第9話 進路指導室のガラス越し

進路指導室の扉を開けると、廊下の音が一枚のガラスの向こうへ退いた。
文化祭の準備で、外はまだ騒がしかった。段ボールを運ぶ足音、誰かを呼ぶ声、壁に貼った紙が剥がれて慌てる声。校内放送が、備品の返却場所と終了時刻を少し眠たげに繰り返している。
けれど、室内に入った途端、それらは遠い場所の出来事になった。
古い紙と朱肉、それから冷めたコーヒーの匂いがする。窓の外には北陵トラックが見えていた。午後の光を受けた赤茶けた土は、ガラス越しに薄く白んでいる。昨日まで僕と迅が走っていたレーンも、ここからだとただの細い線にしか見えなかった。
佐伯先生は、机の上の書類を揃えていた。
赤いボールペンで紙の角を押さえ、束の端を軽く叩く。紙と紙が擦れる音が、妙に規則正しく響いた。相沢迅がプリントを整えるときも、よく似た音がする。角を揃え、余計な歪みを消して、何事もなかったように元の場所へ戻す音。
先生は僕を見ないまま言った。
「そこ、座れ」
僕は椅子を引いた。脚が床を擦り、短い音が室内に残る。
先生は一拍置いてから、僕の前へ一枚の用紙を置いた。進路調査票だった。志望校の欄は、第一志望も第二志望も空白のままだった。保護者記入欄も白い。僕はその白さを見つめ、無意識に指先で机の縁を撫でた。
「空欄が多いな」
「まだ決めてません」
「決めていないのか。決めないままにしているのか」
僕は答えなかった。
紙の上の空白は、トラックのレーンよりも広く感じられた。走る場所なら、白線を踏まないようにすればいい。スタートの合図が鳴れば、身体が先に動く。迷っていても、足は前へ出る。
でも、この紙には笛がない。
いつまで立っていても、誰も合図をしてくれない。
「相沢のことか」
先生の声で、僕は顔を上げた。
「……はい」
「進路の話をしたのか」
「聞きました。でも、ちゃんとは」
そこから先が出なかった。
話した、と言えるほど話してはいない。なんで、と聞いた。いろいろあると返された。あとで話す、まだ言えない、順番がある。迅の言葉は、どれも短い扉のように閉じていた。
先生は僕の手元を見た。
「お前は、空白を見つけると数える癖があるな」
「空白を?」
「用紙の欄。走る前もそうだ。スタートからゴールまでの距離を、目で何度も測る。風向きを確かめ、足の位置を決める。迷いを減らすための準備だ」
僕は進路調査票の欄を見た。
「迷っているように見えますか」
「見えないようにしているようには見える」
先生は古い大学案内を一冊、机の端から僕の用紙の横へ移した。表紙には、何年も前の学生たちが笑っている。写真の色が少し褪せていて、その笑顔が今もどこかで続いているのか、僕には分からない。
「相沢は、自分で決めたんですか」
「本人がそう言ったのか」
「言ってません。でも、調査票には別の大学名が書いてあった」
「それなら、考えた結果を紙に置いた。それだけだ」
「それだけ、ですか」
「お前は相沢がどこへ行くかを知りたいのか。それとも、相沢が自分より先に進んだことを認めたくないのか」
胸の奥で、昨日のゴール直後に感じた空白が動いた。
勝ったはずだった。自己ベストも出た。迅の前でゴールした。それなのに、タイム表を受け取ったとき、最初に探したのは数字ではなかった。迅の呼吸だった。悔しがっているのか、平気なふりをしているのか。自分の記録より、彼の顔の方を見ていた。
「……分かりません」
「分からないなら、そこから始めればいい」
先生は大学案内を指先で押さえた。
「勝てる道を選びたいのか」
「はい」
「行きたい道を選びたいのか」
すぐには答えられなかった。
勝てる道なら、今までの努力を裏切らずに済む気がした。記録を伸ばし、評価され、誰かに認められる。走っているあいだは、それが進むことと同じだった。
けれど、行きたい道と訊かれると、急に足元がなくなる。
迅と同じ大学へ行きたい。
そう思っていたのかもしれない。だが、それは僕自身がその大学で何をしたいのかとは違う。迅が同じ欄に同じ名前を書いていたから、僕もそこへ向かえばいいと思っていた。ただそれだけだったのかもしれない。
先生は急かさなかった。窓の外で、金属製の脚立を引きずる音がした。車輪が乾いた土を削り、ガラスを低く震わせる。
「勝てるかどうかと、行きたいかどうかを同じ欄に書くな」
「でも、勝てる方を選ばないと、あとで後悔するかもしれない」
「勝てる方を選べば、後悔しないのか」
僕は黙った。
先生は冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦い顔はしなかった。
「競技なら、記録が出れば勝ち負けが決まる。進路はそうじゃない。続けられるか。生活できるか。そこで何をしたいか。いくつもの条件を引き受けて、それでも自分で選んだと言える場所を決める」
「条件を考えたら、行きたいところに行けないこともある」
「ある」
先生はあっさり答えた。
「だから苦い。苦いから、他人に決めさせるな」
その言葉が、机の上に置かれた石のように残った。
僕は迅の大学名を思い出した。知らない私立大学の名前。いつもの整った字。まっすぐに引かれた線。そのすぐ横にあった、消しゴムで何度も擦ったような薄い灰色の跡。
あいつだって、迷っていたのかもしれない。
そう思っても、腹立たしさは消えなかった。羨ましさも残った。自分より先に一歩を置いたように見えた迅が、まだ迷っていると知ったからといって、僕の空白が埋まるわけではない。
「相沢も、同じことを考えているんですか」
先生はすぐに答えなかった。
「相沢のことは、相沢が話す」
「先生は知っているんでしょう」
「知っていることと、私が言っていいことは別だ」
「でも、あいつは何も言わない」
「言わないことにも、その人なりの理由がある。お前が納得できるかは別としてな」
僕は紙の端を撫でた。薄い紙なのに、指先には硬さが返ってくる。たった一文字の違いが、紙の上ではなく、僕と迅の間に刻まれたようだった。
「僕は、同じ大学に行きたいと思っていたのかもしれません」
声にしてみると、ひどく頼りなかった。
「ずっと同じ志望校を書いてきたから、それが自分の希望なのか、迅と同じ場所へ行きたいだけなのか、分からなくなってます」
先生は僕の顔ではなく、手元を見ていた。
「それは恥ずかしいことじゃない」
「でも、ひどくないですか。迅が別の道を選んだら、腹が立つんです。自分で決めることなのに、置いていかれたみたいに思う」
「ひどいとは思わない。ただ、それを相沢の責任にするなら話は別だ」
僕は反論しかけて、やめた。
迅を責めたいわけではない。責めたいわけではないのに、言わずに決めたことが許せない。自分だけが知らない場所で何かを考え、僕の知らない理由で進もうとしていることが悔しい。
先生は別の用紙を一枚、僕の方へ押し出した。
「今日、大学名を書けとは言わない。まず、自分がそこで何をしたいのかを書け」
「大学名じゃなくて?」
「大学名は後からでも書ける。名前だけ先に書くと、その名前に自分を合わせ始める」
「そんなに簡単に書けますか」
「簡単だとは言っていない」
先生はそこで言葉を切った。
窓の外では、風がトラックの土を撫でている。昨日まで走っていた場所が、ガラス一枚を隔てて遠く見える。手を伸ばしても届かない距離ではないのに、もう同じ場所には戻れないような距離だった。
「走りながら、自分のフォームのことを考えたことはあるか」
「あります」
「考えすぎて、足が止まったことは」
「……あります」
「進路も同じだ。考えないと選べないが、考え続けるだけでは進めない。どこかで足を置く必要がある」
スタート前、ブロックに足を置くときのことを思い出した。
靴底が滑らないか。角度は合っているか。力を逃がさないか。何度も確かめる。けれど、確かめ終わったら、あとは蹴るしかない。
「お前は、走るときも考え込むときも、相手の背中を見る癖がある」
先生が言った。
「自分の足元を見ろ」
「足元を見たら、迅のことを考えなくて済みますか」
「そんな都合よくはならない」
先生の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。けれど、すぐにいつもの平らな表情へ戻った。
「相手を見ながらでも、自分の足で立つことはできる」
僕は用紙を三つ折りにした。折り目を揃え、爪で強くなぞる。紙は簡単に形を変えたが、折っただけで何かが決まったわけではない。
進路指導室を出ると、廊下の空気が急に薄く感じられた。
紙と朱肉の匂いから離れ、絵の具と埃、それからどこかで開けられた缶コーヒーの匂いが戻ってくる。窓から差した光が床に細長く伸び、僕の影はその上で歪んでいた。
家に帰ると、玄関には母の靴しかなかった。
台所から水の流れる音が聞こえる。僕が鞄を置くと、美佐子は振り返らずに言った。
「弁当箱、出して」
「今?」
「今。明日の朝、洗ってないと困るから」
僕は鞄から弁当箱を取り出し、流し台の横へ置いた。蓋を開けると、卵焼きの匂いと冷めたご飯の匂いがわずかに残っていた。昼に残したことを、母はまだ知らない。けれど、弁当箱の中身を見れば、すぐに分かる。
「残したの」
「少し」
「少しじゃない」
母はスポンジに洗剤をつけ、弁当箱の角を丁寧に擦った。水が金属の底を打ち、細い音を立てる。
「面談、来週の木曜」
「知ってる」
「調査票は明日提出」
「それも知ってる」
「知っているのに、空欄のまま?」
僕は冷蔵庫に貼られた予定表を見た。進路調査票の提出日、保護者面談の日、模試の日。赤いペンで書かれた数字が、白い壁の上に並んでいる。数字は、タイム表の記録よりも生活に近かった。
「まだ決めてない」
「決めてないのと、書けないのは違うでしょう」
母は弁当箱をすすぎ、布巾の上へ伏せた。
「書きたいところはあるんじゃないの」
「ある。でも、家から遠い」
「遠いね」
「学費もかかる」
「かかる」
「下宿になるかもしれない」
「なるかもしれない」
母は僕の言葉を否定しなかった。通学距離も学費も、ただ事実として台所の上へ並べていく。大丈夫と言われれば反発できる。無理だと言われれば怒ることもできる。けれど母は、現実を現実のまま置く。
「お母さんは、どうすればいいと思う」
訊くと、母は蛇口を閉めた。
水の音が止まり、冷蔵庫の低い唸りだけが残る。
「私が決めるの?」
「そうじゃない」
「じゃあ、自分で決めなさい」
「簡単に言うなよ」
「簡単だとは言ってないでしょう」
母は冷蔵庫から一枚のメモを外した。家計簿の数字が細かく並んでいる。
「通える範囲なら、学費と定期代を合わせてこれくらい。下宿なら、家賃と食費が足される。奨学金を使うなら、卒業したあとに返すお金になる。数字を見ないで、行きたいだけ言うのは自由じゃない。あとで誰かに払わせるだけ」
僕は黙っていた。
「でも、数字を見たからって、行きたいものを捨てろとも言ってない」
母はメモを僕の前に置いた。
「条件から逃げないで決めなさい。無理なら無理で、別の道を探す。少し遠回りしてもいい。大事なのは、あとで『お母さんがそう言ったから』って言わないこと」
「そんなふうに言うつもりはない」
「今はね」
冷たい言い方だった。けれど、その冷たさの奥には、僕の代わりに選ばないという意志があった。お金も、通学も、生活も、母は背負っている。それでも、最後の名前だけは僕に書かせようとしている。
「迅が、別の大学を書いてた」
気づくと、口に出していた。
母は驚かなかった。弁当箱の蓋を布巾で拭きながら、こちらを見ないまま聞いている。
「ずっと同じところを目指してたのに。あいつは何も言わないで、別のところに決めようとしてる」
「相沢くんの家にも、相沢くんの事情があるでしょう」
「分かってる。でも、腹が立つ」
「そう」
「勝手だと思う」
「そう思うのも、あなたの自由」
母は蓋を弁当箱へ重ね、留め具を閉じた。
「ただ、腹が立つことと、相手が悪いことは別よ」
先生にも似たことを言われた。大人たちは、羨望も怒りも友情も責任も、別々の箱へ分けて考える。僕の中では全部が絡まり、ひとつの重い塊になっているのに。
「腹が立つまま決めてもいいの」
「腹が立ったままでも、考えることはできるでしょう」
母は味噌汁の鍋を温め直した。蓋の隙間から湯気が上がり、昆布と味噌の匂いが台所へ広がる。
「きれいな気持ちになってから決めようとすると、いつまでも決まらない。悔しくても、羨ましくても、生活は続く。食べて、寝て、学校へ行って、締切が来る。その中で決めるしかないの」
湯気で視界が曇った。僕は目をこすらなかった。
夕食のあと、自分の部屋へ戻った。
机の上には、昼休みに朔から借りた大学案内と、進路調査票の下書き、それから昨日の引退レースのタイム表が置いてある。十秒四八。自己ベスト。迅に勝った記録。紙の端は汗で少し波打っていた。
勝利の証拠だと思っていた。
けれど今見ると、これは昨日の僕がどこまで走ったかを示す紙にすぎない。これからどこへ行くかまでは、何も書いていない。
僕はタイム表の横に、進路調査票を置いた。
白い欄が残っている。
走ることを続けたい。
そう書こうとして、鉛筆を止めた。それだけでは曖昧すぎる。迅に勝ちたい。そう書くのは違う。迅と同じ場所へ行きたい。そう書くのも違う。走ること以外の自分を見つけたい。だが、それもまだ、誰かの言葉を借りているようだった。
僕は紙の端を撫でた。
教室で見た迅の調査票を思い出す。整った字。その下に残っていた、消しゴムで擦ったような灰色の跡。
迅も、最初から迷わずに別の道を選んだわけではないのかもしれない。
その可能性は、怒りを消さなかった。羨ましさも、置いていかれる怖さも残っている。ただ、迅が何も感じずに僕を越えていったのではないと思えるだけで、胸の底に小さな隙間ができた。
僕はシャープペンを握り直した。
紙の空白は、何もない場所ではない。
まだ、自分の名前を置いていない場所だ。
母の言葉が、台所の湯気と一緒によみがえる。
条件から逃げないで決めなさい。
先生の声も重なった。
相手を見ながらでも、自分の足で立つことはできる。
僕は大学案内を開いた。まず、学費の欄を探した。次に通学時間を探した。それから、学部の説明を読む。知らない言葉が多く、すぐには理解できない。けれど、読んでいるあいだ、迅の背中ではなく、自分の手元を見ていた。
行きたい道が、勝てる道と同じとは限らない。
それでも、自分で足を置く場所を決めるしかない。
僕は下書き用紙の端を三つ折りに揃えた。折り目の上へ、タイム表を重ねる。昨日までの記録と、これから書く言葉が、紙一枚分の距離で並んだ。
白い欄は、まだ埋まっていない。
けれど、もう空白を数えているだけではなかった。
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