第3話 朝練のない部室

部室のドアを開けると、先に鼻へ来たのは匂いだった。
汗の匂いと、ゴムの匂い。何年も染み込んだそれが、壁や棚の木目の奥に沈んでいて、朝練がなくなったくらいでは消えない。けれど、今日のそれは、いつもより薄く感じた。薄いのに、消えていない。中途半端にそこにあることが、かえって気になった。
窓を開けても、風はすぐには入ってこなかった。外は赤く乾いた校庭で、文化祭の準備をするクラスの声が遠くに聞こえる。運動部の声は、もうどこにもない。僕らの代が抜けた分だけ、この部室は静かになったのだと、頭では分かっていた。分かっていても、肩に乗ってくる重みは別物だった。
何かが終わったのに、終わりきっていない。
そんな感触が、この部屋にはまだ残っている。
棚の上には、引退レースで使ったタイム表が一枚、立てかけられたままになっていた。記録係がくれたコピーを、僕自身がそこに置いた。自分の記録を忘れないようにするためだったのか、それとも迅の記録を忘れないようにするためだったのか、今となっては境目が曖昧だ。
その隣に、個人用のスパイクケースが黒く沈んでいる。蓋の金具が、窓から差す光を鈍く反射していた。
僕は無意識に、その金具へ指を伸ばしていた。
カチリ。
小さな音だった。なのに、やけに大きく聞こえた。誰もいない部室では、小さな音ほど響く。指先に残った金属の冷たさが、昨日の朝、スパイクの紐を結び直したときの感触を連れてくる。一度、二度、三度。あのとき数えられていたことを、僕はまだ忘れていない。
「それ、三回目」
あの声が、耳の奥でまだ鳴っている気がした。
ドアが開く音がして、僕は顔を上げた。
迅だった。
荷物の置き方も、手袋を外す順番も、いつも通りだった。バッグを棚の下に置き、手袋を右、左の順で外し、丁寧に畳んでポケットへしまう。無駄のない動作。見慣れすぎていて、もう何も考えずに追える手順。だからこそ、それが崩れないことに、僕は妙な安心と、妙な苛立ちを同時に覚えた。
「迅」
声をかけると、迅は軽く顎を引いた。会釈のようなものだった。
「お疲れ」
それだけだった。僕が続けようとした言葉——進路の話を、どう切り出すか考えていた言葉——は、その短い挨拶の前で行き場を失った。迅はすぐに視線をロッカーへ移し、僕のほうを見なかった。
タイム表の前に、僕らは並んで立っていた。
昨日までなら、ここで何か言葉を交わしていたはずだった。「今日の記録、どうだった」とか、「お前のあのフォーム、最後まで崩れなかったな」とか。勝敗の話でも、練習の話でも、何でもよかった。並んで立つことそのものが、会話の代わりになっていた時期が長すぎた。
今は、ただ並んで立っているだけだった。
呼吸の重なりがない。
走っているときなら分かる。隣のレーンで、迅が息を吸うタイミング、吐くタイミング。何百回も聞いてきたから、目を閉じていても分かる自信があった。けれど今、この部室の中で、僕らの呼吸はてんでばらばらに空気を揺らしている。それがどうしようもなく、僕の胸をざらつかせた。
「進路、」
言いかけた僕の声に、迅はロッカーの扉を閉める音で蓋をした。がちゃん、という硬い音。
「あとで」
「あとでって、いつも――」
「湊」
迅が初めて、僕の目を見た。短い間だった。けれど、何かを堪えるような色が、その奥にあった気がした。
「今は、ちょっと」
それ以上は何も続かなかった。僕も、それ以上を訊けなかった。訊けば、何かが壊れる気がした。何が壊れるのか、自分でもはっきりしないまま。
そこへ、ドアがもう一度開いた。
「おーっす、お前ら今日も早――」
朔の声は、途中で止まった。
部室に入ってきた朔は、僕と迅の間にある空気を、一瞬で読んだらしかった。いつもなら軽口のひとつやふたつ、挨拶代わりに飛ばしてくるくせに、今日は違った。口を開きかけて、閉じた。その動きを、僕は初めて見た気がした。
「……なんか、忘れ物でも取りに来ただけみたいな顔してんな、二人とも」
結局、朔はそう言った。無理やり絞り出したような軽さだった。僕はそれに、小さく笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「忘れ物なら、お前の方が多いだろ。シューズの忘れ物選手権、三連覇中」
「おっ、湊が口開いた。生きてる生きてる」
朔はわざと大げさに胸を撫で下ろす仕草をした。けれど、その目は僕と迅を交互に見ていて、笑いながらも真剣に空気の温度を測っているのが分かった。
「相沢、今日の帰り、どっか寄るか」
朔が迅に話を振る。普段なら、迅はそれに「別に」とか「行かない」とか、短く返すだけだった。今日もそうだった。
「いや、今日は」
「おう、分かった分かった」
朔はそれ以上を重ねなかった。重ねれば、何かを引き出してしまう。それが今はまだ、早いと分かっているような引き際だった。
僕は棚の前にしゃがみ込み、スパイクケースの蓋を開けた。
革の匂いが、ふわりと立った。
その匂いを吸い込んだ瞬間、身体の奥に、昨日の感覚が戻ってくる。地面を踏み込んだときの圧。足裏から背中へ駆け上がる衝撃。終わったはずの競争が、紙と金具と匂いを通して、まだ身体の内側に残っている。僕はその感触を、振りほどけなかった。
ケースの中のスパイクは、もう二度と公式のレースでは使わない。分かっているのに、紐の結び方や、靴底の擦り減り方の癖までが、昨日のことのように鮮やかだった。
ふと横を見ると、迅は僕の手元を見ていなかった。
タイム表も、見ていなかった。
視線はロッカーの扉の木目あたりに落ちていて、何かを数えるような、あるいは何かを避けるような、妙な静かさでそこにあった。
見ないことが、かえって僕の目を引いた。
何百回も見てきた横顔だから分かる。見ないようにしているときの迅の肩の線と、ただ興味がないときの肩の線は、違う。今の迅は、前者だった。
朔が、わざとらしく大きな音を立てて自分のバッグを棚に置いた。空気を少しだけ動かすための音だった。
「さ、今日はもう帰るか。腹減った」
その声に救われたように、僕は立ち上がった。スパイクケースの蓋を閉める。金具がもう一度、カチリと鳴った。
その音だけが、部室に取り残されたままだった。
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