第6話 納戸の匂い

昼前になっても、雨は細く降り続いていた。

屋根を打つ音は夜ほど強くない。それでも家の中にいると、外との境目がわからなくなる。雨戸の隙間から差す光は灰色で、廊下の板目も、壁に掛かった写真の顔も、みな水の底に沈んだように見えた。

母は台所で、法事に使った器を洗っていた。

昨夜の食事のあと、私は何度も納戸のことを考えていた。母屋の奥、仏間から離れへ向かう廊下の途中にある、引き戸の低い部屋。子どもの頃から、そこへ入るときだけ祖母は私の手を引いた。

暗いから、という理由だった。

けれど納戸には小さな明かり取りの窓があり、昼なら足元が見えないほど暗くはない。祖母はいつも戸口で私を待たせ、ひとりで中へ入り、何かを探していた。しばらくして出てくると、手にしていたものを背中側へ隠した。

あのとき、何を隠していたのか。

私は台所の入口に立った。

「お母さん」

母は返事をしなかった。流しの水を止め、濡れた茶碗を一枚ずつ伏せている。表面の水滴を布巾で拭い、伏せる。拭い、伏せる。器が木の台に触れるたび、低い音がした。

「納戸、入っていい?」

母の手が止まった。

返事の前の一拍が、いつもより長かった。

「何を探すの」

「わからない」

「わからないものを探すの?」

「おばあちゃんのもの」

母は布巾を畳んだ。濡れているのに、乾いた布のようにきちんと二つに折る。

「もう、あまり残ってないわよ」

「残ってないなら、見てもいいでしょう」

母は私を見た。目の下の影が、昨日より濃くなっている。眠れていないのか、眠ったふりをしているのか、私には判断できなかった。

「葵」

「手紙の続きを探したい」

母の表情が硬くなった。

「仏壇にあったものだけで、十分でしょう」

「十分じゃない」

「何が書いてあったの」

「お母さんが知ってることを、私も知りたい」

「知ったところで、何も戻らない」

「戻らなくても、見なかったことにはできる」

母は視線を流しへ戻した。蛇口の先から、水滴がひとつ落ちる。ぽたり、と洗い桶の底へ沈んだ。

「納戸は埃っぽいから、入るならマスクをして」

それが許可なのか、諦めなのか、私にはわからなかった。

私は廊下へ出た。

納戸の前まで行くと、戸の隙間から冷たい空気が流れてきた。仏間の冷気とは違う。線香や畳の匂いではなく、長く閉ざされたものだけが持つ、乾いた冷たさだった。

引き戸に手をかける。

木が湿気を吸って膨らみ、最初は動かなかった。力を込めると、戸は低く鳴りながら横へ滑った。

匂いが来た。

乾いた埃。古い布。黴びた木箱。紙魚の死骸のような、甘く腐った紙の臭い。その底に、祖母が使っていた樟脳と、火を消したあとの灰の匂いが混じっている。

私は一歩だけ中へ入った。

納戸には、物が詰め込まれていた。葬儀で使う座布団、古い提灯、折り畳まれた屏風。木箱の隙間から、使われなくなった農具の柄が突き出している。棚の上には、法事の膳を包む布や、誰のものかわからない黒い服が積まれていた。

物が多いのに、祖母の家らしく配置には乱れがなかった。箱は大きさごとに並び、布は端を揃えて畳まれている。誰かが最後まで、ここを整えようとしていたのだと思う。

私は足元に気をつけながら、奥へ進んだ。

棚の脇に、祖母の裁縫箱があった。

蓋を開けると、糸巻きや針山、錆びた鋏が入っている。針山には何本か針が刺さったままだった。赤、白、鼠色。祖母は糸の色を混ぜず、同じ色のものを一本の束にしていた。私は小さな巾着を手に取った。幼いころ、祖母が私のために縫ったものだった。

青い布に、歪んだ花が刺繍されている。

巾着の紐を引くと、中から小さな紙片が落ちた。

私は拾い上げた。

葵、帰りは暗くなる前に。

短いメモだった。日付はない。けれど、字を見ただけで胸の奥が緩んだ。祖母はいつも、私が帰る時間を気にしていた。山道は暗くなると危ないから、駅まで送ると言い、私が大丈夫だと言っても、玄関に立って見えなくなるまで手を振っていた。

その記憶は、私にとって祖母の愛情だった。

今は、その愛情の裏に何か別の意味があったのかもしれないと思ってしまう。暗くなる前に帰れという言葉が、家の夜を見せないためのものだったのではないかと。

私は紙片を巾着へ戻した。

その隣に、割れた茶碗を包んだ風呂敷があった。布をほどくと、青い草模様の欠片がいくつか出てきた。

祖母の茶碗と同じ模様だった。

私はひとつを指先で拾った。尖った部分が皮膚に触れ、薄く痛んだ。祖母が、子どもは触ってはいけないと言っていた欠けた茶碗。あの茶碗は、割れたから捨てたのではなかった。割れたあとも、ここへ包んで残していた。

どうして捨てなかったのだろう。

壊れたものを取っておくのは、祖母の癖ではなかった。使えないものは直し、直せないものは処分する。けれど、この欠片だけは、何かを忘れないためにしまわれているようだった。

私は風呂敷を元に戻し、さらに奥へ手を伸ばした。

箱の底に、封筒の束があった。

古い紙を包んだ茶色の紐をほどく。封筒の端は煤け、紙全体が湿気で波打っていた。宛名の一部が薄くなっているものもある。消された跡ではない。指で何度もなぞられたように、そこだけ紙が擦れていた。

誰かが読むかどうか迷い、何度も触れたのだろう。

一通ずつ、表を確かめる。

母宛て。義彦宛て。宛名のないもの。そして、最後に一通だけ、私の名前が書かれていた。

相沢葵。

祖母の字だった。

私は封筒を持ったまま動けなくなった。納戸の奥では、雨音がほとんど聞こえない。代わりに、どこかの箱の中で小さな虫が動く音がした。紙を擦る、かすかな音だった。

封筒は重くなかった。

なのに、手のひらに載せているだけで、腕の奥まで力が入った。

封は切られていない。

私は爪で端をなぞった。紙は乾いて硬く、祖母の手の温度など残っていない。それでも、封筒の中に祖母の声が閉じ込められているように思えた。

開ける前に、私は周囲を見た。

積まれた布。古い葬具。割れた茶碗。誰かが死んだあとに使われるものと、もう使えないものが、同じ部屋へ押し込められている。ここは物置ではなく、家の中で役目を終えたものを、誰にも見えない場所へ移すための部屋だった。

人も同じなのだろうか。

役目を終えた人間。知らされなかった人間。家の順番から外された人間。

私は封筒を開けた。

中の便箋は一枚だけだった。

折り目を開く。

葵だけは、この家の夜を知らなくていい。

最初に目に入った一行を、私は声に出さず読んだ。

その下には、短い言葉が続いていた。

おまえにだけは、私の黙った意味まで背負わせたくない。

紙の上の文字は、いつもの祖母の筆跡よりわずかに揺れていた。線が細く、ところどころ墨が薄い。書く手に力がなかったのかもしれない。あるいは、書くべきか迷いながら、それでも書いたのかもしれない。

私は二行を繰り返し読んだ。

知らなくていい。

黙った意味まで背負わせたくない。

優しい言葉のはずだった。祖母なら、私を傷つけないためにそう書く。私が泣けば理由を聞かず、冷えた手には茶碗を渡し、服の襟を整える。そういう人だった。

けれど、知らなくていいと言われた瞬間、私は知らされない側に置かれる。

守られていたのか。

それとも、家の外へ出されていたのか。

私は紙を握った。便箋が小さく鳴った。

祖母の黙った意味は、祖母だけが背負って死んだのではない。母も、義彦も、トキも、それぞれ何かを知っている。知っているのに、私だけが知らない。その事実が、手紙の二行より重く胸へ落ちてきた。

納戸の奥で、何かがかすかに揺れた。

私は顔を上げた。

積まれた箱の向こうに、古い鏡が立てかけられている。表面には白い埃が張りつき、私の姿はぼんやりとしか映っていない。鏡の中の私は、手紙を持ったまま、誰かの部屋へ勝手に入り込んだ他人のように見えた。

その背後で、布がひとつ落ちた。

私は振り返った。

何もない。

ただ、棚の上に置かれていた黒い喪服の袖が、床へ垂れている。風など入らない部屋なのに、布の端だけがゆっくり揺れていた。

私は立ち上がり、納戸を出ようとした。

そのとき、廊下から床板の軋む音が聞こえた。

誰かが近づいてくる。

私は反射的に手紙を封筒へ戻し、袖の内側へ隠した。封筒の角が腕に当たる。紙一枚なのに、そこだけ皮膚が硬くなるようだった。

戸口に、美津子が立っていた。

母は私を見ていなかった。納戸の中を見ていた。裁縫箱、割れた茶碗、封筒の紐。視線がひとつずつ移動していく。その順番を、私は聞くように追った。

「何か見つかったの」

母の声は静かだった。

「何も」

「そう」

母は納戸の中へ入ってきた。足元に落ちた布を拾い、畳み直す。黒い布に付いた埃を手のひらで払い、棚へ戻す。その動きは祖母に似ていたが、祖母ほど滑らかではなかった。母の腰が痛むのか、布を置くときに一度だけ身体を止めた。

「ここ、昔から入っちゃいけなかったよね」

「危ないものが多いから」

「割れた茶碗も?」

「葵が触ると怪我をするでしょう」

「私が小さいころだけ?」

母は答えなかった。

私は袖の中の封筒を押さえた。母の目が、そこへ向いたような気がした。けれど母は何も言わず、裁縫箱の蓋を閉めた。

「その箱も、おばあちゃんが使ってた」

「そうね」

「中に、私の巾着があった」

「覚えてる」

「お母さんも?」

「作ったのは私だから」

私は巾着を見た。青い布に、歪んだ花。幼い私が祖母の膝で紐を引き、飴玉を入れていたものだ。

「おばあちゃんが作ったんじゃないの?」

「布を選んだのは祖母。縫ったのは私」

「知らなかった」

「知らなくてよかったのよ」

また、その言葉だった。

私は母を見た。

「何でも、知らなくていいって言うんだね」

母の手が裁縫箱の上で止まった。

「知ったところで、あんたが苦しくなるだけだから」

「苦しくなるかどうかは、私が決める」

「まだ、何も知らないから言えるのよ」

「知っている人は、私が苦しくなるかどうかまで決めていいの?」

母はゆっくり顔を上げた。

納戸の明かりは弱く、母の表情の半分が影になっていた。目の下の疲れも、唇の乾きも、暗がりの中ではっきり見える。母はずっとこの家の中で、見えるものを片づけ、見えないものを押し込めてきた。その結果、片づける手だけが残ったように見えた。

「葵」

「この手紙、知ってた?」

私は袖から封筒を出した。

母はすぐに答えなかった。

封筒へ視線を落とし、それから私の顔を見る。驚きはなかった。代わりに、ずっと避けていた場所へとうとう足を踏み入れた人の顔をしていた。

「どれ」

「私宛てのもの」

「読んだの」

「うん」

「何て?」

私は便箋の言葉を口にした。

「『葵だけは、この家の夜を知らなくていい。おまえにだけは、私の黙った意味まで背負わせたくない』」

母は目を閉じた。

納戸の中で、雨音が遠くなる。私は母の呼吸を聞いていた。浅く、途切れ、また戻ってくる。泣いてはいない。けれど、泣くこともできない人間の呼吸だった。

「おばあちゃんは、私に何を隠したの」

「ハルは、あんたを守ったの」

「その答えはもう聞いた」

「本当に守ったのよ」

「何から?」

「家から」

母はそう言って、棚に置かれた古い箱を見た。

「この家には、家の中にいる人間だけが知っていればいいと思われてきたことがある。外へ出せば、誰かが傷つく。口にすれば、家族の形が崩れる。だから、知っている人間が黙って持つ。それが昔からのやり方だった」

「昔からって、いつから?」

「ずっとよ」

「私の出生にも関係ある?」

母の顔が変わった。

ほんのわずかな変化だった。けれど、音に敏い私には十分だった。呼吸が止まり、次の息が遅れた。

「どうしてそう思うの」

「名簿に空欄があった。私の名前の前に、誰かの名前を書くための場所が残っていた」

「名簿を見たのね」

「見た」

「それは、まだ話せない」

「また?」

声が納戸の壁に跳ね返った。

「また、知らなくていい。まだ話せない。私を守るため。家を守るため。そう言って、ずっと何も言わない。私が知らないことを、みんなが正しいと思ってる」

母は立ち上がった。納戸の低い天井の下で、背中が少し曲がって見える。

「正しいなんて思ってない」

「じゃあ、何?」

「怖いのよ」

母の声は低かった。

「葵に知られるのが怖い。あんたが私を母親だと思わなくなるのが怖い。祖母を、ただ優しい人として覚えていられなくなるのが怖い。義彦を、叔父としてではなく、何もしなかった人間として見るようになるのが怖い。何より、あんたが自分の生まれた意味まで疑うようになるのが怖い」

私は手紙を握った。

「生まれた意味なんて、疑わないよ」

「今はそう言える」

「私が誰の子でも、私は私でしょう」

言いながら、胸の奥が震えていた。

本当にそう思えているのか、自分でもわからない。家族の順番から外され、名前のない空欄に置かれていたのだとしたら、私のこれまでの記憶は何だったのだろう。祖母の茶碗も、温められた食事も、帰りを待つ下駄の音も、すべて誰かの罪を包むための布だったのだろうか。

母が一歩近づいた。

「祖母は、あんたを家の者として育てた」

「でも、名簿には空欄がある」

「名簿は家族のすべてを書いたものじゃない」

「じゃあ、何のために書いたの」

「忘れないためよ」

「何を?」

母は答えなかった。

納戸の外で、どこかの戸が鳴った。

からり、と乾いた音。

私は音の方へ顔を向けた。廊下の奥、勝手口に置かれた下駄が見える位置ではない。それでも、祖母の下駄が床を擦ったように聞こえた。

母は音を聞いていた。

けれど、そちらを見なかった。

「今の、聞こえた?」

「古い家だから」

母の声は、義彦のものと同じだった。

私は母を見た。母は自分でその言葉を口にしたことに気づき、唇を結んだ。

「お母さんも、もう戻れないんだね」

「何が?」

「知らなかったことに」

母の顔が歪んだ。

泣く代わりに、母は裁縫箱を手に取った。蓋の角を布で拭き、棚の端へ移す。ほんの数センチ動かしただけなのに、納戸の中の空気が変わった。物の位置を整えることで、何かを元に戻そうとしている。

「その手紙は、持っていていい」

母が言った。

「読んだのに?」

「読んだなら、もうあんたのものよ」

「ほかの手紙は?」

「触らないで」

「どうして」

「まだ、順番が来ていないから」

私は母を見つめた。

「誰が順番を決めるの」

「私じゃない」

「じゃあ誰?」

母は納戸の奥へ目を向けた。

そこには、葬具の箱と古い布が積まれている。祖母の気配など、どこにもない。なのに私は、その暗がりの奥から、祖母がこちらを見ているように感じた。

「ハルよ」

母は言った。

「おばあちゃんが、手紙を書く順番も、隠す場所も決めた。私には触るなと言った。葵に見せるなとも言った。あの人は最後まで、家の中のことを自分で片づけるつもりだった」

「片づけられなかったから、私が見つけたんでしょう」

「そうね」

「おばあちゃんは、私に見つけてほしかったの?」

母は答えなかった。

その沈黙が、肯定にも否定にも聞こえた。

私は封筒を胸元へ入れた。祖母の字が、服の内側で皮膚に触れる。紙は冷たい。けれど、そこに書かれた二行だけが、まだ微かな熱を持っていた。

納戸を出る。

母は後ろからついてきた。戸を閉める前に、棚の位置を確かめ、裁縫箱の蓋をもう一度押さえる。何かが少しでもずれていると、手を伸ばさずにはいられないらしい。

私は廊下へ出て、仏間の方を見た。

暗い襖の向こうから、線香の匂いが流れてくる。鈴は鳴っていない。けれど、家の奥で何かが呼吸している。

「葵」

母が背後から呼んだ。

私は振り返らなかった。

「何?」

「その手紙のことは、義彦には言わないで」

「どうして?」

「今は、まだ」

「また順番?」

母は答えなかった。

私は仏間へ続く廊下を歩き始めた。畳の縁を避け、床板の軋みをひとつずつ聞き分ける。背後では、母が納戸の戸を閉めていた。

かちり、と錠の音がした。

その音が、家の中の何かをもう一度封じたように聞こえた。

けれど、私の袖の内側には、祖母の手紙がある。

知らなくていい、と書かれた二行。

その二行は、私を守るための壁ではなかった。壁の向こうに何があるのかを、初めて指し示す細い亀裂だった。

仏間の前まで来たとき、鈴が鳴った。

りん。

短く、乾いた音だった。

私は足を止めた。

背後で、母の息が止まる。

誰も仏壇には触れていない。誰も廊下を歩いていない。それでも鈴は、私の名前を呼びかけるように震えた。

私は襖へ手を伸ばした。

母は、今度も止めなかった。

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