第1話 雨戸の閉まる家

相沢家へ着いたのは、昼がまだ残っているはずの時刻だった。

駅から乗ったバスを降りたとき、山の端には薄い光があった。けれど、坂道を上って母屋の前まで来ると、家の影が先に夕方になっていた。軒の深い屋根が空を狭くし、半分閉じられた雨戸の隙間から、濡れた土と古木の匂いが流れている。

私は玄関の前で足を止めた。

風はほとんどなかった。なのに、戸口の内側から冷気が押し出されてくる。都会のマンションなら、換気扇か隣室の水音か、どこかに機械の気配がある。ここでは、家そのものが息をしていた。柱の奥で木が縮み、床下で水が動き、閉じかけた雨戸が遠くでかすかに震えている。

引き戸に手をかける前に、私は祖母からもらった古いハンカチを鞄の中で握った。洗いざらした布は、もう祖母の匂いなど残していない。それでも、指先がそこに触れると、幼いころの記憶が身体の奥から戻ってくる。

帰ってきたね、と祖母は言わなかった。

その代わり、玄関に上がる前に私の襟を直し、髪のはねを指で押さえ、冷えた手を包むように茶碗を渡してくれた。いつも言葉より先に、私のまわりのものを整えた。

戸を開ける。

「ただいま」

返事はなかった。

土間には、私の声だけが低く落ちた。靴箱の上に置かれた花瓶の水が、細い波紋をひとつ広げている。誰かが触れたようには見えなかった。私は音のした方へ顔を向けたが、そこには暗い廊下と、壁際に揃えられた古い長靴しかなかった。

「葵?」

奥から母の声がした。呼びかけというより、確認だった。

「うん。今着いた」

「そこ、濡れてるから。靴、上げて」

美津子は台所の入口に立っていた。黒い服の袖を肘までまくり、白い布巾で茶碗を拭いている。私を見たのは一瞬だけで、すぐに手元へ目を戻した。茶碗を拭き、伏せ、次の茶碗を取る。その順番に乱れはなかった。

「久しぶり」

そう言うと、母は返事の前に一拍置いた。

「そうね」

それだけだった。

私は靴を脱いだ。土間のたたきは外気より冷たく、靴下越しにも湿り気が伝わってきた。畳の縁を避けるようにして上がる。祖母がそう歩いていたのを、私は覚えている。幼い私は理由を尋ねたことがある。祖母は答えず、ただ私の足先を見て、同じように縁を避けて歩いた。

母は私の荷物へ目をやった。

「部屋、昔のままにしてあるから」

「ありがとう」

「布団は出してある。寒かったら、押し入れの上段に毛布がある」

「お母さんは?」

「私は台所にいるから」

言葉の端が、すぐに作業へ戻っていく。母は茶碗の底を布巾で拭きながら、私のために湯を沸かしていた。やかんの底で火が小さく鳴っている。流しには洗い終えた皿が並び、どれも同じ角度で伏せられていた。

「手伝うよ」

「いい」

「でも――」

「いいから。仏間、先に行ってきなさい」

母は初めて私の顔を見た。

目の下に薄い影があった。疲れているのだと思った。けれど、疲れていると言える顔ではなかった。何日も眠っていない人の顔ではなく、眠れないことを誰にも知られないようにしている人の顔だった。

「おばあちゃんに、挨拶してきて」

母はそう言って、私の返事を待たずに蛇口をひねった。

水の音が、台所いっぱいに広がった。

私は廊下へ出た。奥の仏間まで、十数歩しかない。けれど、雨戸が閉じた家の中では、廊下が外とは別の場所へ続いているように感じられた。壁に掛かった古い写真の顔が暗がりに沈み、床板の一枚が、私の体重に合わせて小さく軋んだ。

仏間の襖は少し開いていた。

中から線香の匂いがする。煙は細く、天井へ向かってまっすぐ伸びていた。湿った畳の冷たさが、襖越しにもわかる。

私は膝をつき、襖を開けた。

祖母の遺影が、仏壇の中央に置かれている。白い花は新しかった。写真の中の祖母は、口元だけをわずかに緩めていた。笑っているようにも、何かを言いかけているようにも見える。

「おばあちゃん」

声に出した途端、胸の奥が狭くなった。

七回忌だから帰ってきた。そう思っていた。仕事の予定を調整し、長距離バスの席を取り、母から何度も届いた短い連絡に返信した。それだけのことだと思っていた。

けれど遺影を前にすると、六年前に祖母の手を握った感触が戻ってきた。乾いた指先。爪の際に残った白い粉。私が帰ると、何も聞かずに出してくれた薄い煮物と、少し温められた茶碗。

祖母は、私が泣いているときも理由を尋ねなかった。

どうして、と聞けば、私はきっと嘘をついた。だから祖母は聞かなかった。私が話し始めるまで、手を動かしていた。湯を沸かし、布を畳み、髪を撫でる。その沈黙だけが、私には許されている場所だった。

焼香の灰を整え、線香を一本立てる。

そのとき、鈴が鳴った。

りん、と澄んだ音だった。

耳の奥を撫でて、すぐに消えたように思えた。私は手を止めた。鈴は仏壇の前に置かれている。古い金属の表面は磨かれ、薄暗い部屋の中でそこだけ濡れたように光っていた。

誰も触れていない。

少なくとも、私の目の前には誰もいなかった。

焼香の煙が右へ流れた。雨戸の隙間から風が入ったのかもしれない。そう考えようとした。けれど鈴は、風の方向とは反対に揺れていた。

私は息を止めた。

音は消えている。それなのに、余韻だけが床の下へ沈んでいった。畳の下に空洞があり、そこへ音が吸い込まれたようだった。

「古い家だからね」

背後から声がした。

振り向くと、叔父の義彦が襖のそばに立っていた。紺色の上着に皺ひとつなく、片手には革の手帳を持っている。腕時計を見てから、仏壇へ視線を移した。

「建具の隙間から風が入る。鈴くらい、揺れることはあるよ。法事の前に気にしすぎると、かえって疲れる」

「今、鳴ったよね」

「葵は昔から音に敏感だから。聞こえたのは本当だろうけど、原因まで不思議にする必要はない」

「触ってないのに?」

「だから、風だよ。あるいは床が振動したか。大型車が県道を通ったのかもしれない」

義彦は穏やかに話した。穏やかすぎて、言葉の一つひとつが蓋のように思えた。音の上へ、風を置く。風の上へ、古い家を置く。その下にあるものが見えなくなるまで、理由を重ねていく。

「お母さんにも聞こえた?」

私は台所へ顔を向けた。

水の音が止まっていた。母は戸口の向こうに立っていた。手にはまだ布巾がある。白い布の端から、水が一滴ずつ落ちている。

「聞こえてないわ」

母はそう言った。

けれど、返事が早すぎた。

「今、鳴ったよ」

「葵」

母の声が少し低くなった。

「法事の日に、そういう話をするものじゃないの。おばあちゃんに挨拶をして、部屋へ行きなさい。長旅で疲れてるでしょう」

「私、疲れてるから聞き間違えたの?」

「そうは言ってない」

「じゃあ、何?」

母は布巾を折り始めた。濡れた布を、乾いているようにきちんと二つに折る。折り目を指先で押さえ、もう一度重ねる。その動作に、言葉を避けるための長い習慣がにじんでいた。

義彦が小さく咳払いをした。

「まあ、到着したばかりで神経が立っているんだろう。明日の段取りもある。僧侶が来る時間、確認しておきたいことがいくつかあるから、夕食のあとに――」

鈴が鳴った。

今度は一度ではなかった。

りん。

りん、りん。

短い音が、間を置いて続いた。音のたびに、空気が薄く震える。鈴は誰の手にも触れていない。仏壇の前で、金色の舌だけが小さく揺れている。

私は立ち上がった。畳の冷たさが膝から上へ這い上がった。

母の顔から血の気が引いていく。義彦は手帳を閉じ、鈴ではなく母を見た。その視線の動きが、私には聞き慣れた音よりはっきりと何かを語っているように思えた。

「これは風じゃないでしょう」

私が言うと、義彦はすぐに答えなかった。

「風じゃないなら、何だと言うんだ」

「わからない。でも、わからないものを、わかったことにして終わらせないで」

「葵、声を落として」

「ここはおばあちゃんの仏間だよ。誰も触っていない鈴が鳴っているのに、みんな何も聞かなかった顔をする。私が帰ってくる前から、こうだったの?」

母の手から布巾が落ちた。

床に落ちた布が、濡れた音を立てる。

その瞬間、鈴が止まった。

音のなくなった部屋は、鳴っているときよりも暗かった。私は耳を澄ました。外では雨が降り始めていた。雨戸に細かな水滴が当たり、ぱら、ぱら、と乾いた音を返している。

母は落ちた布巾を拾わなかった。

「今日は、何も考えないで」

母が言った。

「七回忌だから。おばあちゃんを送る日だから。余計なことを考えたら、誰も送れなくなる」

「送るって、何を?」

私の声は震えていた。それでも、目を逸らさなかった。

「おばあちゃんを? それとも、今まで言わなかったことを?」

母は答えなかった。

義彦が手帳の角を親指で撫でている。何かを言う前の癖だ。けれど、いつものように話を数字や日程へ移すことはできなかった。仏壇の鈴が、言葉の通り道を塞いでいた。

私はもう一度、遺影を見た。

祖母の顔は暗がりの中で、以前より近く感じられた。幼い私が泣き止むまで、何も聞かずにそばにいた顔。私の茶碗だけを先に温め、服の襟を直し、帰り際には必ずハンカチを持たせた顔。

守られていた。

その記憶だけは、今も疑えなかった。

ただ、何から守られていたのかは知らない。

仏間の奥で、畳がかすかに鳴った。誰かが歩いたような音ではなく、床下の空洞がゆっくり息を吐いたような音だった。

母が顔を上げた。

義彦も聞いたはずなのに、今度は何も言わなかった。

私は鈴の前へ膝をついた。触れるつもりはなかった。ただ、そこに置かれたものを、目を逸らさずに見るためだった。

鈴の表面に、祖母の指が何度も触れた跡がある。磨かれているのに、取れない細かな傷が残っていた。そこへ、雨戸の隙間から入った光が一本だけ差し込む。

鈴は鳴らない。

それでも私は、呼ばれたような気がしていた。

誰に呼ばれたのかは、まだわからない。

ただ、家の中に閉じ込められた音が、私の名前の手前で止まっていることだけは、はっきり感じていた。

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