第1話 引き出しの奥にある名前

引き出しの奥には、紙の匂いがこもっていた。

机のいちばん下。筆箱や替え芯の箱を押しのけ、そのさらに奥へ指を入れると、紙の端に爪が触れた。僕はすぐには引き出さず、しばらくその感触だけを確かめていた。そこにあることは知っている。朝、学校へ行く前にも、帰ってきてからも、何度か思い出していた。

それでも、実際に触れるまでには時間がかかった。

進路調査票を引き出すと、紙は少し丸まっていた。折り目の近くには、白い消しゴムの粉が残っている。机の上で書き直したとき、何度も文字を消したせいだ。

第一志望欄には、県外の大学名が書かれている。

僕はその文字列を、右手の人差し指でゆっくりたどった。インクは乾いている。指先に色が移るわけでもないのに、触れていると、まだ書き終わっていないような気がした。

書いたのは僕だ。

誰かに手を添えてもらったわけではない。先生に指示されたわけでも、母に勧められたわけでもない。候補を調べ、学部を選び、駅から大学までの道を地図アプリで何度も歩かせて、そのうえで自分の名前を書いた。

なのに、文字の下には他人の決心が置かれているように見えた。

窓の外で、蝉が一匹だけ鳴いた。昼間ならあれほど重なっていた声が、今は屋根の向こうから細く聞こえてくる。夏はまだ終わっていないはずなのに、音だけが先に遠ざかっていた。

僕はスマートフォンを手に取った。

画面を開くと、地図アプリの履歴が表示される。大学の最寄り駅。乗り換えに使う路線。駅から学生寮までの道。少し離れたスーパーマーケット。雨の日に歩けそうな高架下。

同じ場所を、何度も調べていた。

地図上の青い線は、指でなぞれば簡単に進める。駅を出て、交差点を渡り、坂を上がる。知らない町なのに、画面の中では僕の足が何度も歩いている。

保存した目的地を閉じ、また開いた。

その繰り返しに意味があるのか、自分でもわからない。ただ、画面に並ぶ地名だけが、誰にも話していない決心の輪郭だった。

母にも言っていない。

夏帆にも。

言わなかったのは、言う必要がなかったからではない。むしろ、言わなければならないと思うほど、口の中で言葉が固まった。

母に話せば、学費や生活費の話になる。県外で暮らすなら、家賃はいくらか、仕送りはどうするか、奨学金を借りるのか。母はきっと反対しない。反対しない代わりに、僕の決めたことを現実の大きさにして、ひとつずつ机の上に並べる。

夏帆に話せば、たぶん笑う。驚いて、それから「へえ」と言う。どうしてそこなのか、何を勉強したいのか、いつから決めていたのか。いつもの調子で聞いてくるだろう。

その質問に答えるところまでは想像できる。

けれど、そのあとに生まれる沈黙だけが想像できなかった。

僕は画面を閉じた。暗くなった液晶に、自分の顔がぼんやり映る。何も考えていないような顔だった。そういう顔を作るのは、昔から得意だった。

机の上には、筆箱とノートとクリアファイルが並んでいる。クリアファイルの中には、大学案内のコピーが何枚か入っていた。角はきれいに揃えてある。紙の厚さも、折れた跡も、昨日までと変わらない。

なのに、その並びが少し遠く見えた。

自分だけが、もう別の場所の空気を吸っているような気がした。窓を開けているのに、部屋の中には昼の熱が残っている。汗の乾いた首筋に、風が触れても涼しくない。熱だけが、身体の内側に置き去りにされている。

進路調査票を引き出しへ戻そうとして、僕は手を止めた。

ここにしまえば、まだ何も決まっていないふりができる。紙は見えなくなる。母が机の引き出しを開けることはないし、夏帆がこの部屋に入ってくることも、今はほとんどない。

見えなくしておけば、誰も傷つかない。

そう思ったとき、その考えがひどく都合のいいものに聞こえた。

僕が怖いだけなのに、誰かのためだと言い換えている。

紙の端を撫でる。消しゴムの粉が指の腹にざらついた。

調査票を書いた日のことを思い出した。教室の窓から、校庭の隅にある銀杏の木を見ていた。まだ青い葉が風に揺れていた。周りでは、地元の専門学校名や県内の大学名を書き終えた同級生たちが、早くも提出していた。

僕だけが、欄の前で鉛筆を持ったまま動けなかった。

第一志望の欄に、最初は何も書かなかった。空白のまま出してもいいと思った。あとで先生に呼ばれて、考え直せばいい。そうすれば、決めたことにならずに済む。

けれど、白い欄を見ているうちに、胸の奥に溜めていた名前が浮かんだ。

知らない町にある大学。

まだ見たことのない建物。聞いたことのない駅の発車メロディー。海のない場所の朝。誰も僕を幼いころから知っていない場所で、僕が何者なのかを自分で決める時間。

その想像だけは、何度追い払っても戻ってきた。

僕は鉛筆を置き、シャープペンシルを握り直した。最初の一画が紙に触れたとき、音がした。小さな、乾いた音だった。文字は思ったより簡単に書けた。

簡単だったからこそ、書き終えたあとに怖くなった。

引き出しを閉める。木の板が滑り、最後に小さく音を立てた。

その音が、部屋の中で妙に大きく響いた。

「悠真、ご飯できたよ」

階下から母の声がした。

「今行く」

返事をしてから、僕はすぐには立ち上がれなかった。

「聞こえた?」

「聞こえた。今行くから」

二度目の返事は、少しだけ強くなった。母はそれ以上呼ばなかった。台所から、鍋の蓋が触れ合う音がする。食器を並べる音。冷蔵庫が低く唸る音。いつもの夕方だった。

僕は進路調査票をもう一度だけ見た。

県外の大学名が、夕暮れの光の中で黒く浮いている。名前というものは不思議だった。書いた瞬間から、ただの文字ではなくなる。紙の上にあるのに、これから先の時間まで引き寄せてしまう。

僕はクリアファイルを机の端へ寄せ、引き出しを閉めた。

階段を下りると、味噌汁の匂いが濃くなった。居間の窓は開いていて、遠くから電線の鳴る音が聞こえる。母は台所に立ち、エプロンの紐を結び直していた。テーブルの上には、焼き魚と冷奴、それから僕の好きな卵焼きが並んでいる。

「遅かったね」

「ちょっと、部屋で」

「勉強?」

僕は一拍置いた。

「まあ」

母は振り返らなかった。味噌汁を椀によそいながら、平らな声で言った。

「進路の書類、学校に出したんだって?」

手にしていた箸が、わずかに止まった。

「うん」

「第一志望、書いた?」

「うん」

「どこにしたの?」

味噌汁の湯気が、母の顔のあたりでほどけていく。僕は椅子を引いた。脚が床を擦り、乾いた音がした。

「まだ、決めたっていうか……候補のひとつ」

「候補なら、書類には書かないでしょう」

責める声ではなかった。そのことが、かえって苦しかった。

母は僕の向かいに椀を置いた。自分の分を置く前に、テーブルの端にあった箸袋の向きを揃える。何かを考えるとき、母はいつも物の位置を整える。

「県外?」

僕は顔を上げられなかった。

「……うん」

「そう」

母はそれだけ言い、席についた。味噌汁の表面で、細い油が照明を映して揺れている。

「お金のことなら、早めに見ておかないといけないから。入学金、前期の授業料、それから部屋を借りるなら敷金とか礼金とか。寮に入れるかどうかでも違うし、奨学金を使うなら申し込みの時期もある。今すぐ全部決めろって言ってるんじゃないけど、決めたなら、決めたあとのことも一緒に考えないといけないでしょう」

母は魚の骨を箸で外しながら話した。手元は迷わない。骨を皿の端へ寄せ、身を小さくほぐしていく。

「まだ、合格したわけじゃないよ」

「そうね。でも、合格してから考え始めたら遅いこともある」

「わかってる」

「わかってるなら、話してくれてもよかったのに」

その言葉だけ、少し遅れて届いた。

僕は箸を持ったまま、母の顔を見た。母は僕を見ていなかった。魚の身から小骨を取り除いている。白い骨が皿の上に増えていく。

「話したら、いろいろ決まる気がした」

「決めたくなかったの?」

「そうじゃない」

「じゃあ、何?」

僕は答えを探した。逃げたかったわけではない。母に反対されたくなかったわけでもない。学費が心配だったわけでもない。

ただ、自分が行きたいと言えば、その瞬間から、ここにいる人たちを置いていく側になる気がした。

けれど、それをそのまま言葉にするのは難しかった。

「……母さんが、寂しいと思うから」

言ったあと、味噌汁の湯気が急に目に近づいたように感じた。

母はしばらく黙っていた。やがて、箸を置いた。

「寂しいわよ」

予想していた言葉なのに、胸の中に重く落ちた。

「でも、寂しいからって、あんたの行きたいところをなくす理由にはならないでしょう。私が寂しいことと、あんたが行きたいことは、別々に置いていいの。どっちかを消して、片方だけにしなくていい」

母は一度、息を飲み込んだ。ため息に似ていたが、ため息にはしなかった。

「ただね、悠真。何も言わないまま自分で全部決めて、あとから大丈夫だったことにするのは違うと思う。お金のことも、暮らしのことも、あんたが知らないままでは支えられない。支えるって、黙って見送ることじゃないから」

僕は箸先でご飯の表面をつついた。米粒がひとつ、皿の縁へ転がる。

「……ごめん」

「謝ってほしいんじゃない」

母の声は強くなかった。ただ、いつもより低かった。

「行くなら、行くでいい。残るなら、残るでいい。でも、誰かを傷つけないように何も言わない、というのは、たぶん優しさじゃない。相手に考える時間を渡さないだけだから」

その言葉が、机の引き出しの中にある紙と重なった。

僕は長いあいだ、黙っていることで母を守っているつもりだった。夏帆にも同じことをしていた。言わなければ、決まらない。決まらなければ、失わずに済む。

けれど、決めたことを隠したままにするのは、誰かの隣にいることではなかった。自分だけが、暗い場所で先に進んでいるだけだった。

「その大学、何を勉強したいの?」

母が聞いた。

僕は答えようとして、また一拍置いた。

「まだ、うまく言えない」

「うまくなくていいから」

窓の外で、風が電線を鳴らした。細い音が、家の中まで入り込んでくる。

「知らない場所を見たい。ここにいる人たちが嫌いだからじゃなくて、ここにいるだけではわからないことを知りたい。自分が何をできるのかも、何もできないのかも、外へ出てみないとわからない気がする」

言いながら、胸の奥で何かが少しずつほどけていった。

母は黙って聞いていた。すぐには頷かなかった。代わりに、冷めかけた味噌汁をひと口飲んだ。

「それなら、明日、資料を見せて」

「え?」

「どこに住むのか、いくらかかるのか、通学はどうするのか。行きたい理由も聞く。でも、理由を聞いたからって、私が許可するわけじゃないからね。あんたの進路でしょう」

母はそこで初めて、少しだけ笑った。

「ただし、選ぶなら、自分で選んだって言えるようにしなさい。お金のせいにも、私のせいにも、先生のせいにもできないように」

僕は頷いた。

喉の奥にまだ言えていない名前がいくつも残っている。夏帆の顔を思い浮かべると、胸の奥がまた狭くなった。

それでも、さっきまでとは少し違っていた。

母は卵焼きをひと切れ、僕の皿へ移した。何も言わずに、箸の先で形を整える。

窓の外では、夏の終わりの空がゆっくり暗くなっていた。僕の部屋の引き出しの中で、進路調査票はまだ丸まったままだ。

けれど、その紙に書かれた大学名は、もう完全な隠し場所には戻れない。

僕は味噌汁を飲んだ。少し熱くて、舌の先が痛んだ。潮の匂いはまだしない。それでも、遠くのどこかで海へ向かう風が鳴っているように聞こえた。

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