第5話 進路資料棚の前で

昼休みのチャイムが鳴ると、教室の中の空気が一斉にほどけた。
椅子を引く音、弁当箱の蓋が開く音、廊下へ飛び出していく足音。窓の外からは、文化祭の準備で誰かが木材を運ぶ掛け声が聞こえてくる。けれど、その賑やかさは、昨日までの部室にあったものとは違っていた。陸上の声には、息を詰める瞬間がある。誰かがスタートに入るとき、周囲の音が少しだけ遠のき、ひとつの身体とひとつの線に、空気が集まる。
学校の昼休みには、そういう集中がない。
ないはずなのに、僕の頭の中だけでは、迅の背中が何度もスタートラインから遠ざかっていた。
机の上に置いた弁当箱を開けても、箸が進まなかった。母が入れた卵焼きの端をつつき、冷えたご飯をひと口食べる。味はした。けれど、何を食べているのか、舌の上でほどける前に消えていった。
向かいの席では、朔が新発売らしい青いボトルの飲料を振っていた。ラベルには、速そうな名前の英単語が大きく印刷されている。
「これさ、飲んだら足が速くなるって書いてある」
「書いてないだろ」
「書いてある。ほら、疾走感アップ」
「それ、味の説明じゃないか」
「つまり気分の問題だろ。気分が速くなれば、実質タイムも速い」
朔はキャップを開け、匂いを嗅いだ。眉間にしわを寄せる。
「……湿布みたいな匂いする」
「飲むなよ」
「買ったから飲む。俺は無駄を嫌わない男なんだ」
「いつもシューズ忘れるくせに」
「それとこれとは別の無駄だ」
朔は一口飲んで、すぐに顔をしかめた。僕は笑いそうになったが、口元まで届く前に止まった。
朔はボトルを机に置いた。机の表面に、薄い水滴が丸く残る。
「なあ」
「何」
「その顔、昼飯がまずいからじゃないよな」
「普通」
「普通の人は、卵焼きを十五分かけて一個食わない」
僕は箸を置いた。
「食べてるだろ」
「食べてるけど、競技場で言えば、スタート地点から動いてない」
「陸上で例えるなよ」
「陸上部だからな、俺たち」
朔は笑った。けれど、僕の顔を見たまま笑い終えなかった。相手が笑わないとき、朔は自分だけ笑い続けることをしない。軽口を投げて、返ってくるものがなければ、そこに残った沈黙を拾い上げる。
「行くぞ」
朔が立ち上がった。
「どこへ」
「散歩。食後の運動。お前はどうせ、午後の授業中も迅の大学名を思い出して、ノートに同じ字を何十回も書くから」
「書かない」
「じゃあ確認しに行く」
「何を」
「お前がどれだけ面倒くさい顔をしてるか」
朔は僕の弁当箱を覗き込んだ。
「それ、残すなよ。おばさんにばれるぞ」
「分かってる」
「なら来い。食べ終わるまで待つほど、俺は優しくない」
僕は弁当箱を閉じた。蓋の留め具を二度確かめる。気まずさを感じると、荷物を整えたくなる。朔はそれを見ていたが、何も言わなかった。
教室を出ると、廊下の窓から乾いた光が差し込んでいた。床に伸びた光の帯を横切るたび、靴底が少しだけ滑る。ワックスの匂いと、遠くの絵の具の匂いが混じっていた。壁際には文化祭用のパネルが立てかけられ、その隙間から、使い終わった刷毛の毛先が何本も突き出している。
僕たちは階段を下りた。
朔は先に二段飛ばしで降りかけたが、途中で僕の歩幅に合わせた。中距離を走るときもそうだった。最初から速く行きすぎず、相手の呼吸を見ながら半歩前を取る。僕が追いつこうとすれば待ち、離れれば振り返る。自分が目立つ走り方ではないのに、最後まで隣から消えない。
「どこ行くんだよ」
「職員室前」
「進路資料棚?」
「そう」
「見たくない」
「見たくない顔で歩いてるから、見るんだよ」
階段の踊り場で、朔は窓の外へ顎を向けた。校庭には文化祭の立て看板が何枚も並び、風にあおられて一枚が傾いていた。赤茶けた土の上に、色とりどりの看板だけが浮いて見える。
「昨日までなら、あそこに立ってたら走ってたのにな」
朔が言った。
「誰が」
「俺たち。お前と迅と、あと俺。まあ、俺は短距離じゃないけど」
「お前は勝手に同じ線に入ってくるだろ」
「だって、二人だけにすると空気が悪いから」
「悪くしてるのは迅だ」
「そこはお前もだよ」
朔は言い切った。からかう声ではなかった。
僕は階段の手すりに手を置いた。金属が冷たい。階下から、誰かが走ってくる足音が聞こえ、僕たちの横を一年生が二人、笑いながら通り過ぎていった。すれ違いざまに、片方が「陸上部、引退したんだよな」と言った。もう一人が「でも受験あるじゃん」と返した。
受験。
その言葉が、階段の踊り場に残った。
朔は聞こえなかったふりをして、先に歩き出した。僕も続いた。
職員室前には、進路資料棚が置かれている。ガラス戸のついた古い棚で、扉の取っ手だけが何度も拭かれたように白くなっていた。中には大学案内のパンフレットが詰め込まれている。赤、青、紺、白。表紙の色はばらばらなのに、どれも似たような笑顔と、似たような空の写真を載せていた。
棚の前には、三年生が数人いた。誰も大声では話さない。パンフレットを取り出すときも、戻すときも、紙を傷めないようにしている。紙一枚で将来が決まるわけではないと知っているくせに、紙一枚を雑に扱うことには、妙なためらいがある。
朔は僕の肩を軽く叩いた。
「ほら、着いた」
「見れば分かる」
「じゃあ、見ろ」
「何を」
「全部」
朔は棚の扉を開け、一冊のパンフレットを引き抜いた。わざと大きな音を立てて、ページをめくる。乾いた紙の音が、廊下の静けさに広がった。
「お前、迅の大学名より紙の厚みのほうが気になる顔してるぞ」
「意味が分からない」
「分からなくていい。俺には分かる」
朔はパンフレットを僕の胸元へ押しつけた。受け取ると、表紙の厚紙が掌に硬く当たった。大学の校舎らしい写真。緑の多いキャンパス。学生たちの笑顔。どれも、僕の生活からは少し離れた場所にあるものに見えた。
「お前、怒ってるだろ」
「何に」
「迅に」
「別に」
「その返し、迅と同じだぞ」
僕はパンフレットを閉じた。
「進路は迅が決めることだろ。俺には関係ない」
「関係ない顔じゃない」
「顔の話ばっかりするなよ」
「だって顔に出ないぶん、手に出てるから」
「手?」
朔は僕の右手を指した。
「さっきから紙の端、撫でてる。お前、考え込むとそれやるだろ。進路調査票を見たときもやってた」
「見てたのか」
「見てた」
「いつから」
「お前が迅の欄で止まったときから」
僕はパンフレットの端から指を離した。離した途端、指先に残っていた紙の感触が強くなった。
「……盗み見したみたいに言うなよ」
「盗み見はしただろ」
「回収してただけだ」
「見えたんだろ」
「そうだよ。見えた。だから何だよ」
声が思ったより大きくなった。職員室の扉の向こうで、誰かが椅子を引く音がした。棚の前にいた三年生が、一瞬だけこちらを見てから、すぐにパンフレットへ視線を戻す。
朔は笑わなかった。けれど、責める顔もしなかった。
「だから、何だろうな」
彼は棚から別のパンフレットを取り出し、表紙を僕の持っているものと並べた。
「これ、迅が書いた大学。こっちは、お前が前から書いてた大学。名前は違うけど、どっちも大学だ。どっちも、今日の昼にはまだ紙の上にしかない」
「だから」
「なのに、お前は迅のほうだけ見てる」
僕は返事をしなかった。
パンフレットの表紙には、見知らぬ学生が笑っていた。笑顔の向こうに何があるのか、僕には分からない。学費も、通学時間も、入試の難しさも、そこで過ごす四年間の重さも。ただ、迅の調査票に書かれた大学名だけは、知りたくないのに知ってしまった。
「俺は、別に、同じ大学に行きたいって思ってたわけじゃない」
口に出した瞬間、嘘が混じっているのが分かった。
朔は何も言わず、パンフレットの角をそろえた。彼は紙を受け取ると、いつも端を揃える。部室でも、練習日誌でも、くだらないメモでも。乱れているものを見つけると、手を伸ばして形を整える。
「同じ大学に行きたいんじゃなくて、同じ場所へ行くと思ってたんだろ」
「違う」
「何が違う」
「……分からない」
それは、今日初めて口にした正直な答えだった。
朔はパンフレットを閉じた。紙と紙が触れ合う音がした。
「俺もさ、最初は迅が大学を変えたこと自体が問題なのかと思ってた」
「違うのか」
「違う。いや、変えたことも問題にはなってる。でも、お前が引っかかってるのは、大学名じゃない」
「じゃあ何だよ」
「距離」
その言葉が、廊下の床へ落ちた。
僕は窓の外を見た。校庭の向こうに、北陵トラックの一部が見える。赤茶けた土は、ここからだと細い帯にしか見えない。白線も、スタート地点も、昨日のゴールも、建物の影に隠れていた。
「迅が先に別の道へ行く気配がする」
朔が言った。
僕はパンフレットを握った。厚紙の角が指の腹に食い込む。
「先にって、何だよ。別に、あいつが先に決めたからって、俺が遅れてるわけじゃない」
「うん」
「俺は俺で決めればいい」
「うん」
「だから、関係ない」
「うん」
「……その『うん』やめろ」
「何で」
「分かったふりしてるみたいで腹が立つ」
朔は少し考えるように顎へ手をやった。何かを言う前に、いつも一拍置く。ふざけているように見えるが、相手の返事を待つための間だと、僕は知っている。
「分かったふりはしてない。俺が分かるのは、お前が迅に置いていかれるのを嫌がってるってことだけだ」
「置いていかれるって、俺たちは競争してるんだぞ」
「そうだな。だから、いつもなら置いていかれたら追えばいい。でも今回は、追いつけば同じ大学に行けるって話じゃない」
朔は棚を見上げた。
「大学は、トラックみたいにレーンが引いてないからな。スタートも同じじゃない。家から通うやつもいれば、金のことを考えるやつもいる。陸上だけで決められないやつもいる。お前も、たぶんそれを分かってる。分かってるから、余計に怒ってる」
「何で怒るんだよ」
「分からないままだからだろ」
朔の声は静かだった。
「迅がどんな理由で変えたのか、お前は知らない。知らないまま、あいつだけ先に自分のことを考えてたみたいに見える。自分はまだ、迅と同じ大学に行くってことを、理由もなく握ってた。それに気づかされたから、腹が立つ」
僕は視線を落とした。
棚の下段に、地方大学の案内が並んでいる。表紙の隅に、最寄り駅からの所要時間が小さく記載されていた。電車で何分。徒歩何分。数字がいくつも並んでいる。タイム表のように正確なのに、そこには勝者も敗者も書かれていない。
「俺は、迅に勝ちたかった」
言葉が、思ったより簡単に出た。
「それは知ってる」
「ずっと勝ちたかった。練習でも、試合でも、最後のレースでも。あいつより速く走って、あいつの前でゴールして、自分のほうが上だって確かめたかった」
「うん」
「でも、あいつがいなくなればいいとは思ってない」
朔は黙っている。
「勝っても、あいつが次のレースにいなかったら、何を見ればいいのか分からない。俺はたぶん、あいつの背中を追うことで、自分がどこにいるか確かめてた。あいつが前にいれば追えばいいし、後ろにいれば振り切ればいい。そうやって走っていれば、自分が何者か考えなくて済んだ」
自分で言ってしまうと、ひどく幼いことのように聞こえた。
僕はこれまで、記録を積み上げてきた。タイム表に残る数字。大会の順位。自己ベスト。けれど、その数字のどれも、僕が走る理由を直接は語ってくれない。
迅に勝ちたい。
それは確かだった。
でも、迅と同じ場所に立っていたい。
それも、同じくらい確かだった。
「それってさ」
朔が言った。
「勝ちたい相手が、いなくならないでほしいってことだろ」
「言うなよ」
「言わないと、お前ずっと自分で分からないふりするから」
「分からないふりじゃない。分からないんだよ」
「じゃあ、今分かった」
「勝手に決めるな」
「決めてない。仮置き」
朔はパンフレットの表紙を指で叩いた。
「進路調査票だって、仮の欄があるんだろ。仮置きでいいんだよ。今日すぐ答えを出さなくても、今の自分が何に引っかかってるかくらいは、書いていい」
僕はパンフレットを見下ろした。
「お前は、どうなんだよ」
「俺?」
「お前も進路、決めてないだろ」
朔の指が止まった。
いつもなら、ここで冗談を返すはずだった。適当な大学名を言うか、将来は自販機の新作評論家になるとでも言うか。けれど、朔はすぐに笑わなかった。
「決めてない。というか、決めたくない時期が長かった」
「何で」
「決めたら、今までのことが終わる気がするから」
僕は朔の顔を見た。
「陸上が?」
「陸上だけじゃない。部活で毎日会ってたやつらと、同じ練習をして、同じ帰り道を歩くこと。そういうのが、進路の欄に大学名を書いた瞬間、もう過去になる気がしてさ」
朔は肩をすくめた。
「でも、書かなくても過去にはなる。引退した時点で、朝練はなくなった。部室の匂いも薄くなった。俺たちが何もしなくても、時間は勝手に先へ行く」
「……分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「また顔かよ」
「じゃあ足元。お前、さっきから右足だけ靴先が外向いてる。走る前も、迷ったときもそうなる」
僕は自分の足元を見た。確かに右足のつま先が、廊下の窓の方を向いていた。走るときなら、接地がわずかに乱れている。
朔が小さく笑う。
「な。お前は身体のほうが先に分かってる」
「何を」
「自分が、迅を追いたいのか、引き止めたいのか」
僕は答えられなかった。
職員室の中から電話の呼び出し音が鳴った。誰かが「はい、北陵高校です」と応じる。廊下の端では、面談を待つ生徒が膝の上に書類を置き、何度も角をそろえていた。
進路資料棚は、大学の名前を並べているだけなのに、そこにいる人間の時間まで整理しようとしているように見えた。三年生。受験生。志望校。第一志望。併願校。保護者署名。締切。紙の上に並べられた言葉が、走っているときには存在しなかった種類の重さを持っている。
朔が、僕の手からパンフレットを取った。
「これ、借りるか?」
「いらない」
「読まないのか」
「まだ」
「まだ、ねえ」
朔はパンフレットを棚へ戻そうとした。だが、途中で手を止める。
「一冊くらい持って帰ればいい」
「何で」
「迅の大学じゃなくて、お前の行き先を考えるため」
「俺の行き先なんて、まだ決まってない」
「決まってないから見るんだろ」
「見たら決まるのか」
「決まらない。たぶん、もっと迷う」
朔はパンフレットを差し出した。
「でも、迷う場所が変わる。今のお前は、迅の背中を見ながら迷ってる。少しぐらい、自分の足元を見て迷えよ」
僕はパンフレットを受け取った。
掌に残る厚みは、思ったより重かった。大学案内の重さなのか、まだ名前のない未来の重さなのか、区別がつかなかった。
「まあ、どれ選んでも今日の授業は来るけどな」
朔が笑った。
「現実って、そういうところだけ律儀なんだよ。人生が揺れてても、五限は始まる。眠くても、チャイムは鳴る。迅が別の大学を選んでも、お前は腹が減る」
「俺は今、腹減ってない」
「嘘つけ。弁当、卵焼き一個しか食ってないだろ」
「見てたのか」
「見てるよ。友達だから」
その言葉は、軽口の形をしていなかった。
朔はすぐに視線を逸らし、廊下の先を見た。僕もパンフレットを胸に抱えたまま、同じ方向へ目を向ける。窓の外では、傾いていた看板が誰かに直されていた。赤い画用紙の文字が、風にあおられて揺れている。
「友達って、便利だな」
僕が言うと、朔は鼻で笑った。
「便利じゃない。面倒だぞ。相手が勝手に落ち込んで、勝手に怒って、勝手に人の大学まで見て、しかも何も言わない」
「悪かったな」
「ほんとにな」
朔は軽く肩をぶつけた。
「でも、面倒だから残るんだろ」
肩に触れた衝撃は小さかった。けれど、昨日のレース後に受けたものとは違っていた。あのときは勝利を確かめるための接触だった。今のそれは、僕がまだここにいることを確かめるような手つきだった。
予鈴が鳴った。
廊下にいた生徒たちが一斉に動き出す。パンフレットを棚へ戻す者、書類を抱えて走る者、友達と話しながら教室へ向かう者。人の流れが、階段の方へ細く集まっていく。
僕も歩き出した。
職員室前から教室へ戻る廊下は、行きより短く感じた。朔は僕の隣を歩いていたが、今度は何も言わなかった。階段を上がると、踊り場の窓からトラックが見えた。赤茶けた土の上を、風が薄く撫でている。白線はここからでは見えない。
僕はパンフレットの端を指でなぞった。
その硬さは、迅の進路調査票とは違っていた。
同じ紙なのに、誰かの名前が書かれていないだけで、触れたときの意味が変わる。迅の大学名を見たとき、僕はそこに自分の知らない場所を感じた。今、手の中にあるパンフレットからは、まだ何も決まっていない空白が伝わってくる。
空白は、怖かった。
けれど、迅の背中だけを見て走るよりは、自分の足元に近い怖さだった。
教室の前まで来たところで、朔が立ち止まった。
「それ、放課後までに返せよ」
「借りたのか?」
「勝手に持ってきたからな。先生に見つかったら、お前の名前を言う」
「最低だな」
「友情価格だよ」
朔は笑った。今度は、僕も少しだけ笑えた。
教室へ入る前に、僕は廊下の窓をもう一度見た。トラックは建物の向こうに隠れかけていた。昨日までなら、見えなくなった時点で何となく不安になったかもしれない。今日は、見えないからといって消えたわけではないことを、ほんの少しだけ信じられた。
席に戻り、パンフレットを机の中へしまう。
その上に、教科書を重ねた。紙と紙が触れ、乾いた音がする。
午後の授業のチャイムが鳴った。
先生が教室へ入り、黒板に今日の日付を書く。クラスメイトたちは一斉にノートを開いた。僕もシャープペンを手に取ったが、すぐには文字を書けなかった。
迅が、教室の反対側でノートを開いている。
視線を向けると、迅は一度だけこちらを見た。目が合った。ほんの短い時間だった。迅の視線は、すぐに黒板へ戻る。
僕はその動きを追わなかった。
机の中のパンフレットに手を置く。厚紙の表紙が、制服越しに膝へ当たった。
迅の行き先を知りたい。
それでも、迅と同じ場所へ行きたいからではない。あいつが何を背負って、何を選ぼうとしているのか、自分の知らないまま遠ざかってほしくないからだ。
そう思った直後、別の考えが浮かんだ。
では、迅がどんな理由であっても、別の道を選んだら。僕はその選択を、悔しいと思わずにいられるのか。羨ましいと思わずにいられるのか。置いていかれたように感じずにいられるのか。
答えは、まだ出なかった。
ただ、分からないままでも、パンフレットを捨てずに持っていることはできた。
黒板に書かれた文字を写す。最初の一行は少し曲がった。僕は消しゴムを使わず、そのままにした。
消して書き直せば、きれいにはなる。
けれど、最初に引いた線が残っているほうが、今の自分には正直な気がした。
← 横にスクロールして読み進められます
