第9話 言わないことの帳面

襖を開けた。

冷えた空気が顔へ触れた。線香の匂いの奥に、古い紙と濡れた土の匂いが混じっている。仏壇の前に置かれた鈴は、誰の指にも触れられていないのに、金色の舌をかすかに揺らしていた。

りん。

音は短く、しかし今までより深く響いた。耳で聞いたというより、胸の奥に直接落ちてきたようだった。

母が背後で息を呑んだ。

私は仏壇の前へ進み、畳の縁を避けて膝をついた。名簿を胸に抱えたまま、引き出しを開ける。供養帳面、遺影、裁縫箱。昨日から何度も触れたものが、今度は別の顔を見せていた。知っているつもりだった物の一つひとつに、まだ言葉になっていない部分が残っている。

鈴は静かになった。

けれど、静けさは安心ではなかった。音が止んだことで、部屋の中にある他のものが、かえってはっきり聞こえた。雨戸を押す風。床下を流れる水。母の浅い呼吸。紙をめくる私の指先。

供養帳面の最後の頁を開いた。

命日、葬儀、法要の日付が並んでいる。祖母の字はどこまでも整っていた。誰が来たか、何を供えたか、誰に礼を言ったか。死者のための記録でありながら、そこには生きている人間の出入りまで残されている。

七年前の頁で、私は手を止めた。

祖母が亡くなった日の欄だけ、文字が異様に小さい。

午後七時、夕食少量。  午後九時、鈴を手入れ。  午後十時二十分、葵、離れで就寝。

その下に、線が引かれていた。

線の下には何も書かれていない。

「ここ」

私は帳面を母へ向けた。

「このあとが、ない」

母は仏間へ入ってきた。足音を殺すように歩いている。祖母が生きていた頃から、この部屋では誰も大きな音を立てなかった。母は帳面を覗き込み、しばらく黙った。

「その先は、私が書いた」

「どこに?」

「書かなかった」

「どうして?」

「書けなかったのよ」

母は帳面の端に触れた。指先が紙の上を滑る。そこには、何度も消しゴムをかけたような白い跡が残っていた。紙の繊維が荒れ、光を斜めに返している。

「これは、おばあちゃんが書いたんじゃないでしょう」

「ええ」

「お母さんが消したの?」

「消したんじゃない。書こうとして、やめた」

「何を?」

母は答えなかった。

私は帳面を自分の膝へ引き寄せた。白く擦れた場所を指でなぞる。文字は消えているのに、紙の凹みだけが残っている。鉛筆で強く書いた跡だろうか。何度も同じ場所へ言葉を重ねたせいで、紙が沈んでいた。

私は鞄から、手帳を取り出した。音を聞き分けるのと同じように、紙の跡を見ることにも癖がある。書かれた文字は消えても、筆圧は簡単には消えない。

手帳の背で頁をこすり、斜めから光を当てる。

いくつかの線が浮いた。

午後十一時――。

その続きは読めない。けれど、二つ目の文字だけはわかった。

義。

義彦。

私は顔を上げた。

「叔父さんは、あの夜ここにいた」

母は目を閉じた。

「いたわ」

「来ていないんじゃなくて、来ていた。でも、帳面には書けなかった」

「書けば、残るから」

「残っているよ」

「紙に残っているだけなら、まだ隠せると思ったの」

母の声が掠れた。

「人は、書かれていないことを勝手に都合よく埋めるでしょう。病死だった。眠っているうちに亡くなった。朝、様子を見たらもう冷たくなっていた。そういう言葉なら、誰も深く考えずに受け取ってくれる。だから私は、何も書かなかった」

「何があったの」

「義彦が来たのは、夜の十時半を過ぎてからだった。祖母が呼んだのよ」

「何のために?」

「土地の名義を変える話をするためだと思っていた。あの人はそういう話しかしなかったから。でも、祖母は別のことを言った」

「何を?」

母は鈴を見た。

「葵のこと」

身体の内側で、何かがゆっくり沈んだ。

「私の?」

「祖母は、義彦に葵の戸籍の写しを見せろと言った。自分が死んだあと、家族名簿と一緒に保管するように頼んでいたものがあるって。義彦は怒った。そんなものを今さら出してどうする、葵には知らせるな、家の名義にも関係ない話だって」

「戸籍の写しは?」

「義彦が持ってきていた」

母は長く息を吐いた。

「祖母は、あんたの出生を隠したかったんじゃない。逆だった。死ぬ前に、あんたが何者なのかを、あんた自身が知れるようにしておきたかったの」

「じゃあ、どうして手紙には、知らなくていいって」

「途中までしか書けなかったのよ」

母は手紙の束へ目を落とした。

「祖母は、あんたの実の父親が誰かを、私たちに言わなかった。言えなかったんじゃなくて、言わなかった。あんたを産んだのは私だけれど、あんたの父親は、相沢家の人間ではない」

雨の音が遠くなった。

私は母の口元を見ていた。言葉は聞こえている。意味も理解している。なのに、身体だけがそれを受け入れる場所を見つけられずにいた。

「……お父さんは、私が小さいときに亡くなったって」

「そう言った」

「事故で」

「そう言った」

「嘘だったの?」

「全部が嘘ではない。事故で亡くなったのは本当。でも、あんたの父親ではない」

母は畳へ視線を落とした。

「葵の父親は、私の弟だった」

言葉が、仏間の中で止まった。

義彦。

私の叔父。

母の弟。

名簿の空欄の前に、私の名前があった理由が、ようやく形を持った。

私は義彦の顔を思い出した。整えられた服。低い声。私が仏壇の引き出しへ手を伸ばすたびに変わった呼吸。音のする方向より、先に人の顔色を見る癖。

「叔父さんが、私の父親なの?」

「血の上では、そうなる」

「どうして、誰も言わなかったの」

「言えるわけがないでしょう」

母の声に、初めて怒りが混じった。

「義彦には妻がいた。今の家族もある。若い頃の一度の過ちだったと、あの人は言った。私は、あんたを産むつもりだった。けれど、相沢家では、私が子どもを産めば家の恥になる。義彦の家族も壊れる。祖母は、あんたを施設へ預ける話までしていた」

「それを、祖母が止めた?」

「止めたのは、私よ」

母は自分の胸元を押さえた。

「でも、私ひとりではどうにもならなかった。祖母が、あんたを自分の孫として育てると言った。私の娘だとは公にする。でも、父親については誰にも言わない。義彦は家を出て、金だけを出す。そうすれば、あんたはこの家で育てられる。そういう順番にした」

「順番……」

「産んだ母親がいて、名前だけを与えた父親がいて、血のない祖母が、いちばん近くであんたを育てた。家族の順番を入れ替えたのよ」

母の言葉は、説明というより、長年自分へ向けてきた判決のようだった。

「私は祖母に従った。あんたを守るためだと思っていた。でも、義彦は自分の生活を守るために、何もかも忘れたふりをした。あんたの入学式にも来なかった。誕生日にも電話をしなかった。なのに、家の名義や土地の話になると、相沢家の人間として口を出した」

私は空欄へ目を落とした。

名前を書かれなかったのは、私ではなかった。

父親の名だった。

「名簿の空欄は、叔父さんの名前を書く場所だったの?」

「祖母は、最初は書こうとした。でも、最後まで書けなかった。父親として名前を残せば、あんたに届く。残さなければ、あんたは自分だけ外にいるように感じる。どちらを選んでも、誰かが傷つくから」

「それで、手紙を書いた」

「ええ」

母は鈴へ手を伸ばしかけ、指を止めた。

「亡くなる夜、祖母は義彦に、全部話すと言った。あんたへ渡す手紙も見せると言った。義彦は止めた。家の名誉がどうとか、戸籍がどうとか、今さら葵が知っても誰も幸せにならないとか。祖母は、それなら自分で葵に話すと言った」

「叔父さんは、どうしたの」

「鈴を掴んだ」

母の指が震えた。

「祖母の手から、鈴を取り上げた。音を立てるなと言った。葵を起こすな、トキさんに聞かれる、近所に知られる、と。祖母は抵抗しなかった。鈴を床へ置いて、私を見た。私は、義彦を止めなかった」

「どうして」

「怖かったのよ」

母の声が、そこで初めて崩れた。

「義彦が、葵を連れて出ていくと言った。親子だと名乗るつもりはない。ただ、戸籍を整理するために施設へ預けると言った。祖母は、あんたを守るために、私へ何も言うなと目で合図した。私はそれを、止めていいという意味だとわかっていた。でも、動けなかった」

「祖母は、そのあとどうなったの」

「義彦が帰ったあと、祖母は仏間へ戻った。鈴を拾って、磨き始めた。手が震えていた。私はもう休んでと言った。でも祖母は、順番を戻すから、もう少し待ってと言った」

母は両手を膝の上で組んだ。

「その夜、祖母はあんたのための手紙を書いた。父親の名前も、私が産んだことも、全部書くつもりだった。でも途中で息が苦しくなった。私は救急車を呼ぼうとした。祖母は止めた。明日の朝まで待てと言った。家の外へ騒ぎを出すな、葵を起こすなって」

「どうして呼ばなかったの」

「祖母の言う通りにしたから」

母は顔を上げた。

「でも、それだけじゃない。私も、もう限界だった。救急車を呼べば、近所に知られる。義彦が来ていたことも、介護が限界だったことも、祖母が苦しんでいることも、全部外へ出る。私は、朝までなら持つと思った。祖母も、持つと言った。だから、私はあんたの部屋へ行かなかった。仏間の鈴が鳴るたびに、布団の中で聞こえないふりをした」

私は、母を責める言葉を探した。

けれど、見つからなかった。

責めるには、母の手があまりにも荒れていた。許すには、祖母の最期があまりにも長くひとりだった。

仏壇の鈴が、かすかに揺れた。

りん。

母は目を閉じた。

「朝、祖母はもう冷たくなっていた。鈴は手の中にあった。私はそれを取り上げて、きれいに拭いた。下駄も揃えた。遺影を置き、線香を焚いた。義彦には、眠っているうちに亡くなったと連絡した。トキさんには、朝になって見つけたとだけ言った」

「トキさんは、知っていたの?」

「夜、鈴の音を聞いていた。仏間の明かりも見ていた。でも、家へ入ってはこなかった」

背後から声がした。

「入ればよかったんだろうね」

振り返ると、襖の外に木下トキが立っていた。いつからそこにいたのか、わからない。手には濡れた手拭いがあり、その端を指で折っている。

「トキさん……」

「聞いてしまったよ。聞くつもりはなかったんだがね」

トキは仏間へ上がり、祖母の遺影の前に座った。

「ハルさんは、あの晩、わしに見せたんだよ。窓越しに、葵ちゃんの母親の名を書いた紙を。父親の欄は空けたままだった。あの人は、誰かに書いてもらうつもりだったのかもしれん。けれど、誰も書かなかった」

「トキさんも?」

「わしもだよ」

トキは遺影を見た。

「翌朝、仏間の明かりが消えていた。何かあったとわかっていたのに、戸を叩かなかった。家のことに口を出すなと、昔から言われてきたからね。年寄りは、見て見ぬふりを生活の知恵だと思い込みやすい。でも、知恵というのは、時に臆病さの別名になる」

母が俯いた。

私は名簿を開いたまま、三人の顔を見た。

誰も祖母を殺したわけではない。

けれど、誰も祖母を救わなかった。

母は疲れに負け、義彦は体面に逃げ、トキは遠慮を選んだ。祖母は、家族を守るために最後まで黙った。その沈黙の中へ、私も何も知らないまま置かれていた。

「叔父さんは、今どこにいるの」

「離れだと思うよ」

トキが答えた。

「呼ぶ?」

母が訊いた。

私は鈴を見た。

「呼ばなくていい」

母の肩が下がった。

「じゃあ、どうするの」

「私が行く」

私は立ち上がった。

「叔父さんにも、聞く。誰が悪かったかを決めるためじゃない。何を見て、何を見なかったのかを、本人の口から聞くために」

「葵、やめて」

「お母さん、もう私を守らないで」

母の顔が強張った。

「今度は、私が自分で決める。祖母が黙った意味も、お母さんが黙った理由も、叔父さんが何を恐れているのかも、全部聞く。聞いたあとで、私が何を背負うかは私が決める」

トキが小さく頷いた。

「それでええ」

私は仏壇へ向き直った。祖母の遺影は、相変わらず何も語らない。けれど、写真の口元がわずかに緩んでいるように見えた。

鈴へ手を伸ばす。

触れる前に、指先をハンカチで拭った。祖母がいつもそうしていた仕草だった。

金属は冷たかった。

私は鈴を持ち上げた。

音は鳴らなかった。

代わりに、仏壇の奥で紙が一枚、ゆっくり滑り落ちた。畳へ落ちた封筒には、義彦の名前が書かれている。

私はそれを拾った。

封は切られていない。

祖母は最後まで、言葉を渡す順番を諦めていなかったのだ。

私は封筒を母へ差し出した。

「これを、叔父さんに渡す」

母は両手で受け取った。

「開けないの?」

「開けるかどうかは、叔父さんが決めることだから」

その言葉を口にしたとき、私は初めて、祖母の沈黙をそのまま受け継がずに済んだ気がした。黙ることと、相手に選ばせることは違う。隠すことと、待つことも違う。

仏間の空気が、ひと息だけ浅くなった。

鈴は静かだった。

けれど、静けさの底には、まだ誰かの足音が残っている。祖母が歩いた音。母が何度も行き来した音。来なかった義彦を待ち続けた音。トキが戸を叩けずに立ち尽くした音。

私は襖の外へ出た。

廊下の先で、古い下駄がかすかに鳴った。

からり、と一度。

今度は、怖くなかった。

私は音のした方へ歩いた。畳の縁を避ける癖は、まだ身体に残っている。けれど、歩く方向は自分で選んでいた。

背後で、鈴が鳴った。

りん。

それは誰かを呼ぶ音ではなく、誰かがようやく返事をした音のように聞こえた。

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