす。彼女は耳へかけようとして、途中で手を止めた。指先が頬の近くで迷い、それから髪をそのまま風に任せた。
「だから、最後って言うなら、今日だけにして」
「今日だけ?」
「今日の私たちが、今の私たちでいるのは今日まで。明日からは、たぶん少し違う。でも、違うからって、今までを捨てなくていい。私はそういうふうに覚えていたい」
胸の内側で、硬く結ばれていたものがゆっくりほどけていく。
僕はこれまで、出ることを、残るものを切り捨てることとして考えていた。だから、夏帆の寂しさを見たくなかった。僕の選択で、これまで積み重ねてきた時間に終わりの名前がつくのが怖かった。
けれど、夏帆は違うと言った。
変わることと、失うことは同じではない。
それは藤崎先生の言葉と似ていた。けれど、夏帆の声で聞くと、もっと身体の近くに落ちてきた。
僕はラムネ缶を持ち上げた。
プルタブを引く。
ぷつん、と小さな音がした。
炭酸が缶の中で弾け、細かな気泡が喉の奥で揺れるような音を立てる。波音に負けると思っていたのに、その音は短く、確かに残った。
夏帆がこちらを見た。
「聞こえたね」
「うん」
「風、確認した甲斐があった」
彼女も自分の缶を開けた。
ぷつん。
ふたつの音が、少し間をあけて海辺に重なった。
僕は缶を口へ運んだ。冷たい液体が喉を落ち、炭酸の刺激が胸の奥へ広がる。甘さが先に来て、そのあとにかすかな苦みが残った。今日の全部が、舌の上で小さく混ざったようだった。
夏帆は飲み終えずに、缶を膝へ戻した。
「ねえ、悠真」
「何」
「向こうへ行ったら、最初に何したい?」
質問は軽かった。
けれど、今までのものとは違っていた。行くかどうかを確かめるのではなく、行った先で何を見るのかを尋ねている。
僕は海を見ながら考えた。
「駅の周りを歩きたい」

「地図で見たところ?」
「うん。駅から大学までの道。雨の日に歩けそうな高架下。寮の近くのスーパー。たぶん、最初は迷うと思うけど」
「迷うんだ」
「地図で何回見ても、実際に行ったら違うだろ」
「そりゃそうだよ。地図は匂いまで載ってないから」
夏帆は少し笑った。
「向こうの空気がどんな匂いか、知りたい」
「海の匂いはしないよ」
「わかってる」
「電線の音も、こことは違うかもしれない」
「じゃあ、聞いてきて」
「何を」
「向こうの電線の音。こっちと違うかどうか」
僕は笑いそうになった。
「そんなの、わかるかな」
「悠真ならわかるよ。そういう細かいこと、覚えてるから」
夏帆はラムネを一口飲んだ。
「それで、帰ってきたら教えて。向こうの道のこと。スーパーの魚が安いかどうかとか、駅の発車メロディーが変かどうかとか。大学の話は、つまらなかったら無理にしなくていいから」
「帰ってきたら、か」
「帰ってくるでしょ」
「まだ、決めてない」
反射的にそう言った。
夏帆は僕を見る。笑ってはいなかったが、責めてもいなかった。
「もう、決めてるじゃん」
波が大きく崩れた。
「……何を」
「行くこと」
言葉が、夕方の海へまっすぐ落ちた。
僕はすぐには返さなかった。
怖さは残っている。母の寂しさも、夏帆の寂しさも、自分がここを離れることで変わってしまうものも、まだ身体の中にある。行けば、きっと後悔する日がある。残れば、別の後悔を抱えることになる。
どちらを選んでも、選ばなかった方は消えない。
その重さを抱えたまま、それでも僕は、地図の中の青い線を何度も歩いていた。進路調査票に、県外の大学名を書いた。母に、外へ出たい理由を話した。藤崎先生の前で、逃げたいだけではないと言った。
そして今、夏帆の隣にいる。
僕は缶を握り直した。冷たさが掌に残っている。
「行く」
声は大きくなかった。
波にかき消されてもおかしくないほどの声だった。
それでも、言ったあとで、自分の中にあった空白がひとつ埋まった。
「県外の大学に行く。受験する。受かったら、ここを出る」
夏帆は目を伏せた。
笑おうとして、うまく笑えない顔をした。唇の端だけが少し上がり、すぐに戻る。彼女は海の方を向き、風に揺れる髪を今度は両手で耳へかけた。
「そっか」
「うん」
「行くんだね」
「うん」
「ちゃんと?」
「ちゃんと、行く」
夏帆はしばらく黙っていた。
僕はその沈黙を埋めなかった。埋めてはいけないと思った。彼女が自分の中で言葉を選ぶ時間を、今度は僕が待つ番だった。
やがて夏帆は、缶を持ったまま笑った。
「じゃあ、向こうで迷って、知らない人に聞けなくなって、地図ばっかり見て固まってたら、ちゃんと誰かに聞くんだよ」
「子どもじゃない」
「悠真は、知らない人に道を聞くの苦手じゃん」
「苦手だけど、聞ける」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは、できるって言ってよ」
「努力する」
「最後までそれかあ」
夏帆は笑った。
今度の笑いは、少しだけ本物に近かった。けれど、その目の縁にはまだ赤い夕日が残っている。
「私も、寂しいって言う」
「え?」
「今まで、平気なふりしてたから。悠真が何も言わないのを待つ間、私も何でもないふりしてた。海へ行こうって誘えば、まだいつも通りでいられると思ってた。でも、たぶん私も怖かったんだよ。悠真が行くって聞いたら、本当に置いていかれる気がして。だから、先に明るくして、先に笑って、今日を普通の日にしようとしてた」
夏帆は缶の水滴を親指で拭った。
「でも、普通の日にはできないね」
「ごめん」
「だから謝らないでって」
「……うん」
「今のは許す」
夕日がさらに低くなった。
海面の赤が細くなり、灯台の白い壁から色が引いていく。代わりに、堤防の先の小さな明かりが灯った。淡い光が一度揺れ、それから一定の間隔で海を照らし始める。
僕はその光を見た。
出ることは、暗い場所へ消えることではないのかもしれない。知らない町へ行けば、ここから見えないものが増える。迷うことも、間違うこともある。それでも、今いる場所から離れなければ見えないものがある。
そして、離れるからこそ、ここで見ていたものの形がわかることもある。
僕は夏帆の方を見た。
「夏帆」
「何?」
「行っても、また海へ来ていいか」
言った瞬間、子どもみたいな質問だと思った。
夏帆は少しだけ目を細めた。
「何それ。海は私のものじゃないよ」
「そうだけど」
「来ればいいじゃん。私がいなくても」
「ひとりで?」
「ひとりで来られないの?」
「来られる」
「じゃあ、来て。ひとりで来て、ひとりでラムネ開けて、ひとりで風を確認して。そうしたら、向こうへ行ったことが本当になるかもしれない」
「何で」
「悠真は、誰かと一緒じゃないと、海へ来たことまで誰かのものにするから」
胸の奥が静かに痛んだ。
正しい。
僕はここまで、夏帆と一緒にいることで、何とか自分の選択を見つめようとしていた。夏帆が待ち、笑い、怒り、寂しさを自分の言葉で置いてくれたから、僕はようやくそれを受け取れた。
けれど、最後に自分の進路を引き受けるのは、僕自身でなければならない。
「わかった」
「本当に?」
「今度は言い切る」
「おお」
「ひとりでも来る」
「えらい」
「子ども扱いするな」
「だって、今までひとりで来たことないじゃん」
夏帆はそう言って、残ったラムネを飲み干した。
缶の底が空になる。彼女は缶を耳元へ持ち上げ、振った。中身はもうない。僕の缶には、まだ少しだけ残っていた。
「飲まないの?」
「飲む」
「早くしないと、炭酸が抜けるよ」
僕は缶を口へ運んだ。
甘さは最初より薄くなっていた。炭酸の刺激も弱い。それでも、冷たさはまだ喉に残った。飲み終えると、缶の底で小さな泡がひとつだけ弾けた。
僕は空き缶を握った。
夏帆が立ち上がる。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
立ち上がると、足元のコンクリートに二人分の影が伸びていた。影は夕日の方向へ長く引かれ、堤防の端で重なりかけている。けれど、完全にはひとつにならない。
僕たちは空き缶を持ったまま、自転車置き場へ戻った。
帰り道のことを考える。
坂を上り、商店街を抜け、駅前を通り、家へ帰る。来た道を戻るだけなのに、同じ道にはならない気がした。夏帆の背中を追い、僕が少し遅れて走る。その距離も、今日から別の意味を持つ。
自転車のところまで来ると、夏帆が僕のハンドルを見た。
「また握りすぎてる」
「そうか」
「グリップ、もっと白くなるよ」
「もう古いから」
「向こうへ行く前に、替えたら?」
「自転車を?」
「グリップだけ。帰ってきたとき、違う感触だと嫌でしょ」
僕は白く擦れたグリップを見た。
「替えない」
「何で」
「これでいい」
「そう」
夏帆はそれ以上言わなかった。
僕は自転車へまたがった。サドルの硬さ、ペダルの軋み、錆びたフレームの重さ。身体が覚えているものがひとつずつ戻ってくる。
海の方から風が吹いた。
灯台の明かりが、一定の間隔で海面をなぞっている。波が光を受け、短く白くほどけていく。
僕はハンドルから手を離さなかった。
けれど、今度は強く握り込まなかった。
隣で夏帆も自転車へまたがる。彼女は少し前へ出た。いつものように、僕を置いていかない程度の距離だった。
帰り道は、行きよりも暗くなる。
それでも、僕はペダルへ足をかけた。
海へ向かう最後のふたり乗りは、もう終わった。
けれど、海の音は背中から消えなかった。潮の匂いと、缶の冷たさと、言葉にしたあとの空白が、夕暮れの風の中に残っている。
夏帆が振り返った。
「悠真、遅い」
「今行く」
「ちゃんと来てよ」
「うん」
僕はペダルを踏み込んだ。
夕日の消えた道を、夏帆の少し後ろから追いかける。堤防の灯台が、背中の方で一度だけ明滅した。
その光が見えなくなるまで、僕は振り返らなかった。
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