4話 光に透ける欠番

朝一番の書庫には、まだ暖房が入っていなかった。

旧館の北側に寄せられた部屋は、海から回り込んだ冷気を壁の内側に溜め込んでいる。窓硝子には薄い曇りが張り、港のクレーンが動き出す金属音も、厚い扉を二枚隔てたここでは遠い振動に変わっていた。

古賀澪は、書庫の中央に置かれた長机へ収蔵台帳の写しを広げた。

机の表面には、前の晩に拭き取られた水分がまだ完全には消えていない。古賀は持参した布を取り出し、台帳を置く範囲だけを乾拭きした。紙が湿気を吸えば、繊維の状態を読み違える。小さな誤差でも、古い記録を扱うときには、あとから人ひとり分の空白になり得た。

白手袋をはめる前に、細い鉛筆の先を紙の端へ一度だけ当てる。

ざら、と乾いた音がした。

古賀は台帳の頁をめくった。

百四十七。百四十八。百四十九。

そこから先の作品番号が、ひとつ抜けている。

昨日までにも何度か見ていた欠番だった。だが、封印展示室の前に白いバラが置かれ、花器の底から何年分もの花粉が見つかったあとでは、数字の抜け落ちは単なる管理上の不備には見えなかった。

古賀は頁の端を指先で撫でた。

綴じ目の近くに、わずかな沈みがある。紙を削った傷ではない。削ったあとに何かを塗り、乾かし、上から別の紙を重ねて押さえたような、平たい圧だった。長い時間をかけて帳尻だけを合わせた結果、紙そのものが空白の形を覚えている。

欠番は、抜けているのではなかった。

抜けたままにしておくことを、誰かが何度も確認した跡だった。

「百四十九、百五十……」

小声で数えると、数字の列がようやく目の前に並ぶ。古賀は無意識に赤鉛筆へ手を伸ばしたが、すぐには印をつけなかった。線を引けば、まだ推測にすぎないものを、自分の側へ固定してしまう。記録を正す仕事は、記録を増やす仕事でもある。だからこそ、最初の一線には慎重でなければならなかった。

書庫の奥で、紙束が触れ合う音がした。

振り向くと、三枝透が背の高い書架の間から現れた。両腕に新聞縮刷版と古い寄贈目録を抱えている。束の角はきれいに揃えられ、いちばん上の冊子だけ、表紙の紙が薄く波打っていた。

「早いですね」

古賀が言うと、三枝は一拍置いてから答えた。

「古い資料は、朝のほうが見つかります」

「時間帯で変わるものですか」

「探している側の集中が変わります。閉館後は館の音が増えるので、紙面の違いを拾いにくい」

三枝は机の脇まで来ると、資料を置く場所を一度見た。古賀の台帳から十分に離れた空白を選び、紙束を音もなく置く。それから眼鏡を外し、布で右のレンズ、左のレンズの順に丁寧に拭いた。

古賀はその手順を見ながら、彼が眼鏡を拭くときには、何かを言い出す前の時間を作っているのだと気づいた。

「何か見つかりましたか」

「見つかったというより、つながりそうなものです」

三枝は一冊の縮刷版を開いた。頁の端に細い定規を添え、紙が浮かないように指の腹で押さえる。

「昨日の寄贈式の記事を、年代の近いものから調べました。記事そのものは、何度も引用されています。だから余計な改変は少ないと思っていたのですが、写真の扱いが妙です」

「写真に?」

「本文には触れられていません。掲載写真の説明にも、人物名はほとんどない。ただ、写真だけが後年の複写に差し替えられている」

三枝は取り出した複写を机の上へ滑らせた。

写っているのは、戦前の美術館前身施設の正面玄関だった。洋館の壁は現在より白く、窓枠には濃い塗料が残っている。玄関前に集まった人々は、寄贈式の記念撮影らしく、全員がこちらを向いていた。

ただ一人、若い女性だけが正面を外している。

彼女は身体を半歩だけ引き、視線を伏せていた。逃げているようにも、誰かの言葉を聞き流しているようにも見える。襟元には黒い細縁のブローチがあり、白い服地の上で、小さな輪郭だけが鮮明に残っていた。

古賀はルーペを取り出した。

拡大されたブローチは、楕円形の黒い縁を持っていた。中心には光を反射する面がある。飾りとしては控えめで、集団写真の中では見落として当然の大きさだった。

「これです」

古賀は言った。

「封印展示室の肖像画に描かれているものと同じです」

「同じに見えます」

「同じです」

三枝は写真から目を上げた。古賀の断定が早いと感じたのかもしれない。だが、彼女には理由があった。肖像画の女性は、右手を胸元へ寄せている。ブローチの留め具がわずかに傾き、黒い縁の下側だけが濃く見える。その癖まで一致していた。

「装身具の一致だけでは、人物同定には足りません」

三枝が言った。

「分かっています」

「写真の撮影時期と、肖像画の絵具の年代差も調べる必要があります。絵が本人を描いたものではなく、後年、別の人物に同じ装身具をつけて描かせた可能性もある」

「それでも、偶然で済ませるには近すぎます」

古賀は写真の端に目を移した。画像の右下には、複写したときに付いた薄い影がある。その影の下に、元の紙の繊維が透けていた。

「この写真は、何から複写されたものですか」

「新聞紙面から外された写真を、館が保管していたものだそうです」

「そうだそうです、というのは?」

「複写台帳に、作成者の署名がありません」

三枝は縮刷版の頁を押さえたまま、低い声で続けた。

「作成日と、複写した写真の番号だけ。担当者欄は空白です」

古賀は台帳の欠番を見た。

紙の空白と、署名の空白。

どちらも、そこに何もなかったからではなく、誰かが責任の所在を残さなかったために生じている。

「写真の裏を見せてください」

三枝はすぐには動かなかった。

「こちらは複写です。裏面に触れるなら、下敷きを入れます」

「お願いします」

三枝は書架から薄い保存板を取って戻った。板の上に写真を置き、紙の角を押さえ、端を揃える。その動作には、人間の顔を扱うときには見せないほどの慎重さがあった。

写真を裏返す。

余白の中央に、褪せた文字の圧が残っている。表面からは見えない。だが斜めに光を当てると、紙の繊維が押し潰された部分だけが薄く浮かび上がった。

三枝は机のスタンドを動かした。

光が紙の上を滑る。

二文字が現れた。

鷹見。

「インクそのものではありません」

三枝が言った。

「上から薄い紙を貼って剥がした痕跡です。文字を書いたときの筆圧だけが残っている。墨を消したのではなく、名前のある部分を隠すために紙を重ねた」

「剥がしたのは誰ですか」

「それは分かりません」

「でも、隠した人間はいる」

「はい」

三枝は眼鏡を押し上げた。

「分からないことを分からないままにしておくのは、資料の扱いとしては正しい場合があります。ただ、分からないという言葉で、調べるべきことまで閉じてはいけない。誰が剥がしたかは分からなくても、剥がす必要があった人物がいたことは、ここに残っています」

古賀は、写真に写った女性を見た。

伏せた目。引かれた肩。胸元のブローチ。

その人は、記念撮影の場でさえ、周囲の視線から少しだけ身を外していた。拒んでいるのか、諦めているのか、古賀にはまだ分からない。けれど、誰かに置かれた位置へ黙って収まっている人の姿には見えなかった。

「鷹見家の女性名簿はありますか」

「家族名簿そのものはありません。寄贈礼状と新聞記事、それから寺院の過去帳の複写なら」

「過去帳まで調べたんですか」

「鷹見という姓は、旧港区では珍しくありません。名簿だけでは分岐が多いので」

三枝は次の資料を開いた。

「ただ、寄贈式の記事にひとつ変なところがあります」

「何が?」

「本文では、寄贈者を『鷹見家当主』としか記していません。通常なら、寄贈に同席した家族や代理人の名前を添えることが多い。ところがこの記事だけ、写真の説明が『関係者一同』になっている」

「写真には、女性が写っているのに」

「ええ。しかも、寄贈品の一覧に肖像画が一件あります。作品番号は、現在の台帳で欠けている番号の前後に収まるはずです」

古賀は台帳の写しを手元へ引き寄せた。

百四十九の次に、百五十一がある。

この空白が、肖像画のために作られたものだとすれば、欠けた作品番号は一つではない。作品名、作者名、モデルの名。その三つを記すための欄が、まとめて抜かれている。

「寄贈品の肖像画は、どんな名前で記載されていますか」

三枝は記事の小さな活字を指で追った。

「『婦人像』です。作者名は、判読不能として処理されています」

「判読不能?」

「そう書かれています。ですが、元の記事を拡大すると、文字数は残っている。作者名の部分だけ、上から黒い線で潰されている」

三枝の声が、少しだけ速くなった。すぐに抑え直したが、古賀にはその変化が伝わった。

「作品名も作者名も、後から削られた。人物名は最初から書かれなかった。あるいは、書かれたあとで抜かれた」

「そして、写真の女性だけが残った」

「正確には、写真の女性ではなく、女性の装身具が残った」

三枝はそう言って、ブローチを見た。

「人の顔は切り取れます。名前も削れます。けれど、同じ装身具を別の記録から消すには、そこにあるすべての記録を探さなければならない。消す側が見落とした一点が、残った」

古賀は写真の女性の顔を見つめた。

その人は、顔を残そうとしているようには見えなかった。むしろ、顔が消されることを知っていて、別の場所へ自分を残そうとしているようだった。

「この女性の名前が、鷹見瑠璃だと考えているんですね」

三枝は一度、眼鏡を外した。レンズを拭く動作が、今度はなかなか始まらなかった。

「考えている、というより、候補の一つです。鷹見家の旧い家族写真に、瑠璃という名の女性がいた記録はあります。ですが、その資料は公開されていません」

「どこに?」

「館長室の書庫に、戦前の収蔵家族アルバムがあると聞いています」

「見たことは?」

「ありません」

「なぜ見せてもらえないんでしょう」

「管理区分が非公開だからです。所蔵者が個人か館かも、記録上は曖昧です」

古賀は台帳の端を揃えた。

紙の端が一枚だけ、わずかに外へ出ている。彼女はそれを押し戻した。揃えることは簡単だった。外れた紙を戻し、角を合わせ、上から軽く押さえるだけでいい。

だが、人の名はそうはいかない。

一度、記録の列から外されたものを戻すには、外された理由まで見なければならない。理由を見ないまま名前だけ書き戻せば、別の嘘の上に名を置くことになる。

「三枝さん」

「はい」

「鷹見瑠璃という名前は、どこで見つけたんですか」

三枝は沈黙した。

古賀は彼の顔ではなく、手元を見た。右手の親指が、保存板の端を押さえている。紙を傷つけないための仕草に見えるが、力が少し強い。

「名前そのものは、まだ見つけていません」

「まだ?」

「旧港区の地方紙に、寄贈式の数日後の記事があります。記事の本文は失われていますが、読者欄の小さな訂正が残っている。そこに『鷹見家の令嬢、瑠璃氏』という表記がある。ただし、瑠璃氏が何について訂正されたのかは、切り取られていて分かりません」

「その切り抜きは?」

「今、探しています」

「探している?」

「朝までに見つけるつもりでした。見つけてから話すつもりだった」

古賀は三枝を見た。

彼は大きな秘密を抱えているようには見えなかった。ただ、資料を途中の状態で渡すことを嫌っている。欠けたままの紙片を差し出すことが、紙に対して失礼だと思っているのだろう。

「未完成でも見せてください」

古賀が言った。

「途中の資料は、受け取る側が勝手に続きを作ってしまいます」

「勝手に作らないようにします」

「古賀さんは、作ると思います」

「そうかもしれません」

古賀は台帳の欠番を指先で撫でた。

「でも、完成するまで待っているあいだに、誰かがまた紙を差し替えるかもしれない。記録は、正しい形になるまで待ってくれません」

三枝は長い間、古賀の手元を見ていた。

「古賀さんは、名前を戻したいんですか」

「戻す、という言い方はまだ早いと思います」

「では、何をしたいんです」

古賀はすぐに答えられなかった。

白いバラの花器。底に残った花粉。黒い細縁のブローチ。台帳の欠番。写真の裏に沈んだ二文字。目の前に並んでいるのは、どれも小さなものばかりだった。けれど、それらが向かっている先には、ひとりの人間がいる。

名前を呼ばれなくなった人間。

記録から外され、存在の輪郭だけを他人の都合で削られた人間。

「まず、何が消されたのかを知りたいんです」

古賀は言った。

「名前だけなのか、作品の来歴なのか、それとも、名前を消すことで守られた誰かの立場なのか。記録を直すというのは、空白に文字を入れることではありません。空白が作られた理由を知らずに埋めれば、消した側の都合を、もう一度別の形で残すことになる」

三枝は目を伏せた。

「それは、記録を守ることと、記録を正すことの違いですね」

「同じだと思っていました。正しい記録を守ればいい、と」

「違うんですか」

「今は、分かりません」

古賀は自分の声が思いのほか弱くなっていることに気づいた。書かれた痕跡なら、もっと冷静に扱える。紙の傷には指示書があり、インクの濃淡には時間がある。だが、誰かが意図して沈黙した記録を前にすると、正しさを語るだけでは足りない。自分もまた、これまで見過ごした側にいたのではないかという感覚が、遅れて胸へ沈んでくる。

三枝は写真を保存板から持ち上げた。

「この複写は、しばらく私が保管していました」

「なぜ?」

「書庫の整理中に、廃棄対象の封筒から出てきたからです。分類不能、所蔵者不明。そういう札がついていた」

「捨てられるところだったんですか」

「はい。紙の状態だけ見れば、複写としては劣化が進んでいました。けれど、写真の裏に残った圧を見て、処分できなくなった」

「三枝さんも、欠番に気づいていた?」

「気づいていたというより、欠番に気づいたあとで、写真が欠番の近くから出てきた」

三枝はそこで一度、息を整えた。

「書庫には、誰にも読まれないまま残る資料があります。長い時間のあいだ、誰も手を伸ばさない。そういう資料は、忘れられているように見える。でも、忘れられているのではなく、忘れたことにされている場合がある」

古賀は写真を見た。

女性の襟元で、黒いブローチが光を受けている。

白いバラの花弁も、同じように光を受けていた。どちらも目立つために置かれたものではない。見落とされることを前提に、それでも消えない形を選んでいる。

書庫の窓の向こうで、雲が港の上をゆっくり流れていった。薄い冬の光が硝子を透かし、台帳の頁へ落ちる。

古賀は台帳を一枚、窓際へ移した。

光にかざすと、紙の裏側に薄い影が浮かんだ。欠番の前後だけ、繊維の流れが乱れている。さらに頁を重ねると、後から貼り込まれた紙の縁が、淡い線となって現れた。

三枝が隣へ来る。

「そこです」

「見えますか」

「はい。綴じ替えの線です」

古賀は鉛筆を置き、指先だけで頁の上を追った。

「この紙は、最初からこの綴じ方ではなかった」

「中央の折り目が違います。以前は別の束に綴じられていたはずです」

「つまり、台帳の一頁だけではなく、寄贈記録の束そのものが組み替えられている」

「そうなります」

古賀は台帳を伏せた。

「肖像画の項目を消すために、そこまでした」

「肖像画だけでなく、そこに紐づく人物の記録も消す必要があったのでしょう」

「でも、写真を消しきれなかった」

「ブローチも」

「鷹見という姓も」

三枝は頷いた。

「消すというのは、何も残さないことではありません。残ったものを、意味のないものに見せることです」

その言葉を聞いたとき、古賀は封印展示室の前に立っていた星野の姿を思い出した。肖像画の額縁について、彼は知りすぎていた。白いバラの話を聞いた瞬間、声がやわらかくなった。だが、まだ彼を疑うだけの材料はない。

疑いは、記録ではない。

古賀は赤鉛筆で、台帳の欠番の横に小さな点だけを打った。

点は線ではない。断定でもない。ただ、あとで戻るための印だった。

「写真の女性の名前を、調べます」

古賀は言った。

「鷹見瑠璃である可能性を、可能性のまま放置しない」

三枝は写真を封筒へ戻した。封筒の口を閉じる前に、白い花粉が付着していないことを確かめる。その顔には、わずかな躊躇があった。

「古賀さん」

「はい」

「もし、この名前が本当に消されたものなら、見つけた後のほうが難しくなります」

「なぜですか」

「見つけた名前には、誰かが消した理由がついてくるからです。名前だけを返すと、その理由を隠したまま、きれいな記録に作り直してしまう」

古賀は机の上の写真を見た。

女性は、こちらを見ていない。

それでも、その視線の外し方には、見られたくないのではなく、見せたいものを別に選んでいるような意志があった。

「きれいにするつもりはありません」

古賀は言った。

「傷があるなら、傷のあるまま残します」

三枝はしばらく黙ってから、封筒を古賀へ差し出した。

「では、これは預けます」

古賀は両手で受け取った。封筒の紙は乾いていて、少しざらついている。表面には何も書かれていない。だが、裏側に残った花粉の粒が、指先に微かな白さを移した。

書庫の時計が、九時を告げた。

一階では、開館を知らせる扉の音がした。来館者を迎えるための照明が順番に灯り、美術館はいつもの一日へ戻っていく。人の声が階段を上がり、靴音が磨かれた木床へ散っていく。

けれど、書庫の机の上には、まだ朝の光が残っていた。

古賀は台帳の欠番と、写真の封筒を並べた。ひとつは数字の空白で、もうひとつは名前の空白だった。

どちらも、光に透かさなければ見えない。

そして一度見えてしまえば、もう見なかったことにはできなかった。

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