1話 白い花粉のある廊下

瀬渡市立美術館の朝は、海から入り込む湿った冷気と、磨き込まれた木床の乾いた匂いが、互いに譲らぬまま廊下に溜まっていた。

旧港区の埠頭では、まだ荷揚げのクレーンが動き始めたばかりだった。遠くで金属が触れ合う音がし、建物の古い窓ガラスを細く震わせている。けれど、三階北翼まで上がってくると、その音は階段の途中で途切れたように薄くなった。

閉館前点検を終えた古賀澪は、回廊の突き当たりで足を止めた。

「古賀さん。少し、来てもらえますか」

警備員の森下が、封印展示室の前で手招きをしていた。声を抑えている。展示室の扉は閉じられ、錆びた真鍮の封印具も昨夜のままだった。だが、その扉の脇に置かれた小さな花器に、白いバラが一輪だけ差されている。

花弁は朝の光を吸って、紙のように白かった。開ききってはいない。茎はまっすぐで、切り口にも潰れた跡がない。誰かが乱暴に置いたのではなく、手のひらで高さを確かめ、花器の底まで静かに差し入れたのだろう。

古賀は花に手を伸ばさなかった。

先に床へ視線を落とす。

昨夜の清掃で、木床は薄く磨かれていた。靴跡はほとんど残っていない。それでも、花器の前だけ艶がわずかに乱れていた。人が一度立ち止まり、体重を片足からもう片足へ移したときにできる、細い曇りだった。

「今朝、見つけたんですか」

「はい。開館前の巡回で。私が来たときには、もうここに」

森下は花器から距離を取っていた。制服の胸ポケットから手帳を出し、何かを書きかけて、また閉じる。

「昨夜の最終巡回では?」

「ありませんでした。少なくとも、私は見ていません」

「見ていない、というのは」

古賀が顔を上げると、森下は困ったように眉を寄せた。

「扉の封印と鍵は確認しました。花器までは……いつも置かれているものだと思っていたので」

「いつも?」

「いえ。そういう意味ではなくて、ここには昔から、何か置かれていることがあるので。枯れた枝とか、清掃用の布とか。見分けがつきにくいんです」

古賀は返事をせず、薄手の白手袋をはめ直した。右手の指先が少し引っかかった。手袋の縫い目がずれている。彼女は袖口を整え、花器の周囲を見た。

扉の封印は破られていない。

鍵穴にも新しい傷はなかった。花を置いた者は、封印展示室の中へ入っていない。少なくとも、この扉を開けてはいない。

だが、破られているのは別の場所だと、古賀は思った。

「触れずに、写真を撮ってください。花器の正面、左右、それから床を近くから」

「警察を呼びますか」

森下の問いに、古賀は花弁を見た。

白い花は、香りが薄かった。強い芳香の代わりに、花粉と水の乾いた匂いがある。花器の縁には、粉雪のような白い粒が付着していた。花を一輪挿しただけなら、ここまで残るだろうか。

「まだ、何とも言えません。ただ、処分はしないでください」

「館長には?」

古賀は一拍置いた。

「私から伝えます」

森下が頷き、離れていく。靴音が回廊の奥へ消えると、館内はまた、時計の針まで吸い込んだように静かになった。

古賀はしゃがみ込み、床の曇りを斜めから見る。白い花を置いた者の足は、花器の正面ではなく、半歩右にあった。花を差してから、扉のほうを見たのだろう。そこだけ木床の艶が薄い。

人は、隠れて花を置くときでさえ、置いたものが見えるか確かめる。

その確認の仕方には、行為を続けてきた者の慣れがあった。

古賀は立ち上がり、脇に抱えていた収蔵台帳の写しを開いた。夜間点検の前に確認しておくつもりだった。封印展示室に関する資料は、現行の電子台帳にはほとんど記載されていない。未整理品、返還協議中、来歴確認待ち。そうした曖昧な言葉が、古い資料の上に薄く積もっている。

写しの頁をめくる。

百四十七、百四十八、百四十九。

そこから先の番号が、ひとつ抜けていた。

欠番は、単に数字が抜けているだけではなかった。綴じ目の近くに不自然な圧があり、紙の繊維が周囲と違う。削り取った跡を上から糊で押さえ、さらに別の紙を綴じ直したらしい。後から帳尻を合わせるため、空白そのものを目立たなくしようとした手つきだった。

古賀は指先で欠番の縁をなぞった。

紙の毛羽立ちは鈍い。そこだけ、長いあいだ誰かに撫でられていたようだった。

「百四十九、百五十……」

彼女は小さくページ番号を数えた。数字を声にすると、抜け落ちた番号の輪郭が少しだけ濃くなる気がした。

「欠番を数える人は、あまりいませんね」

背後から声がした。

振り返ると、三枝透が回廊の端に立っていた。両腕に新聞縮刷版と寄贈目録の束を抱えている。紙束の角はぴたりと揃えられ、最上段の資料だけが、ほかよりわずかに古い茶色をしていた。

「三枝さん。どうしてここへ」

「書庫へ戻る途中です。森下さんが、古賀さんを呼んでいるのが見えたので」

三枝は花器を見た。驚いた様子はなかった。ただ、眼鏡の奥の視線が、花ではなく縁に付着した白い粒へ移った。

「白いバラですか」

「見れば分かります」

「見れば分かるものほど、記録には残らないんです」

三枝はそう言って、抱えていた束を床に置いた。置く前に、古賀が立っている位置から少し離れた場所を選び、紙が木床に触れる音を抑えた。

「これを」

差し出されたのは、戦前の寄贈目録を撮影した複写だった。写真には、現在の美術館の前身にあたる建物と、正装した数人の男女が写っている。中央には年配の男が立ち、少し離れたところに若い女性がいた。

女性は正面を向いていない。肩を半ば引き、視線だけをこちらへ寄越している。黒い細縁のブローチが、襟元で小さく光っていた。

古賀は写真を受け取る前に、三枝の手元を見た。

「この写真は、どこに?」

「新聞縮刷版の付録です。切り抜きではありません。紙面から外された写真を、後年、館が複写したものです」

「記事は?」

「こちらです」

三枝は別の紙を出した。古い活字で、寄贈式と美術館前身の設立について短く記されている。寄贈者として鷹見家の名があり、寄贈品の一覧には肖像画が一件含まれていた。

だが、写真に写る女性の名前はない。

古賀は写真の右端を拡大鏡で見た。黒い細縁のブローチ。肖像画の中の女性も、同じ位置に同じ形のものをつけている。装飾の少ない楕円形で、縁だけが黒い。偶然の一致としては、形があまりにも近かった。

「この人を、誰だと考えていますか」

三枝はすぐに答えなかった。眼鏡を外し、胸ポケットから布を出して、レンズを一枚ずつ拭いた。

「写真の裏書きに、名前の一部が残っています」

「一部?」

「裏面の紙を光に透かすと、先に書かれていた文字の圧が見えます。上から別の紙を貼って、剥がした跡もある。読めるのは姓だけです」

三枝が写真を裏返す。

薄い紙の中央に、褪せた墨の跡があった。二文字だけが、擦れながら残っている。

鷹見。

「この女性が、鷹見家の関係者である可能性は高いと思います」

「肖像画の人物と同一人物だと?」

「断定はできません。ただ、装身具、撮影時期、寄贈品の記載が一致している。さらに、目録の作品番号がひとつだけ欠けている」

三枝は古賀の持つ台帳の写しを見た。

「欠番の前後にある作品は、同じ寄贈群です。番号を追うなら、欠けた一件は肖像画である可能性が高い。問題は、その人物名がどこにも残っていないことです」

「どこにも?」

「公刊された目録にはありません。新聞記事にもない。寄贈式の参加者名簿にもない。ですが、消した痕跡はあります」

三枝は写真の裏面を指先で押さえた。強く触れない。紙が傷つくことを恐れているというより、そこに残ったものへ礼をしているようだった。

「記録は、なくなったのではありません。なくした手順が残ることがあります」

「手順?」

「綴じ直し、紙の差し替え、訂正の筆致。何かを消した人は、消す前の記録を完全には想像できない。だから周囲の紙に、作業の癖が出るんです。印刷された文字の並びが変わったり、頁の厚みが一枚ぶん違ったりする。人名そのものより、名前を消した手つきのほうが、長く残ることがあります」

三枝の声は低かった。資料の話になると、いつもより息が深くなる。

古賀は欠番へ視線を戻した。

「この女性の名前は」

「古賀さんの台帳には?」

「ありません」

「旧字体の可能性もあります。鷹見家の女性名で、寄贈式に立ち会い、肖像画が残されている人物。新聞記事を年代順に追えば、候補は絞れます」

三枝はそこで言葉を止めた。彼の視線が、花器の白い粒へ戻った。

「ただ、ひとつ気になることがあります」

「何ですか」

「この写真の複写には、白い花粉が付いています」

古賀は紙面を見た。右下の余白に、粉のようなものが一粒だけ残っている。花器の縁に付着していたものと同じかは、まだ分からない。三枝はそれを指で払おうとしたが、途中で手を止めた。

「触らないでください」

古賀の声が思ったより強くなった。

三枝は頷き、手を引いた。

「失礼しました」

「いえ。こちらこそ」

古賀は肩を一度落とし、呼吸を整えた。感情が高ぶるほど、声が静かになる。自分でも分かっている癖だった。

「この花は、今日初めて置かれたとは限りません」

「花器の内側に、古い水垢があります」

三枝が言った。

「底に白い粉が溜まっている。花を替えた回数が、一輪という数に合わない」

古賀は花器の口を覗いた。水はほとんど残っていない。底の奥に白い粒が沈んでいる。誰かが何度も水を入れ替え、花だけを新しくしてきたのだろう。花器は同じ場所に置かれ続けていた。

一輪の花ではない。

一輪を置き続けるという、長い行為だった。

「この部屋は、いつから封印されていますか」

「正確には分かりません」

三枝が答えた。

「旧館の改修時に、未整理資料を一時保管したのが始まりです。封印という名前が正式な管理区分になったのは、もっと後です」

「誰が決めたんでしょう」

「決裁書はあります。ただ、理由の欄が空白です」

古賀は写真を伏せた。鷹見という二文字が、紙の裏側でまだ乾かずにいるように感じられた。

彼女は台帳を閉じかけたが、最後の頁で手を止めた。欠番の前後に、細い鉛筆で印がついている。自分がつけた記憶はない。誰かが以前、そこを確かめた跡だった。

鉛筆の線は一度引かれてから、消されている。消しゴムの跡の下に、線の圧だけが残っていた。

古賀はそれを覗き込んだ。

「三枝さん」

「はい」

「この台帳の写しを、誰が作ったか分かりますか」

「現行の複写記録では、担当者不明です」

「担当者不明?」

「作成日だけが記載されています。署名がありません」

三枝はしばらく黙っていた。やがて、低い声で続けた。

「署名がない資料は、責任がないのではなく、責任の所在を隠した資料です」

古賀は返事をしなかった。

封印展示室の向こうで、何かが擦れる音がした。

ごく小さな音だった。木が温度差で軋んだだけかもしれない。けれど、扉の向こうには人がいないはずだった。

三枝が顔を上げる。

古賀は花器を見た。白い花弁は動いていない。窓も閉じている。それなのに、カーテンの裾だけが、ゆっくりと内側へ引かれた。

風ではなかった。

布は一度だけ揺れ、すぐに元の位置へ戻った。

古賀は白い花の前に立ったまま、台帳の欠番を指先で覆った。そこに触れた紙は冷たく、しかし誰かの手の温度を長く抱えていた。名前のない余白が、回廊の奥で口を閉ざしている。

彼女は初めて、その沈黙が自分を待っていたのではないかと思った。

← 横にスクロールして読み進められます

白い花粉のある廊下 - 記憶の白花 - 誰でも作家life