第3話 花器の底の花粉

夜の美術館では、音がひとつずつ遠ざかっていく。
閉館から二時間が過ぎ、正面玄関の外に人影はない。旧港区の通りを走る車の音も、海面を渡ってくる風の音も、三階北翼まで届くころには壁の内側へ吸い込まれていた。展示室の照明は落とされ、非常灯だけが床の上に薄い緑色の帯を引いている。
古賀澪は、修復室の机に広げていた台帳の写しを閉じた。
百四十九の次にあるはずの番号を、もう一度、赤鉛筆で囲む。囲んだ線は細く、紙の傷に沿っていた。欠番を目立たせるためではない。目立たなくされていたものを、自分の目の前に固定するためだった。
そのとき、館内の時計が止まった。
三階北翼の廊下にある、古い丸時計だった。普段から数分遅れている時計だが、針が止まることはなかった。かすかな機械音が途切れ、秒針が十二の手前で動かなくなる。
古賀は顔を上げた。
時計が止まったあとの静けさは、止まる前より深かった。空調の低い唸りも、壁の中を走る配管の音も消えている。音のない部屋では、自分の呼吸さえ誰かの気配に似てくる。
彼女は肩を一度落とし、机の上の白手袋を取った。
向かう先は決まっていた。
封印展示室の前に置かれた、あの花器だった。
回廊へ出ると、床板の上に非常灯の光が細長く伸びていた。昼間は来館者の足音を受け止めていた木床が、今は湿った冷気を抱えている。窓の隙間から海の匂いが入り込み、磨かれた木の乾いた匂いと混ざっていた。
封印展示室の前には、朝と同じ花器がある。
白いバラは抜かれていた。森下が証拠保全のために花だけを別の容器へ移したのだろう。だが、花器の底には少量の水が残っていた。照明を近づけると、水面に薄い白濁が浮かび、底の隅に粉が沈んでいる。
古賀は腰を落とした。
花器は陶器製で、内側に細いひびが一筋走っていた。ひびの中に水垢が溜まり、白い粒がその凹みに沿って固まっている。花を一輪挿しただけなら、花粉は縁から落ちても、底のひびにこれほど入り込まない。
彼女は携帯用のライトを斜めから当てた。
白い粒が浮かび上がる。
ひとつ、ふたつではない。乾いて沈着した層の上に、新しい粉が重なっている。白い花粉は一度の供花の痕跡ではなかった。
古賀は持参した細いピンセットを取り出した。手袋の指先で柄を確かめ、紙の端で一度だけ動きを試す。小さな透明袋へ、底の粉をほんの少し移した。
そのとき、回廊の奥で足音がした。
「まだ残っていたんですか」
森下だった。警備用の懐中電灯を片手に、階段の踊り場からこちらを見ている。
「花は?」
「事務室の保全箱です。水も一度、抜こうとしたんですが、古賀さんが触らないようにと言ったので」
「抜かなくて正解でした」
「そんなに重要なものですか」
森下は花器から少し離れたところで立ち止まった。朝と同じように、近づきすぎない。だが今度は、白い粉を見ようとして目を細めている。
「重要かどうかは、まだ判断できません。ただ、一輪の花に付着した量ではないと思います」
「何度も花を置いた、ということですか」
「置いた、というより、取り替えていた可能性があります」
「それなら、誰かが毎年ここへ来ていたことになりますね」
古賀は花器の底を見つめたまま答えた。
「毎年とは限りません。けれど、同じ場所に、同じ方法で、何度も」
「夜勤の記録には、そんなものはありません」
「記録にないことと、起きていないことは別です」
森下は黙った。彼の懐中電灯が床を照らし、花器の脇にある小さな擦れを浮かび上がらせる。人が花を置いたあと、器の位置をわずかに直した跡だった。花器の底には、移動した方向へ薄い白い筋が残っている。
古賀はその筋を見ながら、朝の床の曇りを思い出した。
花を置いた者は、置いたあとに必ず一度、扉を見る。
何年も同じ場所へ来た者なら、その動作にも決まった順序があるはずだった。花を差す。高さを確かめる。花器を直す。封印を見る。そして去る。
供花は、思いつきの行為ではない。
古賀は立ち上がった。
「森下さん。過去の夜勤日誌を見せてもらえますか」
「何年分ですか」
「花器が置かれた可能性のある年を、できるだけ」
「それは……かなりの量になりますよ」
「承知しています」
森下が苦笑した。
「古賀さんは、こういうときだけ妙に元気ですね」
「元気ではありません。見つけたものを、そのままにできないだけです」
「同じことじゃないですか」
古賀は答えず、花器へ視線を戻した。
森下は少し考えてから、警備室へ向かった。靴音が回廊を進み、やがて階段の下へ消える。古賀は残された静けさの中で、花器の口に指を近づけた。触れはしない。白い粉の匂いを確かめる。
花の香りはほとんどない。
代わりに、乾いた古紙に似た匂いがした。糊の匂いにも似ている。紙を水で戻し、何度も乾かしたときに残る、繊維の奥の匂いだった。
昼間、松浦加代が言った言葉が蘇る。
――花弁の白さが、当時の紙と似ている。
古賀はその言葉を手帳に書き留めた。書いてから、しばらく文字を見た。加代は花の色について話した。だが、花の色を見ていたのは、加代だけではなかったのかもしれない。
誰かが、白い花を選んだ。
それは弔いのためか、告発のためか。あるいは、両方を分けられないほど長い時間を経て、ひとつの行為に混ざってしまったのか。
書庫の明かりが点いた。三枝透が、抱えきれないほどの夜勤日誌を胸に積んで回廊へ出てくる。資料の角は、暗い中でもきちんと揃っていた。
「森下さんから聞きました。過去の記録を調べると」
「お願いしていませんが」
「お願いされる前に、必要だと思ったので」
三枝は日誌の束を机代わりの窓台に置いた。いちばん上の冊子を開く前に、眼鏡を外して布で拭く。
「ただし、警備日誌に花の記録があるとは限りません。清掃用具や忘れ物として処理されている可能性もあります」
「処理記録も見ます」
「そう言うと思いました」
三枝は古い日誌をめくった。紙の端が何度も触れられたために、そこだけ薄く丸くなっている。日付、担当者、異常の有無。整然とした記録の中には、深夜二時、北翼照明一時不調。三階窓枠、結露。封印展示室前、枯れ枝一本。そうした短い記載が混じっていた。
古賀は頁を覗き込んだ。
「枯れ枝」
「はい。三年前の春です。処分済みとあります」
「ほかには?」
「まだ分かりません」
三枝は一枚ずつ、急がずにめくった。紙を押さえる親指だけが動く。古賀はその手元を見ながら、三枝が資料を読むとき、書かれている文字だけでなく、書き手がどこで筆を止めたかまで見ていることを知っていた。
「ここです」
三枝が頁の中央を示した。
二年前の同じ日付だった。
記録には、こうある。
北翼三階、花器一個。内部に白い花弁。処分。
古賀の指先が止まった。
「花器そのものを処分したんですか」
「いいえ。備品番号が残っています。処分されたのは、花か、花器内の水でしょう」
「なぜ、白い花弁まで記録したんでしょう」
三枝は頁を見たまま答えた。
「記録した人にとって、異常だったからです」
「でも、今年の花は記録されていない」
「今年は、まだ処理されていませんから」
言葉が途切れた。
古賀は過去の日付を指で追った。三年前、二年前。そのさらに前。記載の仕方はばらばらだった。枯れ枝、白い花弁、植物片、清掃対象。どれも供花とは書かれていない。だが、同じ日付の近くに集中している。
一輪を置く行為は、記録されなかったのではない。
記録する側が、それを花と呼ばなかったのだ。
「三枝さん」
「はい」
「この日付に、何か共通する出来事はありますか」
三枝は答える前に、もう一度眼鏡を拭いた。
「調べます。旧暦や館の記念日、それから寄贈式の日付。戦前資料の中に一致するものがないか、照合します」
「お願いします」
「ただ、古賀さん。これは、誰かが毎年花を置いているという話だけではないかもしれません」
古賀は彼を見た。
三枝は日誌の余白を指でなぞっていた。文字に触れないよう、紙の空白だけをなぞる。
「行為が続いていても、目的が同じとは限りません。最初は弔いだったものが、途中から告発になっているかもしれない。あるいは、告発することでしか弔えなくなったのかもしれません」
「それは推測です」
「はい。推測です」
三枝の声は低かった。
「だから、記録と分けておきます。推測を事実のように扱うと、今度は私たちが別のものを消すことになる」
古賀は返事をしなかった。
正しさを急ぐほど、別の誤りを作る。彼女はそれを知っている。以前、誤記を見逃したせいで、作品の来歴確認を遅らせた。あのときも、誰かが「後で直せばいい」と言った。後で直すという言葉は、直す者が現れるまで、傷をそこに置き続ける。
古賀は手帳を開いた。
左の頁には、欠番、ブローチ、鷹見の姓。右の頁には、花器、白い花粉、夜勤日誌。
そこへ、一本の縦線を引いた。
「これは花の記録ではありません」
三枝が言った。
「では、何ですか」
古賀は問い返した。
三枝はしばらく考え、封印展示室の扉を見た。
「名前を呼び返した記録です」
その言葉のあと、誰も話さなかった。
非常灯の緑色が、花器の白い縁に沿って薄く揺れている。扉の向こうには、誰も見るはずのない肖像画がある。そこに描かれた女性の名を、まだ古賀は確かめられていない。
それでも、白いバラは何度もそこへ置かれていた。
見られない場所に、見られない人のために。
古賀は採取袋を閉じ、手帳の右頁に日付を記した。白い花粉、複数年の沈着。北翼三階。花器、同一。記録上は処分扱い。
その横に、短く書き加える。
鷹見瑠璃との関係を照合。
文字を書き終えたとき、窓の隙間から冷気が入り込んだ。回廊の奥へ向かって、細い風が流れていく。けれど封印展示室のカーテンは動かなかった。
動かない布の向こうで、何かが静かに息をしている。
古賀は手帳を閉じた。
白いバラは、もう花ではなかった。誰かが忘れたふりをするたびに、同じ場所へ戻ってくる、ひとつの意思だった。彼女がまだ知らない年月のあいだ、その意思は処分され、記録から外され、名前を持たないまま残されてきた。
そして今夜、花器の底で重なった花粉が、その時間の厚みを彼女の手元へ渡した。
回廊の時計は、止まったままだった。
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