第7話 布巾の音

夜明け前の台所は、火の消えたかまどの黒さだけが先に目に入った。
私は、祖母がかつてそうしていたのを真似るように、戸口の前で一度立ち止まった。深く息を吸う。線香の匂いはもう仏間のほうへ引いているのに、この場所にはまだ、古木と冷えた味噌の匂いが澱のように残っていた。窓の外はまだ藍色で、雨戸の隙間から差し込む光は、朝と呼ぶにはあまりに頼りない。
昨夜、納戸で見つけた手紙は、今も私の部屋の文机の上に置かれている。開いたままの便箋、揺れた筆跡、そして「知らなくていい」という二行。眠れないまま朝を待つあいだ、私はその文字を何度も指でなぞった。紙の上の凹凸に、祖母の迷いの分だけ、力の抜けた瞬間が刻まれているような気がした。
美津子は洗い桶の前に立ち、布巾を両手で絞っていた。
きゅっ、きゅっ、と繊維が鳴る。たったそれだけの音が、やけに大きく耳に響く。台所全体が息を潜め、その一点だけがまだ生きているようだった。母の背中は、いつもより少し丸まって見えた。何年も同じ姿勢で立ち続けてきた人間だけが持つ、丸め方だった。
「ここでいい」
私がそう言うと、美津子は返事の前に一拍置いた。いつもの癖だ。片づける手を止めずに、ただ布巾を絞る力だけが強くなる。まるで、言葉の代わりに水を絞り出しているようだった。
私は卓の上に、仏壇の引き出しから持ち出した家族名簿の一部と、封を切られていない手紙を並べた。紙の端はまだ少し湿っている。祖母の筆跡は細く、けれど揺れがない。硬く律儀な線が、几帳面に並んでいる。ただ、その一箇所にだけ、何も書かれていない空白があった。指でその余白を押さえると、紙の下から冷えが指先へ伝わってくる。まるで、そこにあるはずだった名前の温度まで、すでに失われてしまったかのようだった。
美津子の目が、そこだけを見た。
「これ、何」
声は低く、擦れていた。答えを知っていて訊いているのか、答えを知らないふりをして訊いているのか、私にはまだ判別がつかなかった。
私は布巾の音を聞きながら、目を逸らさなかった。
「おばあちゃんが残した。ここ、空いてる」
美津子は何も言わなかった。ただ、洗い桶の縁に手をついた。その手は洗いすぎて白く、指の節が硬くなっている。皹の跡が、皮膚の奥まで刻まれているようだった。私はその手を見て、幼いころ熱い茶碗を先に渡してくれた祖母の手とはまるで違う、ずっと台所に閉じこめられていた母の手だと思った。祖母の手が「与える手」だったとすれば、母の手は「支え続けるためだけに擦り減った手」だった。
美津子はようやく口を開きかけて、また閉じた。布巾を絞る音だけが続く。私には、その沈黙が準備のためではなく、何年も前からずっと遅れ続けてきたものに見えた。答えを探しているのではない。答えはとうに用意されているのに、それを差し出す順番が来るのを、ずっと恐れながら待っていたのだ。
「言って」
自分の声が思ったよりも小さくなかったことに、私は少し驚いた。美津子は顔を上げず、洗い桶の水面を見たまま、布巾をもう一度絞った。水が床へ一滴落ちた。その音が、やけに鈍い。
私はその一滴の音の余韻を聞きながら、卓の上の名簿へもう一度目を落とした。空欄の隣には、私の名前がある。相沢葵。その字はきちんと書かれているのに、私はそこに自分の輪郭が薄く感じられて仕方なかった。まるで、誰かが後から書き足した場所に、間借りしているだけのような気がした。
「お母さん」
私は続けた。
「私はもう、子どもみたいに待っていられない。昨日も、その前の日も、おばあちゃんが鳴らしたはずのない鈴が鳴って、私はその音のたびに、家族の誰かの顔色を窺うことに疲れてしまった。誰かが黙ると、その沈黙の意味を勝手に想像して、勝手に傷ついて、それでもまだ何も知らないままだった。子どものころからずっとそうだった。話が止まる部屋に入ると、大人たちは急に別の話を始めた。私はそれを、子どもだから仕方ないと自分に言い聞かせてきた。でも、もう子どもじゃない。だから今、聞かせてほしいの。おばあちゃんが、私の名前の前に、誰の名前を書こうとしていたのか」
美津子の肩が、ほんのわずかに震えた。
「葵」
ようやく出た声は、私を呼ぶというより、何かに縋るような響きを持っていた。
「あんたは、私がずっと黙ってきたことを、簡単に言葉にできると思っているの。長い間、言わないことのほうが、あんたを守ることだと信じてきたのよ。祖母もそうだった。私もそうだった。義彦だって、そうやって自分を保ってきた。誰も悪気があって黙ったわけじゃない。ただ、口にした瞬間に、この家の形が変わってしまうことを、みんな知っていたの。だから黙った。黙ることで、辛うじて崩れずに済んでいた部分があった」
「崩れたっていいよ」
私は言った。自分の声が、思いのほか静かなことに気づく。
「崩れることを怖がって黙り続けるより、ちゃんと崩れて、そこからもう一度組み直すほうがいい。お母さんは今まで、家の形を保つために自分を削ってきたんでしょう。誰にも褒められないまま、誰にも労われないまま、ただ黙って布巾を絞って、皿を伏せて、茶碗を温めて。それのどこが、家族を守ることになったの。私は、そうやって守られてきたことに、感謝より先に、痛みを覚えるようになった」
美津子の指先が、布巾の上でぴくりと止まった。

水滴が、また一つ床へ落ちる。ぽたり、という音が、狭い台所に妙に長く尾を引いた。
「痛みだなんて、あんたに言われるとは思わなかった」
美津子の声には、怒りではなく、むしろ深い疲労が滲んでいた。
「私はね、葵。あんたが痛い思いをしないようにって、ずっとそれだけを考えてきたのよ。祖母の具合が悪くなっていくのを、あんたに見せないようにした。夜中に何度も呼ばれて、汚れた布団を洗って、それでも朝になれば何事もなかったみたいな顔で、あんたのために温かいご飯を作った。そうやって守ってきたものを、今さら痛みだったなんて言われたら、私はこの六年間、何のために自分を殺してきたのか分からなくなる」
「殺さなくてよかったのに」
私はそう言った。言った瞬間、喉の奥が詰まった。
「殺さなくても、私はちゃんと痛かったよ、お母さん。あなたが疲れていることに気づいていたのに、気づかないふりをした。おばあちゃんが弱っていくのを、うっすら感じていたのに、感じないふりをした。子どもだったからじゃない。大人になっても、その癖が抜けなかったからだよ。この家では、気づいたことを気づかないふりで隠すのが、いちばん安全な生き方だった。だから私も、あなたと同じことをしてきたの。あなたを責めるつもりで言ってるんじゃない。ただ、もう同じことを繰り返したくないだけ」
美津子はゆっくりと顔を上げた。
目の下の影は、昨日よりも一段濃くなっている。眠っていないのか、眠ることを自分に許していないのか、私にはもう見分けがつかなかった。母の顔には、怒りも、悲しみも、はっきりとした形をとらないまま、ただ深い疲れだけが張りついていた。
「あんたに、そこまで言わせてしまったのね」
美津子はそう呟くと、洗い桶の水を見つめた。水面には、白み始めた窓の光がわずかに映り込んでいる。
「言わせたんじゃない。言ったの、私が」
「そうね」
美津子は短く答えて、また布巾を手に取った。もう乾いているはずのそれを、もう一度水に浸す。絞る。また浸す。その繰り返しが、まるで儀式のように見えた。何かを洗い流すためではなく、何かをまだ手放せずにいるための、ただの動作。
「名簿の空欄のこと」
私は静かに言葉を継いだ。
「まだ言えない、って言うんでしょう。順番が来ていない、って。でも、その順番を決めているのは、もうこの世にいないおばあちゃんだけなんだよ。おばあちゃんが決めた順番を、私たちがいつまでも守り続ける意味って何。おばあちゃんは、その順番のせいで、最後まで誰にも本当のことを言えなかったんじゃないの」
美津子の手が止まった。
布巾から水が滴る。ぽた、ぽた、と続けて二滴。
「……あの人は」
美津子はそこまで言って、口をつぐんだ。喉の奥で、言葉がせき止められているのが見えるようだった。私はその沈黙を急かさなかった。急かせば、また元の形に戻ってしまう気がした。
台所の暗がりの向こうで、かすかに廊下の板が軋んだ。誰かが歩いた音ではない。家がただ、呼吸をしているだけの音だった。私はその音を聞きながら、母の横顔をじっと見つめた。皺の一本一本に、言えなかった夜が積もっているように見えた。
「お母さん」
私はもう一度呼んだ。
「今じゃなくてもいい。でも、いつかは言って。私はもう、知らないままでいることに耐えられない。おばあちゃんが守ろうとしたものが何だったのか、ちゃんと知りたい。知って、それでも私はこの家の子でいたい。順番なんて関係なく」
美津子は答えなかった。
ただ、布巾を静かに折りたたんだ。二つに折り、さらにもう一度折る。祖母がいつもそうしていた折り方と、寸分違わなかった。
水が、また一滴、床へ落ちた。
その音だけが、夜明け前の台所に、いつまでも鈍く響き続けていた。
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