第2話 温められた茶碗

仏間を出ると、台所から煮物の匂いが流れてきた。
醤油の濃い匂いではない。大根と人参をだしで煮た、祖母の家にしかない薄い匂いだった。鼻の奥に触れた瞬間、私は子どものころの夕方へ引き戻された。雨の日、祖母はいつも鍋の蓋を少しだけずらしていた。湯気がこもると味が変わるから、と言っていた気がする。実際には、そんなことを言葉にした記憶はない。ただ、白い湯気の向こうで祖母の手が動いていたことだけを覚えている。
台所では、母が膳を並べていた。
古い長机の上に、人数分の茶碗と汁椀が置かれている。皿の位置は揃っているのに、私の前だけ、茶碗がひとつ離れていた。祖母がいつもそうしていた。熱い飯をよそう前に、器へ湯を入れて温めておくためだ。
母はやかんを火から下ろすと、茶碗をひとつずつ温め始めた。湯を注ぎ、少し待ち、流しへ捨てる。次の茶碗へ移る。その手順に迷いはない。けれど私の茶碗に湯を入れたところで、母の手が止まった。
「それ、まだ使うの?」
私が訊くと、母は茶碗の内側を見たまま答えた。
「使えるから」
「おばあちゃんのだよね」
「そうね」
「私が使っていいの?」
「嫌なら別のを出すけど」
母はそう言いながら、もう別の茶碗を探す気はないようだった。祖母の茶碗を両手で包み、流しの脇に伏せる。濡れた陶器が木の台に触れる音がした。
私はその茶碗を見ていた。薄い灰色の地に、青い草の模様がひとつだけ描かれている。祖母が毎朝使っていた。縁が少し欠けているのに、祖母は捨てなかった。欠けたところを指でなぞると危ないから、子どもは触らないようにと言われたことがある。
私がふざけて手を伸ばしたとき、祖母は叱らずに、その手を自分の手のひらで包んだ。
危ないものは、危ないと言う前に遠ざける。
そういう人だった。
「葵、そこに立ってないで、箸を並べて」
母に言われ、私は箸を取った。箸置きは小さな焼き物で、ひとつだけ向きが違っている。私は無意識にそれを直した。右へ少し寄せ、箸の先が同じ線を向くように置く。
置いてから、手を止めた。
祖母の癖だった。
「何してるの」
母の声に、私は振り返った。
「……これ、おばあちゃんがいつもやってたから」
「そう」
「お母さんも知ってた?」
「知ってるわよ。何年ここで暮らしてると思ってるの」
言い方は平らだった。だが、平らにしようとしている音がした。怒っているときの母は声を荒げない。むしろ、言葉の端を削って、何も引っかからないようにする。その削りかすが、あとになってこちらの指に刺さる。
私は箸置きから手を離した。
「私が帰ると、おばあちゃんはいつも茶碗を温めてくれた」
「子どもは冷たい器が嫌いだからでしょう」
「私が子どものころだけじゃないよ。高校生になっても、帰ると先に湯を沸かしてた」
「そうだったわね」
「どうして?」
母は汁椀の蓋を並べていた。蓋の裏を確かめ、傷がないものだけを選んでいる。問いを聞かなかったふりをしているのではない。聞いたうえで、答える順番を変えようとしていた。
「何が?」
「どうして、私の茶碗だけ先に温めたの」
「葵の分だけ冷えてたからじゃない」
「同じところに置いてあったのに?」
母の指が止まった。
台所の奥で、冷蔵庫が低く唸っている。雨戸の外では風が枝を擦っていた。家の中にある音と外から入る音が混じり合い、どこからどこまでが私たちの沈黙なのかわからなくなる。
母はゆっくりと顔を上げた。
「おばあちゃんは、あんたが来ると嬉しかったのよ」
「それだけ?」
「それ以上、何が必要なの」
「わからないから訊いてる」
声に出したあと、胸の内側が急に狭くなった。訊きたいことは、茶碗のことだけではなかった。私が帰ると祖母が必ず私の襟を直したこと。食事の席で、祖母と母が私の前では話題を選んでいたこと。親戚が集まると、誰かが私を別の部屋へ連れていったこと。
それらはどれも、当時は優しさに見えた。
今は、何かを遠ざける手つきにも見える。
母は視線を落とし、濡れた布巾を取った。茶碗の外側を拭き始める。もう十分乾いているのに、同じ場所を何度も擦った。
「祖母があんたを可愛がった。それでいいでしょう」
「よくないよ」
「どうして」
「今、鈴が鳴ったのに、みんな聞こえないふりをしたから」
母の手が止まった。
私は言ってしまったことを後悔しかけた。だが、引っ込めるには遅かった。仏間のほうから、線香の残り香が流れてくる。甘くもない、ただ乾いた煙の匂いだった。祖母がいなくなって六年経つのに、家はまだ毎日、誰かを待っているようだった。
「鈴のことは、もういいの」
「よくない」
「法事の前に騒ぐことじゃない」
「騒いでないよ。訊いてるだけ」
「訊くのも同じよ。人が集まる日に、わざわざ嫌なことを口にするのは」
「嫌なことって何?」
母は答えなかった。
その沈黙を、私は聞き分けてしまう。母が何かを知らないときの沈黙は、もっと短い。わからない、と言う前の迷いがある。今の沈黙は違った。言葉を選んでいるのではなく、言葉を出す場所そのものを探している。
台所の入口で、義彦が咳払いをした。
叔父はいつの間にか上着を脱ぎ、袖口を整えていた。革の手帳を片手に持ち、もう片方の手には数枚の書類が挟まっている。濡れた土間を歩いてきたはずなのに、靴には泥ひとつついていなかった。
「食事の前に、少し確認しておきたい」
義彦はそう言った。
「何を?」
「明日の法事の段取りと、その後のことだよ。僧侶への謝礼、仕出しの支払い、それから土地の管理について、そろそろ話をつけておいたほうがいい」
私は箸を置いた。
「今日、話すの?」
「今日だから話せるんだ。みんな集まっているし、法事が終わってから改めてというのも、かえって長引く。相続の話は、先延ばしにするほど面倒になるからね」
「おばあちゃんの七回忌なのに?」
「だからこそだよ。死んだ人間のことを悼むのは大事だが、生きている人間の始末もつけなければならない」
義彦の声は穏やかだった。言葉だけを聞けば、現実的で正しい。けれど、その正しさには人の体温がなかった。祖母の名前が、支払いと名義の列に並べられている。祖母の茶碗の隣に、土地の数字を置かれているような気がした。
「始末って言い方、嫌だな」
私が言うと、義彦は眼鏡の位置を直した。
「言葉尻を取るつもりはない。相沢家の土地は、誰かが管理しなければ荒れる。固定資産税もかかる。建物の修繕費だって、今後は無視できない。美津子が一人で抱えるのにも限界がある」

母の手が、布巾を絞った。
「私は抱えてない」
「抱えているだろう」
「抱えたままにしたのは、私だけじゃない」
母が顔を上げた。
義彦は一拍置いた。その間に、彼の目が私へ動いた。私がいることを、今初めて邪魔だと思ったように見えた。
「まあ、誰かを責める話ではなくてね」
「じゃあ、誰の話なの」
私が訊くと、義彦の声の温度がわずかに下がった。
「葵、家のことは大人同士で決める」
「私も家族でしょ」
「そういう意味ではないよ。まだ事情を知らないから、余計な不安を持たせたくない」
その言葉に、胸の奥が固まった。
知らないから。
知らないままでいればいい。
祖母の手紙に書かれていた言葉と、ほとんど同じだった。
「事情って何?」
義彦は書類の端を揃えた。紙の角を何度も机に当てる。そろっているのに、そろっていないように見えるらしい。
「葵、今は相続の話をしているだけだ」
「私にはそう聞こえない」
「何が?」
「みんなが、私に何かを知らせないようにしている」
母が小さく息を呑んだ。
義彦はしばらく黙っていた。やがて、机の上の茶碗を見た。祖母の茶碗ではない。私の前に置かれた、白い無地の茶碗だった。湯で温められているのに、もう冷めかけている。
「考えすぎだよ」
「そうやって、いつも終わらせてきたの?」
「何を言っているのか、私にはわからない」
「鈴が鳴った。母は聞こえないと言った。叔父さんは風だと言った。でも、二人とも鈴を見ていなかった。最初から音じゃなくて、母の顔を見てた」
義彦の指が止まった。
私はそこから目を離さなかった。音は聞こえる。言葉より先に、手の動きや呼吸の変化が聞こえる。義彦が黙ったとき、台所の空気に、金属を擦るような緊張が混じった。
「葵は、昔からそうやって人の顔色を読むね」
「読まないと、ここでは何もわからなかったから」
自分の口から出た言葉に、私は驚いた。
母がこちらを見た。義彦も、書類を揃える手を止めた。
「昔から、私は何も教えてもらえなかった。おばあちゃんが部屋を出ていけと言ったことはなかったけど、みんなが私の前でだけ黙るのを知ってた。私が来ると話をやめる。私が聞くと、子どもには関係ないって言う。高校生になっても、大学生になっても、それは変わらなかった」
母は布巾を畳んだ。二つに折り、さらにもう一度折る。祖母と同じ折り方だった。
「それが、あんたを守ることだったのよ」
「何から?」
母の唇が動いた。
声になる前に、仏間で小さな音がした。
りん、と。
今度は台所まで届かなかった。ただ、私は聞いた。耳の奥で、細い金属の音がひとつ震えた。母と義彦には聞こえなかったのか、二人とも動かなかった。
私は音のした方へ顔を向けた。
廊下の暗がりには、誰もいない。けれど、勝手口の脇に置かれた古い下駄が見えた。祖母が最後まで履いていたものだ。左右がぴたりと揃えられ、鼻緒の黒ずみまで磨かれている。
その下駄の片方が、ほんの少しだけ斜めを向いていた。
いつからそうだったのか、わからない。
私は台所を出ようとした。
「葵」
母が呼んだ。
その呼び声には、初めてはっきりとした恐れがあった。
「どこへ行くの」
「仏間へ」
「行かないで」
「どうして?」
母は答えなかった。
義彦が代わりに口を開いた。
「葵、今日はもう遅い。明日の法事がある。余計なことを調べても、誰も楽にならない」
「調べるって、何を?」
「だから、そういう言い方をするな。家族の間で疑いを持ち出しても、何も解決しない」
「じゃあ、何なら解決するの」
義彦は黙った。
母が、低い声で言った。
「食事にしましょう」
その言葉は、逃げるためのものではなかった。母にとっては、まだ残された唯一の順番だったのだと思う。食事を出す。器を温める。人を座らせる。そうすれば、崩れかけたものも一晩くらいは形を保てる。
母は私の前に、祖母の茶碗を置いた。
湯で温められた器から、かすかな熱が手のひらへ移ってくる。懐かしい温度だった。祖母が帰りを待ちながら、私のためだけに用意していた温度。その温かさに触れた瞬間、私はますます逃げられなくなった。
祖母は、私を守っていた。
けれど、守るということは、何かを見せないことでもある。
母が煮物をよそう。大根の匂いが立ち上がる。薄い味つけの奥に、だしの甘さが残っている。私は一口食べた。舌に馴染んだ味だった。美味しい、と言おうとしたが、声にならなかった。
向かいで、義彦が書類を封筒へ戻している。母は私の茶碗の飯が減るたび、何も言わずに箸を止める。食べているか、残しているかを見ている。
祖母も、いつもそうだった。
そのとき、廊下の奥で音がした。
から、と乾いた擦れ音がして、続いて、下駄の底が床板を撫でるような音がひとつ。
私は顔を上げた。
母は見なかった。義彦は腕時計を見た。
誰もいない廊下を、誰かが家の奥へ歩いていくようだった。
私は茶碗を両手で包んだ。温かさはもう、祖母の手の代わりにはならなかった。
それでも私は、冷めるまで離せなかった。
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