第7話 夕方の校庭

文化祭の準備で、校舎の中は朝から落ち着かなかった。
廊下には色紙の束や、切り抜かれた段ボールの文字が積まれている。窓際には乾きかけの絵の具が並び、通り過ぎるたびに、糊と埃と少し酸っぱい塗料の匂いが鼻へ入ってきた。放送委員の声が、準備連絡を少し眠たげに繰り返している。誰がどこへ机を運ぶのか、何時までに何を片づけるのか。学校は、誰かの胸の内がどうなっているかなど知らない顔で、予定表の通りに午後へ進んでいた。
四限が終わるのを待って、僕は校舎を出た。
北陵トラックのフェンス際まで歩く。コンクリートの通路には、乾いた土が薄く積もっていた。靴底がそれを踏むたび、細かな砂がきゅ、と鳴る。風は冷たく、昨日までの夏をすっかり置いてきたようだった。校庭の赤茶けた土の匂いが、喉の奥に薄く残る。
部室で見つけてから、ずっと指先に居座っている感触があった。
迅の進路調査票に書かれていた、見知らぬ大学名。紙の角の硬さ。整った字の中に、たった一文字だけ置かれた違い。
僕はポケットの中で手を握った。
何度も手を洗ったはずなのに、紙の感触が消えない。消えるはずがないと思っている自分もいた。あの文字を見なかったことにはできない。見てしまった以上、僕の中ではもう、昨日までの時間と今日の時間の間に、細い線が引かれていた。
バックストレートの端に、迅がいた。
ストレッチをしている。片脚を後ろへ引き、踵を地面につけたまま、身体をゆっくり前へ倒していた。肩を回し、膝を曲げ、アキレス腱を伸ばす。どの動きにも無駄がない。競技を終えたあとも、身体だけはいつもの手順を覚えているらしい。
僕が近づいても、迅は振り返らなかった。
気づいているはずだった。僕の歩き方も、靴底が土を削る音も、もう何年も隣で聞いてきたものだ。けれど、迅は振り返らない。振り返らないまま、伸ばしていた脚を戻し、今度は反対側の足を引いた。
「迅」
呼ぶと、動きが一拍だけ止まった。
それだけで十分だった。
昨日までなら、こういう沈黙は放っておけた。返事がないなら、あとで話せばいいと思えた。練習が終わってからでも、帰り道でも、次の朝でもいい。僕らには、次がいくらでもあるように見えていたからだ。
でも今は違った。
同じスタートラインに立つ次が、もうない。少なくとも、部のユニフォームを着て、北陵トラックの同じレーンに立つ次はない。
「あのさ」
声が乾いた。
迅は振り返らずに、足首を押さえていた。
「話がある」
「ここで?」
「ここでだ」
自分でも、声に余裕がないのが分かった。迅は返事をしなかった。足を伸ばしきってから、靴紐を結び直す。結び目を一度締め、指先で形を整え、余った紐を左右に揃える。走る前と同じ手つきだった。
「そんなに結び直す必要あるか」
「ある」
「走らないのに」
迅の指が止まった。
「癖」
「癖なら、今やめろよ」
「急に変えると落ち着かない」
その言葉が、胸に引っかかった。
迅にしては長い返事だった。けれど、そこに本音が含まれているのか、ただ会話を終わらせるための言葉なのか、僕には判別できない。相手のフォームなら、膝の角度や肩の沈み方まで見分けられる。呼吸の乱れだって分かる。それなのに、進路の話になると、迅の中にあるものは手の届かない場所へ逃げていく。
「進路、変えたのか」
僕が言うと、迅の目が校舎の方へ逃げた。
一瞬だった。
けれど、僕には長かった。
窓に貼られた色紙が風に揺れている。あの向こうには、僕らのことを知らない生徒たちがいる。机を運び、看板を描き、文化祭の出し物について笑っている。昨日、僕と迅が最後のレースを走ったことも、僕が十秒四八を出したことも、たぶん彼らには関係がない。
「見たのか」
「見た」
迅は目を戻さなかった。
「進路調査票」
「そう」
「勝手に見たわけじゃない」
「分かってる」
「回収を頼まれて、名前を見て、それで――」
「分かってる」
迅の声が少しだけ強くなった。
僕は口を閉じた。
フェンスの向こうで、誰かが粘着テープを引っ張っている。びり、と乾いた音がして、すぐに風へ消えた。遠くでは脚立を引きずる音がする。周囲に音はあるのに、僕らの間だけが妙に静かだった。
迅が息を吸った。
「あとで、ちゃんと話す」
「今だ」
「今は無理」
「何で」
「順番がある」
その言葉を聞いた瞬間、口の中に嫌な味が広がった。
順番。締切。提出。面談。進路。
紙の上に並べれば、どれも整って見える。けれど、僕の中では全部が絡まっていた。昨日の勝敗も、迅の大学名も、空白のままの自分の欄も、母親が見せた通学費の数字も、ひとつの塊になって胸の底に沈んでいる。
「順番って何だよ」
「話せる順番」
「お前が勝手に決めるなよ」
迅の肩が動いた。
怒ったようには見えなかった。むしろ、言われたことを正面から受けてしまったときの動きだった。僕の声の底に、大学名のことだけではないものが混じっていると、迅にも分かったのだろう。
「湊」
迅が僕の名前を呼んだ。
その呼び方が、いつもより柔らかかった。だから余計に腹が立った。
「なんで何も言わなかった」
「言うつもりだった」
「いつ」
「決めてから」
「もう決めたんだろ」
「決め切ってない」
「調査票には書いてあった」
「あれは、今の時点での希望だ」
「希望なら、前から書いてた大学名でいいだろ」
迅は黙った。
僕は迅の足元を見た。土の上に、靴底の跡が浅く残っている。つま先が少しだけ外を向いていた。走る前なら、踏み込みの角度を確かめていると考えるところだ。けれど今の迅は、立っているだけなのに足元が定まっていない。
「俺たち、ずっと同じところを目指してたよな」
「そうだな」
「模試の結果を見せ合ったときも、合宿の夜も、何回も同じ名前を言った。お前も、そこへ行くって言ってた」
「言った」
「なのに、何で急に変えるんだよ」
迅はすぐには答えなかった。
沈黙の長さを、僕は知っている。迅は何かを隠すとき、普段より丁寧に振る舞う。靴紐を結ぶ。シャツの裾を直す。視線を逸らし、表情を平らにする。そうやって身体の外側を整えて、内側にあるものを見せない。
「急にじゃない」
ようやく、迅が言った。
「前から考えてた」
胸の奥で、何かが落ちた。
「前から?」
「夏休みの前くらいから」
「そんな前から考えてたのに、俺には何も言わなかったのか」
「言えなかった」
「何で」
「お前が、同じところへ行くと思っていたから」
僕は意味が分からず、迅を見た。
迅は、まだ僕と目を合わせなかった。
「それが何で、言えない理由になるんだよ」
「言えば、変えることになるから」
「お前が?」
「俺が」
「俺に言ったら、俺が止めると思ったのか」
「違う」
「じゃあ何だよ」
迅は一度、息を止めた。
走る前、返事の前にする、あの癖だった。
「お前に言ったら、俺の選択が、お前との勝負の話になると思った」
その言葉を聞いて、僕の喉が狭くなった。
「勝負の話?」
「同じ大学へ行く。そこでまた走る。お前に勝つ。お前と競う。そういう話にしか、ならない気がした」
「それの何が悪い」
「悪いとは言ってない」
「じゃあ、何で避ける」
「俺は、もうそれだけで決めたくなかった」
声は小さかったが、今まででいちばんはっきりしていた。
僕は返す言葉を失った。
迅は校庭の土を見ていた。乾いた風が吹き、薄い砂が靴の周りを流れていく。
「走ることは好きだ。お前と競うのも、嫌いじゃない。昨日負けたのだって、普通に悔しい。あの最後の直線で、お前の足音が前へ出たのも覚えてる。俺は、あそこでもう少し腕を振れたと思ってる」
「だったら」
「でも、それだけで大学を決めるのは違う」
迅はそこで言葉を切った。
「俺の家では、四年間、競技だけを見ていられる余裕がない。詳しく話せば、言い訳みたいになる。家のことを出せば、お前はたぶん、何も言わなくなる。それが嫌だった」
「何も言わなくなるって」
「お前はそういう顔をする」
迅が初めて僕を見た。
「相手が怪我をしていると分かったら、勝つことを忘れる。相手が困っていると分かったら、追い抜くことをためらう。俺は、お前にそうしてほしくない」
「俺はそんなに甘くない」
「知ってる」
迅の返事は早かった。
「だから、言えなかった」
その一言が、胸の奥に刺さった。
僕はずっと、迅が僕を置いていこうとしていると思っていた。自分だけが知らない場所で考え、自分だけが先に別の道を選び、僕を同じスタートラインに残したまま走り出そうとしているのだと。
けれど迅は、僕がどう反応するかを恐れていた。
それが嬉しいのか、腹立たしいのか、自分でも分からなかった。僕のことを見ていた。見ていたからこそ、言わなかった。その近さが、かえって苦しかった。
「俺は、お前に勝ちたかった」
言葉が勝手に出てきた。
迅は黙っている。
「ずっと勝ちたかった。練習でも、試合でも、昨日も。お前の前でゴールして、俺のほうが速いって確かめたかった。勝ったら、何かが変わると思ってた」
「変わっただろ」
「変わった。でも、思ってたのと違う」
僕はフェンスへ手を置いた。金属は冷たかった。掌に細かな錆のざらつきが伝わってくる。
「勝ったのに、何を見ればいいのか分からなくなった。タイムを見ても、自己ベストを見ても、先にお前の顔を探した。お前が悔しがってるのか、平気なふりしてるのか、そればかり気になった」
「……」
「それで、次の日に進路調査票を見た。そこに知らない大学名があって、お前がもう別の場所を見てたみたいに思った。俺は勝ったのに、置いていかれた気がした」
迅の喉が動いた。
「勝ったのに?」
「そうだよ。勝ったのにだ」
風がフェンスを抜け、金属が低く鳴った。
「おかしいだろ。でも、そうなんだ。俺はお前に負けたくない。けど、お前がいなくなるのも嫌だ。お前が先に決めたことが羨ましい。自分で選べるみたいに見えて、腹が立つ。それでも、何も考えずに逃げたとは思いたくない。お前なら、何か理由があるって分かってるから」
言葉を吐き出すほど、胸の内側が剥がれていった。言わないで済ませていたものは、口にすると醜かった。負けず嫌いも、羨望も、寂しさも、全部が混ざって、きれいな形にはならない。
迅はしばらく黙っていた。
その沈黙は、今までのものとは違っていた。蓋をするための沈黙ではなく、置き場所を探している沈黙だった。
「俺も、怖かった」
迅が言った。
「お前に言って、勝手だと思われるのが怖かった。逃げたと思われるのが嫌だった。ずっと同じ場所へ行くと言ってきたのに、俺だけ違う方へ行く。お前にとっては、裏切りに見えると思った」
「裏切りだと思った」
「うん」
「今も、少し思ってる」
「そうだと思う」
「そこは否定しろよ」
「否定できない」
迅は土の上へ視線を落とした。
「俺が何も言わなかったのは、俺の落ち度だ。自分の事情を説明したくなかった。説明したら、誰かに許してもらわないと選べない気がしたから」
僕は黙った。
「家のことを話すと、同情される。仕方ないと言われる。現実的だと言われる。そういう言葉で囲まれると、自分で選んだ感じがしなくなる。俺は、逃げたかったわけじゃない。でも、夢だけを見て走り続けることもできなかった」
迅の声は平らだった。
平らにしているだけなのだと、僕には分かった。言葉の下に、何度も書き直した跡がある。進路調査票の大学名の横に残っていた、消しきれない灰色の筋。あれは、迅の迷いが紙へ滲んだものだったのかもしれない。
「その大学で、何をするんだ」
「競技は続ける」
僕の胸が、わずかに動いた。
「推薦じゃない。競技だけで行くわけじゃない。学費と通学と、卒業後のことを考えた。陸上を続けながら、資格も取れる。家からも通える。今の俺には、それが一番、続けられる形だった」
「一番?」
「たぶん」
迅は苦笑するように、ほんの少し口元を動かした。
「まだ、たぶんだ。だから、決め切ってないと言った」
「じゃあ、何で調査票に書いた」
「書かないと、何も始まらないから」
その答えは、節子先生の言葉とよく似ていた。
考え続けるだけでは進めない。どこかで足を置かなければならない。迅はもう、迷いながらも片方の足を置いていた。僕はずっと、トラックの外側で、その位置を確かめることばかりしていた。
「俺は、お前を切り捨てたかったわけじゃない」
迅が言った。
「同じ大学へ行かないことと、お前との時間をなかったことにすることは、別だと思ってる。でも、俺の言い方が足りなかった。たぶん、お前なら分かると思ってた。分かるわけないのにな」
「分かると思うなよ」
「分かった」
「俺は、そんなに器用じゃない」
「知ってる」
「知ってるなら、最初に言え」
「言えば、昨日のレースで手を抜いたかもしれない」
僕は顔を上げた。
迅は真っ直ぐ僕を見ていた。
「俺が自分の事情を話したら、お前はたぶん、俺に勝たせようとする。あるいは、俺を気遣って、勝負の途中で迷う。そういうのは嫌だった」
「手を抜くわけないだろ」
「でも、迷う」
否定できなかった。
もし昨日、迅の家庭の事情を知っていたら。もしその大学名を知っていて、迅がどれほど迷っていたかを知っていたら。僕は本当に、同じように走れただろうか。勝ちたい気持ちを、最後まで自分のものとして握れただろうか。
迅は続けた。
「俺は、お前にちゃんと勝ちたかった。負けたけど。それと同じくらい、俺も自分の進路を自分で選びたかった」
その言葉は、静かだった。
だからこそ、逃げ道がなかった。
僕はフェンスから手を離した。掌に錆の赤茶色が薄くついている。タイム表を握ったあとと同じように、何かの跡が残っていた。
「……俺はまだ、羨ましい」
「何が」
「お前が、もう選び始めてること」
迅は目を逸らさなかった。
「自分の道を決めたように見える。俺はまだ、迅と同じところへ行くってことしか考えてなかった。自分がそこで何をしたいのか、ちゃんと考えてなかった」
「それは、俺のせいじゃない」
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「お前まで言うなよ」
迅の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑ったのかもしれない。昨日のレース後より、わずかに自然な表情だった。
フェンスの向こうで、文化祭準備の生徒が笑った。誰かが「そこ押さえて」と叫び、脚立の上から別の声が返る。夕方の光が校舎の壁を薄い橙色に変え、トラックの影が長く伸びていた。
僕たちの足元まで、影がゆっくり近づいてくる。
「明日も話す」
僕は言った。
迅は少し驚いたように瞬きをした。
「まだ話すのか」
「まだ話してないことがある」
「何」
「俺の進路」
迅は黙った。
「俺も、自分で決める。お前と同じか違うかじゃなくて、俺が何をしたいかで」
言い切ると、胸の奥にあった重さが少しだけ場所を変えた。消えたわけではない。悔しさも、羨望も、迅に離れてほしくないという気持ちも、そのまま残っている。
ただ、それらを迅の選択のせいにしなくてもいいのだと、初めて思えた。
迅は靴紐へ目を落とした。結び目を指で確かめ、それから立ち上がる。
「分かった」
「明日、逃げるなよ」
「逃げてない」
「じゃあ、今まで何だったんだ」
「準備」
「都合のいい言葉だな」
「湊も、走る前は準備するだろ」
「俺は三回も結び直さない」
「今日は二回だった」
「数えてたのか」
「見てた」
迅がそう言った。
その言葉は、引退レースの朝と同じだった。
けれど今度は、胸の奥に刺さらなかった。何百回も見られてきたことを、僕は急に重いものではなく、並んできた時間の一部として受け取れた。
僕たちはフェンス際を離れた。
歩き始めると、歩幅が自然にそろった。どちらから合わせたわけでもない。昔からそうだった。けれど、以前のように同じ行き先へ向かう歩き方ではなかった。
同じ速さで、別の場所へ進む。
そのことが、まだ少し怖かった。
校舎の放送が、文化祭準備の終了時刻を告げている。乾いた声が夕方の空気を通り抜け、校庭の端で途切れた。
僕は一度だけ、北陵トラックを振り返った。
白線は夕方の影に隠れ、昨日のゴールはもう見えなかった。けれど、見えないからといって、そこを走った時間まで消えたわけではない。
ポケットの中で、指先を握る。
紙の硬さは、まだ残っていた。今度はそれを、手放そうとは思わなかった。
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