第8話 空欄に触れる

名簿の空欄を、私は指でなぞった。

紙のざらつきが指先に引っかかる。そこには、名前を書くための余白が残されていた。祖母は家族の名前を、古い順に並べている。祖父、祖母、母、叔父。それから、少し離れた位置に私の名前がある。

相沢葵。

その手前にだけ、誰の名前もない。

空欄は、ただの空欄ではなかった。書き損じて消した跡も、上から紙を貼った跡もない。最初から、そこへ何かを書くつもりで残されていたように見える。けれど、書かれるはずだった名前だけが、紙の上から抜け落ちている。

そこに誰かの呼吸まで抜け落ちたみたいだった。

「葵」

美津子の声がした。

呼び止めるというより、引き留めるための声だった。母は洗い桶の前に立ったまま、濡れた布巾を握っている。絞りきったはずの布から、まだ水が落ちていた。

「見ないで」

私は思わず笑いそうになった。けれど、口元は動かなかった。

見ないで、という言葉は、七回忌の仏間で鈴が鳴るよりずっと遅く届く。私はもう、とっくに見てしまっている。空欄を見つけ、そこに自分ではない誰かがいたことを感じてしまった。

「何が書いてあったの」

「何も書いてない」

「だから訊いてるの」

母は布巾を流しへ置いた。布を置く位置まで揃えようとして、二度、端を直した。

「その名簿は、古いものよ。家族の名前を全部書いてあるわけじゃない」

「でも、私の名前はある」

「ハルが書いたから」

「私の前に、誰かの名前を書くつもりだったんでしょう」

「そうとは限らないでしょう」

「限らないなら、どうしてそんなに見ないでって言うの」

母は返事をしなかった。

台所の壁時計が、かち、と音を立てた。秒針が一つ進む。その音が、濡れた木の中へ沈んでいく。母は時計へ目を向け、それからすぐに視線を落とした。時間を確かめたのではない。話を終えるための出口を探したのだと思う。

私は名簿を卓の上へ置いた。

「おばあちゃんは、家族の順番が狂っているって言ってた」

「トキさんの話を、全部信じるの」

「信じるかどうかは関係ないよ。お母さんが、その言葉を聞いたときに黙ったことのほうが気になる」

「私は何も――」

「何も知らない人は、そんな顔をしない」

母の眉がわずかに動いた。

私は人の顔を見る癖がある。見るというより、聞いてしまう。言葉が出る前の息の乱れ、手の止まり方、視線が一度だけ逸れる方向。家族の中では、それを気づきすぎる子だと言われていた。気づいても何も言えない子、と。

けれど、今はもう黙っていられなかった。

母は棚から祖母の茶碗を取り出した。青い草模様の入った、縁の欠けた茶碗だった。洗ってあるのに、薄い茶渋が残っている。祖母が生きていた頃から、縁の同じ場所に残っていた汚れだ。

母はそれを、私の前へ置いた。

「お茶、飲むでしょう」

「今はいい」

「冷めるわよ」

「お母さん」

「飲みなさい」

言い方は静かだったが、拒めない硬さがあった。

私は茶碗を手に取った。温められた陶器の熱が、掌へゆっくり移ってくる。祖母はいつも、私の茶碗だけを先に湯で温めた。私が帰ってくると、まだ食事の時間でなくても、まず湯を沸かした。

その温かさが、今は妙に罪深い。

私は何も知らないまま、祖母の優しさだけを受け取っていた。温められた茶碗を持ち、整えられた席に座り、帰りには襟を直されて家を出た。その一つひとつが、何かを見せないための手順だったのかもしれない。

「おばあちゃん、私にだけ変だったよね」

母の肩が、ほんの少しだけ揺れた。

「……変じゃない」

「じゃあ何」

返事はなかった。

「私が帰ると、ほかの人の茶碗はそのままなのに、私のだけ温めた。服の襟も直した。髪が跳ねてるって、何度も触った。親戚が来ているときは、私を台所から遠ざけた。私が入ると話が止まった。そういうのを全部、ただ可愛がられていたからで済ませるの?」

「ハルは、あんたを可愛がっていたのよ」

「それはわかってる」

「だったら――」

「わかっているから、知りたいの」

声が少し大きくなった。母はすぐに立ち上がり、仏間へ続く襖の方を見た。誰かに聞かれることを気にしたのだろう。けれど家の中には、私たち二人しかいないはずだった。

「祖母の優しさを、都合のいい美談にしたくない」

私は茶碗を卓へ戻した。

「おばあちゃんは、私を守ってくれた。でも、守られていたなら、何から守られていたのか知りたい。何も知らないまま、ありがとうだけ言って、また都会へ戻ることはできないよ」

「戻ればいいでしょう」

母の声が、急に冷たくなった。

「ここはあんたの暮らす場所じゃない。法事が終われば帰ればいい。仕事もあるでしょう。友達も、生活もある。わざわざ、昔の家のことを掘り返す必要はないの」

「お母さんは、そうやって掘り返さずに暮らせたの?」

母の手が、茶碗の脇で止まった。

「私は暮らしてきた」

「暮らしたんじゃなくて、動き続けていただけじゃないの」

母の顔が強張った。

怒鳴られると思った。けれど、母は怒鳴らなかった。流しの横に立ち、濡れた布巾を持ち上げ、指先で何度も折った。折り目を揃え、端を合わせ、また開く。その動作が、言葉の代わりに続いている。

「介護をしていたのは私よ」

母は言った。

「夜中に祖母が起きれば、私が起きた。転びそうになれば支えた。薬を嫌がれば、時間を置いてまた飲ませた。食べられないと言われれば、柔らかく煮た。何日も便が出なければ病院へ電話をした。誰かが来てくれると言っても、結局、来る時間を決めるのは私で、来られなくなった連絡を受けるのも私だった。そういう日が何年続いたと思う?」

私は黙って聞いた。

「義彦は、家の修繕費や土地の税金の話はする。でも、祖母が夜中に何回起きたかは知らない。トキさんは心配してくれた。でも、家の中へ入れば、私がどんな顔をしているか見られる。見られたら、助けてくれるかもしれない。でも、そのあと村中に知れる。私はそれが嫌だった。祖母を哀れな人にしたくなかったし、自分を介護に疲れた娘として見られたくなかった」

「だから、全部ひとりでやったの?」

「ひとりでやったほうが早かったのよ」

「それは理由にならない」

「理由になるわ。誰かに頼めば、説明がいる。祖母の状態を説明して、薬のことを説明して、夜中に呼ぶことを説明して、私がどれだけ眠れていないかまで説明しなければならない。説明している間にも祖母は呼ぶ。だから、私が動いたほうが早かった」

「早いことと、正しいことは違うよ」

母は私を見た。

「正しいって、誰が決めるの」

「少なくとも、誰か一人を壊して成り立つものじゃない」

母の口元がわずかに歪んだ。

「壊れたのは私だけじゃないわ。祖母も壊れていた。義彦も、たぶん壊れたくなくて逃げた。あんたは何も知らないまま、大人たちが何かを隠している家で育った。誰も無傷じゃない」

「じゃあ、どうして私だけ知らないの」

問いは、母の胸元へ落ちたように見えた。

「私も家族でしょう」

「家族だから、知らなくていいと思ったの」

「それは家族じゃない。外に置いているだけだよ」

母の手から、布巾が落ちた。

床へ落ちた布は、湿った音を立てた。母は拾おうとしなかった。いつもなら、誰より先に手を伸ばすはずなのに。

「外に置いたのは、祖母よ」

「お母さんも同じだった」

「私は、祖母に従っただけ」

「従っただけって言わないで」

私は名簿を引き寄せた。

「ここに空欄がある。誰かの名前があったはずなのに、書かれていない。おばあちゃんが私の出生に関わることを隠しているなら、私はそれを知らないまま、ずっとこの家の人間みたいに扱われてきたことになる」

「扱われてきたんじゃない」

「じゃあ、何?」

「育てられたのよ」

母の声が初めて強くなった。

「血がどうとか、順番がどうとか、そんなものより先に、あんたはこの家で育った。熱を出せば看病した。腹が減れば飯を作った。泣けば祖母が抱いた。あんたが生きてきた時間まで、誰かの秘密のせいで偽物になるわけじゃない」

「偽物だなんて言ってない」

「でも、そう思っている顔をしている」

「私は、自分のことを知りたいだけ」

「知れば、今までの全部を疑うことになる」

「疑っても、全部が嘘になるわけじゃない」

母は視線を落とした。

私は祖母の茶碗をもう一度手に取った。縁に残る茶渋を指でなぞる。ざらついた感触が、名簿の空欄と重なった。

「おばあちゃんは、私に何かを渡そうとしていた」

「何を」

「手紙と名簿。それから、順番の話」

「ハルは、死ぬ前まで家を整えようとしていたのよ。手紙だって、気持ちを整理できないまま残しただけかもしれない」

「おばあちゃんは、何でも順番にする人だった。書く場所も、物を置く位置も、茶碗を温める順番も。そんな人が、何も考えずに空欄を残すと思う?」

母は答えなかった。

台所の戸の向こうで、廊下の床板が小さく鳴った。

誰もいないはずなのに、乾いた擦れ音が続いた。からり、と下駄を引きずるような音。私は反射的にそちらへ顔を向けた。

廊下の先は暗かった。

勝手口に置かれた祖母の下駄は、昨日見たときと同じように揃っている。けれど、音はまだ止まらない。床板の奥を誰かが歩き、こちらへ近づいてくるようだった。

母も気づいた。

だが、見なかったことにするみたいに、皿を一枚重ねた。

陶器が触れ合い、かすかな音を立てる。

「お母さん」

「聞かないで」

「今の、何?」

「古い家の音よ」

「叔父さんと同じことを言うんだね」

「そう言うしかないでしょう」

「どうして?」

母は皿を重ねる手を止めた。

「そうしないと、あんたが振り返るから」

「振り返ったら、何があるの」

母は答えなかった。

その沈黙が、言葉よりはっきりと答えていた。

私は立ち上がった。畳の縁を避け、廊下へ向かう。

「葵」

母が呼んだ。

呼びかけには、初めて隠しきれない恐怖が混じっていた。

「行かないで」

「何を怖がってるの」

「怖いのは、あんたが見てしまうことじゃない」

母の声が擦れた。

「見たものを、私に聞かせることよ」

私は足を止めた。

母は流しの前に立ったまま、私を見ていた。白く荒れた指が、何もない空中で小さく動いている。布巾を絞る代わりに、見えない何かを掴んでいるようだった。

「私は、見たの」

母が言った。

「何を?」

「まだ言えない」

「またそれ?」

「今は、まだ」

「じゃあ、いつなら言えるの」

「祖母の七回忌が終わってから」

「終わったら言う?」

母は目を逸らした。

その一瞬で、私は理解した。母は約束をしない。約束をすれば守らなければならないからだ。代わりに、順番や時間を口にする。今ではない。まだ早い。終わってから。そうして未来へ押し出せば、過去はそのまま眠っていられる。

「お母さん」

私はゆっくり言った。

「おばあちゃんの茶碗、私に渡したのは、私を家に置くためじゃないよね」

母は黙った。

「私を家の外へ帰すためでもない。おばあちゃんが、もう自分で渡せないから。だからお母さんが渡した」

「何を言っているの」

「祖母の代わりに、何かを渡したんでしょう」

母の顔が崩れた。

一瞬だけだった。泣くほどではない。けれど、長く固められていた表情の表面に、細い亀裂が入った。

「祖母は、あんたの茶碗をいつも温めていた」

母は低く言った。

「帰ってきたあんたが、冷たい器に触れなくて済むように。昔から、そうしていた。私も何度も見ていた。祖母は、あんたが帰ると、まず湯を沸かした。何も訊かずに、あんたのために座る場所を空けた。あんたが家の中で一番先に受け取るものを、温かいものにしたかったのよ」

「それは、愛情?」

「そうよ」

「それだけ?」

母は目を閉じた。

「愛情だけで、人は守れると思う?」

私は答えられなかった。

「祖母は、愛情であんたを守ろうとした。でも、家の中には愛情だけでは守れないものがあった。血のこと、名前のこと、あの夜のこと。だから、祖母は手を動かした。茶碗を温め、服を整え、鈴を磨いた。何も言わずに済む形を作った。でも、形はいつか崩れる。器は欠けるし、紙は湿るし、鈴は誰も触らなくても鳴る」

母の声は、少しずつ遠くなるようだった。

「私は、祖母のやり方を間違っていると思っていた。なのに、同じことをした。あんたに何も言わず、食事を出して、布団を整えて、帰りの時間だけを気にした。あんたが知らないままでいれば、少なくともこの家の重さを持たずに済むと思ったの」

「でも、私はもう持っている」

「そうね」

「お母さんが渡したんじゃない。隠したまま、私の中へ沈めた」

母は返事をしなかった。

廊下で、また床板が鳴った。

今度は近かった。台所の戸のすぐ向こうで、何かが立ち止まったような音だった。下駄の底が板へ触れ、ゆっくり離れる。

からり。

母は皿を重ねた。

その白い指の動きが、私には恐ろしかった。怪異より先に、母が見ないことを選び続ける手のほうが怖い。祖母も、母も、義彦も、きっと何度も同じように目を逸らした。そのたびに、見なかったものが家の中へ残った。

「振り返るよ」

私は言った。

「今度は、私が決める」

「葵」

「おばあちゃんが誰を守ったのか、誰を外へ置いたのか、私は知りたい。お母さんが疲れていたことも、叔父さんが来なかったことも、祖母が最後の夜に鈴を磨いたことも、全部知りたい。誰か一人のせいにするためじゃない。誰も悪くなかったことにしないために」

母は俯いた。

「その言葉を、祖母が聞いたら何て言うかしら」

「たぶん、何も言わない」

「そうね。茶碗を温めて、座る場所を作って、それから帰りは暗くなる前にしなさいって言うわ」

その声には、初めて祖母を懐かしむ温度があった。

私は廊下へ出た。

背後で、母が一歩だけ動いた。止めるためではなく、ついてくるための足音だった。畳の冷たさが足裏から上がり、仏間へ向かう廊下が細く伸びている。

下駄の音は、もう聞こえなかった。

勝手口の脇に置かれた古い下駄は、左右を揃えて静かに眠っている。けれど、その鼻緒には新しい水滴が一つだけついていた。

雨戸は閉まっている。外から濡れるはずがない。

私はその水滴へ手を伸ばしかけ、やめた。

仏間の襖の向こうで、鈴が鳴った。

りん。

一度だけ、短く澄んだ音だった。

母の息が止まる。

私は名簿の空欄を思い出した。何も書かれていない場所。けれど、そこには確かに誰かがいた。紙から消されたのではなく、家の中で呼ばれる順番を待つように、息を潜めている。

私は襖に手をかけた。

母が背後で言った。

「見ないで」

今度の声は、命令ではなかった。

祖母が私を守ろうとしたときと同じ、言葉より先に差し出された手のようだった。

私はそれでも、襖を開けた。

冷えた空気が顔へ触れる。線香の匂いの奥に、古い紙と濡れた土の匂いが混じっていた。仏壇の鈴は揺れている。誰の指も触れていないのに、金色の舌が小さく震えている。

私は名簿を胸へ抱えた。

空欄は、もう怖くなかった。

怖いのは、空欄を見つけたあとも、何もなかったことにして茶碗を温め、皿を重ね、家の形だけを守り続けることだった。

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