第4話 仏壇の奥にあるもの

夜明け前の仏間に、私はひとりで戻った。

まだ誰も起きていない。母屋の奥には、眠っている人間の気配が沈んでいる。けれど、この家では眠りも静けさにはならなかった。柱のどこかで木が縮み、床下を水が流れ、閉じた雨戸の向こうで風が軒先を撫でている。

その音を聞き分けながら、私は襖の前に立った。

仏間の空気は、台所よりひどく冷えていた。湿った畳の匂いに、昨夜の線香の残り香が混じっている。火はとっくに消えているのに、煙だけが部屋の隅に細く残っているようだった。

鈴は鳴っていない。

それなのに、耳の奥だけが妙に熱かった。

昨夜、仏壇の縁に触れたとき、指先にわずかな引っかかりがあった。木の継ぎ目か、古い塗装の剥がれだと思った。けれど、祖母が何度も手入れしていた仏壇に、偶然では説明できない傷が残っていることが気になっていた。

私は畳の縁を避けて歩き、仏壇の前へ膝をついた。

遺影の中の祖母は、薄明かりのなかでこちらを見ていた。写真は暗く、目元の表情まではよくわからない。ただ、口元だけがわずかに緩んでいる。笑っているようにも見えたし、何かを言いかけたまま止めているようにも見えた。

「おばあちゃん」

呼んでも、もちろん返事はなかった。

幼い頃の私は、仏間に入るたび祖母の姿を探した。祖母は掃除をしているか、鈴を磨いているか、仏壇の前に座っていた。私が泣いていても、どうして泣くのかとは聞かなかった。先に湯を沸かし、茶碗を温め、濡れた靴下を脱がせた。

理由を聞かないことが、祖母の優しさだった。

今になって思えば、それは優しさだけではなかったのかもしれない。話させないことで守れるものがあると、祖母は知っていた。

私は仏壇の引き出しを開けた。

一段目には供養帳面が入っていた。表紙の角が擦れて、紙の繊維が白く毛羽立っている。二段目には線香と蝋燭、それから古い遺影が数枚、薄い布に包まれていた。知らない顔ばかりだった。祖父の若い頃の写真かもしれない。家の記憶は、名前のない顔になって箱の中へ積まれている。

三段目には何もなかった。

最後の引き出しを引くと、木が途中で止まった。

私は力をかけず、指先で奥を探った。引っかかっているのではない。何かが、内側から押し返しているようだった。

昨夜触れた仏壇の縁へ手を伸ばす。

塗りの剥げた部分を指の腹でなぞると、爪の先が細い溝へ入った。そこを押す。木の中で、かすかに乾いた音がした。

かち、と。

引き出しの奥で、板が沈んだ。

私は息を止めた。

板を押し込むと、背後に薄い空洞が現れた。幅は手のひらほどしかない。中から、封筒が何通か滑り出て、畳の上に落ちた。

紙が畳へ触れる音は小さかった。けれど、私はその音を聞き逃さなかった。

封筒はどれも湿気を吸っていた。端が波打ち、紙の色が黄ばんでいる。宛名のあるものも、何も書かれていないものもあった。束の一番下には、祖母の筆跡で家族名簿と書かれた薄い紙片が挟まっている。

名簿は途中で切れていた。

相沢家の名前が、古い順に並んでいる。祖父、祖母、母、叔父。私の名前は最後の方にあった。けれど、私の上には不自然な空白がある。名前を書き込むために残したような幅なのに、そこだけ何も記されていない。

私はその空欄から目を離せなかった。

紙の白さが、暗い部屋の中で浮いている。名前がないだけなのに、そこに誰かが立っているようだった。

封筒の束から、一通を選んだ。

宛名はなかった。裏返すと、封蝋の代わりに祖母の印が押されている。赤い朱肉は薄く、輪郭の一部が欠けていた。

開けてはいけないと思った。

けれど、開けないままでいることも、もうできなかった。

爪を差し込み、封を切る。

紙は二つ折りにされていた。祖母の字は細く、端正だった。いつもの筆跡に見えるのに、ところどころ線が急いでいる。書き始めたあと、何度も手を止めた跡があった。

私は最初の一行を読んだ。

葵だけは、この家の夜を知らなくていい。

息が浅くなった。

その下には、短い文章が続いていた。

知れば、おまえは自分をこの家の者だと思えなくなる。  知らなければ、いつか自分だけが外に置かれていたことに気づく。  どちらを選んでも、私はおまえに謝らなければならない。

そこで文章は終わっていた。

最後に、祖母の名前があった。

ハル。

たったそれだけだった。

私は紙を持ったまま、しばらく動けなかった。祖母の字は、私が知っている中でいちばん静かなものだった。買い物の覚え書きも、薬の時間も、私に渡す小さなメモも、余計な感情を含まなかった。

なのに、この手紙だけは違った。

謝らなければならない、と書いてある。

何について謝るのかは書かれていない。その書かれていない部分が、紙の上に深い穴を開けているようだった。

知らなければ、いつか自分だけが外に置かれていたことに気づく。

私は手紙を折り直した。指が震えている。紙の角が皮膚に食い込み、わずかな痛みが残った。

祖母は、私を家の中へ入れてくれた人だった。泣けば隣に座り、帰れば茶碗を温め、寒ければ黙って上着を掛けてくれた。その記憶は嘘ではない。

けれど、私が家の中にいるように見せながら、別の場所へ置かれていたのだとしたら。

私は誰だったのだろう。

相沢家の孫だったのか。母の娘だったのか。それとも、誰かが事情を隠すために、祖母に守られていた子どもだったのか。

仏壇の前で考えていると、背後の廊下が小さく鳴った。

床板が一枚、沈む音。

私は振り返った。

襖の外には誰もいない。暗い廊下の先で、勝手口の脇に置かれた下駄が見える。昨夜、片方だけ斜めになっていた下駄は、今はまたきれいに揃っていた。

誰かが直したのかもしれない。

母か、義彦か。あるいは、祖母が生きていた頃から続く家の癖が、私の目にそう見せただけかもしれない。

私は立ち上がり、手紙を封筒へ戻した。名簿の切れ端も一緒に持つ。空洞の中には、まだ封筒が残っていた。全部を持ち出す勇気はなかった。けれど、元の場所へ戻すこともできなかった。

手紙を胸元へ隠し、仏間を出る。

廊下の冷気が、足首から上ってきた。土間に近づくほど外の雨の匂いが強くなる。雨戸の隙間から、薄い青色の朝が差していた。山の向こうから光が来ているはずなのに、この家の中まで届くにはまだ時間がかかるようだった。

台所には、母がいた。

もう起きていたらしい。かまどに火を入れ、やかんをかけている。湯が温まり始めると、金属の底で小さな震えが起きた。母はそれを聞きながら、布巾を洗っていた。

私が入っても、母はすぐに振り返らなかった。

「早いね」

声をかけると、返事の前に一拍あった。

「眠れなかったの?」

「少しだけ」

「布団、寒かったでしょう」

「そうじゃない」

母の手が止まった。

私は手紙を見せなかった。袖の内側に入れた封筒が、腕に触れるたび存在を主張している。紙一枚なのに、隠しているというだけで重かった。

母は布巾を絞り、流しの脇へ置いた。

「お茶、飲む?」

「うん」

母は湯呑みを二つ出した。ひとつは白い無地のもの、もうひとつは祖母が使っていた青い草模様のものだった。祖母の茶碗は昨夜、洗わずに置かれていたはずなのに、きれいに拭かれている。

母は私の前に青い茶碗を置いた。

湯を注ぐ。立ち上った湯気が、母の顔を一瞬隠した。

「仏間、行ったの」

母が訊いた。

「うん」

「寒かったでしょう」

「お母さんは、仏壇の引き出しを使う?」

母の手が止まった。

「何に?」

「供養帳面とか、線香とか」

「必要なときは」

「奥の板が外れるの、知ってた?」

湯気が消えた。

母はやかんの口を見つめたまま、答えなかった。台所の壁時計が、秒針をひとつ進める。かち、という音がした。

「何か見つけたの」

やがて母が言った。

問いではなく、確認だった。

「手紙があった」

母は目を閉じた。

ほんの一瞬だったが、見間違いではない。疲労で閉じたのではない。何かを受け止めるために、目を閉じた。

「おばあちゃんの?」

「そう」

「読んだの」

「一通だけ」

母は布巾を取り、濡れてもいない台の上を拭き始めた。木目に沿って、奥から手前へ。手を動かすことで、言葉を遅らせている。

「何て書いてあったの」

「『葵だけは、この家の夜を知らなくていい』って」

布巾が止まった。

私はその言葉を口にした途端、自分の中の何かが元の形へ戻らなくなった気がした。祖母の手紙に書かれていたものを、今度は母の前へ置いた。紙ではなく、声として。

「お母さん、これどういう意味?」

「知らなくていいっていう意味でしょう」

「そんな答え方、しないで」

「書いてあることを言っただけよ」

「おばあちゃんは、私を守ろうとしたの?」

母は答えなかった。

「それとも、私に知られたら困ることがあったの?」

「葵」

「私は何も知らされてこなかった。私が子どもの頃、みんなが私の前で話をやめた。家の中で何かあっても、私が来ると別の話をした。祖母は私を別の部屋へ連れていった。あのときは、子どもだからだと思ってた。でも違ったんでしょう」

母は布巾を置いた。

両手を流しの縁につき、俯いたまま立っている。その背中は小さく見えた。祖母の介護をしていた頃の写真でも、母はいつも同じ姿勢だった。身体を前へ傾け、誰かの手を支え、何かを片づけていた。

「おばあちゃんは、あんたに何も背負わせたくなかったの」

「何を?」

「大人のことよ」

「私はもう大人だよ」

「だからよ」

母は顔を上げた。

「大人になったあんたに、今さら渡せるようなものじゃないの。家族が隠してきたことは、知ったから軽くなるわけじゃない。知った人間の中へ移るだけ。私は、それをあんたに移したくなかった」

「じゃあ、お母さんが全部持ってるの?」

「全部じゃない」

「誰が持ってるの」

母は目を逸らした。

「おばあちゃん」

「もう亡くなってる」

「亡くなっても、残るものはあるでしょう」

その言葉が、奇妙に生々しく聞こえた。仏間の鈴や祖母の下駄、手紙や名簿。祖母は死んでからも、物の位置と音を通して家の中に残っている。母はそれを恐れているのか、頼っているのか、私にはまだわからなかった。

「おばあちゃんは、私に何を隠したの」

「葵、今は――」

「今は何?」

「法事の朝でしょう。誰も寝ていない。あなたも、私も。そんな状態で話を始めたら、止まらなくなる」

「止めてきたのは、お母さんたちでしょう」

「そうよ」

母が言った。

声は低かったが、今まで聞いたことのない重さがあった。

「止めた。何度も。あんたが聞くたびに、別のことを言った。疲れてるから、子どもだから、昔のことだからって。葵を守るためだと思ってた。でも、本当は私が怖かったの。話したら、私が何をしてきたかを、私自身が認めなきゃいけなくなるから」

私は息を呑んだ。

母は台所の中央に立ったまま、手を洗った。石鹸もつけず、何度も掌を擦る。皮膚が赤くなっても止めない。

「何をしたの」

「まだ聞かないで」

「聞くよ」

「葵」

「おばあちゃんの最期の夜に、何があったの」

水道の水が流れ続けた。

母の指の間を水が落ちていく。その水音が、夜の仏間で聞いた鈴の余韻に似ていた。家のどこかへ吸い込まれていく音。流してしまえば消えると思って、誰もが何度も流してきた音。

母は蛇口を閉めた。

「その夜のことは、まだ話せない」

「話せないのと、話したくないのは違うよ」

「わかってる」

「じゃあ、どっち?」

母は長く黙った。

やがて、流しの横に置かれた祖母の茶碗へ目を向けた。

「話したくないんじゃない。話したら、あんたが私を母親だと思えなくなるから」

その言葉は、鈴よりも鋭かった。

私は何も言えなかった。

母は私の前に置いた茶碗へ手を伸ばし、冷めかけた湯を捨てようとした。私は反射的に、その手首を掴んだ。

母の皮膚は冷たかった。骨ばっていて、指先だけが異様に熱い。

「捨てないで」

自分でも、何を言っているのかわからなかった。

「まだ飲んでない」

母は私の手を見た。

振り払おうとはしなかった。ただ、見られることに慣れていない手を見られているような顔をした。

「祖母は、私の茶碗をいつも温めた」

「知ってる」

「お母さんも知ってた」

「知ってる」

「理由を知ってる?」

母は答えなかった。

その沈黙の中で、仏間の方から、かすかな金属音がした。

りん。

短い音だった。

母の手首を掴んだまま、私は音の方へ顔を向けた。台所から仏間は見えない。廊下の暗がりが、襖の手前で途切れている。

母も聞いたはずだった。

けれど、今度は否定しなかった。

「鈴が呼んでるの?」

私が訊くと、母は目を伏せた。

「呼ぶのは、鈴じゃない」

「じゃあ、誰?」

母の唇が震えた。

「呼ばれたくない人間よ」

音が止まった。

私は母の手を離した。青い茶碗の表面には、朝の薄い光が溜まっている。祖母が温めてくれたときと同じ色だった。

私は袖の中の手紙を握りしめた。

知らないままでいる安心は、もう戻ってこない。

仏壇の奥には、まだ何通もの手紙が残っている。名簿の空欄も、祖母の最期の夜も、母が口にできない何かも、同じ暗がりの中に伏せられている。

私は茶碗を両手で包んだ。

その温かさが冷める前に、もう一度、仏間へ戻らなければならないと思った。

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