第4話 なんで、としか言えない朝

文化祭準備の段ボールが、廊下のあちこちに積まれていた。色画用紙の束、ガムテープの芯、誰かが描きかけてそのまま放置したベニヤ板。窓から差し込む光は乾いていて、埃がその中をゆっくり舞うのが見える。昼休みの廊下は、いつもより騒がしいのに、僕の耳にはなぜかくぐもって聞こえた。

進路調査票の束を、職員室から運ぶふりをして持ち出した。本当は担任に頼まれた用事はもう終わっている。ただ、紙の束を抱えていれば、理由をつけて廊下を歩き回れる気がした。迅を探すための、我ながら情けない言い訳だった。

階段の踊り場で、迅の後ろ姿を見つけた。手すりに寄りかかり、購買のパンを片手に、窓の外を見ている。何を見ているのか、僕には分からなかった。校庭か、空か、あるいは何も見ていないのか。

「迅」

声をかけると、迅は振り返った。驚いた顔はしない。いつも通り、表情の変化は薄い。けれど、僕が何を言おうとしているか、たぶんもう分かっている。そういう察しの良さが、今はひどく厄介だった。

「なんで」

それだけしか出てこなかった。言いたいことは山ほどあったはずなのに、喉のところで全部つかえて、結局その一言だけが転がり出る。

迅は一瞬だけ目を伏せた。手に持ったパンの袋の角を、指先で押さえる。紙の擦れる小さな音がした。

「まだ決め切ってない」

その言い方は、説明じゃなかった。何かに蓋をするための言葉だった。僕にはそれが分かる。長く隣で走ってきたから、迅が本当のことを言うときと、言葉で壁を作るときの違いぐらいは、呼吸の長さだけで見分けがつく。

「決め切ってないって、調査票にはもう大学名、書いてあったじゃないか」

「あれは、仮の」

「仮の、で済むのか。あの紙」

言いながら、自分の声が尖っているのが分かった。迅は答えなかった。パンの袋をもう一度握り直し、視線を廊下の向こうへ逃がす。文化祭実行委員らしい一団が、段ボールを運びながら笑い声を立てて通り過ぎていく。その明るさが、僕らの間の空気とあまりに不釣り合いで、かえって気まずさを際立たせた。

「迅、俺は」

言いかけて、続きが出てこない。俺は、何だ。裏切られたと思っている。なのに、その言葉を口にすれば、自分がひどく子供じみて聞こえる気がした。進路は個人のものだ。迅が何を選ぼうが、本来なら僕がとやかく言う筋合いはない。頭では分かっている。分かっているのに、紙の端を見たときの、あの指先に残る硬さが消えてくれない。

「湊」

迅が、僕の名前を呼んだ。短く、でもその一言に何かを堪えているような響きがあった。

「いろいろある」

「いろいろって、何だよ」

「今は、それしか言えない」

その日は、それで終わった。

次の日は、部室の入口だった。練習がなくなったはずの部室に、僕は特に用もないのに寄っていた。迅も同じように、荷物を取りに来たのか、ロッカーの前に立っていた。

「迅」

また同じ呼びかけになる。自分でも分かっていた。これでは、同じ場所を堂々巡りしているだけだと。

迅はロッカーの扉に手をかけたまま、こちらを見た。目が合う。だが、すぐに逸れた。

「話せる段階になったら、ちゃんと話す」

「段階って何だよ。お前が勝手に決めてる順番だろ」

「順番がある。説明するにも」

「説明なんて要らない。ただ、お前が何を考えてるか、それだけでいい」

言ってから、自分の言葉の矛盾に気づいた。説明は要らないと言いながら、何を考えているか教えろと言っている。結局、僕が欲しいのは理由じゃなくて、迅が僕を置いていく気配そのものを否定してほしいだけなのかもしれなかった。けれど、そんな都合のいいことを、口に出せるはずもなかった。

迅はロッカーを閉めた。がちゃん、という硬い音が、部室の静けさの中でやけに響いた。

「悪い」

それだけ言って、迅は僕の横を通り過ぎていった。肩が触れそうで触れない距離。昔なら、もっと自然に並んで歩けたはずの間隔が、今はひどく意識される幅になっていた。

昼休みが終わる予鈴が鳴り、続いて校内放送が流れた。文化祭実行委員の、少し気怠そうな声。看板の受け渡し場所、搬入の時間、備品の返却について。誰かの事情とは無関係に、学校という場所は予定通りに回っていく。廊下を急ぐ足音、椅子を引く音、プリントをめくる乾いた音。そのどれもが、迅の沈黙よりずっと親切で、ずっと簡単だった。

僕は進路調査票の束を抱え直した。紙の角が腕に当たって、少し痛い。指先には、まだあの一文字の硬さが残っている気がした。走り終えたはずのレースの続きを、僕はまだどこかで走り続けているのかもしれない。ただし今度は、ゴールがどこにあるのかも、誰と並んでいるのかも、はっきりしないまま。

何かを言い返したかった。迅の沈黙の分だけ、こちらも言葉を積み上げて、もう一度並び直したかった。けれど、言葉にすればするほど、自分の中にある本当の形が崩れていきそうで、結局、僕は何も言えなかった。

廊下の窓の外では、赤茶けた校庭に、文化祭の準備で誰かが立てた仮設の看板が、まだ中途半端な角度で傾いていた。

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なんで、としか言えない朝 - 進路の一文字 - 誰でも作家life