第5話 紙の上の介護と、口にしない疲れ

私は仏間から持ち出した手紙の束を、台所脇の小さな卓へ広げた。
そこは祖母が生前、薬の包みや町内会の回覧板を置いていた場所だった。今は使われていない椅子が一脚と、湯呑みの跡が染みついた木の卓だけが残っている。雨戸の隙間から入る光はまだ薄く、紙の上に積もった時間まで照らすには足りなかった。
封筒を一枚ずつ裏返す。
祖母の手紙。宛名のない紙片。供養帳面から切り取られたような頁。そして、折り目の多い介護記録の断片。
紙は別々の場所から集められたはずなのに、どれも同じ匂いがした。湿気を吸った古木と、線香の灰と、長く閉じられていた引き出しの中の匂い。触れると、冷たさが指先から腕へゆっくり上がってくる。
私は介護記録を開いた。
日付の横に、時刻が並んでいる。
午前四時十六分、起床。 午前四時二十五分、水分百ミリリットル。 午前五時十分、排泄。 午前六時、薬。 午前七時三十五分、朝食。摂取量、三分の一。
数字は、祖母が家の中にいた証拠のようだった。熱が何度だったか。何時に起き、何時に眠ったか。何を食べ、どれだけ飲んだか。身体からこぼれていくものを、母は紙の上で拾い集めていた。
その細かな文字を追っていると、祖母が弱っていく姿より先に、母の手が見えた。夜中に起き、暗い廊下を歩き、祖母の背中を支え、汚れた布を洗い、朝には何もなかったように飯を炊く手。記録を書き終えたあと、その手で私の茶碗まで温めていたのだろうか。
頁の端に、別の筆跡が混じっていた。
相沢家土地名義。 固定資産税、今年度分。 葬儀費用見積もり。 建物解体の場合の概算。
義彦の字だと思った。祖母の記録が、眠りや熱や食事を残している隣で、義彦は土地と金額を書き並べていた。人間の一日と、家の値段が同じ帳面の上で重なっている。
私は指先でその文字をなぞった。
祖母が何度息をしたかを数えた紙のすぐ下に、相続人という言葉がある。祖母の身体が小さくなっていくほど、家の面積や税金の数字が大きくなっていく。紙の上では、どちらも同じ重さで扱われていた。
台所から水の音が聞こえた。
母が起きている。
私は帳面を閉じず、頁を一枚めくった。
そこには、数字で処理できない短い書き込みがあった。
機嫌が悪い。誰も来ない。
私はその一文の前で手を止めた。
祖母が怒っていたのか、泣いていたのか、母がそう感じただけなのかはわからない。けれど、誰も来ない、という言葉には、体温があった。薬の時間や食事量とは違う。記録することで救われるものではなく、記録してしまったあとも残り続けるものだった。
次の頁には、さらに短く書かれていた。
義彦、今月も来ず。
その下に、丸で囲まれた日付が三つ並んでいる。
私は離れに泊まっている義彦の姿を思い出した。昨夜、彼は仏間で鈴の音を聞いたあとも、相続の書類だけは濡らさないように抱えていた。祖母が生きていた頃、何度この家へ来たのだろう。何度、来ると言って来なかったのだろう。
もちろん、記録だけではわからない。
仕事があったのかもしれない。遠方にいたのかもしれない。母が頼まなかったのかもしれない。家族の事情は、紙の一行だけでは測れない。
それでも、来なかったという事実は、来たことのない人間の言い訳より重く残っていた。
さらに頁をめくる。
葵に見せぬこと。
息が止まった。
文字は母のものだった。祖母の記録に添えるように、頁の右端へ小さく書かれている。書き込んだ日付は、私が高校生だった頃だった。
何を見せないのか。
祖母がどれほど弱っていたことか。夜中に何度も呼んだことか。母が限界まで眠らずにいたことか。それとも、私の出生に関わる何かか。
私はその頁を両手で押さえた。紙がわずかに震えた。
台所の水音が止まる。
足音が近づいてきた。母は歩くとき、踵をほとんど鳴らさない。けれど今朝は、廊下の板が二度、低く軋んだ。
私は顔を上げなかった。
「何を見てるの」
母の声がした。
「記録」
「それは、見なくていい」
「どうして?」
「もう終わったことだから」
母は卓の向かい側へ来た。濡れた手を、ほつれた布巾で拭いている。布巾は祖母が使っていたものだった。何度も洗われ、繊維が薄くなっている。母はそれを捨てられず、台所で使い続けていた。
「終わったことなら、どうして残してあるの」
「捨てる暇がなかっただけよ」
「六年も?」
「捨てるものと、捨てないものを決める余裕がなかったの」
「でも、これは全部取ってある。薬の時間も、食事の量も、誰が来なかったかも」
母の指が、布巾の端を折った。
一度、二度。折り目をきちんと揃える。祖母と同じ仕草だった。
「記録しないと、何もしていなかったみたいになるから」
母は言った。
「何を?」
「世話をしたことを」
その声は低く、疲れていた。怒っているようにも、泣きそうにも聞こえなかった。ただ、長い時間擦り減ったものだけが持つ音だった。
「薬を飲ませた。食べさせた。夜中に起こされたら起きた。転びそうになれば支えた。熱が出れば病院へ連れていった。そういうことを全部やっても、最後に何か起きたら、誰も途中のことは見ないでしょう。死んだ人のそばにいた人間だけが、何をしていたのか説明させられる。だから書いたの」
「誰に説明するために?」
「誰にでもよ」
母は記録を見下ろした。
「義彦にも、親戚にも、私自身にも。朝になって、昨日何をしたのかわからなくなる日があったの。祖母に薬を飲ませたのか、食べさせたのか、私は眠ったのか。何も覚えていない。でも紙を見れば、五時に水を飲ませた、六時に薬を飲ませた、と残っている。ああ、私は何もしていないわけじゃなかったんだって、ようやく思えた」
私は何も言えなかった。
台所の水道から、一滴だけ水が落ちた。
ぽたり。
母はその音に顔を向けた。すぐに蛇口を閉める。戸締まりと同じように、水の止まり具合まで確かめる癖があるらしい。
「お母さん、疲れてたんだね」
私が言うと、母は笑わなかった。
「今さら、そんな言い方をしないで」
「ごめん」
「謝らなくていい」
「でも――」
「謝られると、私が可哀想な人みたいになるでしょう」
母は初めて、まっすぐ私を見た。
「私は可哀想だったんじゃない。疲れていたの。腹が立っていたの。逃げたかったの。祖母を嫌いになりそうな自分が怖かったの。それでも世話をした。世話をしたから、嫌いになってはいけないと思った。嫌いになってはいけないと思ったから、もっと疲れた。そういう話よ」
言葉が台所の壁に当たり、行き場を失って沈んだ。
私は記録の上へ目を落とした。数字の列のなかに、母の声が滲んでいる。熱や薬の時刻では書ききれなかったものを、母はずっと自分の身体に記録していた。固まった腰。赤くなった手。眠れない夜に何度も確かめた戸締まり。そのすべてが、紙の外側に残っている。
「誰も来なかったの?」
私が訊くと、母の顔が硬くなった。
「来た人もいるわ」
「叔父さんは?」
「何度か電話はした」
「会いに来たの?」
母は答えなかった。
「電話をしたかどうかじゃなくて、来たのかって聞いてる」
「葵」
「来なかったんでしょう」
「仕事があったのよ」
「仕事があれば、来なくていいの?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうこと?」
母は布巾を握った。薄い布が手のひらの中で歪む。
「義彦は、来れば来たで、祖母と喧嘩したの」
「何を話してたの」
「土地のこと。家をどうするか。施設へ入るかどうか。介護の費用を誰が出すか。祖母は家を手放したくなかったし、義彦は維持できないと言った。私はその間で、食事を運んだり、薬を出したり、二人の話を聞いたりしていた」
「祖母は施設に入りたくなかったの?」
「最初はね。最後は、行ってもいいと言っていた」
「じゃあ、どうして行かなかったの」
母はすぐには答えなかった。
雨戸の外で、枝がこすれた。乾いた音が続き、その合間に遠くで鳥が一度鳴いた。朝のはずなのに、家の中はまだ夜の底にいる。
「行く話をすると、義彦が費用の話をした」
「費用?」
「入所金、月額、家の売却。いくらかかる、誰が払う、土地をどうする。祖母は黙っていた。私は、そういう話をするならせめて食事が終わってからにしてと言った。でも義彦は、現実を見なければならないと言った」
母の口調が、少しずつ早くなっていた。
「現実って、何だったの。祖母が夜中に起きること? 私が眠れていないこと? それとも、家の値段? 義彦はいつも数字を出した。数字なら誰も泣かないと思っていたのよ。けれど、数字を聞いている間にも祖母は冷めた飯を食べていた。薬を飲むための水を、自分で探していた」
私は胸の奥が痛くなった。
「それを、叔父さんは知らなかったの?」
「知らなかったんじゃない。見なかったの」
母の言葉は静かだった。
「見れば、自分も何かしなければならなくなるから。義彦だけじゃない。私も見ないふりをした。祖母が私の名前を呼んでいるのに、今行ったらまた何かを頼まれると思って、少しだけ返事を遅らせたことがある。トキさんが様子を見に来てくれたときも、家の中が荒れているのを知られたくなくて、平気な顔をした。みんな、見たくないものを少しずつ見ないようにしていたの」
「お母さんは、ずっと見ていたじゃない」
「見ていたから、見ないふりも覚えたのよ」
その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
母は介護記録の頁を閉じた。けれど手を離さない。紙を押さえる指が白くなっている。
「祖母が苦しそうにしていても、私が怒っているときは、何も言わずに背中を向けていた。私が『もう無理』と言ったら、祖母は『無理をすることはない』と言う。でも、そのあと自分で立とうとするの。転ぶかもしれないのに。私に頼るのが嫌だったんでしょうね。私も、頼られるのが嫌になっていた。だから、二人とも黙っていた」
「祖母も?」
「祖母は最後まで、家の中の順番を崩さなかった。自分が一番後ろにいるように振る舞った。食事も、薬も、トイレも、誰かの手を煩わせない時間を選んだ。でも、そんな順番は続かないのよ。人間の身体は、帳面みたいに整わないから」
母は目を伏せた。
「葵に見せぬこと、と書いたのは、あんたが来た日に、祖母が何度も咳をしていたから。あんたはまだ高校生で、祖母の顔を見るとすぐ泣くでしょう。祖母も、あんたの前では元気なふりをした。だから、あんたが帰ってくる前に、布団や薬を別の部屋へ移した。汚れたものも、吐いたものも、全部隠した。あんたが家にいる間だけは、昔のままにしておきたかったの」
私は祖母の顔を思い出した。
私が帰ると、祖母は必ず髪を整え、服の襟を直した。手が震えていても、茶碗の位置は揃っていた。私はそれを、祖母がいつまでも元気でいる証拠だと思っていた。
違った。
祖母は私に見せないために、元気な形を保っていた。
それは愛情だった。けれど同時に、私を家の現実から外へ置くための手つきでもあった。
「私、何も知らなかった」
声が、喉の奥で擦れた。
「そうね」
「知ろうともしなかった」
「葵は子どもだったのよ」
「でも、今は違う」
「だから困っているの」
母は湯を沸かすため、やかんを火にかけた。火が青く揺れ、底の黒い部分を舐めていく。
「知ったら、あんたはきっと誰かを責めるでしょう。義彦を、私を、祖母を。そうしなければ自分を保てないから。でも、この家のことは、一人を責めても終わらない。私たちは皆、少しずつ見捨てた。少しずつ黙った。少しずつ、祖母がまだ大丈夫だと思うことにした」
「それなら、どうして私に隠すの」
「責める相手を増やしたくなかった」
「私も家族なのに?」
「家族だからよ」
母は私の前へ湯呑みを置いた。祖母の青い草模様の茶碗だった。湯気が立ち上がり、母の顔の輪郭をぼかす。
「家族は、知っている人間だけが苦しめばいいと思ってしまうの。知らない人間を守るためなら、自分がどれだけ悪く見えてもいいと思う。でも、そうやって隠したものは、なくならない。誰かの中で腐るだけよ」
私は湯呑みを見た。
その底に、薄い光がたまっている。祖母が温めてくれた茶碗の中にも、こういう光があった。子どもの私は、そこへ顔を近づけて、湯気の向こうの祖母を見た。
「お母さんは、祖母を見捨てたの?」
訊いた瞬間、母の指が止まった。
「答えて」
「見捨てたと思う日もある」
「あるんだ」
「夜中に呼ばれても、すぐ行かなかった日がある。祖母が何か言っているのに、聞こえないふりをした日もある。水を取りに行くのが面倒で、朝まで待ってと言ったこともある。私だって人間だから、ずっと優しくなんてできない」
母の声は震えていなかった。震えているのは、湯呑みの中の水面だった。
「でも、次の朝には行った。薬も飲ませた。食事も作った。汚れた布団も洗った。だから、見捨てたのか、見捨てなかったのか、私にはわからない。介護は、毎日同じ人間でいられることじゃないの。昨日はできたことが、今日はできない。今日は怒らなかったことに、明日は怒る。そんな自分を、毎日見ながら続けるのよ」
私は母の手元を見た。
白く荒れた指。爪の際に残った水分。布巾を何度も絞ったせいで硬くなった掌。その手は、誰かを支えた手であり、誰かを押しのけた手でもあるのだろう。
人の手は、ひとつの意味だけでは残らない。
そのとき、廊下の奥で紙を擦る音がした。
誰かが歩いている音ではない。薄い紙を一枚、床板の上で引いたような音だった。
私は音の方へ顔を向けた。
仏間へ続く廊下は暗い。朝の光は土間の近くにしか届いていない。襖の向こうに、祖母の遺影がある。鈴も、名簿も、まだそこに残っている。
母は顔を上げなかった。
「今の、聞こえた?」
「何が?」
「紙の音」
「古い家だから」
母がそう言った。
義彦と同じ言葉だった。
私は母を見た。母はすぐに目を伏せた。言ってしまったことに気づいた顔だった。
「お母さんも、そうやって終わらせるんだね」
「終わらせたいわけじゃない」
「じゃあ、何?」
「続けるためよ」
母は湯呑みを私の方へ押した。
「家の中で何かが起きるたびに、全部を立ち止まって考えていたら、誰も朝まで暮らせない。祖母が倒れたら起こす。汚れたら拭く。薬の時間なら飲ませる。そうやって次へ進むしかなかった。考えるのは、全部が終わってからでいいと思っていた」
「終わらなかったから、今こうなってる」
母は返事をしなかった。
私は介護記録の最後の頁をめくった。
そこには、祖母が亡くなる前日の記録があった。
朝、食事半分。 昼、水分少量。 夕方、眠っている。 午後九時、呼びかけに返事あり。
その下に、日付のない一行が残っている。
機嫌が悪い。誰も来ない。 葵に見せぬこと。
そして、さらに下には、別の筆圧で書かれた短い言葉があった。
夜、鈴を磨く。 順番を戻す。
私は指を止めた。
「順番を戻すって、何?」
母の顔から、わずかに血の気が引いた。
答えの代わりに、台所の奥でやかんが鳴り始めた。湯が沸き、蓋が細かく震えている。母は火を止めるために立ち上がった。いつもならすぐ手を伸ばすはずなのに、今日は動かなかった。
やかんの音だけが大きくなる。
しゅう、しゅう、と蒸気が漏れる。
私はもう一度訊いた。
「祖母は、亡くなる前の夜に、鈴を磨いたの?」
母は火を見つめたまま、答えた。
「磨いていた」
「ひとりで?」
「……そう」
「お母さんは、見た?」
「見た」
「止めなかったの?」
母は目を閉じた。
その顔に、夜明け前の仏間で見た祖母の遺影が重なった。何かを言いかけ、言わずに飲み込んだ口元。
「止めればよかった」
母の声は小さかった。
「でも、あの人は鈴を磨きながら、私に言ったの。順番を戻すから、もう少し待ってって」
「何の順番?」
「知らない」
「知らないはずないでしょう」
「本当に知らなかったのよ。あのときは」
母はようやくこちらを見た。
「祖母は私に、葵を起こさないで、と言った。あんたは離れの部屋で寝ていた。鈴の音がしても、絶対に呼ぶなと。だから私は、あんたを見に行かなかった。祖母がそう言ったから」
「鈴は、夜中に鳴ったの?」
母は答えるまでに、長い時間をかけた。
「何度も」
耳の奥で、細い音が蘇った。
りん。 りん、りん。
あの夜、私は眠っていた。祖母は仏間で鈴を磨き、母はその場にいた。それなのに、私は何も知らないまま、朝を迎えた。
「どうして、今まで言わなかったの」
「言えば、あんたが自分を責めるから」
「私は子どもだった」
「それでも、聞こえなかった自分を責めるでしょう」
母の声が初めて崩れた。
「葵は音を聞きすぎるから。小さな音でも拾うから。だから、あの夜の鈴を聞かなかったことが、きっと自分のせいだと思う。私はそれが嫌だった。祖母も、それをわかっていた」
私は何も言えなかった。
母はやかんを火から下ろし、火が消えたことを確認した。戸締まりを確かめるように、つまみを二度回す。それから卓の上の記録を閉じた。
「義彦の名前が、来なかったと書いてある」
「来なかったのよ」
「でも、最期の夜にはいたんでしょう?」
母の手が止まった。
「……どうしてそう思うの」
「祖母の記録に、義彦が今月も来ずと書いてある。わざわざ書くくらいなら、最後に来たことには意味がある。叔父さんは、何かを見たんじゃないの?」
母は黙った。
その沈黙は、これまでの沈黙より深かった。言葉を選んでいるのではなく、言えば何かが戻ってこなくなることを恐れている沈黙だった。
そのとき、仏間から鈴が鳴った。
りん。
母の肩が跳ねた。
続いて、畳の下から、こつ、と空洞を叩くような音が返ってくる。
私は椅子を引いた。
「仏間へ行く」
「葵、待って」
「今度は待たない」
自分の声が、家の中で初めて自分のものに聞こえた。
母は私を止めようとして、手を伸ばした。けれど指先は私の袖に触れる前に落ちた。祖母がいつもそうしたように、母も最後には手を動かして整えることを選ぶ。乱れた紙を重ね、湯呑みの位置を直し、布巾を折る。
私はその横を通り過ぎた。
廊下へ出ると、冷気が足元から這い上がってきた。仏間の方から線香の匂いが流れている。鈴の音はもう止んでいるのに、家の奥にはまだ余韻が残っていた。
暗がりの先で、祖母の下駄が擦れた。
からり、と一度。
私は音のした方へ顔を向けた。
誰もいない。
それでも、床板の上には濡れた足跡がひとつだけ残っていた。土間から仏間へ向かう、細く黒い跡だった。誰かが雨の中から上がってきたように見えるのに、その先には足跡が続いていない。
私はその跡をまたがず、畳の縁を避けて進んだ。
背後で母が何か言った。
聞き取れなかった。
けれど、その声のあとに布巾を絞る音が続いた。きゅっ、きゅっ、と繊維の軋む音。母はまだ、手を止めていない。
私は仏間の襖へ手をかけた。
鈴が、内側でかすかに揺れた。
見えない何かがいるのかもしれない。
けれど今の私を追い詰めているのは、それではなかった。
紙に残された、来なかったという一行。 見せぬこと、と書かれた母の文字。 そして、亡くなる夜に祖母が戻そうとした順番。
家は音を立てている。
誰かを呼ぶためではなく、誰も呼ばなかった夜を、何度でも聞かせるために。
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