2話 見覚えのある知識

朝の応接室には、窓から差し込む光が控えめに満ちていた。旧館特有の高い天井と、油を含んだ木の匂いが、来客用の重い椅子とテーブルの周囲にゆっくりと沈んでいる。古賀澪が案内されたとき、すでに星野英明は上座に腰を下ろし、湯気の立つ紅茶を挟んで待っていた。

「お忙しいところ、申し訳ありません」

古賀が言うと、星野は緩やかに首を横に振った。

「いえ。こちらこそ、朝早くからお呼び立てしてすみません。あの部屋のことは、館長としても、いずれきちんと確認しなければと思っておりましたから」

湯気の向こうで、星野の顔は柔らかく笑んでいた。彼は白磁の茶器を古賀の前に置きながら、指先で受け皿の縁をわずかに整える。書類を揃えるときと同じ手つきだった。皺のない仕草。古賀はその整いすぎた指先を見て、まず紙の上のことを考える癖のまま、彼の手も一枚の資料のように読み始めていた。

「封印展示室について、館長はどこまでご存知でしょうか」

「どこまで、と言われると難しいですね」

星野は一拍置いて答えた。すぐに答えを外さない。それが彼の話し方だった。

「あの部屋は私が着任する以前から、未整理資料の一時保管場所として扱われていました。私も先任者からそう引き継いだだけで、詳細な経緯までは把握していません。ただ、封印という管理区分が正式に定まったのはかなり後のことのようで、当時の決裁書には理由の記載がなかったと記憶しています」

「肖像画そのものについては?」

「肖像画、ですか」

星野はそこで初めて紅茶に口をつけた。動作がわずかに遅れる。古賀はその遅れを見逃さなかった。

「額縁は古いものですね。木肌の角が丸くなっているのは、幾度も持ち運びや点検で触れられたためでしょう。おそらく戦前の作りだと思います。額の作り自体は、当時よく寄贈品に使われていた形式です。女性の服飾についても、私が学生の頃に多少調べていたことがあるので、時代考証としては珍しいものではありません」

古賀は黙って聞いていた。彼の口ぶりには何ら不自然さがない。学芸員として当然備えている知識の範疇にも見える。だが、彼が語る細部——額縁の角の丸みが「幾度も触れられた」ためだという、その具体性。服飾の時代考証を「学生の頃に多少調べた」という控えめな言い方の裏に、いつ、どこで、何のために調べたのかという問いが、古賀の中で音もなく積み重なっていく。

「館長は、あの肖像画をご覧になったことがあるのですね」

「以前に、一度だけ。着任してすぐの頃です。収蔵状況の確認のために立ち会いました」

「一度だけ、で額縁の角の磨耗まで覚えていらっしゃると」

古賀の声は、いつもより静かだった。感情が高ぶるときほど声が落ちる、自分でも知っている癖だ。星野はその静けさに、わずかに視線を伏せた。

「古賀さん。あの部屋の資料は、来歴が不明確なものばかりです。だからこそ封印という措置が取られている。私が細部を覚えているのは、記憶力が良いというより、来歴確認待ちの資料に対して、館としては人一倍慎重にならざるを得ないからです。何かを見落として、あとで大きな問題になることを、私は何よりも避けたいと思っています」

「大きな問題、というのは」

「来歴の誤りが公になれば、館の信頼を損ないます。寄贈者のご遺族にも失礼になる。私は、混乱を招くことを恐れているだけです」

言葉はいつも整っていた。星野の話し方には、相手の質問を否定するための角がない。だが、核心のすぐ手前で、いつも別の道へ静かに折れる。古賀は資料を扱うときと同じ手つきで、その折れ方を記憶に留めた。紙の折り目は、一度つけば戻らない。人の話し方の折り目もそうかもしれない、と彼女は思った。

「もう一つ伺いたいことがあります。今朝、封印展示室の前に白いバラが供えられていました」

星野の手が、受け皿の縁からわずかに離れた。ほんの一瞬だった。

「バラ、ですか」

「一輪だけ。花器の底には、何年分もの花粉が溜まっていました。継続して行われてきた行為のように見えます」

「……そういうことが、あったのですね」

星野の声が、それまでよりもさらに柔らかくなった。柔らかさが増すほど、古賀の中で警戒が強くなる。彼女はまだ、その相関関係の名前を知らなかった。ただ、紅茶の表面に浮いた薄い膜のような違和感だけが、会話の終わりまで消えずに残っていた。

「調べてみましょう。警備の記録も、私の方から確認します」

星野はそう言って、湯気の消えた紅茶をそのままに、静かに一礼した。応接室を出るとき、古賀は彼の背中に、書類の角を揃える手つきと同じ律動を見た気がした。整いすぎているものは、どこかで無理をしている。

午後、古賀は修復室に松浦加代を呼んだ。窓のない部屋には薄暗い照明と、薬品と古紙の混じった匂いが染み付いている。加代は約束の時間より少し早く現れ、椅子に座るより先に、作業台の上の道具を無言で並べ直した。退職してもう何年も経つはずなのに、その手つきに迷いはなかった。

「お忙しいところ、すみません」

「忙しくはないよ」

短い返事だった。加代は白い布を膝の上で畳みながら、古賀が広げた収蔵台帳の写しへ視線を落とす。すぐには何も言わない。長い沈黙が、部屋の薄暗さに馴染んでいく。

「この欠番について、何か覚えていらっしゃいますか」

「……さあ」

加代はそれだけ言って、また黙った。指先が無意識に、左手の甲の薄い焼け跡をなぞっている。薬品によるものだと、古賀は前に聞いたことがあった。長年の仕事の勲章のような跡だ。

古賀は焦らずに、次の資料を出した。今朝供えられていた白いバラを、写真に収めたものだった。花弁の白さが、写真の紙面でも際立って見える。

加代の視線が、その写真の上でわずかに止まった。今度の沈黙は、先ほどよりも長かった。

「……この花」

ようやく声が出た。低く、乾いた声だった。

「花弁の白さが、当時の紙と似ている」

「当時の紙、というのは」

「戦前の、上質の和紙だよ。今はもう作られていない。薄いのに、繊維が詰まっていて、光に透かすと均一に白い。ちょうど、この花弁みたいに」

加代はそれだけ言うと、口を閉ざした。刷毛を持つ手を休めることなく、布の端を丁寧に整える。古賀はその手の動きから、彼女がこれ以上語る気配がないことを読み取った。だが、加代の言葉は、古賀の中に確かな輪郭を残していた。花は単なる悪戯ではない。誰かが、記録の空白にあわせて、意図的に選んだものだ。

「加代さん。この花を置いた人物に、心当たりはありますか」

問いに、加代はまた長い間を置いた。答えないことも、答えの一種だと、古賀は初めて理解した気がした。

「心当たりがあるかどうかより」

加代がようやく口を開く。

「知っていたところで、今さらどうにもならないことがある。私が語れば済むことなら、もっと前に語っていたよ」

「でも、語らなかった」

「語れなかった」

加代は自分の左手を見た。焼けた皮膚の上を、右手の親指がゆっくり撫でていく。

「触れたものには、責任が残る。私はそれを、あの当時、忘れていた。今になって思い出しても、遅すぎる名がある」

それ以上、加代は何も言わなかった。古賀もそれ以上は問わなかった。修復机の角を、加代の指がもう一度、静かに撫でていく。かつて何かを消した人間のためらいが、そこに刻まれているように、古賀には見えた。

窓のない修復室を出ると、廊下には午後の白い光が満ちていた。だが、その光は暖かさを伴わず、ただ空間の輪郭だけを浮かび上がらせている。古賀は台帳の写しを胸に抱え、封印展示室のある北翼へ向かって歩き出した。

星野の言葉は整いすぎていた。加代の沈黙は重すぎた。ふたつの違う静けさが、同じひとつの名前を、それぞれ別の方向から守っている。古賀はその名前が、まだ自分の手の中にないことを、指先の冷たさで確かめた。

回廊の奥、封印展示室のカーテンは、今日もひとつも動かなかった。だが、そこにあるはずのないものの重さだけが、確かに、廊下の空気の中に沈んでいた。

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