第6話 履歴の並ぶ画面

商店街を抜けると、駅前の大通りに出た。

夕方の信号は、昼間より長く感じられた。駅へ向かう車と、駅から戻ってくる車が絶えず行き交い、アスファルトの上には建物の影が細長く伸びている。遠くでバスが停まり、開いたドアから冷房の乾いた風と、乗客の話し声が漏れてきた。

僕と夏帆は、赤信号の手前で自転車を止めた。

さっきまで先を走っていた夏帆が、今日は僕の隣に並んでいる。商店街を出てから、彼女は何度も何かを話しかけようとして、そのたびに別の話題へ逃げた。駅前の工事がいつ終わるのか。新しくできる店が何なのか。学校の購買に置かれたパンが、最近少し小さくなったこと。

どれも本当にどうでもいい話だった。

だからこそ、僕にはわかった。

夏帆は話題を探しているのではない。僕が黙っている時間に、形を与えようとしている。

僕はポケットの中でスマートフォンを握った。画面は消えている。けれど、開かなくても履歴の並びが浮かぶ。

大学名。

最寄り駅。

駅から学生寮までの道。

月々の家賃。

近くのスーパーマーケット。

オープンキャンパスの日程。

何度も調べ、保存し、閉じた場所。見知らぬ町の輪郭を、僕は画面の中でだけ歩いていた。

信号が赤から青へ変わるまで、あと二十秒ほどあった。

夏帆は自転車のハンドルに片手を置き、もう片方の手でスマートフォンをいじるふりをしていた。画面を見ているようで、親指はほとんど動いていない。

「ねえ」

彼女が言った。

「なに」

「最近、履歴増えてない?」

僕の手が、ポケットの中で反射的に強張った。

夏帆は顔を上げなかった。自分の画面を見つめたまま、独り言のように続ける。

「スマホの。地図とか、検索とか。前は駅前のパン屋とか、海岸の天気とか、そういうのばっかりだったのに。最近は、見たことない駅名が多い」

「……見たのか」

聞いてから、声が少し尖っていたことに気づいた。

夏帆はようやく顔を上げた。けれど、僕の目ではなく、僕の自転車の前輪を見ている。

「見たっていうか、見えた」

「同じだろ」

「違うよ。悠真が私のスマホを勝手に見たら、それは見た。でも、隣で地図を開いてたら、視界に入ることくらいあるじゃん」

「それで、何がわかるんだよ」

「何もわからない」

「じゃあ、どうして聞く」

「聞いてもいいかなと思ったから」

「聞けばいいだろ」

夏帆は少しだけ笑った。

「聞いてるじゃん」

信号の電子音が、交差点の向こうで規則正しく鳴っている。歩行者用の青い人形が点滅し、駅へ向かう人たちが横断歩道を渡っていく。僕たちの側には、買い物袋を提げた女性と、塾の鞄を背負った小学生が立っていた。

誰も僕たちを見ていない。

それなのに、僕は町中の人間に見られているような気がした。

「別に、見たって怒んないよ」

夏帆は軽い調子で言った。

「怒る理由もないし。悠真のスマホなんだから、何を検索してても勝手。でも、最近の履歴、知らない場所ばっかりだからさ。ちょっと面白くなって」

「面白くないだろ」

「面白いよ。悠真が知らない町の道を見てるの」

「何で」

「だって、悠真って、道を調べるときだけ行動が早いじゃん。実際にはどこにも行かないのに、地図の中ではすごく遠くまで行く」

胸の奥へ、細い針を差し込まれたようだった。

僕は視線を道路の向こうへ向けた。駅前の工事用フェンスに、完成予定の商業施設の看板が掲げられている。白い建物の完成予想図。ガラス張りの壁。植え込み。まだ存在しない場所が、鮮やかな色で描かれている。

「地図を見るのが好きなだけだよ」

「うん。そういうことにしてもいいけど」

「何だよ、その言い方」

「怒ってる?」

「怒ってない」

「じゃあ、怖い?」

僕は答えなかった。

信号が青になった。後ろの車が短くクラクションを鳴らす。僕たちは同時にペダルを踏み込んだ。駅前の交差点を渡り、工事用フェンスの脇を抜ける。車の排気ガスに混じって、どこかの店から甘い焼き菓子の匂いが流れてきた。

夏帆は僕の斜め前を走っていた。

さっきまで隣だった距離が、少しだけ広がっている。前輪が道路の内側へ寄り、車道から離れるような走り方になっていた。僕を置いていくほどではない。けれど、触れそうだった空気を、一歩分だけ引き取るような距離だった。

僕はその変化を、見ないふりができなかった。

「怖くない」

追いつきながら言った。

「何が?」

「別に」

「今のは、さっきの質問への答え?」

「そう」

「じゃあ、何が怖くないの」

「……何も」

夏帆は速度を落とした。僕の自転車が横へ並ぶ。

「悠真」

「何」

「そうやって、質問の中身を全部なくして返事するの、ずるいよ」

「ずるくない」

「ずるいよ。『何も怖くない』って言われたら、こっちは何も言えなくなる。怖いものがないなら、話は終わりだから」

「終わらせたいんだろ」

自分で言っておきながら、ひどい言葉だと思った。

夏帆のペダルが一度だけ空回りした。彼女はすぐに踏み直したが、チェーンが大きく鳴った。

「終わらせたいわけじゃない」

「じゃあ、何だよ」

「知りたいだけ」

「何を」

「悠真がどこまで行くつもりなのか」

風が正面から吹いてきた。夏帆の髪が頬へかかり、彼女は走りながら耳へかけた。何度も見てきた仕草なのに、その指先が今日はひどく遠く感じられた。

「地図の中で、どこまで行くのか。実際に行くつもりがあるのか。行きたいのか。行きたくないのか。そういうのを、全部聞きたいわけじゃないよ」

「だったら、聞くなよ」

「聞かないよ」

「今、聞いてるだろ」

「聞いてない。確認してるだけ」

「同じだろ」

「違うよ」

夏帆は前を向いたまま、少し声を落とした。

「聞くっていうのは、答えを求めることでしょ。確認は、答えがなくても、その人の顔を見ておくこと。今日の悠真が、何かを隠してる顔をしてるってことを、私の中で確かめてるだけ」

「それを確かめて、どうするんだよ」

「どうもしない」

「どうもしないなら、何で」

「どうもしないことにも、意味はあるよ」

僕は黙った。

駅前の大通りから一本外れると、道は少し静かになった。古い文具店のシャッターが半分下り、店先に並べられたノートの表紙が夕方の光を反射している。魚屋の前では、発泡スチロールの箱を片づける音がしていた。町の人たちは、今日の店じまいを始めている。

夏帆はそのひとつひとつへ視線を送りながら、自転車を漕いでいた。

「私さ」

彼女が言った。

「昔から、悠真が黙るときは、待てばいいと思ってた」

「昔から?」

「うん。小学生のころから。たとえば、海で転んで膝を擦りむいたとき。痛いって言えばいいのに、ずっと砂を払ってた。血が出てるのに、平気な顔をして、帰ろうって言わなかった」

「覚えてない」

「私は覚えてる。私が先生に言おうとしたら、悠真、すごい顔で睨んだもん」

「睨んでない」

「睨んでた。『言うな』って顔」

「そんな顔、できないだろ」

「できるよ。今もしてる」

夏帆は笑った。

その笑顔は、いつものものに見えた。けれど、笑ったあとに目元へ残る細い影が、彼女の明るさがただの癖ではないことを教えていた。

「私は、悠真が自分で言うまで待てばいいと思ってた。痛いなら痛いって言うし、帰りたいなら帰りたいって言う。そういうふうに、いつか自分で言えると思ってた」

「……言えないこともある」

「うん。あるね」

「言ったら、相手が困ることもある」

「ある」

「言ったことで、今までの関係が変わることもある」

「あると思う」

「だったら、言わない方がいいこともあるだろ」

夏帆はしばらく黙っていた。

商店街の外れにある小さな公園を通り過ぎる。遊具の鎖が風に揺れ、誰もいないブランコが、きい、きい、と鳴っていた。夕暮れの影が地面を長く横切り、ふたりの自転車を同じ方向へ引き伸ばしている。

「あるよ」

夏帆が言った。

「言わない方がいいことはある。全部を話せばいいなんて思ってない。言葉にしたら、相手に背負わせることもあるし、答えを迫ることもある。だから、私は悠真が話したくないことを、無理に聞きたくない」

「じゃあ」

「でもね、黙りすぎるのは、やっぱり卑怯だと思う」

自転車の速度が、少しずつ落ちた。

「言わないことで相手を守れると思ってるときって、たぶん自分も守ってる。相手がどう思うかを知らなくて済むから。怒るか、泣くか、笑うか、引き止めるか。そういう反応を見なくて済む。黙ってる方が、ずっと安全なんだよ」

僕はハンドルを握り直した。白く擦れたグリップの表面が、掌へ食い込む。

「安全でいいだろ」

「よくないよ」

「どうして」

「一人で安全なところにいて、相手には何も知らせないから」

夏帆の声は、責めるというより、自分へ言い聞かせるようだった。

「私は、悠真がどこかへ行くことより、何も言わないままいなくなることの方が嫌。ある日、駅で誰かから聞くとか、町の人から『森島くん、県外へ行くんだってね』って言われるとか、そういうのがいちばん嫌だ。私だけ知らなくて、悠真だけ先に次の季節へ行ってるみたいになるから」

胸の奥で、何かが低く沈んだ。

僕は夏帆に知らせたくなかった。知らせれば、彼女が寂しがると思った。驚いて、笑って、それから無理に明るく振る舞うと思った。僕がその顔を見るのが怖かった。

けれど、本当は、僕自身がその顔を見たくなかっただけだ。

夏帆の寂しさを受け止める覚悟がなかった。だから、知らないままでいさせることを優しさと呼んでいた。

「……まだ、決めたわけじゃない」

口から出た言葉は、もう何度も使ったものだった。

夏帆は僕を見た。

「それ、先生にも言った?」

「何で先生が出てくるんだよ」

「進路の資料、先生から返してもらったんでしょ」

「見たのか」

「見たっていうか、背中から透けてた」

「紙は透けない」

「悠真がわかりやすいだけ」

「決めたわけじゃない。候補のひとつだ」

「じゃあ、どうして地図に何度も出てくるの」

「調べてるだけだよ」

「何のために?」

「決めるために」

「決めるために調べて、決める前に何度もその町へ行って、駅から寮まで歩いて、家賃まで見てるの?」

「……そうだよ」

「それは、決めてない人のやり方じゃないよ」

僕は返事をしなかった。

言葉にされると、画面の中に積み上げてきたものが、急に現実の形を持った。検索履歴はただの履歴ではなかった。迷いの記録でも、暇つぶしでもない。僕が何度も同じ場所へ向かった痕跡だった。

実際には一度も行っていないのに、画面の中では何度も駅を出て、交差点を渡り、知らない道を歩いた。

誰にも渡していない決心が、そこには残っている。

僕はスマートフォンを取り出した。

画面を点けると、ロック画面に夕方の海の写真が表示された。いつ撮ったものか、すぐには思い出せなかった。白灯防波堤の先から見た海。雲の切れ間に夕日が滲み、波の一部だけが金色に光っている。

夏帆が横目で画面を見た。

「それ、いつの写真?」

「たぶん去年」

「たぶん?」

「夏祭りのあとだったと思う」

「違うよ。夏祭りのあとなら、私も写ってる」

「写ってないだろ」

「写ってるよ。端っこに髪だけ」

僕は写真を拡大した。

海と堤防と、赤く傾いた夕日。その右端に、確かに黒い髪の一部が写っていた。夏帆が海を見ている横顔の、ほんのわずかな輪郭だった。

「消せば?」

夏帆が言った。

「何を」

「写真。私の髪」

「別に、消す必要ないだろ」

「じゃあ、残す理由はあるんだ」

僕は画面を見つめた。

残す理由など、考えたことがなかった。海を撮ったつもりだった。夕日がきれいだったから。波の色がよかったから。けれど、そこに夏帆の髪が写っていることを知っていて、僕は一度も消さなかった。

それは、海の写真ではなかったのかもしれない。

ただ、そう言い切るほどの勇気はなかった。

「夏帆」

「なに」

「もし、僕が県外へ行くって言ったら」

言葉が出た瞬間、空気の密度が変わった。

夏帆は前を向いたまま、自転車を漕いでいた。ペダルを踏む速度が一定で、チェーンの音も変わらない。けれど、彼女の右手がハンドルの上で一度だけ動いた。

「うん」

「まだ、決めたわけじゃないけど」

「うん」

「県外の大学を受けるって言ったら」

「うん」

「……驚くか」

夏帆はすぐに答えなかった。

道路の向こうから、海へ向かう風が流れてきた。潮の匂いはまだ薄い。けれど、商店街の油や車の排気ガスに混じって、湿った塩気が確かにあった。

夏帆は信号のない細い交差点の前で、自転車を止めた。僕も隣で止まる。

「驚くと思う」

彼女は言った。

「たぶん、最初は驚く。え、いつ決めたのって思うし、何で言ってくれなかったのって思うし、私が知らない間にそんなところまで調べてたんだって、ちょっと腹が立つと思う」

「やっぱり」

「でも、驚くからって、行かないでほしいとは言わない」

夏帆はそこで僕を見た。

「それは、私が決めることじゃないから。悠真が行きたいと思って、調べて、書類に名前を書いて、受験するなら、そこまでを私が止める理由はない。私が寂しいとか、心細いとか、置いていかれる気がするとか、そういうのはあるけど、それを理由に悠真の選択を変えさせたくない」

「でも、寂しいんだろ」

「寂しいよ」

今度の返事は、迷いがなかった。

「寂しいに決まってる。だって、今までみたいに、思いついたときに海へ行けなくなるかもしれない。商店街で会って、そのまま坂を上ることもできなくなる。夏の終わりにラムネを買って、開ける場所で揉めることもなくなる。そういうのがなくなるかもしれないんだから、寂しくないわけない」

夏帆の声は、少しずつ低くなっていた。

「でも、寂しいからって、悠真が見たいものを見ないまま残るのは違う。そんなふうに残られたら、私は嬉しくない。私のために諦めたみたいな顔をされる方が、ずっと嫌。あとで悠真がこの町を見るたびに、あのとき出ればよかったって思うなら、私はそのたびに、自分のせいにされる気がするから」

僕は視線を落とした。

「僕は、夏帆のせいになんかしない」

「今はそう言うよ」

「本当に」

「うん。悠真はそういう人だから、たぶん私のせいにはしない。でも、自分のせいにはするでしょ。私が寂しそうだったから、母さんが大変そうだったから、航が残るから。そうやって、選ばなかった理由を全部誰かのところへ置いて、自分だけが引き受けた顔をする」

胸を突かれた。

夏帆は僕の言葉を待たずに続けた。

「そういうの、優しくないよ。自分で決めたことを、自分の決めたこととして扱わないのは、周りの人を信用してないのと同じだから。私たちが寂しがることも、怒ることも、応援することも、全部自分で選べるって、信じてないんでしょ」

僕は答えられなかった。

夕方の風が、僕たちの制服の袖を膨らませた。雲の向こうにあった夕日が、道路の端を赤く染めている。影は長く伸び、僕の自転車と夏帆の自転車を一本の線のように地面へ落としていた。

「……そうかもしれない」

ようやく言った。

「僕は、夏帆がどう思うかを、夏帆より先に決めてた。寂しいだろう、困るだろう、怒るだろうって。だから、言わない方がいいと思った」

「うん」

「でも、違った」

「違うかどうかは、まだわからないよ」

夏帆は少しだけ笑った。

「私は寂しいし、怒るかもしれない。そこは変わらない。でも、それだけじゃないかもしれない。悠真が行きたい場所を自分で選べたことを、嬉しいと思うかもしれない。向こうで知らない人に囲まれて、何も決められなくなったときに、ざまあみろって笑うかもしれない。帰ってきたら、コロッケを奢らせるかもしれない」

「結局、コロッケなんだな」

「大事だからね。感情には経費がかかるの」

さっきと同じ言葉だった。

僕は笑おうとしたが、うまくいかなかった。代わりに、息が少し漏れた。

「夏帆」

「ん?」

「地図の履歴、見てもいい」

「何を?」

「僕のスマホ」

夏帆の目が、ほんの少しだけ見開かれた。

僕はロックを外し、地図アプリを開いた。履歴の画面には、県外の大学名と駅名がいくつも並んでいる。検索した日付も残っていた。同じ大学を、同じ時間帯に、何度も調べている。下宿先の家賃を見た日。寮の空室を確認した日。オープンキャンパスから帰った夜。

画面に並ぶ地名は、隠していた時間の長さそのものだった。

夏帆はすぐには覗き込まなかった。

「本当に見ていいの?」

「うん」

「怒らない?」

「怒らない」

「じゃあ、見ない」

僕は顔を上げた。

「何で」

「見せてもらうのと、見せつけられるのは違うから」

「見せつけてない」

「わかってる。でも、これは悠真が自分で見せたいと思ったときに見るものだよ。私が今ここで覗き込んだら、悠真がようやく開けたものを、私が先に使うことになる」

夏帆はそう言って、僕の手元へ視線を落とした。

「だから、教えて。画面じゃなくて、悠真の言葉で」

喉の奥が乾いた。

まだ「行く」とは言えなかった。県外の大学に出願することも、ここを離れることも、はっきり口にするには重すぎた。

けれど、初めて、言葉の代わりに画面を差し出すことはできた。

「大学を調べてる」

「うん」

「駅から大学までの道も見てる」

「うん」

「寮の場所も、家賃も、生活に必要なものも調べた」

「うん」

「何度も、そこへ行くつもりで地図を見てた」

夏帆は何も言わなかった。

「まだ、受けるって決めたわけじゃない」

「うん」

「でも、行きたいとは思ってる」

最後の言葉が、道路の上へ落ちた。

小さな声だった。車の音に紛れてしまいそうなほどだった。けれど、僕の中では、これまでのどの言葉よりもはっきりしていた。

夏帆はスマートフォンの画面を見たまま、しばらく動かなかった。

「そっか」

それだけ言って、彼女は顔を上げた。

笑っていた。けれど、目の縁が少し赤くなっている。泣いているわけではない。ただ、夕日の色がそこへ落ちているだけだと思いたかった。

「じゃあ、行きたいんだね」

「……うん」

「逃げたいんじゃなくて?」

「違う」

今度は、すぐに答えられた。

「逃げたいだけじゃない。ここが嫌だからじゃない。夏帆や母さんを置いていきたいわけでもない。知らない場所を見たい。自分が、ここにいないと何を考えるのか知りたい。何ができるのか、何もできないのか、確かめたい」

言葉を止めずに続ける。

「それを、ずっと地図の中でやってた。画面なら、どこへ行っても戻れるから。駅を出ても、道を間違えても、指一本で最初の画面に戻れる。でも、本当に行ったら戻れない。だから、何度も調べて、何度も閉じた」

夏帆は黙って聞いていた。

「その履歴を消せば、まだ決めてないふりができると思った。でも、消してもまた調べる。結局、僕は行きたい気持ちを消せなかった」

風が吹いた。

スマートフォンの画面に、夕日の赤が薄く映り込む。地図の青い線が、その赤の下でかすかに揺れていた。

「だったら、行けばいいじゃん」

夏帆が言った。

「簡単に言うなよ」

「簡単じゃないよ。簡単じゃないから、行けばいいって言ってるの。簡単だったら、私が言わなくても勝手に行くでしょ」

「夏帆は、平気なのか」

「平気じゃない」

「じゃあ、どうして」

「平気じゃないまま、言ってるの」

夏帆は自分のスマートフォンをポケットへしまった。

「寂しくない人みたいに見送るつもりはないよ。たぶん、私は寂しいし、何度か嫌になる。悠真が向こうの話ばかりしたら、聞きたくないって思う日もあるかもしれない。でも、それでも、行きたいなら行ってって言う。私が寂しいことと、悠真が行くことは、別々に本当だから」

その言葉を聞いて、胸の奥に溜まっていたものが少し崩れた。

解放されたわけではない。行くことの怖さも、夏帆を置いていく痛みも残っている。ただ、それらがひとつの塊ではなくなっていた。寂しさは寂しさとして、期待は期待として、自分の中に並べて置ける。

遠くで、海の方から風が吹いてきた。

潮の匂いが、今度ははっきりわかった。

「海、行こう」

夏帆が言った。

「うん」

「履歴の話は、今日はここまで」

「いいのか」

「全部聞いたら、夕日が沈むから」

「全部は話してない」

「じゃあ、残りは海で」

夏帆は自転車へまたがった。僕も続く。

彼女はいつものように、少しだけ前を走った。けれど今度は、僕との距離がさっきほど開かなかった。風が強くなり、彼女の髪が横へ流れる。耳へかける仕草のあと、夏帆は一度だけ振り返った。

「悠真」

「何」

「地図の履歴、消さないでね」

「何で」

「そこまで行ったことのない道を、何度も歩いた記録なんでしょ」

「まだ行ってない」

「でも、行きたいと思った記録ではあるじゃん。そういうの、消すと後で自分が何を考えてたかわからなくなるから」

僕はスマートフォンをポケットへしまった。

「消さない」

「約束?」

「約束」

「じゃあ、私の履歴も増やしといて」

「何の?」

「海までの道。今日の日付で」

「何で夏帆のを僕が?」

「私のスマホ、地図アプリあんまり使わないから」

「写真ばっかり撮ってるもんな」

「そう。写真は残るから」

夏帆は前を向いた。

「でも、履歴も残るんだね」

僕たちは潮見坂へ向かった。

駅前の明かりが背中へ遠ざかり、町の音が少しずつ薄くなる。前方には、夕暮れの坂が伸びている。空の青はまだ残っていたが、雲の底には赤が溜まり、電線が風を受けて細く鳴っていた。

僕はペダルを踏み込んだ。

脚は重い。けれど、さっきまでのように、何かを隠すために力を込めているわけではなかった。胸の中には、まだ言えていないことがある。夏帆に「行く」とは言っていない。母にも、先生にも、受験すると決めたとは伝えていない。

それでも、地図の画面に並んだ地名を、もう自分だけの秘密として扱うことはできなかった。

夏帆との距離が、少しずつ縮まる。

追いついたわけではない。彼女が待っているわけでもない。ただ、同じ速さで坂を上っていた。

ポケットの中で、スマートフォンが身体に当たる。画面を開かなくても、そこに青い線が残っているのがわかった。

知らない町へ向かう道。

まだ一度も踏んでいない道。

僕はその履歴を、消さないまま海へ向かった。

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履歴の並ぶ画面 - 海辺の決意 - 誰でも作家life