第3話 合っていると思う

進路指導室の前まで来たところで、僕は一度、足を止めた。

廊下の窓から差し込む夕方の光が、床の上に細長く伸びている。部活動へ向かう生徒たちの声は、階段の向こうで少しずつ遠ざかっていた。誰かが笑い、誰かが靴音を鳴らし、校舎のどこかでボールが壁に当たる。いつもの放課後の音なのに、進路指導室の前だけ、そこから切り離されたように静かだった。

鞄の中で、クリアファイルの角が背中に当たっている。

僕はその感触を確かめるように、鞄の持ち手を握り直した。

中に入っているのは、県外の大学の募集要項と、学部案内と、入試日程を印刷した紙だった。どれも家のプリンターから出したものだ。インクの濃淡も、紙の端のわずかな歪みも覚えている。地図アプリで何度も見た駅名が、何食わぬ顔で募集要項の隅に載っていた。

その駅へ、僕はまだ一度も行ったことがない。

「森島」

扉の向こうから声がした。

「入っていいぞ」

ノックをする前だった。僕は少しだけ驚き、それから扉を開けた。

進路指導室は、ほかの教室より空気が乾いていた。紙の束と古いファイルの匂いが混ざり、窓際に置かれた小さな扇風機が、ぬるい風を同じ場所へ送り続けている。壁際の棚には、県内外の大学案内が年度ごとに並んでいた。表紙の色はばらばらなのに、背表紙だけはきれいに揃っている。

藤崎先生は机の前に座り、提出された書類の端を揃えていた。

赤ペン、万年筆、クリップ、付箋。机の上のものはすべて一定の向きに置かれている。僕が入ると、先生は紙の束を二度、机の端に軽く当てた。それから顔を上げた。

「座れ」

僕は向かいの椅子に腰を下ろした。

椅子の背が少し硬く、制服のシャツ越しに肩甲骨へ当たった。膝の上に鞄を置く。ファスナーへ手をかけたまま、すぐには開けられなかった。

藤崎先生は急かさなかった。冷めたお茶の入った湯呑みを一度手に取り、口をつけずに戻す。その間、窓の外で蝉が鳴いた。教室にいるときより遠く聞こえる。

「志望校の資料を、見せてもらえるか」

「はい」

返事をしてから、僕は一拍置いた。

鞄を開け、クリアファイルを取り出す。紙の端を揃えてから、先生の前へ差し出した。自分でも、必要以上に丁寧な動作だと思った。紙の角がずれていると、考えていることまで乱れて見える気がする。

藤崎先生はすぐには資料を見なかった。

まず、僕の顔を見た。

何かを問いかけるわけでもない。ただ、僕がどこを見ているのかを確かめるように、静かにこちらを見ていた。

僕は視線を机の上へ落とした。

先生はそれから資料を受け取り、最初の紙をめくった。指先が大学名の上を一度だけ通る。県外の大学。僕が進路調査票に書いた名前と同じだった。

「ここか」

「はい」

「理由は、書類にはあまり書かれていないな」

「書く欄が小さかったので」

「欄のせいにするか」

「……すみません」

「謝ることではない」

先生は紙をめくった。大学の概要、学部の特徴、入試科目。僕が何度も読んだ文字が、先生の指の動きに合わせて順番を変えていく。

「この学部で、何をしたい?」

喉の奥が狭くなった。

「まだ、はっきりとは」

「はっきりしていないのに、ここまで調べたのか」

「調べているうちに、少しずつわかると思って」

「わかるために行く、ということか」

僕は答えず、資料の端を見た。

わかるために行く。

その言葉は自分の考えに近かった。けれど、口にすると急に薄く聞こえた。知らない町へ行きたい。海のない場所で暮らしてみたい。誰も僕を幼いころから知らないところで、自分が何を考え、何を選ぶ人間なのか確かめたい。

そんなことを言えば、子どもっぽいと思われるかもしれない。

「町の外に出たいんだな」

先生が言った。

「……はい」

出してしまった声は、思っていたより小さかった。

藤崎先生は資料から顔を上げた。

「出たい理由は、町が嫌いだからか」

「違います」

その返事だけは、すぐに出た。

先生の眉がわずかに動いた。僕は自分でも驚いていた。ここだけは迷わなかった。

「嫌いじゃないです。商店街も、駅から海までの道も、家も。母も、夏帆も。ここにいる人たちが嫌だから出たいわけじゃないです」

「では、なぜ出る」

また言葉が止まった。

机の上には、僕が書いた大学名がある。白い紙の上に印刷された黒い文字。その文字を見ると、胸の奥のどこかがまだ遠くへ向かおうとする。

「ここにいるだけでは、見えないものがある気がするんです」

やっと言った。

「知らない場所へ行けば、今までの自分がそのまま通用するのか、通用しないのかもわかる。ここでは、僕が何をする前から、だいたい誰かが知っているから。森島の家の息子で、夏帆と昔から一緒で、こういう性格で。そういうのが嫌だというより……一度、何も決まっていないところに立ってみたいんです」

話しながら、言葉が自分の中から少しずつ形を持って出てくるのがわかった。

先生は口を挟まなかった。

「この町にいると、僕が何かを選んでも、それが本当に自分で選んだのか、わからなくなる時があります。家族が望んでいるからなのか、周りがそうするからなのか、夏帆がここにいるからなのか。そういうものを全部なくしたいわけじゃないです。でも、なくした状態で一度考えてみたい。僕が何を見たいのか、何なら続けられるのか、自分で確かめたいんです」

最後の方は、ほとんど独り言になっていた。

僕は口を閉じた。言いすぎたと思った。先生の前で、自分の中身を机の上へ広げてしまったような気がする。

藤崎先生は資料を閉じた。

「合っていると思う」

短い言葉だった。

褒められたわけでも、合格を約束されたわけでもない。それでも、その言葉は机の中央に置かれた小さな石のように、重く残った。

「何が、ですか」

「その大学が、という意味だけではない」

先生は資料の表紙を指で押さえた。

「君の選び方が、だ。調べ方も、迷い方も含めて、君はもうかなり前からそちらを向いている。だから、書類に書いた名前だけを見て、あとから『誰かに勧められた』ことにしない方がいい」

僕は返事をしなかった。

「君は町の外を見ている目をしている」

先生は窓の外へ一度視線を移した。校庭の端で、部活動の生徒たちが片づけをしている。夕方の光が、白いボールを赤く見せていた。

「それは逃げる目ではない。見たいものがある目だ」

「でも、出たら、残る人を置いていくことになります」

「そうだな」

否定されると思っていた。

大丈夫だ、誰も気にしない。いつでも帰ってこられる。そんな言葉を予想していた。けれど先生は、簡単に打ち消さなかった。

「置いていく人はいる。寂しがる人もいる。君自身も、向こうへ行ってからこの町を思い出すだろう。出ることは、何も失わずに済む方法ではない」

胸の奥に、乾いた風が通った。

「だったら……」

「だからといって、残ることが正しいわけでもない」

先生の声は低く、静かだった。

「進路は、誰も傷つかない答えを探す作業ではない。そんな答えは、たぶんどこにもない。誰かに決めてもらえば、傷つけた責任をその誰かへ渡せる。家の事情のせいにすれば、決めた自分を見なくて済む。先生の助言のせいにしてもいい。だが、それでは君がどこへ行っても、同じところで立ち止まる」

僕は膝の上で手を握った。

爪が掌に食い込む。痛みがあると、考えが散らばらずに済む気がした。

「自分で決めたら、誰かを傷つけても、自分の責任になります」

「そうだ」

「それが怖いです」

「怖くない方が、私は心配だ」

先生はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。

「怖さがあるなら、まだ自分の人生として考えている。怖くないふりをして、正しい道だからと歩き出す方が危うい」

僕は資料へ目を落とした。

表紙には、見知らぬ校舎の写真が載っている。青空の下に、白い建物。その周囲には見たことのない木々が並んでいた。海は写っていない。

なのに、その写真を見ていると、胸の奥がわずかに明るくなる。

「先生は、町を出たことがあるんですか」

聞いてから、余計なことだったと思った。

藤崎先生はすぐには答えなかった。机の上の赤ペンを指先で転がし、止める。

「ある。若いころに一度だけな」

「どうでしたか」

「行った先で、思ったほど自由にはならなかった」

先生は淡々と言った。

「自分を知っている人がいなくなれば、何でもできると思っていた。実際には、知っている人がいなくなったぶん、自分で自分を説明しなければならなかった。何が好きで、何が嫌いで、どこまでなら頑張れて、どこからは無理なのか。誰も決めてくれないから、自由は少し重かった」

「それでも、行ってよかったと思いますか」

「それは君が決めることだ」

先生は僕を見た。

「私の経験を君の答えにしてはいけない。ただ、行ったからわかることもあるし、行かなかったからわかることもある。どちらを選んでも、選ばなかった方は消えない。だから、選ぶときは、消したいものではなく、見たいものを基準にした方がいい」

見たいもの。

藤崎先生の言葉が、何度も頭の中で反響した。

帰りたい場所ではなく、見たい場所。失いたくないものではなく、まだ知らないもの。

「決めたなら、決めたままにしておきなさい」

先生はクリアファイルを僕へ返した。

「あとから不安になるのは構わない。迷いが戻ってきてもいい。けれど、不安になったからといって、最初から何も決めていなかったことにはしないことだ」

ファイルを受け取る。指先に紙の硬さが伝わった。

「家には、話しました」

僕は言った。

「全部ではないですけど、県外を考えていることと、お金のことを一緒に考えたいとは」

「そうか」

「母は、寂しいと言いました」

「そうだろうな」

「でも、行きたいなら行けばいいとも言いました。支えるって、黙って見送ることじゃないって」

話しながら、母の声を思い出す。味噌汁の湯気。魚の骨を皿の端へ寄せる箸。家計簿を開く前に、テーブルの上を整える手つき。

「いいお母さんだな」

「……はい」

答えたあと、胸の奥が詰まった。夏帆の名前も、まだ言えていない。母に話したことで、少しだけ進めた気がしていたのに、そこから先に進む道は別の形をしている。

藤崎先生は、僕の沈黙を見ていた。

「佐伯には?」

心臓が一度、大きく鳴った。

「まだです」

「そうか」

先生はそれ以上、理由を聞かなかった。ただ、机の上の資料を僕の方へ完全に押し戻した。

「言うなら、自分のためだけに言わないことだ」

「自分のためだけに?」

「黙っていると、相手は何も知らないまま、君の変化だけを受け取ることになる。君は傷つけないつもりでも、相手には考える時間が残らない。伝えるというのは、許可を取ることでも、引き止められることでもない。相手にも、その事実を受け止める時間を渡すことだ」

僕はファイルの縁を撫でた。

「でも、言ったら、今まで通りではいられなくなる気がします」

「今まで通りでいられるかどうかは、言う前からもう決まっているのかもしれない」

窓の外で、風が校庭の木々を揺らした。葉の擦れる音が、乾いた波のように重なる。

「ただし、変わることと、壊れることは同じではない」

先生の言葉は、そこで止まった。

余計な説明をしない。僕が考えるための隙間を残す。先生はいつもそうだった。

僕は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る。

「ありがとうございました」

「礼を言うほどのことはしていない」

「でも、少しだけ、わかった気がします」

「何が」

僕は答えようとして、いつものように一拍置いた。

けれど、今度は言葉を飲み込まなかった。

「行きたいと思ったことを、逃げたいだけだと思わなくていいことです」

口にした瞬間、その言葉が自分の中で形を変えた。

逃げではない。見たいものがある。

まだ完全には信じられない。けれど、そう言い直すことはできた。

藤崎先生は頷いた。

「それでいい」

進路指導室を出ると、廊下の空気が少し湿っていた。

窓の外では、夕方の校庭が斜めの光に沈んでいる。部活動を終えた生徒たちが、自転車置き場へ向かっていた。笑い声が重なり、誰かのベルが短く鳴る。

僕はクリアファイルを抱えたまま、廊下の窓際に立った。

遠くに海がある。

校舎からは見えない。建物の向こう、商店街の屋根の向こう、潮見坂を下った先にある。けれど、夕方になると風の匂いだけがここまで届くことがある。

今日は、ひどく乾いていた。

藤崎先生の言葉が、まだ胸の中で続いている。

決めたなら、決めたままにしておきなさい。

それは、迷うなという意味ではなかった。怖くなったからといって、決めた自分をなかったことにするなという意味だった。

僕はスマートフォンを取り出した。

地図アプリを開く。履歴には、県外の大学名と最寄り駅が並んでいる。指でひとつを選ぶと、青い線が画面の上に伸びた。知らない町の道が、知らないまま僕を待っている。

画面を閉じようとして、指が止まった。

そのとき、校舎の昇降口の方から声が聞こえた。

「悠真」

夏帆だった。

彼女は自転車の横に立ち、片手でハンドルを握っている。こちらを見上げながら、いつものように少しだけ首を傾けた。

「海まで行こ」

その声は明るかった。

けれど、僕の顔を一度見てから出された言葉だと、すぐにわかった。夏帆は何かに気づいている。気づいていて、それでも訊かない。

僕はスマートフォンをポケットにしまった。

「……うん」

返事をするまでに、いつもの一拍があった。

夏帆は笑った。笑ったあと、先に自転車へまたがる。

僕も鞄を背負い直した。クリアファイルの角が背中に当たる。そこに書かれた大学名は、もうただの文字には見えなかった。まだ名前を持たない未来が、紙の上からこちらを見ている。

校門を出ると、夕方の風が制服の袖を膨らませた。

潮の匂いは薄い。それでも、遠くで海が待っている気配があった。僕はハンドルを握り、夏帆の少し後ろへついた。

坂の向こうへ、ふたりの自転車が進んでいく。

言わなければならないことは、まだ胸の中に残っていた。けれど、さっきまでのように、名前のないものではなかった。

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