第6話 空白欄と生活の匂い

進路指導室の扉を開けると、校庭の音が一枚のガラスを隔てた向こうへ退いた。

廊下では、文化祭の看板を運ぶ生徒たちが笑いながら走っていた。段ボールの角が壁にぶつかる音、誰かを呼ぶ声、遠くで流れる校内放送。けれど室内には、それらが薄い膜を通ったようにしか届かない。代わりに、古い紙と朱肉と、冷めたコーヒーの匂いが残っていた。

佐伯先生は机に向かい、何枚かの書類を順番に重ねていた。僕が入ってきたことには気づいているはずなのに、すぐには顔を上げない。赤いボールペンの先で紙の角を揃え、束の端を軽く叩く。その手つきは、迅がプリントを整えるときのものに少し似ていた。

「座って」

先生が言った。

僕は椅子を引いた。脚が床を擦り、静かな部屋に音が残る。膝の上で手を組むと、指先が落ち着かなかった。考え込むと紙の端を撫でる癖がある。けれど今、机の上に紙はない。親指が人差し指の側面を何度もなぞった。

先生は、僕の前に進路調査票を一枚置いた。

志望校の欄は空白だった。

第一志望、第二志望、併願校。いくつかの枠が並んでいるのに、僕の紙には名前がひとつもない。保護者記入欄だけが、まだ白いまま残っている。

「空欄が多いな」

「まだ決めてないので」

「決めていないのか。決めないままにしているのか」

僕は紙を見た。白い欄が、トラックのレーンよりも広く見えた。走る場所なら、白線を踏まないようにすればいい。スタートの合図が鳴れば、身体が先に動く。けれど、この紙には合図がない。いつまで立っていても、誰も笛を吹いてくれない。

「同じ大学を書くと思ってました」

言ってから、誰のことを指しているのか説明しなくても、先生には伝わっている気がした。

先生は返事をしなかった。机の端に置かれた古い大学案内を一冊、僕の用紙の横へ移した。表紙には、何年も前の学生たちが笑っている。写真の色が少し褪せていて、彼らがどこで何をしているのかは、もちろん分からない。

「相沢のことか」

「……はい」

「進路の話をしたのか」

「聞きました。でも、ちゃんとは」

僕は言葉を止めた。話した、と言えるほど話していない。なんで、と聞いて、いろいろあると返されただけだ。あとで話す。まだ言えない。順番がある。迅の言葉はどれも短く、扉のように閉じていた。

先生は僕の手元を見た。

「お前は、空白を見つけると数える癖があるな」

「空白を?」

「用紙の欄。走る前もそうだ。スタートラインからゴールまでの距離を、目で何度も測る。風向きを確かめて、足の置き場を決める。迷っているようには見えないが、迷いを減らすための準備をしている」

僕は何も言えなかった。

先生は、進路調査票の空白を指で軽く押さえた。

「空白の数を数える癖があるなら、埋める順番も自分で決めろ」

声は低く、平らだった。励ますようでも、責めるようでもない。ただ、僕の前に一枚の紙を置き、その上に残った白さを見せている。

「相沢はもう決めたんですか」

「本人が決めたと言ったのか」

「そうじゃないです。でも、別の大学名を書いていた」

「それなら、少なくとも考えた。考えた結果を紙に置いた。それだけだ」

「それだけ、ですか」

「お前は今、相沢がどこへ行くかを知りたいのか。それとも、相沢が自分より先に進んだことを認めたくないのか」

胸の奥で、昨日のゴール直後に感じた空白が動いた。

勝ったはずだった。自己ベストも出た。迅の前でゴールした。それなのに、タイム表を受け取ったとき、数字より先に迅の呼吸を探した。彼が何を思っているのか、悔しがっているのか、もう別のことを考えているのか。そればかり気にしていた。

「……分かりません」

「分からないなら、そこから始めればいい」

先生は大学案内の表紙を僕の方へ向けた。

「勝てる道を選びたいのか」

「はい」

「行きたい道を選びたいのか」

僕はすぐに答えられなかった。

先生は急かさなかった。窓の外で、金属製の脚立を引きずる音がした。校庭の土を車輪が削り、乾いた音がガラスを震わせる。ガラス越しの北陵トラックは、午後の光で白く霞んでいた。昨日まで僕らが走っていたレーンも、ここからではただの赤茶けた帯にしか見えない。

「勝てるかどうかと、行きたいかどうかを同じ欄に書くな」

先生が言った。

「競技では、記録が出れば勝ち負けは決まる。進路はそうじゃない。続けられるか、生活できるか、そこで何をしたいか。いくつもの条件を引き受けて、それでも自分が選んだと言える場所を決める」

「でも、条件を考えたら、行きたいところに行けないこともある」

「ある」

先生はあっさり答えた。

「だから苦い。苦いから、他人に決めさせるな」

僕は顔を上げた。

「相沢も、そういうことを考えてるんですか」

先生はすぐには答えなかった。赤いボールペンを机に置き、窓の外へ目を向ける。

「相沢のことは、相沢が話す」

「先生は知ってるんじゃないですか」

「知っていることと、私が言っていいことは別だ」

「でも、あいつは何も言わない」

「言わないことにも、その人なりの理由がある。お前が納得できるかは別としてな」

僕は紙の端に指を置いた。薄い紙なのに、指先へ硬さが返ってくる。迅の進路調査票に触れたときも、同じように感じた。たった一文字の違いが、紙の上でなく、僕と迅の間に刻まれたようだった。

「僕は、同じ大学に行きたいと思っていたのかもしれません」

言葉にしてみると、頼りなかった。

「ずっと同じ志望校を書いてきたから、それが自分の希望なのか、迅と同じ場所へ行くためなのか、分からなくなってます」

先生は僕の顔ではなく、手元を見ていた。

「それは恥ずかしいことじゃない」

「でも、ひどくないですか。迅が別の道を選んだら、腹が立つんです。自分で決めることなのに、置いていかれたみたいに思う」

「ひどいとは思わない。だが、それを相沢の責任にするなら話は別だ」

その言葉は、机の上へ静かに置かれた石のようだった。

僕は反論しようとして、やめた。迅を責めたいわけではない。責めたいわけではないのに、言わずに決めたことが許せない。自分だけが知らない場所で、何かを考え、選び、進もうとしていたことが悔しい。

先生は書類を一枚、僕の方へ押し出した。

「今日、大学名を書けとは言わない。まず、自分がそこで何をしたいのかを書け」

「大学名じゃなくて?」

「大学名は後からでも書ける。名前だけ先に書くと、その名前に自分を合わせ始める」

「そんなに簡単に書けますか」

「簡単だとは言っていない」

先生は冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦い顔もしない。

「走りながら、自分のフォームのことを考えたことはあるか」

「あります」

「考えすぎて、足が止まったことは」

「……あります」

「進路も同じだ。考えないと選べないが、考え続けるだけでは進めない。どこかで足を置く必要がある」

僕は紙の白い欄を見た。

足を置く。

スタート前、ブロックに足を置くとき、僕はいつも一度だけ靴底を確かめる。滑らないか。角度は合っているか。力を逃がさないか。けれど、確かめ終えたら、あとは蹴るしかない。

「お前は、走る時も考え込む時も、相手の背中を見る癖がある」

先生が言った。

「自分の足元を見ろ」

「足元を見たら、迅のことを考えなくて済みますか」

「そんな都合よくはならない」

先生の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。だがすぐに消えた。

「相手を見ながらでも、自分の足で立つことはできる」

進路指導室を出ると、廊下の空気が急に薄く感じられた。

紙と朱肉の匂いから離れ、絵の具と埃と、どこかで開けられた缶コーヒーの匂いが戻ってくる。廊下の窓から射した光が床に細長く伸び、僕の影はその中で歪んでいた。

階段を下りながら、僕は進路調査票を三つ折りにした。折り目を揃え、指の爪で強くなぞる。紙は簡単に形を変えたが、折っただけで何かが決まったわけではない。

家に帰ると、玄関には母の靴しかなかった。

台所から水の流れる音が聞こえる。僕が鞄を置くと、美佐子は振り返らずに言った。

「弁当箱、出して」

「今?」

「今。明日の朝、洗ってないと困るから」

僕は鞄から弁当箱を取り出し、流し台の横へ置いた。蓋を開けると、卵焼きの匂いと、冷めたご飯の匂いがわずかに残っていた。昼に一個しか食べなかったことを、母はまだ知らない。知らないままでも、たぶん弁当箱の中身を見れば分かる。

「残したの」

「少し」

「少しじゃない」

美佐子はスポンジに洗剤をつけ、弁当箱の角を丁寧に擦った。水が金属の底を打ち、細い音を立てる。

「面談、来週の木曜」

「知ってる」

「調査票は明日提出」

「それも知ってる」

「知っているのに、空欄のまま?」

僕は冷蔵庫に貼られた予定表を見た。学校から配られたプリントが、磁石で何枚も留められている。進路調査票の提出日。保護者面談の日。模試の日。赤いペンで書かれた数字が、台所の白い壁に並んでいた。

「まだ決めてない」

「決めてないのと、書けないのは違うでしょう」

母は弁当箱をすすぎ、布巾の上へ伏せた。

「書きたいところはあるんじゃないの」

「ある。でも、家から遠い」

「遠いね」

「学費もかかる」

「かかる」

「下宿になるかもしれない」

「なるかもしれない」

母は、僕の言葉を否定しなかった。代わりに、ひとつずつ同じ重さで受け取った。そういうところが、僕には時々きつい。大丈夫、と先に言ってくれれば、反発もできる。無理だと言われれば、怒ることもできる。けれど母は、通学距離も学費も、ただ事実として台所の上へ並べる。

「お母さんは、どうすればいいと思う」

訊くと、母は蛇口を閉めた。水の音が止まり、台所に冷蔵庫の低い唸りだけが残った。

「私が決めるの?」

「そうじゃない」

「じゃあ、自分で決めなさい」

「簡単に言うなよ」

「簡単だとは言ってないでしょう」

母は濡れた手を布巾で拭き、冷蔵庫の予定表から一枚の紙を外した。家計簿のメモらしい。数字がいくつも並んでいる。

「通える範囲なら、学費と定期代を合わせてこれくらい。下宿なら、これに家賃と食費が足される。奨学金を使うなら、卒業したあとに返すお金になる。数字を見ないで、行きたいだけ言うのは自由じゃない。あとで誰かに払わせるだけ」

僕は黙っていた。

「でも、数字を見たからって、行きたいものを捨てろとも言ってない」

母はメモを折り、僕の前に置いた。

「条件から逃げないで決めなさい。無理なら無理で、別の道を探す。少し遠回りしてもいい。大事なのは、あとで『お母さんがそう言ったから』って言わないこと」

「そんなふうに言うつもりはない」

「今はね」

母の言葉は冷たく聞こえた。けれど、その冷たさの奥には、僕の代わりに選ばないという意志があった。お金のことも、通学のことも、母は背負っている。だからこそ、最後の名前だけは僕に書かせようとしている。

「迅が、別の大学を書いてた」

気づくと、口に出していた。

母は驚いた様子を見せなかった。弁当箱の蓋を布巾で拭きながら、ただ聞いている。

「ずっと同じところを目指してたのに。あいつは何も言わないで、別のところに決めようとしてる」

「相沢くんの家にも、相沢くんの事情があるでしょう」

「分かってる。でも、腹が立つ」

「そう」

「勝手だと思う」

「そう思うのも、あなたの自由」

母は蓋を弁当箱に重ね、留め具を閉じた。

「ただ、腹が立つことと、相手が悪いことは別よ」

先生にも似たことを言われた。僕はそれを聞いて、余計に苦しくなった。大人たちは簡単に、別々の箱へ気持ちを分けていく。羨望。怒り。友情。責任。現実。僕の中では全部が絡まって、ひとつの重い塊になっているのに。

「じゃあ、腹が立つまま決めてもいいの」

「腹が立ったままでも、考えることはできるでしょう」

母は味噌汁の鍋を温め直し始めた。蓋の隙間から湯気が上がり、昆布と味噌の匂いが台所へ広がる。

「きれいな気持ちになってから決めようとすると、いつまでも決まらない。悔しくても、羨ましくても、生活は続く。食べて、寝て、学校へ行って、締切が来る。その中で決めるしかないの」

湯気が眼鏡のように視界を曇らせた。僕は目をこすらなかった。

夕食の席で、母は何も急かさなかった。味噌汁は少し熱く、ご飯は昼よりうまく感じた。僕は弁当を残したことを黙っていたが、母もそれを責めなかった。

食べ終えると、自分の部屋へ戻った。

机の上には、昼休みに朔から借りた大学案内と、進路調査票の下書きが置いてある。僕は椅子に座り、書類を一枚ずつ並べた。進路調査票。家計のメモ。大学案内。昨日の引退レースのタイム表。

黒い数字と、空白の欄と、遠い大学の写真が同じ机の上にある。

タイム表を手に取った。十秒四八。自己ベスト。迅に勝った記録。紙の端は汗で少し波打っている。勝利の証拠のように思っていたが、今見ると、それは昨日の自分がどこまで走ったかを示すだけの紙だった。

その横に、進路調査票を置く。

志望校の欄には、まだ何もない。

僕は鉛筆を持った。大学名ではなく、理由を書けと言われたことを思い出す。けれど理由は、大学名よりも書きにくかった。

走ることを続けたい。

それだけでは、あまりに曖昧だった。迅に勝ちたい。そう書くのは違う。迅と同じ場所へ行きたい。そう書くのも違う。走ること以外の自分を見つけたい。だが、それもまだ、誰かの言葉を借りているようだった。

僕は紙の端を指で撫でた。

昼間、迅の調査票に触れたときの感触が戻ってくる。見知らぬ大学名が、あいつの字で書かれていた。まっすぐで、迷いのないように見える字。その下に、消しゴムで擦った跡があることを、僕は思い出した。

教室で見たときには気づかなかった。だが、あの紙には、大学名の横に薄い灰色の筋が残っていた。何度も書き直したような、消しきれない跡。

迅だって、最初から迷わずに別の道を選んだわけではないのかもしれない。

そう考えた途端、胸の中の怒りが消えることはなかった。羨ましさも、置いていかれる怖さも残っている。ただ、迅が何も感じずに僕を越えていったのではないという可能性が、暗い部屋の中に小さな隙間を作った。

僕はシャープペンを置いた。

窓の外では、風が乾いた木の葉を動かしていた。部屋の中は静かで、紙をめくる音だけが残る。遠くの道路を車が走り、音が低く伸びて消えた。

明日、迅にもう一度聞こうと思った。

今度は、大学名の理由だけではなく、何を捨てて、何を残そうとしているのかを。

そして、僕自身も書かなければならない。迅と同じかどうかではなく、僕がそこで何をしたいのかを。勝てるかどうかではなく、負けたあとにも続けられるものを。

紙の空白は、まだ埋まっていない。

けれど、白い欄を見つめるだけだった昨日とは、少し違っていた。空白は、何もない場所ではない。まだ自分の名前を置いていない場所だ。

僕は下書き用紙の端を三つ折りに揃え、机の中央へ置いた。

その上に、引退レースのタイム表を重ねる。

昨日までの記録と、これから書く言葉が、紙一枚分の距離で並んでいた。

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