第2話 海まで行こ

放課後の青浜商店街は、まだ昼の熱を抱えたままだった。

校門を出てから駅とは反対の道へ曲がると、アスファルトの照り返しが足元から上がってくる。部活動帰りの生徒たちが何人か、コンビニの前で立ち話をしていた。自転車のベルが鳴り、惣菜屋の奥で油のはねる音がして、商店街の古いアーケードには、どこか湿った風が溜まっている。

夏はまだ終わっていない。

けれど、蝉の声は盛りを過ぎていた。屋根の向こうから聞こえる鳴き声が、日ごとに薄くなっている。祭りの提灯は外されたままで、店先には売れ残った花火の箱がひとつ、色褪せて置かれていた。

僕は自転車を押しながら、青浜商店街の端を歩いていた。

鞄の中には、今日、藤崎先生から返された進学資料が入っている。クリアファイルの角が背中に当たるたび、そこに書かれた大学名を思い出した。県外の、海のない町にある大学。地図アプリの履歴に何度も表示させた駅。駅から大学までの道。学生寮の近くにある小さなスーパーマーケット。

画面の中では、僕はもう何度もそこへ行っている。

けれど、現実の僕は、いつもの商店街を抜けることさえ、ひどく慎重になっていた。

「悠真」

呼ばれて振り向くと、夏帆が文房具店の前に立っていた。

片手で自転車のハンドルを握り、もう片方の手には小さな紙袋を提げている。髪は肩のあたりで風に揺れていた。制服の襟元は少しだけ乱れていて、首筋に細い汗の跡が残っている。

「何してんの。歩くの遅すぎ」

「別に。押してるだけ」

「見ればわかるよ。自転車を押してる人に、自転車を押してるねって言うほど暇じゃないし」

夏帆はそう言って笑った。笑いながら、僕の顔を一度だけきちんと見る。そのあとで、鞄のあたりへ視線を落とした。

僕は反射的に鞄の持ち手を握り直した。

「それ、また進路のやつ?」

「違う」

「違わない顔してる」

「顔で書類の中身がわかるのかよ」

「わかるよ。悠真の顔、字より読みやすいから」

何でもない言い方だった。昔から夏帆は、僕が黙っているときほど冗談を言う。場を軽くするためなのか、僕が言葉を選ぶ時間を作るためなのか、今でもよくわからない。

たぶん、両方だった。

僕は文房具店の軒先に目を向けた。店頭に並んだノートの表紙が、夕方の光を受けて白く光っている。小学生のころ、夏帆と一緒にここで消しゴムを買ったことがある。どちらがよく消えるかを比べるためだけに、同じ消しゴムを二つ買った。結局、使い切る前に片方を海でなくした。

そんなことまで覚えている。

覚えているから、言えない。

夏帆は紙袋を軽く振った。

「これ、コロッケ。おばちゃんが一個おまけしてくれた」

「また?」

「またって何。私は町に貢献してるの」

「買い食いしてるだけだろ」

「買って食べるのは、立派な経済活動です」

「高校生が言うと、急にせこく聞こえる」

「失礼だなあ。悠真のぶんもあるのに」

紙袋がこちらへ差し出される。油の匂いがした。まだ温かい。受け取ろうと手を伸ばしかけて、僕は止めた。

鞄の中のクリアファイルが、急に重くなった。

「今日はいい」

「珍しい。お腹痛い?」

「そういうわけじゃない」

「じゃあ、食べなよ。食べないと、坂で倒れる」

「坂、行くのか」

「行くでしょ」

夏帆は当然のように答えた。

「海まで行こ」

その声には、何も考えていないような自然さがあった。

けれど僕には、その言葉がこちらの様子を見てから放たれたものだと、なんとなくわかってしまう。夏帆はこういう言い方をするとき、相手に選ばせているようでいて、選択肢をひとつに絞り込むのがうまい。

「今日?」

「今日。明日でもいいけど、明日の悠真は今日より面倒くさそうだから」

「根拠は」

「顔」

「そればっかりだな」

「だって、わかりやすいんだもん」

夏帆は紙袋からコロッケをひとつ取り出し、包み紙を少し開いた。衣から湯気が立ち、胡椒とじゃがいもの匂いが漂う。

「ほら。半分だけでも」

「いらないって」

「私が一人で二個食べたら、夕飯が入らない」

「じゃあ、最初から一個だけ買えばよかっただろ」

「おまけって言ったじゃん。おばちゃんの好意を無駄にするの?」

そう言われると断れなかった。僕はコロッケを受け取り、包み紙の端をつまんだ。衣はまだ熱く、指先に油がにじんだ。

ひと口かじると、じゃがいもの甘さと胡椒の辛さが舌に広がった。夏帆は満足そうに頷いた。

「ほら。食べられるじゃん」

「食べられるよ、それくらい」

「何でも食べられる顔してる」

「だから顔で決めるなって」

「じゃあ、何で決めればいいの」

夏帆は笑いながら尋ねた。

僕は答えなかった。

何で決めればいいのか、僕自身が一番わかっていなかった。大学を選ぶときも、地図アプリの目的地を保存するときも、進路調査票に名前を書いたときも、最後に背中を押したのは、いつも自分の中にある何かだった。

それを言葉にすれば、たぶん「行きたい」になる。

ただ、その二文字を口にした途端、ここにいる誰かを置いていくことになる気がした。

夏帆が空になった紙袋を畳み、鞄の外ポケットへしまった。

「じゃ、決まりね」

「まだ何も言ってない」

「自転車に乗ったら、だいたい決まり」

彼女は自分の自転車へまたがった。後輪の泥よけに、乾いた砂がこびりついている。ハンドルの金属部分には細かな錆が浮き、ベルの音は少し低い。僕の自転車も似たようなものだった。ふたりとも、何年も同じ道を走ってきた。

「ほら、早く」

「そんなに急がなくても海は逃げないだろ」

「海は逃げなくても、夕日は逃げるよ」

夏帆はペダルに足をかけた。

僕も自転車にまたがる。白く擦れたハンドルグリップが、汗ばんだ掌に触れた。握ると、ゴムの表面に残った細かな凹凸が指に食い込む。昔から変わらない感触だった。

商店街を抜けるまで、夏帆は先に走った。

彼女はいつも、ほんの少しだけ前を走る。僕を置いていくほどではなく、けれど隣に並び続けるほど近くもない。信号を渡るときや、角を曲がるときだけ振り返り、僕がついてきていることを確認する。

そのたび、すぐに前を向く。

振り返ったまま待つことはしない。

待っていると気づかせないために、待っている。

商店街の端にある自動販売機の前で、子どもたちが騒いでいた。買ったばかりの缶を両手で抱え、「冷たい」と言い合っている。缶と缶がぶつかり、硬い音がした。

「ラムネ、買う?」

夏帆が自転車を止める。

「海で飲むんじゃないのか」

「海で飲むために、今買うの」

「ぬるくなるだろ」

「だから急ぐの」

「理屈になってない」

「青春なんて、だいたい理屈になってないから」

夏帆は自販機のボタンを押した。落ちてきたラムネ缶を取り出し、もう一本を僕へ差し出す。

「はい」

缶は冷たかった。冷たさが掌の中央に残り、じわじわと指先へ広がっていく。僕は缶を開けずに、そのまま握った。

「飲まないの?」

「あとで」

「悠真、缶ジュース開けるのにも準備いるタイプだったっけ」

「何だよ、それ」

「小学生のころからそうじゃん。買ってすぐ飲めばいいのに、ずっと持ってる。海に着いて、座って、風を確認して、やっと開ける」

「風を確認って何だよ」

「缶の音がちゃんと聞こえるかどうか」

僕は返事をしなかった。

覚えていなかった。いや、覚えているのかもしれない。夏帆と海へ行った帰り、堤防の上で缶を開けた。ぷつん、と小さな音がして、炭酸が弾けた。その音が波の音に混じるまで、僕たちは何も言わなかった。

何も言わなくても平気だったころの記憶が、今はひどく遠い。

「ねえ」

夏帆が自転車のハンドルへ体重を預けた。

「今日、なんか変」

「いつも変だろ」

「そういう意味じゃなくて。いつもの変さじゃない」

笑いながら言ったのに、その目は笑っていなかった。

「何が」

「何がって聞き返すところ。だいたい本当に何もないときは、悠真、もっと適当に答えるじゃん。『別に』とか、『眠い』とか。今日は一回考えてから返す。返してから、さらに考えてる」

「考えてない」

「考えてるよ」

「考えてないって」

思ったより強い声が出た。

自分でも驚いた。夏帆も少しだけ目を見開いたが、すぐに視線を僕の手元へ落とした。缶を握る指に力が入っている。アルミの表面がわずかにへこんでいた。

「そっか」

夏帆はそれ以上、追及しなかった。

「じゃあ、考えてない人の顔をして、海まで行こう」

「何だよ、それ」

「できるでしょ。得意じゃん」

言い返そうとして、言葉が止まった。

僕は何も考えていない顔を作るのが得意だった。そうすることで、周りの人を安心させられると思っていた。母にも、夏帆にも、学校の先生にも。何も決まっていない。何も困っていない。まだどこにも行かない。そういう顔をしていれば、誰も僕の決心に触れずに済む。

けれど、触れないままにしているのは僕の方だった。

夏帆はもう自転車を走らせている。僕も遅れてペダルを踏み込んだ。

商店街を抜けると、道幅が少し狭くなる。古い民家の軒先で風鈴が鳴り、干されたタオルが風に膨らんでいた。塀の向こうから犬が一度だけ吠える。見慣れた景色ばかりなのに、今日は一つひとつが妙に鮮明だった。

潮見坂の手前で、空が開けた。

坂の向こうに、薄い青が残っている。青空はまだ明るいのに、遠くの雲の縁だけが夕方の色を帯びていた。電線が風に鳴っている。細く、長く、金属の弦を引いたような音だった。

「競争する?」

夏帆が振り返って言う。

「しない」

「弱気」

「坂で競争するやつは馬鹿だろ」

「じゃあ、私が勝っても文句なしね」

「最初から勝つつもりかよ」

「うん。今日の私は速いから」

「何で」

「コロッケ食べたから」

「それ、重くなってるだけじゃないか」

夏帆が笑った。声が坂の入口に軽く跳ね返る。

僕も少し笑った。

笑ったあとで、胸の奥に妙な痛みが残った。こうしていれば、何も変わらないように思える。夏帆が先を走り、僕が少し遅れて追いかける。商店街を抜け、潮見坂を上り、下りきったところで海が見える。いつもと同じ順番だ。

けれど、今日の僕は、いつもと同じ場所にいない。

ペダルを踏み込む。脚に力が入る。坂道の熱がタイヤを通して上がり、ふくらはぎの奥がじわりと痛んだ。汗が首筋を伝う。風はあるのに涼しくなく、ただ熱を横へ運んでいくだけだった。

夏帆は僕より少し前を走っている。

追いつこうと思えば追いつける距離だった。けれど、追いついたら何かを言わなければならない気がして、僕はその距離を保った。

坂の中ほどで、風が強くなった。

電線の音が大きくなり、夏帆の髪が一斉に横へ流れる。彼女は片手を離し、髪を耳にかけた。すぐにまたハンドルを握り直す。その動作があまりに自然で、僕は目を逸らせなかった。

「今日は遅いね」

夏帆が振り返らずに言った。

「ちょっと、重いだけ」

口にした瞬間、自分の声が乾いているのがわかった。

夏帆はすぐには返事をしなかった。ペダルを踏む音だけが続く。彼女の自転車のチェーンが、一定のリズムで回っている。

「そっか」

しばらくして、夏帆は言った。

「じゃあ、少しゆっくり行く」

「いいよ。先に行けば」

「嫌だよ」

「何で」

「海まで一緒に行く約束だから」

「そんな約束、したっけ」

「したことになってるの。昔から」

夏帆はそこで初めて振り返った。

逆光のなかで、彼女の顔はよく見えなかった。ただ、目だけがこちらを向いているのがわかった。

「海まで行くときは、どっちかが先に行きすぎない。どっちかが遅れたら、もう片方が待つ。帰りは競争してもいい。でも、行きは一緒」

「そんな細かい約束、聞いたことない」

「聞いたことがなくても、守ってたじゃん」

僕は答えられなかった。

夏帆は前を向き、速度を落とした。僕の自転車と彼女の自転車が、ほとんど並ぶ。坂道の傾斜が脚に重くのしかかる。息が上がり、喉の奥が熱くなる。

隣にいる夏帆の呼吸も、少しだけ乱れていた。

彼女はそれを隠すように、明るい声を出した。

「ねえ、海に着いたら、ラムネ開けていいよ」

「今でもいいだろ」

「だめ。風を確認してから」

「まだ言うのか」

「大事だから。今日のラムネは、ちゃんと海の音と一緒に開けたいの」

その言葉の意味を、僕は考えた。

夏帆はもう一度、こちらを見た。今度は笑っていなかった。けれど、問い詰める顔でもなかった。ただ、僕が何かを言うのかどうかを、決めつけずに待っている顔だった。

坂の上から、海の匂いが流れてきた。

まだ見えていないのに、潮の湿り気が肌に触れる。遠くで波が砕ける音がする。胸の奥に押し込めていた言葉が、その匂いに触れてわずかに動いた。

言わなければならない。

今日でなくてもいい。海に着いてからでも、帰り道でもいい。そう思う一方で、今日を逃せば、また同じように黙る気がした。

僕は何度も心の中で言い直した。

県外の大学に行く。

ここを出る。

夏帆に言えていなかった。

どれも口にできそうで、どれも違う気がした。

夏帆が少しだけ前へ出る。

けれど、すぐに速度を落とす。

待っているのだとわかる。わかっているのに、僕はその背中へ言葉を投げられなかった。

潮見坂の上で、風が電線を鳴らしていた。

僕たちは黙ったまま、自転車を漕ぎ続けた。道の向こうには、まだ見えない海があった。

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