第9話 赤く揺れる炭酸の音

夏帆はラムネ缶をひとつ差し出し、僕が受け取るのを待ってから、自分のぶんを開けた。
ぷつん、と小さな音がした。
夕暮れの静けさのなかで、その音だけが妙に鮮明だった。波が堤防の下で砕け、風が灯台の白い壁を撫で、遠くの道路を車が走っている。その全部の隙間へ、炭酸の弾ける音が細く入り込んだ。
「もうちょっと早く言ってくれれば、からかい方も考えたのに」
夏帆は缶を口へ運びながら言った。
軽口だった。けれど、悠真にはそれが逃がしてもらうための言葉だと分かった。重さを一気にぶつける代わりに、空気の角を丸めている。夏帆はいつもそうだった。冗談を言うときほど、相手の顔をよく見ている。
僕は缶の冷たさを掌に感じながら、少しだけ笑った。
笑った拍子に、自分がまだこの場所にいることを確かめるみたいだった。
「言えるわけないだろ」
「なんで」
「……言ったら、戻れなくなる気がした」
夏帆は缶を口に運ぶ手を止めなかった。ただ、僕の言葉のあとに少しだけ間を置いて、堤防の向こうへ目をやった。
「戻る気、あったんだ」
そのひとことが刺さった。
僕は返せなかった。
戻る気があったかどうかではない。戻れなくなることが怖かったのだ。出ることは、ここにある何かを失うことと同じ意味に見えていた。母のいる家も、青浜商店街も、潮見坂も、学校帰りに夏帆と走る時間も。どれかひとつを置いていくのではなく、全部を置いていくことになる気がした。
けれど、本当は違った。
置いていくと決める前から、時間は少しずつ先へ進んでいた。僕が黙っていても、夏帆が何も聞かなくても、夏は終わりに近づき、進路調査票の提出期限は過ぎ、知らない町の駅名は地図アプリの履歴に増え続けていた。
僕だけが、そこへ名前をつけるのを拒んでいた。
「戻る気があったんじゃない」
ようやく言った。
「戻れなくなるのが怖かっただけだ」
「同じじゃない?」
「違う」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「戻りたいから残るんじゃない。失いたくないから、動けなくなってただけだ。夏帆が寂しそうにするのも、母さんが困るのも、ここへ帰ってきたときに何も変わっていたくないのも、全部怖かった。だから、言わなければ、まだ何も始まっていないことにできると思った」
夏帆は黙っていた。
缶の水滴が、彼女の指から手首へ流れている。彼女はそれを拭わず、赤く染まった海面を見たまま、僕の言葉を待っていた。
「でも、始まってたんだ」
「うん」
「悠真が決めたときから?」
「たぶん。進路調査票に名前を書いたときから」
「じゃあ、もっと早く言えばよかったのに」
「そうだな」
「そこは、言い訳しないんだ」
「言い訳できることがないから」
「珍しい」
夏帆が笑った。今度の笑いには、ほんの少しだけ力が戻っていた。
「もっと早く言ってくれれば、私ももっと早く寂しくなれたのに」
「それ、慰めになってない」
「慰めてないよ。寂しいのを後回しにされるのが嫌だっただけ。悠真が先に決めて、先に悩んで、先に諦めようとして、私には最後に知らせる。それって、私が何も考えられないみたいじゃん」
「そんなつもりじゃ」
「うん。そういうつもりじゃないのはわかってる。でも、つもりがなくても、私は置いていかれた感じがした」
夏帆は缶を膝の上へ置いた。
「私、悠真が出ていくことより、何も言わずに出ていくことの方が嫌。県外へ行くなら行けばいい。知らない町を見たいなら見てくればいい。向こうで失敗して、帰りたくなったら帰ってくればいい。でも、私がどう思うかを先に決めて、全部なかったことにしないで」
「なかったことにしたかったわけじゃない」
「じゃあ、何だったの?」
僕は海を見た。
夕日はもう海面の端にしか残っていない。赤い光が波に細く引き延ばされ、砕けるたびに途切れていく。灯台の明かりが一定の間隔で海を撫で、暗くなり始めた堤防を一瞬だけ白く浮かび上がらせていた。
「守りたかった」
「誰を?」
「夏帆を」
「どうやって?」
「寂しくならないように。困らないように。僕がいなくても、いつも通りでいられるように」
「それは、守るって言わないよ」
夏帆の声は静かだった。
「私が寂しいかどうかを、私より先に決めることは、守ることじゃない。私が寂しくても、怒っても、笑って送り出しても、それを自分で選べるようにしてくれることが、たぶん一緒にいるってことなんだと思う」
言葉が胸の奥へ落ちた。
僕は、夏帆のことを信じていなかったのかもしれない。寂しさに耐えられないと思っていたのかもしれない。あるいは、自分が夏帆の寂しさを受け止められないことを、彼女の弱さに置き換えていたのかもしれない。
「……ごめん」
「また謝った」
「でも」
「謝るのは禁止。今日はもう、謝った回数が多すぎる」
「じゃあ、どうすればいい」
「自分で決めれば」
「何を」
「行くのか、行かないのか」
夏帆は僕を見た。
その目には、寂しさがあった。隠しきれないほどはっきりと。けれど、それだけではなかった。怒りも、諦めない意志も、僕の答えを僕のものとして受け取ろうとする強さも、全部そこにあった。
「私が行ってって言うから行くんじゃなくて、私が寂しいから残るんでもなくて。悠真がどうしたいのか、自分で言って」
僕は缶を握り直した。
冷たい金属が掌へ食い込む。指先に残っていた汗が、缶の水滴と混じって滑った。
僕は地図アプリの履歴を思い出した。大学の最寄り駅。そこから学生寮までの道。雨の日に歩ける高架下。近くのスーパーマーケット。何度も調べて、何度も保存した。実際には一度も行っていないのに、画面の中では何度もその町を歩いていた。
僕は、行きたいと思っていた。
ずっと前から。
「行く」
声にした。
波の音に紛れそうな小さな声だった。それでも、今度は飲み込まなかった。
「県外の大学を受ける。受かったら、ここを出る」
夏帆は目を伏せた。
すぐには返事をしなかった。缶を両手で包み、残った炭酸を確かめるように、ほんの少し揺らしている。
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「本当に?」
「本当に」
「向こうで迷って、知らない人に道を聞けなくなって、駅のベンチで地図ばっかり見て固まっても?」
「そこまで言うか」
「悠真ならやる」
「やらない」
「やるよ。地図の中ではどこへでも行けるのに、現実ではコンビニの店員さんにすら遠慮するじゃん」
「それは……」
「だから、聞くんだよ。わからなかったら、人に聞く。ひとりで決めたからって、ひとりで全部やらなくていい」
夏帆の声は、明るさを取り戻していた。
けれど、その明るさの底にあるものを、今の僕には少しだけ近くで感じ取ることができた。笑っていれば壊れないと思っていた彼女も、壊れないために笑っていたわけではない。笑いながら、それでも寂しいと言うために、ここまで僕の隣を走ってきたのだ。
「夏帆」
「なに」
「寂しい?」
「寂しいよ」

即答だった。
「すごく寂しい。たぶん、これから何回も寂しいって思う。悠真がいない放課後に、海へ行きたくなるかもしれないし、商店街でラムネを見て、買う相手がいないって思うかもしれない。帰ってきた悠真が、知らない町の話ばかりするようになったら、聞きたくない日もあると思う」
「うん」
「でも、寂しいからって、行かないでとは言わない。そんなことを言ったら、悠真が見たいものを見ないまま残るから。あとでこの町を歩くたびに、あのとき出ればよかったって思うから。そうなったら、私は悠真の隣にいるんじゃなくて、悠真の後悔の中にいることになる。それは嫌」
夏帆は缶を開けたままの手を、僕の方へ少し伸ばした。
「だから、行って。私が寂しいままでも、行って。寂しさを理由に、私のところへ戻ってこなくていい。戻りたいと思ったときに戻ってくればいい」
僕は頷いた。
首を動かしただけなのに、喉の奥が詰まった。泣きそうになったわけではない。ただ、ひとつの言葉を受け取るために、身体の中に余白が必要だった。
僕はラムネをひと口飲んだ。
冷たさが喉を落ちる。甘さのあとに、遅れて微かな苦みが残る。さっきより炭酸は弱くなっていた。それでも、その弱さまで含めて、今日の味だと思った。
「もうちょっと早く言ってくれれば、からかい方も考えたのに」
夏帆がもう一度言った。
「どんなふうに」
「まず、県外ってどこか聞く。次に、大学の名前を三回くらい聞き返す。それから『へえ、悠真がそんな遠くへ行けるんだ』って言う」
「嫌なからかい方だな」
「まだ続きがあるよ。『向こうで友達できなかったら、地図アプリに話しかけてそう』って言う」
「言いそうだな」
「最後に、餞別として、ここの自販機のラムネを箱で送る」
「それは困る」
「何で。嬉しいでしょ」
「向こうにも炭酸はある」
「味の話じゃないって、さっき言ったじゃん」
夏帆は笑った。
僕も笑った。笑うと、胸の中に張りついていたものが少し剥がれた。完全にはなくならない。母の寂しさも、夏帆の寂しさも、自分がここを離れる怖さも残っている。
ただ、それらを消さなくていいのだと、ようやく思えた。
抱えたままでも進める。
痛みがあるから選んではいけないわけではない。寂しさがあるから、行きたい場所を諦めなければならないわけでもない。
夏帆が立ち上がった。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
僕も立ち上がる。足元のコンクリートには、ふたり分の影が長く伸びていた。夕日の方向へ引かれた影は、途中で重なりかけている。けれど、完全にはひとつにならない。
僕たちは空き缶を持って、自転車置き場へ戻った。
夏帆が僕のハンドルを見た。
「また握りすぎ」
「そうか」
「グリップ、もっと白くなるよ」
「もう古いから」
「向こうへ行く前に、替えたら?」
「自転車を?」
「グリップだけ。帰ってきたとき、違う感触だと嫌でしょ」
僕は白く擦れたハンドルグリップを見た。何年も握ってきたゴムの表面は、ところどころ平らになっている。潮見坂の熱も、雨の日の冷たさも、夏帆の背中を追った帰り道も、この手触りの中に残っている。
「替えない」
「何で」
「これでいい」
夏帆は少しだけ笑った。
「そっか」
それ以上、何も言わなかった。
僕は自転車へまたがった。サドルの硬さ、ペダルの軋み、錆びたフレームの重さ。身体が覚えているものが、ひとつずつ戻ってくる。
海の方から風が吹いた。
灯台の明かりが、一定の間隔で海面をなぞっている。波が光を受け、短く白くほどけていく。
夏帆も自転車へまたがった。
彼女は少し前へ出た。いつものように、僕を置いていかない程度の距離だった。
「帰り、競争する?」
「しない」
「最後かもしれないのに?」
その言葉に、僕は一瞬だけ黙った。
夏帆はすぐに手を上げた。
「ごめん。今のはなし」
「いいよ」
「最後って言うと、怒るくせに」
「怒ってない」
「じゃあ、競争しない?」
「……少しだけなら」
「勝ってもいい?」
「勝てるなら」
「言ったね」
夏帆がペダルを踏み込んだ。
僕も続く。
堤防を離れると、海の音が背中へ回った。さっきまで目の前にあった波が、今は後ろで崩れている。潮の匂いと、缶の冷たさと、言葉にしたあとの空白が、夕暮れの風の中に残っていた。
帰り道は、行きより暗くなる。
坂を上れば息が上がり、下れば風に押される。商店街へ戻れば惣菜屋の明かりがつき、駅前を通れば、家へ帰る人たちの足音が増える。来た道を戻るだけなのに、同じ道にはならない気がした。
夏帆が少し先を走る。
僕はその背中を追った。
以前なら、追いつくことばかり考えていた。置いていかれないように、同じ場所にいるように、距離をなくそうとしていた。
けれど今は、少し離れていても同じ方向へ進めることを知っている。
「悠真、遅い」
坂の途中で、夏帆が振り返った。
「今行く」
「ちゃんと来てよ」
「うん」
僕はペダルを踏み込んだ。
脚の疲れが、遅れて身体へ戻ってくる。汗が首筋に浮かび、風がそれをさらっていく。頭上では電線が細く鳴っていた。行きに聞いた音と同じはずなのに、今は沈黙を隠す音には聞こえなかった。
僕はポケットの中のスマートフォンを思った。
地図アプリの履歴には、まだ知らない町の名前が並んでいる。駅から大学までの青い線も、学生寮までの道も、消さずに残してある。
明日になれば、母に資料をもう一度見せる。学費や暮らしのことを、ひとつずつ考える。藤崎先生にも、受験すると伝える。夏帆には、今日言った。行くと、自分の声で言った。
その決意は、誰かを置いていくためのものではない。
誰かの寂しさを消すためでも、町を捨てるためでもない。
僕がまだ見ていないものへ、自分の足で進むためのものだった。
坂を上りきると、海がもう一度見えた。
暗くなった水平線の上で、灯台の明かりが一度、白く光った。夏帆の自転車が、その光の中を横切る。彼女の髪が風に揺れ、細い影が道路へ落ちた。
僕は速度を少し上げた。
追いつくためではない。置いていかれないためでもない。ただ、同じ道を走るために。
夏帆との距離は、ほんの少しだけ縮まった。
それでも、完全には並ばなかった。
その距離が、今はちょうどよかった。
僕たちは町の明かりへ向かって走った。背中の方で、堤防の灯台がまた明滅する。
海は変わらない。
変わるのは、海へ向かった僕たちの方だった。
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