第2話 教室で見た一文字

教室に足を踏み入れた瞬間、昨日までとは違う匂いがした。
汗とゴムの匂いの代わりに、絵の具と糊の匂いが廊下から流れ込んでくる。黒板の端には「文化祭実行委員会・提出締切」という文字が白いチョークで書かれ、その隣に小さく「進路調査票 明日までに提出」と添えられていた。壁には赤や黄色の画用紙が貼られ、誰かが描きかけた看板の下絵が窓際に立てかけてある。昨日まで僕の耳を満たしていたのは、スターティングブロックを蹴る音や、記録係の声や、迅の呼吸の音だった。今日はそのどれもなく、代わりに椅子の脚が床を擦る音と、紙をめくる乾いた音ばかりが響いている。
「立花、進路調査票の回収、頼んでいいか」
担任に声をかけられ、僕は窓際の席から立ち上がった。身体はまだ重い。ふくらはぎの奥に、昨日のレースの余韻が鈍く残っている。けれど痛みというより、それは何かの残響のようなものだった。
教室の端から順に紙を集めていく。生徒たちは思い思いに記入を終えた調査票を机の上に置いていて、僕はそれを一枚ずつ束ねていった。紙の端は薄く、昨夜の湿気を吸ったのか、指先に触れるとわずかにふやけている。名前の欄、志望校の欄、保護者の押印欄。見慣れたフォーマットの繰り返しが、束になるごとに少しずつ厚みを増していく。
窓際の列まで来たとき、迅の名前が目に入った。
いつもの、整った字だった。無駄のない筆圧で、はねも払いも最低限に削られている。僕はその字を何百回も見てきた。練習ノートの端、タイム表の控え、合宿の持ち物リスト。迅の字は、本人のフォームと同じくらい、余計なものがない。
だから、その下の志望校欄に目を落としたとき、僕は一瞬、自分の記憶のほうがおかしくなったのかと思った。
見慣れた大学名ではなかった。
もう何年も、迅と僕は同じ名前を口にしてきた。練習帰りの自転車置き場で、合宿の消灯後の布団の中で、模試の結果を見せ合いながら。「お前もあそこ受けるんだろ」「湊もな」。そうやって、言葉にするまでもなく当然のことのように、同じ未来を指差してきた。
なのに、今ここにある紙には、僕の知らない私立大学の名前が、迅のいつもの字で、まっすぐに書かれていた。
指先が止まる。
束ねた紙の角が、やけに硬く感じられた。僕は一度、目を離してから、もう一度その欄だけを見た。見間違いではない。同じ字、同じ筆圧、同じ升目の使い方で、ただ大学名だけが違っていた。
顔を上げると、迅は窓際でプリントの束を整えていた。角を揃え、端を軽く叩いて紙を落ち着かせる。いつもの動きだった。レースの前にスパイクの紐を確かめるのと同じ、彼の中にある決まった手順のひとつ。
けれど、僕にはその背中が、昨日より半歩遠くに見えた。
声をかけようとして、喉の手前で言葉が止まった。何を言えばいいのか分からなかったからだ。「それ、いつから」と聞くのも、「なんで言わなかった」と聞くのも、どちらもこの教室の空気には重すぎる気がした。ペンの音が、誰かの笑い声の向こうで乾いて響いている。文化祭の看板の色を相談する声、椅子を引く音、机をくっつける音。そのどれもが、僕の中にある違和感とは無関係に、当たり前の朝を作っていた。
僕は調査票を束の中に戻した。角を揃え、何事もなかったように重ねる。けれど紙の硬さだけは、指先にいつまでも残っていた。
「おい、立花。何ぼーっとしてんだよ」
振り返ると、朔が椅子を逆向きに跨いで座り、頬杖をついてこちらを見ていた。
「集めてただけだ」
「集め終わった顔じゃないだろ、それ」
「どんな顔だよ」
「紙に親の仇でも見つけたみたいな顔」
朔はそう言って笑ったが、目だけは僕の手元の束をちらりと見ていた。何かを探るような、それでいて踏み込みすぎない距離の取り方だった。彼はいつもそうだ。核心には触れず、その周りをうろついて、相手が自分から口を開くのを待つ。
「なんでもない」
「なんでもなくはないだろ。お前、昨日自己ベスト出した顔より今のほうが真剣」
「大会は終わった。次は文化祭の準備だ」
「お前が文化祭の話するの、学校始まって以来じゃね」
朔は軽口を重ねながら、椅子の背もたれに顎を乗せた。
「まあいいや。無理に聞かねえよ。でも、湊」
「なんだ」
「溜め込むタイプだもんな、お前。溜めて、溜めて、ある日急に走るみたいに全部出すだろ。それ、悪い癖だぞ」
「お前に言われたくない」
「俺は溜めずに全部口に出すタイプだから、それはそれでうざいって言われるけどな」
そう言って笑う朔の声に、担任が調査票はまとまったかと声をかけてきた。僕は束を持って教卓へ向かった。歩きながら、肩越しに窓際を見る。迅はもう席に戻り、プリントをノートに挟んでいた。何事もなかったような横顔だった。
昼休み、購買から戻る途中の廊下で、僕は迅に追いついた。
「迅」
「ん」
「進路、まだ同じ志望校書いてるのかと思ってた」
言ってしまってから、自分でも遠回りな聞き方だと思った。けれど、それ以上まっすぐには聞けなかった。
迅は一瞬だけ、視線を廊下の窓の外へ逃がした。文化祭の準備で運ばれている段ボールの山が、窓の向こうに見える。
「いろいろ、考えてる」
「いろいろって」
「まだ、ちゃんと話せる段階じゃない」
「段階って何だよ」
僕の声が、思ったより尖った。迅は一度だけ僕のほうを見て、それからすぐに視線を外した。
「悪い。今はそれしか言えない」
それだけ言うと、迅は購買の袋を持ち直し、先に廊下を歩いていった。歩き方はいつも通り、無駄のない足取りだった。けれど、その背中はやっぱり、半歩分だけ遠かった。
僕はしばらくその場に立ったまま、手の中の紙の硬さを思い出していた。見てしまった一文字が、喉の奥に小さく引っかかったまま、昼休みの喧騒の中に溶けずに残っていた。
午後の授業が始まる予鈴が鳴り、廊下の窓から差し込む光が、文化祭用の色紙を淡く透かしている。僕は教室へ戻りながら、もう一度だけ振り返った。迅の後ろ姿は、もう見えなかった。
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