第8話 進路資料棚の前で

昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気が一斉にほどけた。

椅子を引く音、弁当箱の蓋を開ける音、廊下へ駆け出す足音。窓の外では、文化祭の看板を運ぶ誰かが、重そうな板を抱えたまま「そっち、もう少し上」と叫んでいる。昨日までなら、その騒がしさの中にも、練習後の部員たちの声やスパイクの底が土を削る音を聞き分けられた。今日は、どの音も薄い膜を一枚かぶっているようだった。

僕は弁当箱を開けた。

母が詰めた卵焼きと、少し湿った海苔。昨日のレースのあと、家に帰ってから何を食べたのかは覚えていない。今朝も、味噌汁を飲んだかどうかさえ曖昧だった。卵焼きを箸で半分に割り、口へ運ぶ。甘さが舌に触れたが、すぐに消えた。

向かいの席で、朔が青いペットボトルを振っていた。

「これ、速くなるらしいぞ」

「何が」

「飲んだ人の気持ちが」

「気持ちだけかよ」

「気持ちが先だろ。走るのだって、まず気持ちからだ」

朔はラベルを僕の方へ向けた。英語の大きな文字と、青い炎のような写真が印刷されている。よく見れば、運動後の爽快感を謳っただけの飲料だった。

「それ、味の説明だろ」

「細かいな。昨日勝った人間とは思えない」

「勝ったからって、何でも速く見えるわけじゃない」

「お、今日は会話が成立した」

朔は蓋を開け、匂いを嗅いだ。すぐに眉間へ皺を寄せる。

「湿布みたいな匂いがする」

「飲むなよ」

「買ったものは飲む。俺は責任感がある」

「シューズを三回忘れたやつが言うな」

「それは責任感の問題じゃなくて、記憶力の問題」

朔は一口飲み、目を閉じた。数秒間、口の中で味を確かめるようにしてから、静かにボトルを机へ置いた。

「まずい」

「だろうな」

「でも、まずいって分かっただけでも収穫だ」

「何の」

「人生の」

朔は笑った。僕は笑わなかった。朔の笑い声が、教室の騒音に混じっていく。いつもなら、その調子に引っ張られて少しは顔を上げられる。だが今日は、箸の先が弁当箱の中で止まったままだった。

朔は僕の弁当を見た。

「卵焼き、一個しか減ってない」

「食べてる」

「競技で言えば、スタートラインに立ったまま」

「陸上で例えるなよ」

「陸上部を引退したばかりだろ。まだ使えるものは使っとけ」

「そういう問題じゃない」

僕が言うと、朔はボトルを持ったまま黙った。

冗談を返すときの顔ではなかった。人の手元を見るときの朔の顔だ。相手が何をしているかより、何をしようとしてやめたのかを見ている。僕は弁当箱の留め具に手を伸ばし、閉める前に二度、金具を確かめた。

「行くぞ」

朔が言った。

「どこへ」

「散歩」

「昼休みに?」

「食後の運動。お前、午後の授業中もその弁当箱を睨んでるだろ」

「睨んでない」

「じゃあ、迅の大学名を思い出して、ノートに同じ文字を何十回も書く」

「書かない」

「なら確認しに行く」

「何を確認するんだよ」

「お前がどのくらい面倒な顔をしているか」

僕は朔を睨んだ。朔は満足そうに頷いた。

「その顔。少し戻ってきた」

「人を病人みたいに言うな」

「病人じゃない。負けず嫌いが進路でこじれてるだけ」

その言葉に、箸を持つ手が止まった。

朔はすぐに別の話をするような顔をしたが、目は逸らさなかった。僕の反応を見ている。僕が怒るか、笑うか、黙るか。そうやって、どこまで踏み込んでいいかを測っている。

「……食べるから」

「残すなよ。おばさんにばれるぞ」

「分かってる」

僕は卵焼きをもう一つ口へ入れた。今度は味が少しだけ分かった。甘い。母はいつも、僕が練習のあとでも食べやすいように、卵焼きの味を濃くする。そういう小さな気遣いが、今日はかえって重かった。

弁当箱を閉じ、鞄へしまう。留め具をまた二度確かめた。

朔は何も言わず、教室の扉へ向かった。

廊下へ出ると、乾いた光が床に長く伸びていた。文化祭用のパネルが壁際に並び、切り抜かれた文字の隙間から、埃をかぶったモップが突き出ている。絵の具と糊と、どこかで開けられた缶コーヒーの匂いが混じっていた。

朔は最初、わざと速く歩いた。

僕が追いつかないと分かると、すぐに歩幅を落とした。中距離の練習でも、朔は同じだった。最初の一周だけは人を煽るように前へ出るくせに、苦しくなる場所では必ず後ろを確認する。自分が勝つためではなく、誰かが置いていかれていないかを見る走り方だった。

階段の踊り場で、朔が足を止めた。

窓の外に、赤茶けた校庭が見えた。文化祭の立て看板が何枚も並び、そのうちの一枚だけが風にあおられて斜めになっている。誰かが直しに走っていくのが見えた。

「昨日までは、あそこを走ってたんだよな」

朔が言った。

「誰が」

「俺たち。お前と迅と、あと部員全員」

「お前は勝手に短距離の練習へ混ざってきてただろ」

「中距離選手にも刺激は必要なの」

「刺激と邪魔は違う」

「そういうこと言うから、迅にも置いていかれるんだよ」

朔はさらりと言った。

僕は足を止めた。朔は先に行かず、踊り場の窓枠へ腰を預けている。逃げ道を塞ぐためではない。僕が立ち止まったなら、自分も立ち止まるという姿勢だった。

「迅のこと、関係ないだろ」

「関係あるだろ。お前の顔に毎時間出てる」

「出てない」

「出てる。昨日の自己ベストのときより、今の方が真剣」

「勝ったのに、喜べないことだってある」

「それは分かる」

朔は窓の外を見た。

「俺だって、引退した次の日に朝練がないの、ちょっと変だった。いつもなら眠い眠い言いながら学校へ来て、部室で靴紐を結んで、誰かの悪口を言って、それから走る。今朝は目覚ましが鳴っても、起きる理由が一個少なかった」

僕は黙った。

朔は軽口ばかり叩いているように見えるが、部活が終わったことを平気で受け止めているわけではない。彼のジャージの袖には、何度も洗った跡が白く残っている。集合写真も、練習日誌も、捨てずに鞄へ入れている。失うものを、失ったふりで軽くしないのが朔だった。

「でも、お前は俺より厄介だな」

「何が」

「お前は、走る場所だけじゃなくて、走る相手まで一緒に失いそうになってる」

僕は返事をしなかった。

朔はそれ以上続けず、階段を下りた。僕も後を追った。

職員室前の進路資料棚は、ガラス戸のついた古い棚だった。取っ手の周りだけ、何度も手で触れられたせいか白く擦れている。中には大学案内が隙間なく詰め込まれ、赤、青、紺、白の表紙が、秋の光の中で冷たく並んでいた。

棚の前には、三年生が何人かいた。

誰も大声で話さない。パンフレットを取るときも、戻すときも、紙を傷めないように角を揃えている。紙一枚で将来が決まるわけではない。そんなことはみんな知っているはずなのに、紙一枚を雑に扱うことには、妙なためらいがある。

朔は僕の肩を叩いた。

「ほら、着いた」

「見れば分かる」

「じゃあ、見ろ」

「何を」

「全部」

朔はガラス戸を開け、一冊のパンフレットを引き抜いた。わざと大きな音を立てて、ページをめくる。紙の擦れる音が、職員室前の廊下に広がった。

「お前、迅の大学名より紙の厚みを気にしてる顔してるぞ」

「意味が分からない」

「分からなくていい。俺には分かる」

朔はパンフレットを僕へ差し出した。受け取ると、表紙の厚紙が掌へ硬く返ってきた。緑の多いキャンパスの写真。笑顔の学生。就職率や資格取得率の数字。どれも整然としていて、昨日までのタイム表より現実的だった。

僕は表紙を閉じた。

「俺、別に進路を見に来たわけじゃない」

「じゃあ何しに来た」

「お前についてきただけだ」

「俺はお前についてきたんだけど」

「堂々巡りだな」

「得意なんだよ、俺たち」

朔は別のパンフレットを棚から抜き、僕の持っているものと並べた。

「こっちは地元。こっちは県外。こっちは私立。こっちは国公立。どれも紙の上では立派だな」

「紙の上では、な」

「お前、そういう顔すると思った」

「どんな顔だよ」

「迅が書いた大学を見たときと同じ顔」

僕はパンフレットの端へ指を置いた。紙の角が爪に当たる。指でなぞる。考え込んだときの癖だと、自分でも分かっていた。

朔がそれを見た。

「ほら」

「何が」

「手に出てる」

「だから、手の話をするな」

「顔に出ないから仕方ないだろ。お前、怒ってるときほど荷物をきれいに並べるし、困ると紙の端を撫でる。分かりやすいのか、分かりにくいのか、どっちかにしろよ」

僕はパンフレットを強く握った。

「……迅が変えたの、裏切りだと思ってるだろ」

朔の声が少し低くなった。

僕は顔を上げなかった。職員室の扉の向こうから、先生たちの話し声が聞こえる。電話のベル、椅子の脚を引く音、コピー機が紙を吐き出す音。学校は僕の都合を待ってくれない。

「進路は迅が決めることだ」

「うん」

「俺には関係ない」

「うん」

「お前、その『うん』やめろ」

「何で」

「分かったふりしてるみたいで腹が立つ」

朔は一拍置いた。ふざけた調子を残しながら、目だけはまっすぐだった。

「分かったふりはしてない。俺が分かるのは、お前が大学名そのものに怒ってるんじゃないってことだけだ」

「じゃあ何に怒ってる」

「知らないまま、置いていかれそうだからだろ」

僕の指が止まった。

「置いていかれるって、俺たちは競争してるんだぞ」

「そうだよ。だから、いつもなら追えばいい。前を走ってるなら追いつけばいい。後ろにいるなら振り切ればいい。でも、今回は同じトラックじゃない」

朔は棚の奥を見た。大学案内の背表紙が、場所も順番もばらばらに並んでいる。

「大学はレーンが引いてない。スタートも同じじゃない。家から通うやつもいるし、学費で選ぶやつもいる。陸上を続けるために、競技以外の条件を見るやつもいる」

「俺だって、それくらい分かってる」

「分かってるから、余計に腹が立つんだろ」

僕は答えなかった。

朔はパンフレットの角を揃えた。手元を整える仕草が、少しだけ迅に似ていた。けれど、迅が乱れを隠すために紙を揃えるのだとしたら、朔は乱れたものをそのままにしておけないから揃えるのだろう。似ているようで、二人の手つきは違っていた。

「俺は、迅に勝ちたかった」

口から出た言葉は、思ったより乾いていた。

「それは知ってる」

「ずっと勝ちたかった。練習でも、大会でも、最後のレースでも。あいつより速く走って、あいつの前でゴールして、自分の方が上だって確かめたかった」

「うん」

「でも、あいつがいなくなればいいとは思ってない」

朔は黙っていた。

「勝っても、次のレースにあいつがいなかったら、何を見ればいいのか分からない。あいつが前にいれば追えばいい。後ろにいれば振り切ればいい。隣にいれば、どこまで走れているか分かる。俺は、あいつと比べることで、自分の位置を測ってた」

「自分の位置を?」

「そう。記録だけじゃ分からない。自己ベストを出しても、それがどれくらいのものか実感できない。でも、迅が隣にいて、あと少しで届くとか、今日は一歩前に出たとか、そういうものがあれば、自分が進んでいる気がした」

自分で言っていて、情けなくなった。

けれど、言葉にしたことで、胸にあった空席の形が少し見えた。僕が欲しかったのは、勝利だけではなかった。勝利の先に、迅がいることだった。負けたくない相手が、次も同じ場所へ来ることだった。

「それって」

朔が言った。

「勝ちたい相手が、消えないでほしいってことだろ」

「言うなよ」

「言わないと、お前はずっと、勝ち負けの話にして逃げるから」

「逃げてない」

「じゃあ、何だ」

「……分からない」

朔は笑わなかった。

「それでいいんじゃないか」

「よくない」

「分からないままでも、分からないって言えるなら、前よりはましだろ」

「お前は簡単に言う」

「簡単じゃない。俺だって、まだ進路決めてない」

僕は顔を上げた。

「お前も?」

「俺も」

朔はパンフレットを一冊閉じた。

「決めたら、今までのことが過去になる気がしてさ。毎朝、眠いって言いながら部室へ行って、誰かのタイムを見て、帰りにくだらない話をして。そういうのが、進路欄に大学名を書いた瞬間、終わったものとして整理される気がした」

「でも、もう引退した」

「そう。だから、書かなくても終わる。そこが嫌なんだよ」

朔は肩をすくめた。

「時間って、こっちが書類を出すのを待ってくれないからな。勝手に進む。五限は始まるし、腹は減るし、朝練はなくなる。迅が別の大学へ行くかどうかに関係なく、俺たちはもう、昨日と同じ場所には戻れない」

その言葉は、進路資料棚の前で聞くには重かった。

棚のガラスに、僕と朔の姿がぼんやり映っている。僕はパンフレットを抱え、朔は青い飲料のボトルを持っている。どちらも、昨日のレースで使ったものではない。なのに、手元に残る硬さや冷たさだけは、スパイクの革やスターティングブロックの金属に似ていた。

「俺は、迅と同じ大学に行きたいと思ってたのかもしれない」

言葉にすると、頼りなかった。

「ずっと同じ志望校を書いてきた。だから、それが自分の希望なのか、迅と同じ場所へ行きたいだけなのか、分からなくなった」

「今まで、一度も考えなかったのか」

「考えたことはある。でも、考えないふりをしてた。迅も同じことを書いてるから、それでいいと思った」

「お前、迅を基準にしすぎだろ」

「お前に言われたくない」

「俺は基準にする相手がいなかったから」

朔はそう言って、少し笑った。

「だから、湊と迅が並んで走ってるのを見るのが好きだった。二人とも相手のことしか見てないのに、結果的には同じ方向へ進んでたから」

「見てたのか」

「見てたよ。部員の中で、あの二人が一番、走りながら会話してた」

僕はパンフレットの表紙へ目を落とした。

「会話なんてしてない」

「してた。足音で」

返す言葉がなかった。

朔は棚の下段から、通学時間と学費の一覧が載った冊子を引き抜いた。表紙は地味で、大学案内のような笑顔も写真もない。数字と小さな文字だけが並んでいる。

「ほら。こっちは現実」

「見たくない」

「だから見ろ」

朔は冊子を僕のパンフレットの上へ重ねた。二冊の紙が触れ、乾いた音がした。

「迅の大学名を見て苦しくなったなら、次は自分の条件を見ろ。学費、距離、やりたいこと、続けられるか。お前が本当に見なきゃいけないのは、あいつの背中じゃなくて、自分の足元だろ」

「先生みたいなこと言うな」

「先生に言われたのか」

僕は黙った。

朔はそれで察したようだったが、詳しく聞かなかった。踏み込みすぎないことも、朔の気遣いのひとつだった。

「一冊、持って帰れ」

「何で」

「お前の行き先を考えるため」

「まだ決まってない」

「決まってないから見るんだろ」

「見たら決まるのか」

「決まらない。もっと迷う」

「じゃあ意味ない」

「迷う場所が変わる」

朔はパンフレットを僕へ差し出した。

「今のお前は、迅の背中を見ながら迷ってる。それを、自分の足元を見ながら迷う形に変えろ。迷うこと自体は、悪くない」

僕はパンフレットを受け取った。

厚紙の表紙が掌へ沈む。昨日、迅の進路調査票に触れたときの紙の硬さとは違っていた。あの紙には、知らない大学名と、知らない場所へ進む気配があった。今手にしている紙には、まだ自分の名前がない。何も決まっていない空白が、逆に重かった。

「まあ、どれを選んでも今日の授業は来るけどな」

朔が言った。

「人生が揺れてても、五限は始まる。腹も減る。お前は卵焼きを一個しか食ってない」

「見てたのか」

「見てるよ。友達だから」

その言葉だけは、軽くなかった。

朔はすぐに視線を逸らした。照れたのか、僕に見られたくなかったのかは分からない。彼は進路資料棚へパンフレットを戻し、角を揃えた。最後に、僕の肩へ軽く触れる。

「友情って、便利だな」

僕が言うと、朔は鼻で笑った。

「便利じゃない。面倒だぞ。勝ったのに負けたみたいな顔をして、他人の大学名を見て、何も言わずに弁当を残すやつの相手をしなきゃならない」

「悪かったな」

「ほんとにな」

朔は肩をぶつけた。

「でも、面倒だから残るんだろ」

その接触は、昨日のレース後とは違っていた。あのときは、勝利を確かめるためのものだった。今のそれは、僕がまだここにいることを確かめるような手つきだった。

予鈴が鳴った。

廊下にいた生徒たちが一斉に動き始める。パンフレットを棚へ戻す者、書類を抱えて走る者、友達との話を途中で切り上げて教室へ戻る者。人の流れが階段へ集まり、静かだった職員室前にも足音が増えていく。

僕たちも歩き出した。

行きより、廊下が短く感じた。朔は隣にいたが、もう何も言わなかった。階段を上がる途中、踊り場の窓から北陵トラックが見えた。赤茶けた土の上を風が撫でている。白線は建物の影に隠れ、昨日のゴールは見えない。

僕はパンフレットの端を指でなぞった。

迅の大学名を知りたい。

それでも、同じ場所へ行きたいからではない。あいつが何を考え、何を背負い、何を残して別の道へ進もうとしているのか、自分の知らないまま遠ざかってほしくないからだ。

そう思った直後、別の考えが浮かんだ。

もし迅が、どんな理由であっても別の道を選んだら。僕はその選択を羨ましいと思わずにいられるのか。悔しいと思わずにいられるのか。置いていかれたように感じずにいられるのか。

まだ、答えはなかった。

教室の前で、朔が立ち止まった。

「それ、放課後までに返せよ」

「借りたのか?」

「勝手に持ってきた。見つかったら、お前の名前を出す」

「最低だな」

「友情価格」

「意味が分からない」

「分からなくていい。分かってるのはこっちだから」

朔は笑った。

今度は、僕も少しだけ笑えた。

席へ戻り、パンフレットを机の中へしまう。その上に教科書を重ねる。紙と紙が触れ、乾いた音がした。

午後の授業が始まる。

黒板に日付が書かれ、クラスメイトたちは一斉にノートを開いた。僕もシャープペンを持ったが、すぐには書き始められなかった。

教室の反対側で、迅がノートを開いている。

視線を向けると、迅はこちらを見た。目が合った。迅の視線は一拍だけ長く残り、それから黒板へ戻った。

僕は、今度はその動きを追わなかった。

机の中のパンフレットへ手を置く。厚紙の硬さが、制服を通して膝へ伝わってくる。まだ自分の名前は書かれていない。だからこそ、ここから先は僕が書かなければならない。

黒板の文字を写す。

最初の一行は、少し曲がった。

僕は消しゴムを使わず、そのままにした。消して書き直せば、もっときれいになる。けれど、最初に引いた線が残っているほうが、今の自分には正直な気がした。

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