第5話 ラムネ缶の冷たさ

坂を上りきったところで、海が見えた。

夕方の青が、町の屋根の向こうで大きく開いている。白灯防波堤の先にある灯台は、まだ点灯していなかった。けれど、その白い柱だけは、遠くからでも見分けられた。

僕は自転車の速度を落とした。夏帆も隣でペダルを止める。

「見えたね」

「うん」

「じゃあ、もう海に着いたってことでいい?」

「まだ坂を下ってない」

「細かいなあ。見えたら、だいたい海じゃん」

夏帆はそう言ったが、すぐには下り始めなかった。風に髪を乱され、片手で耳へかけ直す。坂の上は風が強かった。汗ばんだ首筋を撫でる風が、さっきまでの熱を少しずつさらっていく。

僕はハンドルを握ったまま、海を見ていた。

あの向こうに、知らない町があるわけではない。海の向こうへ行くわけでもない。僕が進学しようとしている大学は、電車を乗り継いだ先の、海のない町にある。

それでも、海を見ていると、ここから離れることが本当にできるのかと思う。

坂を下れば、商店街へ戻れる。駅へも行ける。家へ帰れば、母が夕飯の支度をしている。明日になれば学校があり、藤崎先生が書類の話をし、夏帆がいつものように僕の顔を見て、何か変だと言う。

そういう道が、まだ全部残っている。

だからこそ、進路調査票に書いた大学名が、紙の上だけのものに戻れそうな気がした。

「ラムネ、開けないの?」

夏帆が僕の手元を見ていた。

「海に着いてからって言っただろ」

「見えたから、もういいかなと思って」

「見えただけだ」

「悠真って、こういうところだけ律儀だよね」

「こういうところだけって何だよ」

「普段はだいたい曖昧なのに、缶を開ける場所だけは決めてる」

「決めてない」

「決めてる。小学生のときから」

夏帆は自分のラムネ缶を指先で回した。缶の表面についた水滴が、彼女の指の関節へ細く流れている。

「じゃあ、商店街の自販機で買い直そうか」

「何で」

「今の、もうぬるくなってきた」

「まだ冷たいだろ」

「冷たいけど、海で飲むには不安」

「ラムネにそんなにこだわるか?」

「こだわるよ。今日のラムネは今日のラムネだから」

よくわからない理屈だった。

けれど、夏帆がこういうふうに言うときは、たいてい別の話をしている。ラムネの温度や、缶を開ける場所の話をしているようで、本当はもっと言いにくいことをその周りに置いている。

僕は返事をしなかった。

夏帆は僕の沈黙を待ち、やがて自転車の向きを変えた。

「戻るよ」

「海、行くんじゃなかったのか」

「行く。だから戻るの」

「意味がわからない」

「新しいラムネを買ってから行く。今日の海には、今日の冷たさが必要なの」

「そんなもの、変わらないだろ」

「変わるよ。悠真だって、さっきからずっと変だし」

夏帆は僕を見て笑った。

笑い方はいつもと同じだった。けれど、その明るさが自然すぎるときほど、彼女は何かを隠している。

僕たちは坂を下った。

上るときに苦しかった坂は、下りるときには風を身体いっぱいに受ける道になる。ペダルを踏まなくても自転車は進み、制服の袖が膨らみ、汗の乾きかけた首筋が急に冷えた。夏帆の髪が後ろへ流れ、細い肩が夕方の光に浮かんでいる。

僕はブレーキを少し握った。

速くなりすぎれば、夏帆を追い越してしまう。追い越せば、彼女が振り返る。振り返れば、僕はまた何かを問われる気がした。

だから、わざと速度を落とした。

「悠真、下りなのに遅い」

「危ないから」

「昔は危ない方へ行ってたじゃん」

「昔の話だろ」

「昔の話、嫌い?」

「嫌いじゃない」

「じゃあ、覚えてる?」

僕は答えなかった。

小学生のころ、僕たちはこの坂を二人乗りで下った。正確には、夏帆の自転車の後ろに僕が乗った。僕の足が地面につかないように、彼女が立ち漕ぎをしていた。僕は荷台につかまり、彼女の背中へ額を押しつけた。風が強く、目を開けていられなかった。

坂を下りきったところで、ふたりとも自転車から転げ落ちた。膝を擦りむいて、泣きそうになりながら笑った。

あのときの距離は、今よりずっと近かった。

けれど、今の僕たちは、並んで走っていても、触れないように互いの幅を残している。

商店街へ戻ると、アーケードの奥から生活の音が押し寄せてきた。惣菜屋では揚げ物を取り出す金網が鳴り、床屋の扉が開くたびに古い扇風機の唸りが歩道へ流れ出す。店先に置かれた植木鉢の土は乾き、風に舞った砂が自転車のタイヤへまとわりついた。

自販機の前で、夏帆が止まった。

「今度こそ、新しいのを買う」

「さっきのがあるだろ」

「これは予備」

「ラムネを二本ずつ持つのか?」

「悠真が飲まないから、私が飲む」

「それ、予備じゃなくて自分の分だろ」

「細かいなあ」

夏帆は硬貨を入れ、ボタンを押した。落ちてきた缶が受け取り口にぶつかり、乾いた音を立てる。もう一本を僕の前へ差し出した。

「はい」

受け取った缶は、先ほどのものより冷たかった。掌に押しつけると、熱を奪われて皮膚がじんと痛む。冷たさは指の先まで染み込み、手のひらの中に小さな冬ができたようだった。

「開けないの?」

「あとで」

「また?」

「海に着いてから」

「じゃあ、今日は二本とも海へ持ってくの?」

「たぶん」

「たぶんじゃなくて、持ってくの」

夏帆は自分の缶を胸の前で回していた。缶の水滴が光を受けて、赤く揺れる。

そこへ、商店街の裏手から黒田航が現れた。

白いシャツの袖を肘までまくり、手には作業用の手袋をはめたままだった。家業の手伝い帰りらしく、額に汗が浮いている。片手には缶コーヒーがあり、歩きながら器用に飲んでいた。

「お前ら、またそこにいんのか」

「航こそ、また働いてる」

「またって何だよ。俺は毎日働いてんの」

「高校生が言うと、急におじさんっぽい」

「お前に言われたくねえよ」

航は笑いながら、僕の手元へ視線を落とした。ラムネ缶。握り込んだ指。開かれていないプルタブ。

「森島、そんな顔してると、海まで着く前に日が暮れるぞ」

「どんな顔だよ」

「説明しにくい顔。腹が減ってるか、誰かに怒られたか、進路を決めたのに言ってねえか。そのへん」

缶コーヒーを飲み終えた航は、空き缶を軽く振った。中身はもう残っていないらしい。

僕は視線を外した。

「勝手に決めつけるなよ」

「決めつけてねえよ。候補を並べてるだけだ」

「同じだろ」

「違う。決めつけるってのは、答えをひとつにすることだ。俺はお前がどれかは知らねえから、並べてる」

航はそう言って、缶を自販機の横のごみ箱へ入れた。投げ入れるのではなく、口を合わせて、音が出ないように置く。

「で、どれだ?」

「どれでもない」

「そうか」

航はあっさり引いた。

その引き方が、夏帆とは違っていた。夏帆が相手のために空白を残すのだとしたら、航は自分の足で立てるかどうかを確かめるために、少しだけ離れる。

「まあ、言いたくねえなら言わなくていいけどよ」

航は手袋を外しながら続けた。

「進むやつは進むし、残るやつは残る。どっちが上とか、そういう話じゃねえだろ」

商店街の音が、一瞬遠くなった気がした。

「航は、残るんだろ」

「たぶんな。卒業したら親父の店を手伝う。継ぐかどうかは、そのうち決める」

「継ぐんじゃないのか」

「継ぐつもりではいる。でも、今すぐ一生分の答えを出せって言われても困るだろ。俺だって、店のどこを直したいとか、何を変えたいとか、そういうのは考えてる。残るって決めたからって、何も考えてないわけじゃねえ」

航は、向かいの惣菜屋を見た。店先では、年配の店主が揚げたてのコロッケを紙袋へ詰めている。客が二人並び、片方は顔なじみらしく、店主と笑いながら話していた。

「この町にいると、誰がどこの息子で、どこの娘か、みんな知ってる。面倒なこともあるけど、助かることもある。俺が店を継ぐって言ったら、親父だけじゃなくて、隣の魚屋のおばちゃんも、向かいの床屋も、勝手に応援してくる。そういうのを重いと思う日もある。でも、俺はそれ込みでここに残るつもりだ」

航は僕を見なかった。

「森島が出たいなら、出ればいい。ここに残る俺たちを置いていくとか、そういう大げさな話にすんなよ。置いていかれるんじゃなくて、俺たちは俺たちの場所にいるだけだ。お前が外へ行くことと、俺がここで店を続けることは、同じ天秤に乗せなくていい」

缶の冷たさが、掌の奥へ食い込んでいた。

僕は航の言葉を聞きながら、地図アプリの画面を思い出していた。知らない駅。見慣れない道路。海のない町。画面の中では、青い線が迷いなく伸びている。

「航は、怖くないのか」

「何が」

「残ることが、決まってしまうこと」

「出る方は、決まらないのか?」

航はそこで初めて、僕を見た。

「大学へ行けば、知らない人に会って、知らない場所で暮らして、知らない仕事をする。そっちの方が自由に見える。でも、自由って、何でも選べることじゃねえぞ。選んだあとに、選ばなかった方を自分で抱えることだろ」

軽い口調は、どこかへ消えていた。

「俺は地元に残る。たぶん、何年か経ったら、外へ出たやつを羨ましく思う日もある。お前は外へ出る。向こうで、この町に戻りたくなる日もあるだろう。そういうのは、どっちを選んでも出てくる。だから、残る方が楽だとか、出る方が偉いとか、そういう話にしたら、選んだ場所に失礼なんだよ」

言葉の最後に、航は少しだけ肩をすくめた。

「まあ、俺は店の冷蔵庫を新しくしたいから残る。お前は何か見たいから出る。それで十分じゃねえか」

その言い方が、妙にまっすぐだった。

大義名分ではなく、生活の中にある理由。僕が探していた「出たい理由」も、本当はもっと小さくてよかったのかもしれない。知らない町の朝を見たい。海のない場所で暮らしてみたい。誰も僕を昔から知っていない場所で、自分のことを自分で説明したい。

それだけで、出る理由になる。

夏帆が横から口を挟んだ。

「航、それ、自分で言うと説得力ないから」

「何でだよ」

「だって、去年まで『卒業したら一回くらい東京行ってみてえ』って言ってたじゃん」

「旅行と進路は別だろ」

「でも、行きたい気持ちはあったんでしょ」

「行きたい気持ちと、行く場所を決めるのは別だ。あと、東京は人が多すぎる」

「急に現実的」

「お前らが現実を重くしすぎなんだよ」

航は僕たちを見比べた。僕の手元にある、開かれていないラムネ缶。夏帆の、何度も回される缶。夕方の光が、商店街のアーケードの隙間から差し込んでいる。

「だいたい、お前ら海へ行くなら急げよ。空、もう傾いてる」

そのひと言で、僕は空を見上げた。

アーケードの屋根の向こうに、鈍い金色が広がっていた。黄色でも橙でもない。昼の明るさを残したまま、少しずつ夕暮れへ沈んでいく色だった。屋根の縁が長い影を歩道へ落とし、店先の植木鉢や自転車のタイヤまで、細く引き伸ばしている。

「じゃ、俺は戻るわ」

「家に?」

「店。手袋返さねえと怒られる」

航は手袋をひらひら振った。

「森島」

「何」

「缶、握り潰すなよ。飲み物がかわいそうだ」

「潰してない」

「その顔で言われてもな」

航は笑い、商店街の奥へ歩いていった。手袋をした手を片方だけ上げ、振り返らないまま角を曲がる。惣菜屋の店主が航へ声をかけ、航が短く返事をする。そのやり取りは、町の音の中へ自然に溶けていった。

夏帆は、航の消えた方を見ていた。

「航、ああいうところあるよね」

「どういうところ」

「残ることを、残るだけで終わらせないところ」

「意味、わかるようなわからないような」

「悠真は、出ることを、出るだけで終わらせないでね」

僕は夏帆を見た。

彼女は笑っていた。けれど、その笑顔の端には、夕方の影が薄くかかっている。

「どういうことだよ」

「知らない場所へ行くなら、そこで何を見たいのか、ちゃんと覚えておいてってこと。帰りたくなったときに、この町が嫌だから出たんじゃないって、自分で思い出せるように」

「帰りたくなると思う?」

「なるでしょ。なるに決まってるじゃん」

「夏帆は、僕が帰ってきてほしいのか」

言ってから、聞いてはいけないことだったと思った。

夏帆の指が、ラムネ缶の表面で止まった。彼女はすぐには答えず、アーケードの向こうにある空を見た。金色の光が、髪の縁を細く照らしている。

「帰ってきてほしいよ」

声は明るくなかった。

「でも、それを理由に帰ってきてほしいわけじゃない。帰りたいと思ったときに帰ってきて。こっちにいる私のことを心配して、戻ってくるんじゃなくて。戻りたい場所として、ここを思い出したときに」

胸の内側が、ゆっくり押された。

「夏帆は、寂しくないのか」

「寂しいよ」

返事は早かった。

「寂しいし、腹も立つ。言うのが遅いし、勝手に決めるし、私がどう思うかを先に決めようとするし。そういうところ、すごく嫌」

「……ごめん」

「だから、謝らないでってば」

「でも」

「謝るんじゃなくて、行くなら行って。行きたいのに、私が寂しいからって残られたら、もっと嫌だから」

夏帆は缶を僕の胸へ軽く押しつけた。

「ただし、向こうでラムネを見つけても、ここの自販機よりおいしいって言わないで」

「比較できないだろ」

「できるよ。味じゃなくて、場所で比べるから」

その言葉に、僕は少しだけ笑った。

夏帆も笑った。けれど、笑い終えたあと、彼女は視線を落とした。

「悠真が行くことを、私が決めることじゃないのはわかってる。でも、私が寂しいことまで、なかったことにしないで。平気なふりをされると、置いていかれた感じがするから」

僕は缶を握る手の力を緩めた。

冷たさが掌に戻ってくる。さっきまで痛いほどだったのに、今はその冷たさが、身体の内側に残った熱を静かに引き取っていく。

「……わかった」

「本当に?」

「たぶん」

「そこは、わかったって言い切ってよ」

「努力する」

「そういうところだよ」

夏帆は呆れたように笑った。

僕は缶のプルタブへ指をかけた。けれど、まだ開けなかった。航の言葉も、夏帆の言葉も、胸の中でまだ形を変え続けている。

出ることは、ここを捨てることではない。

残ることは、何も選ばないことではない。

それぞれが、自分の場所で自分の暮らしを引き受ける。その間にある距離を、誰かのために勝手に消してはいけない。

夏帆が自転車へまたがった。

「行くよ」

「ラムネは?」

「海で開けるんでしょ」

「うん」

「じゃあ、ちゃんとついてきて」

夏帆は先に走り出した。

いつものように、少しだけ前を行く。けれど、今日は角を曲がる前に一度だけ振り返った。僕がついてくるのを確かめるためではなく、僕が自分で進むかどうかを待つように。

僕は自転車へまたがった。

掌に残った缶の冷たさが、まだ消えない。缶の中で、炭酸が小さく揺れている。

僕はペダルを踏み込んだ。

商店街の屋根を抜けた先で、夕日がさらに低くなっていた。惣菜屋の油の匂いも、床屋の扇風機の音も、背中の方へ流れていく。前方には潮見坂があり、その向こうに海がある。

夏帆との距離は、さっきより少しだけ近かった。

それでも、彼女の背中へすぐには追いつかなかった。追いつくことと、同じ場所へ行くことは、たぶん違う。必要なら並び、必要なら離れ、それでも同じ方向へ進む。そのための距離を、僕はまだうまく測れない。

けれど、今日は測ろうとしていた。

自分の脚で、風の向きを確かめながら。

電線が頭上で鳴った。細い音が商店街の外へ伸び、坂の方へ流れていく。

僕はまだラムネを開けなかった。

海の音と一緒に、その冷たさを飲み込むために。

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ラムネ缶の冷たさ - 海辺の決意 - 誰でも作家life