第1話 引退レースの朝

北陵トラックの土は、朝の光をまだ飲み込めずにいた。

赤茶けた表面に校舎の影が斜めに落ち、白線のところだけが妙に明るい。夜の湿り気を残した土は、スパイクの底で踏むと、乾ききらない菓子のようにかすかに崩れた。スターティングブロックの金具には露がつき、触れてもいないのに指先まで冷たさが伝わってくる。

僕はスパイクの紐を結び直した。

一度。ほどく。

もう一度。結び目を締め、余った紐を左右同じ長さにそろえる。いつも練習前にやっていることなのに、今朝はそれで足りなかった。結び目を指で押さえ、さらにもう一度だけ引く。革がきしみ、指の腹に硬い感触が残った。

「それ、三回目」

隣から声がした。

顔を上げなくても、相沢迅だと分かった。迅は自分の靴底を地面に当て、前後に小さく動かしている。走る前に必ずやる癖だった。接地の具合を確かめているのだろう。何百回、何千回と見てきた動きだった。

「数えてたのか」

「見てた」

迅はそう言って、靴紐の結び目を整えた。細い指が無駄なく動く。彼の動作には、いつも余計なものがなかった。肩を回すのも、スタートラインへ歩くのも、呼吸を整えるのも、必要な分だけで終わる。

僕はその横顔を見た。

表情は普段と変わらない。顎を少し引き、視線をトラックの先へ置いている。けれど、いつもなら近すぎるはずのその姿が、今朝は半歩遠かった。

最後のレースになる。

誰かに言われたわけではない。大会要項にも、そんな書き方はされていない。三年生の引退レース。競技を続ける者にとっては通過点に過ぎないのかもしれない。それでも、部のユニフォームを着て、北陵のトラックで、迅と同じスタートラインに立つのは、これが最後になる可能性が高かった。

その先で、同じ景色を見ているとは限らない。

「昨日の夜、寝た?」

僕が訊くと、迅は靴紐から顔を上げなかった。

「寝た」

「何時間」

「四時間半」

「それ、寝たって言わないだろ」

「湊は?」

「五時間」

「大差ない」

迅の返しはいつも通りだった。短く、乾いている。けれど、その短さの奥に何かが詰まっているように聞こえた。僕はそれ以上訊けなかった。訊けば、何かを確かめてしまう気がした。

部の後輩たちが、コーンを運びながらトラックの外側を走っていく。まだ朝の早い時間なのに、校舎の方から吹奏楽部の音がかすかに聞こえた。文化祭前で、体育館では朝から準備があるらしい。個人の最後の日など、学校全体から見れば小さな予定のひとつでしかない。

久保田朔が、紙コップのスポーツドリンクを片手に近づいてきた。

「はい、エース様。勝利の水分。自販機の釣り銭が切れてて、俺が百円損した」

「それ、俺に請求する気か」

「もちろん。友情価格で百二十円」

「高くなってる」

「手数料」

朔は僕の隣にしゃがみ、紙コップを差し出した。中身は少しぬるかった。僕は一口だけ飲む。甘さが舌に残り、喉の乾きは消えなかった。

朔は僕の顔を覗き込んだ。

「なあ、今日勝ったらどうする?」

「何が」

「何がって、引退だよ。胴上げとか、泣くとか、迅に抱きつくとか」

「誰が抱きつくんだよ」

「迅が湊に。負けた悔しさで」

迅がこちらを見た。表情は変わらない。

「しない」

「即答かよ。少しくらい迷えよ」

「迷う理由がない」

「そういうところだぞ、お前は」

朔は笑った。僕も笑おうとしたが、口元がうまく動かなかった。

節子先生がホームストレートの端に立っていた。首から下げたホイッスルを指で弄びながら、部員たちの準備を見ている。昨日までなら、誰かの姿勢を直し、スタートの位置を指示し、タイムの話をしていたはずだ。今日は必要なことだけを確認し、あとは黙ってトラックを眺めている。

僕たち三人が近づくと、先生は一拍置いてから言った。

「立花、足は」

「問題ありません」

「相沢は」

「大丈夫です」

「大丈夫という言葉は、便利すぎて信用できない」

迅の眉がわずかに動いた。先生はそれを見逃さなかったようだが、追及はしなかった。

「痛みがあるなら言え。今日だけは、我慢を美徳にするな。最後だからと無理をして、走ったあとに後悔する選手を何人も見てきた」

僕は返事をした。

「手を抜くつもりはありません」

「手を抜けと言っているんじゃない。自分の身体を、自分の勝負道具として扱えと言っている」

節子先生は、僕と迅を順番に見た。

「それから、今日の結果でお前たちの三年間が決まるわけじゃない。勝っても負けても、記録は記録として残る。ただし、走る前から結果の意味を決めるな。お前たちが走ったあとに、何を引き受けるかは、そのあと考えればいい」

朔が紙コップを振った。

「先生、今日の話、いつもより長くないですか」

「お前が余計なことを言わなければ短く済んだ」

「俺、場を和ませてるんですけど」

「和ませなくていい場もある」

朔は肩をすくめた。それでも笑っていた。先生の言葉は厳しかったが、誰も嫌ってはいなかった。答えを押しつけない代わりに、逃げ道も作らない。その距離の取り方を、僕たちは三年間で覚えていた。

招集の声がかかった。

僕は立ち上がり、ジャージの裾を引いた。迅も同時に立った。並んで歩き出す。歩幅は自然にそろった。昔からそうだった。練習場へ向かうときも、帰り道も、どちらから合わせたわけでもなく同じ速さになった。

スタート地点へ向かう途中、朔が背後から声を投げた。

「湊、勝っても負けても、今日の帰りに連絡しろよ」

「何で」

「帰りにコンビニ寄るから。引退記念のプリン買う」

「自分の分だけだろ」

「お前の分も買ってやるよ。俺が食べる」

「意味ないだろ」

「意味は後からついてくる」

僕は振り返らなかったが、朔の声が背中に残った。軽口の形をしていても、彼が本気で僕たちを見ていることを知っている。朔はいつも、誰かが言葉を飲み込んだとき、その沈黙のすぐ隣に立った。

招集所では、係の生徒が名前を読み上げていた。僕はゼッケンを確認し、スターティングブロックの位置へ向かう。白線の上に立つと、昨日まで何度も見てきた景色が、少しだけ違って見えた。

トラックの向こうに校舎がある。三階の窓には、文化祭の飾りらしい色紙が貼られている。風が吹くたび、端の剥がれた紙が小さく揺れた。あの中では、僕たちのレースを知らない生徒たちが、机を運び、看板を描き、くだらないことで笑っているのだろう。

僕はスタートラインの前で、足元を見た。

土の粒。白線の粉。ブロックを固定する金属の縁。いつもなら、身体の角度と風向きだけを考える。今日はそれらのひとつひとつが、記憶の中から浮かび上がってくる。

初めて迅に勝ったときの、ゴール後の息苦しさ。

県大会で負けた夜、誰もいないトラックを一人で見ていたこと。

練習のあと、互いのタイムを紙の端に書きつけたこと。

迅のフォームが少し崩れた日、僕が何も言わず隣のレーンを走ったこと。

勝ちたいと思っていた。ずっと、迅に勝ちたかった。

でも、勝ったあとに迅がいなくなることまで望んでいたわけではない。

その二つが同じ場所にあることを、僕はまだうまく説明できなかった。負けたくない。離れてほしくない。そんな都合のいい気持ちを、僕はこれまでずっと、タイムや記録の中へ押し込めてきたのかもしれない。

迅が隣のレーンでブロックを調整している。片方の金具を少しだけ前へずらし、靴底を置いて確かめる。いつもと同じ動作だった。

僕は彼の足元を見ていた。

「立花、顔を上げろ」

係の声が飛んできた。

僕は前を向いた。観客席はまばらだった。部員や保護者、何人かの先生。大きな大会のような歓声はない。風がフェンスを抜ける音と、遠くで誰かが咳をする音が聞こえる。

「位置について」

身体を沈める。

手のひらに土の冷たさが伝わる。指先の間に細かな砂が入り込んだ。呼吸をひとつ。ふたつ。迅の呼吸も、すぐ隣で同じように整えられている。

「用意」

腰を上げる。

その瞬間、周囲の音が薄くなった。校舎も、観客も、文化祭の準備も、朔の紙コップも、先生の言葉も遠のいていく。隣に迅がいる。その事実だけが、身体の左右に一本ずつ伸びた線のように残った。

笛が鳴った。

僕は前へ出た。

スタートの衝撃が、足裏から背中へ駆け上がる。迅の腕が視界の端で正確に振られた。最初の数歩は並んでいた。何度も練習したように、足音が重なる。タン、タン、タン。呼吸の位置まで分かる。

直線に入る。

風は向かい気味だった。頬を乾かし、喉を削る。迅の肩がわずかに前へ出た。僕は腕を振った。地面を強く押す。身体の奥に残っていたものを、ひとつずつ足へ移す。

あと少し。

隣の足音が近い。遠い。近い。

僕は迅のフォームを知っている。後半、彼は上体を起こさない。苦しくなっても、腕の振りを変えない。だから僕は、その乱れない動きを見てしまう。勝つために見ているのか、置いていかれないために見ているのか、自分でも分からなかった。

ゴールラインが近づいた。

身体を投げる。

胸が白線を越えた。

足が二、三歩もつれ、僕は前へ倒れかけた。すぐ後ろで迅も減速した。芝生に出てから、膝に手をつく。肺が焼けていた。口の中に鉄の味がする。乾いた土の匂いが鼻の奥に入り、咳が出そうになった。

「立花、十秒四八!」

記録係の声が響く。

自己ベストだった。

その言葉が耳に入っても、すぐには意味にならなかった。僕は顔を上げ、隣にいる迅を見た。彼はまだ前屈みのまま、片手を膝に置いている。数秒後、顔を上げた。

「……負けた」

迅は小さく言った。

その声に悔しさがあったのか、僕には分からなかった。彼は表情を崩さない。けれど、足元の土を見つめる時間がいつもより長かった。

僕の手にタイム表が渡された。紙は薄い。だが、汗ばんだ指先にはやけに硬く感じられた。記録の数字が黒く印刷されている。自己ベスト。迅に勝った。最後のレースで、僕は欲しかったものを手に入れた。

なのに、胸の奥には空いた場所があった。

「お前、勝った顔してないぞ」

朔が肩をぶつけてきた。さっきまでの軽い調子ではなかった。僕はタイム表を折らないように握り直し、迅の方を見る。

「勝ったからって、すぐ笑えるわけじゃないだろ」

「普通は笑うんだよ。少なくとも俺なら笑う。三日くらい」

「お前は何でも笑うだろ」

「何でもじゃない。大事なときだけ」

朔はそう言って、僕の手の中のタイム表を見た。それから迅へ視線を移す。迅は汗の乾きかけたシャツの裾を整え、スパイクの泥を靴底で落としていた。

「相沢」

朔が呼ぶ。

迅が顔を上げた。

「今日の負け、どう?」

「どうって」

「悔しい?」

迅は一度だけ息を止めた。僕には分かった。長く一緒に走ってきたから、彼が答える前に呼吸を止める癖を知っている。

「悔しい」

迅は言った。

「でも、今日はそれだけじゃない」

朔が黙る。僕も黙った。

迅は僕の方を見た。真正面からではない。視線が僕の肩のあたりで止まった。

「勝ったなら、ちゃんと喜べばいい」

「お前に言われると、嫌な感じがする」

「そうか」

「そうだよ」

僕は笑おうとして、今度は少しだけ笑えた。勝った実感は、遅れてやってきた。けれど、それは思っていたより軽くなかった。胸の中で跳ねるものではなく、濡れた布のように重く沈んでいる。

節子先生が近づいてきた。僕のタイム表を見て、数字を確認する。

「自己ベスト。よくやった」

「ありがとうございます」

「相沢も、後半を崩さなかった」

迅が頭を下げる。

先生は僕たち二人を見た。祝福の言葉を続ける代わりに、トラックの先へ目を向けた。白線はゴールの先で途切れている。その先には芝生があり、フェンスがあり、校舎がある。レースは終わっても、足は止まらない場所だ。

「勝ったなら、次を考えろ」

先生の声は平坦だった。

僕はタイム表の端を指で撫でた。紙の角が爪に当たる。

次。

その言葉が、ゴールの先からではなく、どこか別の場所から届いたように感じた。昨日までなら、次の大会、次の記録、次の勝負を思い浮かべればよかった。けれど今日は、迅の横顔と、同じスタートラインが浮かんだ。

朔が僕の肩に腕を回す。

「ほら、勝利の顔しろよ」

「無理」

「じゃあ、せめて帰りにプリン買え」

「自分で買え」

「友情がない」

朔の声が、トラックの上で軽く跳ねた。

迅は黙ってスパイクの紐を結び直している。走り終えたのに、まだ結び目を確かめている。僕はその手元を見た。何度も見てきた動きだった。

タイム表をポケットへしまう。汗で湿った紙が、太腿に触れた。

勝った。

それでも、迅と並んでいた時間が終わった気はしなかった。ただ、同じ場所に置かれていたものが、少しだけ別の形に移されただけだった。僕にはまだ、その形の名前が分からない。

遠くで校内放送が流れた。文化祭準備に関する連絡が、誰かの感情とは無関係に、乾いた校舎の中を通り抜けていく。

僕は北陵トラックを振り返った。

白線の上に、僕たちの足跡はもう残っていなかった。

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