第5話 額縁の裏、紙の裏

封印展示室へ入る許可は、昼休みの終わりに下りた。
星野英明の署名が入った簡単な閲覧申請書を、古賀澪は修復室の机の上で二度確認した。申請理由には「額縁および裏板の保存状態確認」とある。肖像画の来歴調査とも、欠番の照合とも書かれていない。
言葉を狭くしておく必要があった。
広い言葉は、あとで都合よく解釈される。古賀はそれを何度も見てきた。記録の上では、曖昧さは余白に見える。だが実際には、その余白へ誰かが入り込み、責任の形を変えてしまう。
彼女は白手袋の予備を二組、細い定規、ルーペ、撮影用の小型カメラ、それから祖母の古いブックカバーに挟んだ私物手帳を鞄へ入れた。最後に、使い込んだ赤鉛筆を指先で確かめる。芯は丸くなっていたが、削り直さなかった。細すぎる線は、かえって判断を急がせることがある。
三階北翼へ向かう廊下は、午後になっても冷えていた。
一階の展示室から、子どもの声がかすかに上がってくる。美術館は開館中で、誰かが絵の前に立ち、誰かが作品の説明を読んでいる。その営みは明るいはずなのに、北翼へ近づくほど音が薄くなった。壁に吸われ、床に沈み、古い扉の隙間で消えていく。
封印展示室の前で、星野が待っていた。
濃紺の背広に手袋を合わせ、いつも通り、書類の端を揃えている。彼の横には古い鍵束があった。錆びた輪に大小の鍵がいくつも通され、歩くたびに微かな金属音を立てていた。
「お待たせしました」
古賀が言うと、星野は穏やかに首を振った。
「いえ。こちらこそ、随分と手間をかけさせてしまいましたね。封印展示室は、資料の状態が安定していません。額縁を外すなら、できれば短時間で済ませたい」
「保存状態の確認だけなら、時間はかかりません」
「そうでしょうね。ただ、古いものは、触れた瞬間に別の問題を見せることがあります」
星野は鍵束から細長い鍵を選んだ。鍵を差し込む前に、封印具を指でなぞる。金属の冷たさを確かめるような動作だった。
「館長」
古賀は彼の手元を見たまま言った。
「この封印は、いつから使われているものですか」
「封印具ですか。さあ、正確には」
星野はすぐに答えなかった。
「旧館の改修時に取りつけられたものだと思います。物理的な意味より、管理上の区分を示すためのものですから、交換記録が残っていないのでしょう」
「交換記録がないのに、改修時のものだと分かるんですか」
「古い館には、そういう推測がいくつもあります。すべてを記録できる時代ではなかった」
「推測を、事実のように扱ってはいけないのでは?」
古賀が言うと、星野の口元から微笑みがわずかに薄れた。
「その通りです。ですから、いまの話も推測として扱ってください」
鍵が回った。
封印具の内部で、乾いた金属音がした。星野は扉を開けず、古賀を見た。
「一つだけ、お願いがあります」
「何でしょう」
「この部屋にある資料は、すべて正式な来歴が確定していません。見つけたものを、すぐに誰かの物語へ結びつけないでいただきたい。記録に空白があるからといって、その空白が必ず悪意で作られたとは限りません」
古賀は扉の木目を見た。塗装の下に、幾度も開閉された傷が沈んでいる。
「悪意がないなら、誰がどうして空白を作ったのかを説明できるはずです」
「説明できない事情もあります」
「その事情を、組織の都合で守ることがありますね」
星野は首を傾けた。相手の言葉を受け止めるときの仕草だった。
「古賀さんは、記録を正すことを、すべての事情に優先させたいのですか」
「正すべき記録を、守るべき記録と同じ扱いにしたくないだけです」
「その二つを、どう区別するのでしょう」
「残された痕跡を見ます。誰かが何を消したか。何を残したか。そこに、意思があるか」
「意思ですか」
「紙には、意思が残ります」
古賀は星野の顔を見た。穏やかな表情は崩れていない。けれど彼の指先が、鍵束の輪を強く握っていた。
「紙を削った跡、綴じ直した順番、書き手が途中で筆を止めた場所。そういうものを見れば、少なくとも、偶然の不備か、手を入れられた記録かは分かります」
「分かったとして、その先は?」
「誰かの名が消されているなら、消された理由を調べます」
星野は扉から手を離した。
「名前を戻すことが、いつもその人を救うとは限りません」
「それでも、消したままにするよりはいい」
「そう言い切れますか。死んだ人間の名を世に戻すことで、生きている人間の人生まで壊れることがある。家族があり、後継ぎがあり、館の職員がいる。古い一件のために、いまの人々をすべて巻き込むことが正しいとは限らない」
星野の声は柔らかかった。柔らかいまま、逃げ道をいくつも塞いでくる。
古賀はすぐに答えなかった。正しさを振りかざすことが、別の暴力になる場合を、彼女も知らないわけではない。以前、誤記を修正したとき、関係者から感謝された一方で、館内には長い沈黙が生まれた。訂正された記録は正しくても、その正しさを受け取れない人間がいる。
だが、だからといって、誤りを残してよい理由にはならなかった。
「壊れるかどうかを決めるのは、消した側ではないと思います」
古賀は言った。
「誰かを守るために、別の誰かの名を消す。その判断をした人間が、あとになって『公にすれば壊れる』と言うのは、責任を二度引き受けないための言葉です」
星野はしばらく彼女を見ていた。
その沈黙のあいだ、廊下の奥で空調が一度だけ唸った。冷たい風が二人の足元を通り過ぎ、古いカーテンの裾をわずかに揺らす。
「……分かりました」
星野は鍵を抜いた。
「確認をお願いします。ただし、何かを剥がす場合は、必ず私を呼んでください」
「はい」
「そして、見つけたものは、最初から私にも共有してください。館の資料ですから」
その言葉が、古賀には妙に重く聞こえた。
館の資料。
誰の資料なのかは、まだ決まっていない。館が保管しているからといって、館の都合で扱ってよいわけではない。古賀はその考えを口にせず、扉へ向き直った。
重い扉が開く。
中の空気は、廊下より冷たかった。
窓は北側に一つしかなく、厚いカーテンが閉じられている。未整理の額縁や木箱が壁際に積まれ、布をかけられた資料が、使われなくなった家具のように並んでいた。古紙と乾いた糊、それから長く閉じられた部屋特有の木の匂いが混じっている。
中央の壁に、肖像画があった。
女性は淡い色の衣服をまとい、身体をわずかに斜めへ向けている。顔立ちは端正だが、目線は正面から外れていた。見られるために描かれたはずなのに、誰かの視線から逃れるような姿勢だった。
襟元に、黒い細縁のブローチがある。
古賀は絵の前に立ち、まず額縁を見た。
木肌は暗く、角が丸い。手入れで削れたのではなく、持ち上げる者がいつも同じ場所へ指をかけたことで磨耗している。右下の角だけ、ほかより艶が薄かった。
「そこです」
星野が言った。
古賀は振り返った。
「何がですか」
「右下の角。以前、運搬時に傷めた箇所です」
「以前、一度だけご覧になったとおっしゃっていましたね」
「ええ」
「それで、傷の位置まで覚えている」
星野は答えず、視線を肖像画へ戻した。
古賀はそれ以上追及しなかった。いま重要なのは、彼の記憶ではなく、額縁の内側だった。
二人で額縁を持ち上げる。星野は古いものを扱う手つきに慣れていた。力を入れる場所も、身体を寄せる距離も正確だった。古賀はその動作を見ながら、彼がこの絵を知らない人間ではないことを確信に近いところまで押し上げた。
壁から外した額縁を、用意した支持台へ伏せる。
裏板には、後年取りつけられた金具が使われていた。金属の表面に細かな擦り傷があり、何度か外されている。古賀はルーペを当てた。
「この金具、交換されています」
「保存上の理由でしょう」
「一部だけです。左側は古い。右側だけ新しい」
古賀は定規で金具の幅を測った。新しい金具には、薄い茶色の粉が付着している。錆ではない。木部を削ったときに出る粉だ。
「裏板を外します」
星野が言った。
「私が」
古賀は手を止めた。
「館長が外す理由はありません」
「作業経験があります」
「立ち会いをお願いしたのは、許可をいただくためです。作業は私が行います」
星野の指が、裏板の端から離れた。
「慎重ですね」
「慎重でないと、残せるものまで壊します」
古賀は細いヘラを差し込み、釘の周囲を確かめた。木が乾いて硬くなっている。ひとつの釘だけ、頭の周りに新しい傷があった。以前、急いで抜こうとした跡だ。
ヘラを少しずつ進める。
木が軋み、接着剤の乾いた匂いが立った。裏板が数ミリ浮く。そこに、別の薄い紙が貼り込まれているのが見えた。
表面の絵具より先に、裏側の紙が語り始めた。
紙は二層になっていた。上の補修紙は昭和後期のものだが、その下には、繊維の密な古い和紙が残っている。接着剤は一度剥がされ、別の糊で押さえ直されていた。
「ここは、修復記録にありますか」
古賀が訊くと、星野はすぐに答えなかった。
「裏板の補修については、詳細な記録がないかもしれません」
「館長は、ない記録をよくご存知ですね」
「古い資料は、そういうものです」
声は穏やかだったが、返答の速度が遅くなっていた。
古賀は紙の継ぎ目にルーペを近づけた。薄い紙の端に、鉛筆のような線がある。線は途中で途切れ、さらに別の紙の下へ潜っている。
「紙を剥がします。ただし、全部ではありません。端を浮かせるだけです」
「必要ですか」
「このままでは下の状態が確認できません」
「もし、絵を傷めたら?」
「傷めないようにします」
「そう言い切るのは、危険ではありませんか」
古賀はヘラを置いた。
「作業に絶対はありません。だから、どこまで触れたかを記録します。見えないからといって、見ないことにはできません」
「見ないことで守られるものもある」
「それは、守られるのではなく、管理されているだけかもしれません」
星野の沈黙が長くなった。
古賀は彼の同意を待たず、保存板を紙の下へ差し込んだ。薄い和紙は乾いていて、指先にざらつきが残る。紙の繊維が、何十年も閉じ込められていた空気を吐き出すように、わずかに浮いた。
その下から、茶色く変色した紙片が現れた。
文字がある。
インクは滲み、ところどころ焼けていた。だが、行の並びは読める。
「これは……修復メモです」
古賀は声を落とした。
日付は、肖像画が寄贈された年の翌年だった。署名は崩されている。しかし最後の一画の止め方に、見覚えがあった。古賀は以前、星野の若い頃の修復記録を見たことがある。館の古い資料に添えられた、几帳面で端だけがわずかに右へ流れる筆跡。
似ている。
断定するには、まだ比較資料が足りない。
それでも、紙片の筆跡は星野の手を思わせた。
古賀は文章を追った。
「裏板交換。表題訂正。寄贈番号再編。人物名は……」
そこから先が焼けている。
彼女は紙片の端を光へかざした。焼損部分には黒い煤が残っているが、繊維の奥に細い線が沈んでいた。文字を書いたあとで熱にさらされたのではない。紙の上から別の紙を重ね、さらに一部を削ったような傷だった。
「何が書いてあるんですか」
星野が訊いた。
古賀はすぐには答えなかった。
「まだ読めません」
「読めないものを、メモだと判断できるのですか」
「文字の配列と紙の折り方から判断しています」
「では、内容は推測ですね」
「内容ではなく、作業の種類を見ています」
古賀は紙片を撮影した。
「この紙には、作品を直した記録だけではなく、記録同士の順番を変えた痕跡があります。裏板を交換した。表題を訂正した。寄贈番号を再編した。人物名については、書かれた部分が削られている」
「人物名があったと?」
「そう読めます」
「古賀さん」
星野は低い声で言った。
「記録の一部が欠けているからといって、そこに都合のよい名前を入れてはいけません。古い資料は、見たいものを見せる鏡にもなります」
「だから比較します」
古賀は紙片から目を離さなかった。
「同じ時期の台帳、寄贈式の記事、裏板の接着剤、署名の筆圧。ひとつだけでは断定できなくても、別々の資料が同じ方向を向けば、そこには意味があります」
「意味を作るのは、見る側では?」
「作られた意味なら、紙の傷と一致しません」
星野は黙った。
その沈黙の中で、古賀は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。肩を一度落とし、息を整える。怒りを声に混ぜると、記録の判断を誤る。彼女はそう教えられてきた。けれど、怒りを完全に捨てることもできなかった。
この紙片は、誰かが残した。
残したのに、読めないようにされた。
それは、名前を生かすために作られた証拠であり、同時に、名前を消すために傷つけられた証拠だった。
扉が二度、控えめに叩かれた。
「失礼します」
三枝透の声だった。古賀が返事をすると、三枝が新聞縮刷版を抱えて入ってきた。彼は額縁の裏を見て、一瞬だけ足を止める。だが、すぐに紙束を抱え直し、作業台の端へ置いた。
「記事が見つかりました」
「何の記事ですか」
「寄贈品の解説です。現在の台帳では、欠番の位置にある肖像画が、別の作品名で記載されている」
三枝は複写を取り出した。
「同じ作品番号のはずなのに、年代によって題名が違います。最初は『鷹見家婦人像』。次の目録では『婦人像』。さらに後では『西洋婦人』になっている」
古賀は紙面を受け取った。三枝は彼女の手元へ、汚れた保存板をそっと差し出す。紙を直接持たないための板だった。
「作品番号は?」
「途中で欠番になっています。ただ、最初の目録には番号が残っている」
三枝は番号を指で示した。
古賀は肖像画の裏にあるメモと、新聞記事を交互に見た。
「題名が変わるたびに、人物との関係が薄くなっています」
「はい。鷹見家の婦人から、ただの婦人へ。最後には、出自を示さない西洋婦人へ」
「描かれているのは、日本人の女性なのに」
「記事の執筆者が、そう見せたかったのでしょう」
「あるいは、そう書かされた」
三枝は眼鏡を押し上げた。
「記事の紙面には、後から黒い線を引いた跡があります。最初の題名を消したあと、その上から別の説明を重ねている。印刷の文字ではなく、手書きの訂正です」
古賀は写真の女性を思い出した。黒い細縁のブローチを身につけ、視線をわずかに外していた姿。顔より先に、身につけた小さな品だけが残っている。
「この作品は、贋作だったんでしょうか」
三枝が訊いた。
古賀はすぐに答えなかった。
肖像画の表面だけを見れば、古い絵に見える。絵具の剥落も、額縁の磨耗も、戦前のものとして矛盾はない。だが、裏板の修復メモは、作品そのものより記録を操作した手順を示している。
「まだ分かりません」
古賀は言った。
「ただ、真贋だけを問題にした人たちではないと思います」
「どういう意味ですか」
「本物か偽物かが問題なら、作者名を直せば済む。題名を何度も変えたり、モデルの姓まで消したりする必要はありません。誰かは、絵の価値ではなく、この女性が誰だったかを見えなくしたかった」
三枝の指が、新聞記事の端で止まった。
「人物を消すために、作品を利用した」
「作品を残したまま、人物だけを消した」
古賀は裏板の紙片へ視線を落とした。
そのとき、紙片の焼けた端に、小さな文字が浮いた。先ほどは煤に隠れて見えなかったが、斜めから光を当てると、二つの線が重なっている。
「三枝さん、ライトを」
三枝がすぐに小型ライトを差し出す。古賀は光を低く当てた。
文字の一部が現れた。
「……る、り」
古賀の喉が乾いた。
三枝も紙片を覗き込んだが、すぐには声を出さなかった。星野だけが、わずかに息を呑んだように見えた。
「読めますか」
三枝が訊く。
古賀は紙を傷めない距離から、文字の形を追った。
「名前の末尾かもしれません。断定はできません」
「瑠璃、でしょうか」
三枝の声は低かった。
その名は、書庫で見つかった読者欄の切り抜きにあった。鷹見家の令嬢、瑠璃氏。けれど、そこにはまだ裏づけがなかった。
古賀は紙片の文字へ目を凝らした。
「この筆跡だけでは、言えません。ただ、名前を消す作業の途中で、最後の二文字だけが残った可能性はあります」
星野が口を開いた。
「古賀さん」
「はい」
「その名前を、どこで?」
「三枝さんが調べた記事にありました。鷹見家の令嬢、瑠璃氏という記載です」
星野の表情は変わらなかった。
けれど、鍵束を握る指が止まっていた。
「鷹見瑠璃という女性が、実在した可能性があります」
古賀は言った。
「まだ、可能性です。写真、台帳、記事、そしてこの修復メモ。すべてを照合しなければならない」
星野は紙片へ視線を落とした。長い沈黙のあと、彼は柔らかい声で言った。
「古い記録には、死者だけでなく、生きている人間の事情も含まれています。名前を出すことが、必ずしも正しいとは限りません」
「では、消すことが正しいのですか」
「正しいとは言っていません」
「ただ、必要だったと言う」
星野は答えなかった。
古賀は紙片を保存袋へ入れた。袋の表面がかすかに曇る。紙の乾いた匂いに、古い糊の甘さが混じった。
「このメモは、館長室で保管します」
「そうしてください」
「私が保管します」
星野の声が、初めて少しだけ硬くなった。
古賀は彼を見た。
「なぜですか」
「封印展示室の資料です。保管責任者として、所在を明確にしておきたい」
「所在は、台帳に記載します」
「まだ正式な資料番号がありません」
「だからこそ、誰が持っているかを曖昧にしてはいけない」
古賀は保存袋を机の中央へ置いた。星野の手が伸びかけ、止まる。
「館長。あなたは、過去にこの肖像画を見たことがある」
「先ほど申し上げた通りです」
「一度だけでは、額縁の傷や裏板の金具まで覚えられません」
「人には、印象に残るものがあります」
「では、何が印象に残ったんですか。絵ですか。女性の顔ですか。それとも、消された名前ですか」
三枝が息を止めた気配がした。
星野は古賀を見た。目の奥に何かが浮かんだように思えたが、古賀にはそれが恐れなのか怒りなのか、見分けられなかった。
「古賀さん」
彼は静かに言った。
「記録を守る仕事は、すべてを明るみに出す仕事ではありません。明るみに出すことで、別の人間を傷つけるなら、見えない場所に置いておく判断も必要です」
「それは、誰が決めるんですか」
「責任を負える立場の者が」
「つまり、館長が?」
「館を預かる者が」
古賀は保存袋の上へ手を置いた。紙には触れていない。だが、袋越しにも、内部のざらつきが伝わるような気がした。
「その立場の人間が、過去の記録から利益を得ている場合は?」
星野の口元から、笑みが消えた。
声を荒げない沈黙が、部屋の温度を下げていく。古賀は目を逸らさなかった。人の顔より手元を見る癖がある。けれど今だけは、星野の目を見た。
「疑っているのですか」
「まだ、疑いを記録にはしていません」
「記録にしなければ、存在しないと?」
「記録にするには、根拠が要ります」
「根拠が揃うまで待つ間に、資料が失われたら」
「だから、私はここにいます」
古賀は言った。
「失われないように、触れた場所を残します。誰が、いつ、何を見たかを記録する。そうすれば、あとから都合のいい形に直すことはできない」
星野は、保存袋から手を引いた。
「……随分と、強くなりましたね」
古賀はその言葉に、昔の先輩学芸員の声を思い出した。「記録は人を守るが、人を守るために消される記録もある」。あの曖昧な言葉を、彼女は長いあいだ飲み込んできた。
だが、いまなら少しだけ違う形で言える。
記録は人を守る。
同時に、守るという名で人を消した者の手も残す。
「強くなったのではありません」
古賀は保存袋を撮影しながら言った。
「見えるものを、見えないふりできなくなっただけです」
星野は返事をしなかった。
三枝が新聞記事を慎重に畳む。紙の折り目は、最初からそこにあったように静かに戻った。
肖像画は、再び額縁に収められた。古賀は裏板を閉じる前に、補修紙の端を撮影し、紙片の位置を記録した。貼り戻すことはしなかった。むしろ、剥がれかけた端を保存用の薄紙で支え、傷が見える状態を保つ。
きれいに直すことはできる。
だが、きれいに直せば、誰かがどこを傷つけたのか分からなくなる。
額縁を立て直すと、肖像画の女性が再び暗い部屋の中へ戻った。黒い細縁のブローチだけが、窓のない室内でかすかな光を拾っている。
古賀はその輝きを見ながら、女性の名を心の中で一度だけ呼んだ。
鷹見瑠璃。
まだ、声には出さなかった。
名前は、証拠が揃うまで口にすべきではない。そう思っていた。けれど、呼ばれないまま消えていくものがあることを、彼女はもう知っていた。
扉の外へ出ると、廊下の空気が少し暖かく感じられた。遠くの展示室から、来館者の笑い声が聞こえる。明るい場所では、人の名前が説明板に整然と並んでいる。作者、制作年、寄贈者、所蔵者。誰が何を残したかが、読みやすい文字で示されている。
その一方で、北翼の奥には、名を削られた肖像がある。
古賀は封印を閉じる星野の手元を見た。彼は金具を戻し、鍵をかけ、書類の端を揃えた。何も乱れていないように見える。だが、保存袋の中には、焼け残った文字がある。
「星野館長」
古賀は言った。
「このメモの作成者を確認するために、過去の修復記録を閲覧したいと思います」
「もちろんです」
「若い頃の館長の筆跡も」
星野は一拍置いた。
「必要なら、お見せしましょう」
「必要です」
「分かりました」
彼は柔らかく答えた。
その声の下に、薄い金属のような緊張があった。
古賀は保存袋を手にしたまま、書庫へ向かって歩き出した。三枝が隣に並ぶ。二人の足音は、磨かれた木床の上で小さく重なった。
「古賀さん」
三枝が言った。
「はい」
「さきほどの文字。本当に、瑠璃と読めますか」
「まだ分かりません」
「でも、そう読んだ」
「そう読める形が残っていたからです。読めることと、正しいことは別です」
三枝は黙った。しばらくして、低い声で続けた。
「それでも、名前は一度読まれると、元の空白には戻りませんね」
古賀は歩みを止めなかった。
回廊の窓から、海の光が差し込んでいる。港の水面は風に細かく割れ、白い反射を建物の壁へ投げていた。まばゆい光は、古い塗装の剥がれや、窓枠のひびまで容赦なく照らしている。
「戻さなくていいんです」
古賀は言った。
「空白へ戻す必要はない。まだ名前を確定できなくても、そこに誰かの名があったことを残せばいい」
「それは、名前を返すこととは違いますか」
「違います」
古賀は保存袋を見下ろした。
「返す前に、誰が奪ったのかを残す必要があります」
書庫の扉が近づいてくる。
古賀の手の中で、保存袋の紙片がかすかに揺れた。焼けた端の向こうに、読めない文字がまだ眠っている。白い花粉が残した時間も、黒いブローチが拾った光も、台帳の欠番も、すべてがひとつの人物へ近づいていた。
だが、名前の輪郭が濃くなるほど、消した側の手もまた鮮明になっていく。
古賀は書庫の鍵を開けた。
乾いた古紙の匂いが、静かに流れ出てくる。
その匂いの奥に、まだ誰にも返されていない記憶があった。
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