第3話 順番が狂っている

食事が終わるころには、雨が本降りになっていた。
屋根を叩く音が母屋全体を覆い、外の気配はすっかり遠のいていた。山の夜は街の夜より暗い。街灯も、車の走る音も、ここまでは届かない。雨戸を閉めた家の中では、誰かが息を潜めていれば、その呼吸さえ聞き分けられる気がした。
母は食器を片づけると、私が手を出す前に流しへ立った。
「置いといて。私がやるから」
「洗うくらい、できるよ」
「いいの」
「でも――」
「今日はお客さんでしょう」
母はそう言って、祖母の茶碗を手に取った。
水を張った洗い桶の中で、茶碗の青い草模様が揺れている。母はそれを他の器と分け、布巾で一度だけ表面を拭いた。いつもなら何度も擦るはずなのに、その日は指が茶碗の縁に触れたところで止まった。
「それ、洗わないの?」
母の背中へ訊いた。
「あとでいい」
「おばあちゃんが使ってたから?」
「……そうね」
短い返事だった。
私は流しの横に立った。水の匂いに、煮物の甘い湯気と、古い木の湿り気が混じっている。母の手は赤くふやけ、指の節に細かなひびが入っていた。祖母の介護をしていた頃の写真で見た手より、さらに薄くなっている。
その手を見ていると、さっき義彦が言った言葉が戻ってきた。
美津子が一人で抱えるのにも限界がある。
まるで、限界まで抱えたことだけが母の落ち度であるような言い方だった。
「叔父さん、帰るの?」
母は返事をしなかった。蛇口から流れる水が、洗い桶の底で細かく跳ねている。
「お母さん」
「泊まるわよ」
「叔父さんが?」
「雨が強いから。離れを使うって」
義彦は台所の隅で書類を封筒にしまっていた。紙の角を何度も揃え、革の手帳を閉じる。彼は私たちの会話を聞いているはずなのに、聞いていないふりをしていた。
「明日の朝、僧侶は何時に来るんだ」
義彦が言った。
「九時半」
「仕出しは?」
「八時に届く」
「焼香の順番は」
「順番なら、もう決めてあるでしょう」
母の声が少し硬くなった。
義彦は眼鏡を外し、レンズをハンカチで拭いた。
「念のため確認しているだけだよ。明日は親戚も来るし、玄関先で手間取ると印象が悪い」
「何の印象?」
私は訊いた。
義彦は眼鏡をかけ直し、私の方を見た。
「相沢家の印象だよ。法事は家の行事だからね。段取りを崩さないほうがいい」
「おばあちゃんのためじゃなくて?」
「葵」
母が低く呼んだ。
でも、私はもう止まれなかった。鈴の音が耳の奥に残っている。何度も重ねられた「知らなくていい」という言葉が、雨音の底でまだ鳴っていた。
「さっきから順番の話ばかりしてるよね。茶碗も、焼香も、法事も。みんな順番が大事なのに、誰が何をしたかだけは話さない」
義彦の表情から、わずかに温度が消えた。
「何をしたか、というのは?」
「おばあちゃんの介護。誰が来て、誰が来なかったのか。誰が何を知っていて、何を知らないふりをしたのか」
母が布巾を絞った。
きゅ、と繊維が鳴る。
「その話は、今しなくていい」
「いつならいいの?」
「葵、明日は七回忌よ」
「だから訊いてるの。七回忌って、何もなかったみたいに花を飾って、線香を立てて、決められた順番で頭を下げることなの?」
「そんな言い方をするものじゃない」
「じゃあ、どう言えばいいの?」
母は答えなかった。
台所の窓に、雨粒が幾筋も流れている。外は暗く、ガラスには私たち三人の姿だけが映っていた。母の肩、義彦の背筋、私の顔。三人とも同じ家の中にいるのに、映った姿は別々の部屋にいるようだった。
義彦が手帳を机に置いた。
「葵、君は何か誤解している」
「何を?」
「家族は、全部を話せばいいわけじゃない。特に、亡くなった人間に関わることは、残された者が整理して扱う必要がある」
「整理?」
「感情をそのまま並べたら、誰も救われない。事実と責任を分けて、必要なものだけ確認する。それが大人のやり方だよ」
「必要なものって、誰が決めるの」
「状況を理解している人間が決める」
「私は理解していないから、聞く資格もない?」
「そういう意味ではない」
「でも、そう聞こえる」
義彦は口を閉じた。
彼の顎に力が入っている。腕時計を見る癖も、紙の角を揃える手も止まっていた。表面だけを整えていた人間が、整えられないものを前にしている。そのことが、私にははっきりわかった。
母が茶碗を一枚、棚へ戻した。
「葵、あんたは知らなくていいの」
「おばあちゃんも、そう書いてた」
母の手が止まった。
私は鞄から、納戸で見つけた封筒を取り出した。まだ開けてはいない。濡れないように、ハンカチで包んでいた。
「これ、私宛てだった。『葵だけは、この家の夜を知らなくていい』って」
義彦の目が、封筒へ落ちた。
ほんの一瞬だった。けれど、彼の呼吸が浅くなったのが聞こえた。
「どこで見つけた」
「納戸」
「勝手に入ったのか」
「入ったらいけなかった?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題?」
義彦はすぐには答えなかった。封筒の位置を見つめる目に、苛立ちより先に恐れがあった。その恐れが誰に向けられたものなのか、私にはまだわからない。祖母か、母か、それとも自分自身か。
「その手紙は、今すぐ開ける必要はない」
「どうして?」
「書いた人間がいない以上、内容をどう受け取るかは君次第になる。誤解を生むだけだ」
「誤解なら、解けばいい」
「簡単に言うな」
初めて、義彦の声が乱れた。
低い声の底から、押し込めていたものが一瞬だけ露出した。彼はすぐに咳払いをし、袖口を直したが、もう遅かった。私はその声を聞いてしまった。
「何が簡単なの?」
「家のことは、君が考えているほど単純じゃない」
「単純にしてるのは、みんなでしょう。鈴が鳴ったら風。母が疲れていたら抱え込み。おばあちゃんが何か書き残したら、読まなくていい。そうやって、全部を別の言葉に置き換えてる」
母がこちらを見た。
その顔には怒りがなかった。疲れきった人の目だった。長いあいだ、誰かに見つけてほしかったのに、見つけられた瞬間にはもう隠す力しか残っていない人の目。
「葵」
母は静かに言った。
「トキさんが来るわ」
「木下さんが?」
「さっき電話があった。お参りに寄るって」
「こんな雨なのに?」
「近くだから」
母はそこで言葉を切った。
近いから来るのか。祖母の七回忌だから来るのか。それとも、鈴の音を聞いたから来るのか。私は尋ねなかった。尋ねれば、母はまた布巾を絞るだろう。
ほどなくして、縁側の方から戸を叩く音がした。
こん、こん。
雨音の中では小さな音だった。けれど私はすぐに顔を向けた。土間の戸ではなく、縁側の古い板戸を叩く音だ。祖母が来客を迎えるとき、いつも使っていた入口だった。
母が手を拭いた。
「私が出る」

「私も行く」
「葵はここにいて」
「どうして?」
母は答えず、縁側へ向かった。
その後ろ姿を見ていると、祖母の下駄の音が重なった。からり、からり、と乾いた底が板を撫でるような音。実際には、母は裸足だった。足音は母のものではない。
義彦も聞いていた。
彼は縁側ではなく、勝手口の方を見た。そこには祖母の下駄が置かれている。左右を揃えていたはずの片方が、いつの間にか少し斜めになっていた。
また、からり、と鳴った。
母が縁側の戸を開ける。
「トキさん、こんな雨の中……」
「濡れたのは外だけだよ」
トキの声が聞こえた。
やがて、手拭いに包まれた湯呑みと、小さな菓子折りを抱えて、トキが入ってきた。濡れた上着の肩には雨の粒が残っている。けれど歩き方には乱れがなく、土間に上がる前に一度だけ足元を見て、泥を落とした。
「お邪魔しますよ」
「どうぞ。寒かったでしょう」
「家の中のほうが、冷えとるね」
トキはそう言って、母の顔を見た。
母は返事をしなかった。
トキは私へ目を移す。昔、私が幼いころに何度か会ったことがあるはずだが、その目には懐かしさより確認するような慎重さがあった。
「葵ちゃん、大きゅうなったねえ」
「ご無沙汰しています」
「そうかい。都会の暮らしは忙しいかね」
「それなりに」
「それなり、というのは便利な言葉だ。楽しいとも苦しいとも言わんで済む」
トキは少し笑った。その笑みはすぐに消えた。
仏間へ入る前、トキは襖の手前で足を止めた。冷気を測るように、首をわずかに傾ける。私はその仕草を見て、祖母と同じだと思った。家の中へ入るとき、まず音を聞く。次に匂いを嗅ぐ。最後に、何かがずれていないかを見る。
「鈴、鳴ったんかね」
トキが言った。
母の肩が硬くなった。
「何のことですか」
「何のことでもないよ。雨の晩は、古い家はよう音を出すから」
義彦がすぐに口を挟んだ。
「鈴なら、建具の振動でしょう。先ほども葵が気にしていましたが、風の入り方で揺れることはあります」
「そうかね」
トキは義彦を見た。
責める視線ではなかった。ただ、言葉の裏側まで見ている目だった。義彦はその目を避けるように、腕時計へ視線を落とした。
トキは仏間へ上がり、手拭いをほどいた。中から小さな湯呑みが現れる。灰色の地に、青い草の模様がひとつだけ描かれていた。
私は息を呑んだ。
祖母の茶碗と同じ模様だった。
「これ……」
「ハルさんに昔もろうたものだよ。お揃いだったんだがね、あの人は自分のを割ってしもうた。これは私が預かっていた」
トキは湯呑みを仏壇の脇へ置いた。鈴から少し離れた場所だった。
「どうして今日、これを?」
「返す順番が来たから」
その言葉に、仏間の空気が変わった。
雨音が一段遠くなる。線香の煙が横へ流れ、鈴の表面に薄い光が走った。
「順番って……」
私が訊くと、トキは私の顔を見た。
「ハルさんな、亡くなる少し前に、ぽつりと言うたんだよ。家の中の順番が狂っている、ってね」
母の肩が、ごくわずかに動いた。
義彦が咳払いをした。
「昔の話でしょう。体調も悪かったし、何か思い違いをしていたのかもしれない」
「思い違いなら、あの人は何度も同じ帳面に書かんよ」
トキの声は穏やかだった。
「家の中には、順番がある。誰が先に生まれたとか、誰が跡を継ぐとか、そういう表向きの順番だけじゃない。誰が先に知ったか。誰が先に背負ったか。誰が最後まで知らされなかったか。そういう順番もあるんだよ」
義彦が目を伏せた。
「トキさん、法事の前にそういう話をするのは……」
「法事の前だから言うんだよ」
トキは湯呑みへ手を添えた。
「死んだ人間を、都合のええ形に並べ替えるのが弔いなら、そんなものはただの片づけだ。ハルさんは片づける人だった。物も、食事も、家族の喧嘩もね。けれど最後の最後には、片づけきれんものが残った」
母が低く言った。
「トキさん」
「美津子。あんたが悪いと言うとるんじゃない」
「でも、そう聞こえる」
「なら、聞き違えたままでおらんことだね。悪いのが誰かをすぐ決めるより、誰がどこで黙ったかを見たほうがええ」
母の手が膝の上で握られた。
私はトキと母を交互に見た。トキは責めていない。けれど母にとっては、責められるよりつらい言葉なのだろう。誰か一人に罪を置いてしまえば、話は終わる。だが、黙った者の数を数え始めれば、家族全員の顔を見なければならなくなる。
「おばあちゃんは、何に気づいていたんですか」
私は訊いた。
トキはすぐに答えなかった。湯呑みを両手で包み、冷めた茶を一口飲む。目を伏せたまま、指先で膝を撫でている。
「葵ちゃんは、知らんでええこともある」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
「それ、おばあちゃんも言いました」
「そうかい」
「知らなくていいって言われた。でも、私はもう子どもじゃない。知らないまま守られることが、守られることだとは思えません」
言葉が止まらなくなった。
「私は、家族が何かを隠しているのをずっと感じていました。私が部屋に入ると話が止まる。私が聞くと、子どもには関係ないと言われる。祖母は私を特別に扱ってくれた。でも、その特別が愛情なのか、何かを隠すためのものなのか、もうわからない。私は祖母の優しさを疑いたいわけじゃない。ただ、優しかったから全部許されるみたいにされるのが嫌なんです。祖母が何を守って、誰を置き去りにしたのか、私は知りたい」
仏間に、私の声だけが残った。
トキは長いあいだ私を見ていた。やがて、ゆっくり頷いた。
「そう言えるようになったかね」
「何がですか」
「知らないことを、知らないままにしたくないと言うことだよ。ハルさんが一番恐れていたのは、あんたが傷つくことだった。でも、一番望んでいたのも、あんたが自分の足で立つことだったと思う」
「おばあちゃんが、そんなことを?」
「言葉では言わんよ。あの人は、いつも茶碗を温めるほうだったからね」
トキは祖母の遺影を見た。
「けれど、順番を狂わせたままでは、誰も立てん。誰かが先に生まれ、誰かが後から来た。誰かが家の中に入り、誰かが外へ出された。そういうことを、家は覚えている」
そのとき、鈴が鳴った。
りん。
誰も触れていない。
短く澄んだ音が、仏間の天井へ上がり、畳の下へ沈んでいく。私は反射的に鈴を見た。金色の舌が、まだわずかに揺れていた。
母は息を呑んだ。
義彦は立ち上がりかけたが、すぐに座り直した。顔色を変えながらも、鈴ではなくトキを見ている。
「トキさん、もう十分でしょう」
「十分かどうかは、この家が決めることだよ」
「怪異のように扱うのはやめてください。葵を不安にさせるだけだ」
「不安にさせているのは、鈴かね」
トキの声が少しだけ低くなった。
「それとも、鈴が鳴るたびに、見ないふりをしてきた人間のほうかね」
義彦は何も言わなかった。
母は遺影を見たまま、膝の上の手をほどけずにいる。私はその横顔を見ていた。母も、義彦も、トキも、祖母の死んだ家の中で、それぞれ別の順番を待っているようだった。
誰かが先に話し始める順番。
誰かが最後まで黙る順番。
そして、私が知る順番。
鈴が、もう一度だけ鳴った。
今度は短く、はっきりと。
私は仏壇へ目を向けた。けれど鈴は、ただ元の位置で静かに光っているだけだった。
その音の余韻が消えたあと、勝手口の方から、から、と乾いた音がした。
祖母の下駄が、床板を擦ったように聞こえた。
私は立ち上がった。
誰も止めなかった。止める言葉を探しているうちに、私はもう廊下へ出ていた。湿った畳の冷たさが足裏から上がり、暗い家の奥へ細く続いている。
振り返ると、トキだけが私を見ていた。
その目には、行け、とも、行くな、とも書かれていなかった。ただ、今度は自分で順番を決めろ、と言われているようだった。
私は畳の縁を避け、音のした方へ歩き出した。
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