第4話 潮見坂の呼吸

潮見坂の上り口は、昼の熱をまだ抱えていた。
アスファルトの表面に残ったぬくもりが、自転車のタイヤを通して脚へじんわり伝わってくる。校門を出てから商店街を抜けるまで、僕たちはほとんど隣を走っていたのに、坂へ入った途端、夏帆が少し前へ出た。
いつもそうだった。
彼女は僕を置いていくほど速くは走らない。けれど、追いつかなければならないと思う程度には、先に行く。僕が子どものころから変わらないその距離が、今日はひどく遠く見えた。
鞄の中で、クリアファイルの角が背中に当たっている。
大学の資料が入っている。県外の大学名。学部の案内。入試日程。地図アプリで何度も見た駅の名前。紙の束は薄いのに、坂道を上る身体には、鉛の板を背負っているように重かった。
「今日は遅いね」
夏帆が振り返らずに言った。
からかうほどでもなく、責めるほどでもない声だった。
「ちょっと、重いだけ」
返事をしてから、自分の声が乾いていることに気づいた。
「鞄?」
「たぶん」
「たぶんって何。中身、見せてみる?」
「見せたって軽くならないだろ」
「じゃあ、私が持とうか」
「自転車に乗りながら?」
「できるよ。片手でハンドル、片手で鞄。昔、悠真を後ろに乗せて走ったことあるし」
「それは小学生のころだろ」
「小学生のころの方が、今より頼りになったかもね」
夏帆はそう言って笑った。笑ったあと、また前を向く。
僕はその背中を見つめた。風に髪が揺れ、首筋に残った汗が夕方の光を拾う。制服の襟元が少し開いていて、そこから見える肌が、坂の照り返しのなかで一瞬だけ明るくなった。
見てはいけないものを見た気がして、僕は視線を前へ戻した。
ペダルを踏み込む。ふくらはぎの奥が引きつり、息が浅くなる。潮見坂は、駅前から海へ向かう道の途中にある、長くも短くもない坂だった。歩けばたいしたことがないのに、自転車で上ると、何度も途中で立ち止まりたくなる。
小さいころは、ここを競争して上った。
勝った方が海で飲み物を買う。負けた方が灯台の下まで自転車を押す。そんな決まりを、いつの間にか作っていた。今思えば、勝ち負けなどどうでもよかった。ただ、坂の上で息を切らしながら笑う時間が、海へ行くことの一部だった。
今日は笑えない。
坂の脇に立つ電柱の上で、電線が風に鳴った。じい、と細く引き延ばされた音が、僕たちの間に残った言葉を吸い上げていく。
夏帆は少し速度を落とした。
「ねえ」
「何」
「今日の悠真、ペダルの踏み方が変」
「踏み方?」
「うん。いつもは坂の前半で無理して、後半に急に省エネになるじゃん。今日は最初からずっと、力を入れすぎ」
「そうかな」
「そう。ハンドルも握りすぎ。グリップ、また白くなってる」
言われて、僕は手元を見た。白く擦れたゴムの表面に、指の跡が残っている。力を抜こうとしたが、抜こうと意識すると、かえって指が強張った。
「別に、普通だろ」
「普通じゃないよ」
「何が普通かなんて、夏帆が決めることじゃない」
思ったより強く言ってしまった。
坂の熱とは別の熱が、首のあたりへ上がってくる。夏帆はすぐには返事をしなかった。彼女の自転車のチェーンが、一定のリズムで回っている。キ、キ、と小さな音が続いた。
「そうだね」
しばらくして、夏帆は言った。
「私が決めることじゃない」
責める声ではなかった。そのことが、余計に胸へ刺さった。
「……ごめん」
「謝らなくていい。謝られると、こっちが何か悪いことしたみたいになるから」
「そういうつもりじゃ」
「わかってる。悠真がそういうつもりじゃないのは、昔から知ってる」
夏帆は前を向いたまま続けた。
「でも、そういうつもりじゃないって言葉、便利だよね。傷つけるつもりじゃなかった。隠すつもりじゃなかった。困らせるつもりじゃなかった。つもりがなければ、起きたことまで消えるみたいに聞こえる」
僕は返事ができなかった。
風が坂の下から吹き上がってきた。夏帆の髪が大きく横へ流れる。彼女は片手をハンドルから離し、耳へ髪をかけた。何度もしてきた仕草なのに、今日はその指先の動きまで目に残った。
「夏帆は、何か怒ってるのか」
「怒ってないよ」
「本当に?」
「怒ってたら、もっとゆっくり走る」
「それ、どういう意味」
「悠真が苦しくなるくらい、わざと前を走る」
夏帆はそこで、ようやく僕を振り返った。
「でも今日は、先に行く気になれないから」
逆光で表情はよく見えなかった。ただ、目だけがこちらを向いているのがわかった。
「……何の話?」
「何でもない話」
「何でもないなら、そんな言い方するなよ」
「じゃあ、何かある話にする?」
僕は黙った。
夏帆はそれ以上、追い詰めなかった。こちらを見ていた時間も短く、すぐに前へ向き直る。あくまで坂を上るための会話だったように、ペダルの速度を戻した。
その距離の取り方が、夏帆らしかった。
踏み込めるのに踏み込まない。見つけているのに、見つけたとは言わない。相手が自分から言葉を差し出すまで、逃げ道をひとつ残しておく。
僕はその逃げ道に、何度も隠れてきた。
坂の中ほどに、小さな自動販売機がある。昔は赤い塗装だったが、今はところどころ剥げ、白い下地が見えている。その横には、誰かが置いた植木鉢が三つ並んでいた。ひとつだけ枯れた土が入っている。
夏帆が自転車を止めた。
「休憩」
「まだ半分くらいだろ」
「だから休むの。半分で休むのは、ちゃんとした作戦」
「昔は一気に上ってただろ」
「昔の私は若かったから」
「今も十七歳だろ」
「十七歳にも疲労はあるの」
夏帆は自販機の前に立ち、ボタンを押した。缶が落ちる音がする。続けて、もう一本を買った。
「はい」
差し出された缶は冷たかった。掌の中央に冷気が染みていく。僕は受け取ったが、すぐには開けなかった。
「また開けない」
「あとでいい」
「海に着くまで?」
「たぶん」
「たぶん好きだね、今日」
夏帆は缶を指先で回しながら、僕の顔ではなく手元を見ていた。
「缶を開ける音ってさ、場所によって違うんだよ」
「知ってる」
「海だと、波の音に負けそうで負けない。商店街だと、店の音に紛れる。坂の途中だと、電線の音に消される」
「だから何」
「だから、海まで持っていくの。今日の音は、海で聞きたいから」
僕は缶の側面を親指でなぞった。濡れた水滴が皮膚に残る。
「今日は、いつもと違うみたいに言うなよ」
言ってから、しまったと思った。
夏帆は缶を回す手を止めた。
「違うじゃん」
「何が」
「今日が」
自販機の冷却装置が低く唸っている。坂の下から車の音が上がってきて、僕たちの横を通り過ぎた。排気ガスの匂いが一瞬だけ潮風に混じり、すぐに薄れる。
「今日が違うって、どういう意味だよ」
「そのままの意味」
「いつも海へ行ってるだろ」
「うん」
「だったら、いつも通りだ」
「海へ行くことだけならね」
夏帆は僕を見なかった。視線を坂の上へ向けたまま、缶の表面を親指で何度もなぞっている。
「悠真、何かあるなら、言えばいいのに」
胸が狭くなった。
「何もない」
「そっか」
「本当に」
「うん。そういうことにしておく」
軽く言ったのに、逃げ道を塞ぐ言葉だった。
「夏帆」
「なに」
「どうして、そういう言い方するんだよ」
「どういう言い方?」
「わかってるみたいな言い方」
「わかってないよ」
夏帆は初めて、まっすぐ僕を見た。
「わかってない。でも、何もない人の沈黙じゃないことくらいはわかる。悠真が何かを考えてるとき、返事が一拍遅れる。右手の親指で紙の端とか、缶のへこみとか、同じところを何度も触る。今日もそうしてる」

僕は缶を見た。知らないうちに、アルミの側面が少しへこんでいた。
「それで、何かわかるのか」
「わからないよ。だから聞かない」
「聞けばいいだろ」
「聞いて、言えない悠真を困らせるのが嫌なんだよ」
「困らせたっていいだろ」
「よくない」
夏帆の声から、初めて笑いが消えた。
「困らせてもいいって言えるのは、言う側だけだよ。聞かれた方は、答えなきゃいけないと思う。答えられない自分が悪いみたいに思う。悠真はそういうの、すぐ自分のせいにするから」
喉の奥が熱くなった。
「じゃあ、ずっと何も聞かないつもりか」
「聞かないんじゃない。待ってる」
「同じだろ」
「違うよ」
夏帆は缶を胸の前で抱えた。
「聞くのは、私が知りたいから。待つのは、悠真が自分で言えるようにするため。私は、悠真の答えを先に決めたくない」
「でも、待ってるあいだに、言えなくなるかもしれない」
「それなら、言えなくなるくらいのことなんだよ」
「それでいいのかよ」
「よくないよ」
夏帆は少し笑った。いつもの明るい笑い方に似ていたが、口元だけが動いていた。
「よくないけど、私が嫌だからって、悠真の口をこじ開けるわけにはいかないでしょ。私が寂しいからって、悠真の中にあるものをなかったことにするわけにもいかないし」
その言葉のひとつひとつが、坂道より重かった。
僕は何か言おうとした。県外の大学のこと。地図アプリの履歴のこと。進路調査票に書いた名前のこと。母に話したこと。海のない町へ行きたいと思っていること。
どれも口元まで上がってきて、そこで形を失った。
僕が黙っているあいだ、夏帆は缶を開けなかった。
彼女もまた、僕に合わせるように、冷たい金属を手の中で持ち続けていた。
「……ごめん」
僕は言った。
「また謝った」
「でも」
「謝るくらいなら、少しだけ教えて」
「何を」
「その『ごめん』が、何に対してなのか」
坂の上から風が降りてきた。自動販売機の横に置かれた枯れた植木鉢の土が、細かく舞い上がる。
僕は目を細めた。
「夏帆に、何も言えてないこと」
「それだけ?」
「……それだけじゃない」
「うん」
「言ったら、今まで通りじゃなくなる気がしてる」
「今まで通りって、どこまで?」
「わからない」
「じゃあ、変わるかどうかも、まだわからないじゃん」
「変わるよ」
今度は、すぐに言葉が出た。
「絶対に変わる。言ったら、夏帆はたぶん、今までみたいに話せなくなる。僕がいなくなることを考えるから。海へ行っても、帰り道のことを考える。いつもの場所が、いつもの場所じゃなくなる」
言葉が止まらなかった。
「僕だって考える。ここを出たら、商店街を見るたびに、もうすぐ自分はここにいなくなるって思う。潮見坂を上るたび、これもあと何回なんだろうって考える。そういうふうにしたくない。夏帆といるときくらい、何も決まっていない顔でいたい」
夏帆は黙って聞いていた。
僕は息を吸った。潮の匂いはまだ薄い。けれど、風の中に海へ近づいた湿り気が混じっている。
「だから、言わない方がいいと思ってた。僕が黙っていれば、夏帆は知らないままでいられる。知らなければ、寂しくならない。そう思ってた」
「それ、本当に私のため?」
僕は答えられなかった。
「私のために言わないって言いながら、悠真が怖いだけじゃないの」
正しい。
正しいから、苦しかった。
「……そうだよ」
やっと認めた。
「怖い。夏帆が寂しそうな顔をするのが怖い。怒るのも、笑うのも、どっちも怖い。僕が行きたいって言ったことで、夏帆の中にある何かを壊すのが怖い」
「壊れるかもしれないよ」
夏帆は静かに言った。
「私たちが今まで通りではいられなくなる可能性はある。悠真が向こうで新しい友達を作って、こっちへ帰ってくる回数が減って、私の知らない話ばかりするようになるかもしれない。私だって、この町にずっといるとは限らないし、何年か経ったら、海へ行こうって言われても面倒くさくなるかもしれない」
彼女は一度、目を伏せた。
「でも、そうなるかもしれないことを、今からなかったことにはできないよ。悠真が黙っていても、時間は勝手に進む。言わないことで止められるのは、私が考える時間だけ」
電線がまた鳴った。
今度は、音が近かった。
「だから、今日言えとは言わない」
夏帆は缶を持ち直した。
「でも、言うつもりがあるなら、言えるときに言って。私が寂しがるかどうかを、悠真が先に決めないで。寂しいかもしれないけど、嬉しいかもしれない。腹が立つかもしれないけど、応援したいかもしれない。そういうの、私が決めるから」
僕は缶のプルタブへ指をかけた。
冷たさが掌に残り、指先だけが妙に熱い。
「……夏帆は、怒らないのか」
「怒るよ」
「怒るんだ」
「怒る。言うのが遅すぎたら、たぶん怒る。何も知らないまま、あとから人づてに聞いたら、もっと怒る。『私に言うほどのことじゃなかったんだ』って思うかもしれない」
「それは」
「だから、言わない方が優しいなんて、簡単に決めないで」
夏帆はそこで、いつものように笑おうとした。
今度は少しだけ、笑えた。
「まあ、私が怒っても、コロッケは奢ってもらうけど」
「何で」
「怒った分」
「理不尽だろ」
「理不尽じゃないよ。感情には経費がかかるの」
「初めて聞いた」
「今作った」
僕もわずかに笑った。
笑うと、胸の奥に溜まっていた空気が少し抜けた。代わりに、まだ言えていないことの形が、前よりはっきりした。
夏帆は自転車へまたがった。
「行こ」
「もう休まないのか」
「休みすぎると、夕日が先に海へ着いちゃうから」
「夕日は自転車に乗らないだろ」
「乗るよ。すごく速いよ」
彼女がペダルを踏む。
僕も続いた。
坂はまだ残っていた。脚は重く、息は苦しい。けれど、さっきまでとは違う重さだった。何も言えないまま押しつぶされる重さではなく、言わなければならないものを自分で抱えている重さだった。
夏帆は、今度は僕の隣を走った。
肩が触れるほど近くはない。手を伸ばしても届かない。けれど、速度を合わせれば同じ景色を見られる距離だった。
坂の上へ近づくにつれ、空が広くなっていく。青空の端には薄い金色が滲み、雲の底が赤く染まり始めていた。遠くから潮の匂いが流れてくる。汗ばんだ首筋を撫でる風が、初めて少しだけ涼しかった。
「ねえ、悠真」
「何」
「海に着くまでに、ひとつだけ答えて」
僕は夏帆を見た。
「今日、海へ行きたい?」
簡単な質問だった。
それなのに、胸の奥で何度も言葉を探した。
行きたい。海へ行きたい。夏帆と行きたい。今日でなければならない気がする。今日でなくても、今日行かなければ、また何も言えない気がする。
「行きたい」
やっと答えた。
「うん」
「海に行きたい」
言い直すと、夏帆は前を向いたまま頷いた。
「じゃあ、それでいいじゃん」
「それだけで?」
「最初は、それだけでいいよ。全部を一度に言おうとするから、悠真は黙るんだし」
坂の頂上が近づく。
風の向こうに、海の青が見えた。まだ夕日には届かない、広く明るい青だった。防波堤の先にある灯台は小さく、遠く、けれど確かにそこに立っている。
夏帆が少しだけ前へ出た。
今度は僕も速度を上げた。
追いつくためではない。置いていかれないためでもない。ただ、同じ坂を、自分の脚で上りきるために。
頂上へ出る直前、電線が長く鳴った。
その音は、今度は沈黙を隠さなかった。言えない言葉を抱えたままでも、ふたりが同じ方向へ進んでいることを、細い金属の響きで確かめるようだった。
坂の向こうに、海が開けていた。
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