第6話 閉ざされた数分

正面玄関の回転扉が重い音を立てて開いたとき、古賀澪はちょうど受付前の掲示板を直していた。館内案内の紙が、来館者の肘で少し曲がっていたのを直している最中だった。振り返ると、紺色のジャケットを着た男が、玄関ホールの中央で立ち止まり、周囲をゆっくりと見回していた。
美術館という場所に不慣れなわけではないのだろう。だが、その視線の運び方は展示品を見る人間のものではなかった。天井の高さ、通路の幅、非常口の位置。まるで建物そのものを、ひとつの証拠物件として扱っているような目だった。
「瀬渡署の佐倉です。森下さんから連絡を受けて来ました」
男は腕を組んだまま、名刺を出さずに用件だけを告げた。古賀が名乗ると、佐倉は一度だけ頷き、靴先を軽く床に打ちつけて泥を落とす仕草をした。清掃された館内に、汚れなど付いていないはずなのに、その動作は彼にとって当然の手順らしかった。
「現場を見せてください」
「現場、というのは」
「花が置かれていた場所です。あと、その額縁を外した部屋も」
古賀は森下からどこまで話が伝わっているのか分からなかったが、佐倉の言葉には迷いがなかった。三階北翼へ向かう階段を上がる間、彼は一段ごとに踏板の軋みを確かめるように、足の運びをわずかに変えていた。
封印展示室の前で、佐倉は靴先を扉に対して正確に平行に揃え、その場に立った。腕組みをしたまま、しばらく何も言わずに床を見下ろしている。
「ここに花器があったんですね」
「はい。今は保全箱に移してあります」
「置いた人間の足の向きは分かりますか」
古賀は森下から預かった記録写真を出した。佐倉はそれを受け取ると、写真の中の床の艶の乱れを、実際の床と交互に見比べた。
「半歩、右」
「そうです。花を差してから、扉の方を確認するような動きだと考えています」
「確認、というのは推測ですね」
「はい。推測です」
佐倉はそこで初めて古賀の顔を見た。責めるような目ではなかった。むしろ、推測だと自分から言い切ったことを、意外そうに受け止めている目だった。
「学芸員の人は、たいてい確信を言い切ります。専門知識で押し切られると、こっちは反論しづらい。だから、最初にそう言ってもらえるのは助かります」
「専門知識があっても、床の上に残ったものが答えを出すわけではありません。答えは、それを見た人間の解釈の中にあります。私はその解釈を、なるべく資料の側に近づけたいだけです」
佐倉はしばらく古賀を見ていた。それから、床から視線を切って、封印展示室の扉に触れた。錆びた真鍮の封印具は、まだ午前中に星野が施した鍵のままだった。
「扉の方は、壊された痕跡がない。鍵穴にも傷がない。ここは物理的には破られていません」
「私もそう確認しています」
「なら、この部屋そのものは事件の現場じゃない可能性が高い。花を置いた人間は、この扉を開けていない」
「破られているのは、もっと別の場所だと思います」
「別の場所、というのは?」
古賀は一拍置いてから答えた。
「記録です」
佐倉は表情を変えなかった。だが、腕を組んだまま顎を少し引く仕草をした。それが彼の、納得しかねるときの癖だと、古賀はまだ知らなかった。
「記録が破られているというのは、どういう状態を指しますか。書類が破棄されたとか、改ざんされたということですか」
「収蔵台帳に欠番があります。作品番号がひとつ抜けていて、その周辺の頁が綴じ替えられています。新聞記事も、同じ作品について年代ごとに題名が違う。人物の名前も、削られた跡がある」
「それは、器物損壊や不法侵入とは違う話ですね」
「はい」
「うちの管轄からは外れます」
「分かっています」
佐倉は初めて小さく息を吐いた。呆れたような、それでいて興味を隠さない吐息だった。
「じゃあ、なぜ私を呼んだんですか」
「監視記録に、数分間の欠落があります。その時間帯、館長室の保管棚が開閉された可能性がある。それは器物損壊でも不法侵入でもありませんが、少なくとも、誰かが権限のない時間帯に、権限のある場所へ入った形跡です」
「形跡、というのはどこにありますか」
「夜勤日誌と、防犯ログと、鍵の保管簿です。三枝さんが照合を進めています」
「持ってきてください」
古賀は三枝を呼びに行こうとしたが、佐倉が先に自分の手帳を取り出し、腕時計を確かめた。
「先に、監視の欠落した時間だけ、私にも見せてください。私は書類そのものより、まず時間の筋を見ます」
書庫から三枝が資料を運んでくるまでの間、佐倉は窓際に立ち、港の方を眺めていた。埠頭のクレーンが小さく動いている。彼はその動きを目で追いながら、腕を組んだまま口を開いた。
「昔、証拠を軽く見て失敗したことがあります」
古賀は驚かなかった。だが、佐倉の声には、事務的な報告とは違う低さがあった。
「現場に来た人間の証言だけで、容疑者を決めました。証言は自信満々で、周りも納得していた。でも、後になって物証と時系列が合わないことに気づいた。そのときにはもう、その人の人生は随分傷んでいました」
「それで、証拠のない確信を嫌うようになったんですか」
「そうです。人の言葉は、簡単に自分の都合に合わせて動きます。物には、それがない。物は嘘をつきません。ただ、物の間にある時間だけは、人間が手を加えられる」
「記録も同じです」
古賀が言うと、佐倉は視線をこちらへ戻した。
「紙自体は嘘をつきません。インクの沈み方、綴じ目の圧、削り跡。それらは、人が思っているより多くを語ります。でも、その紙をどう並べるか、どこを見せてどこを隠すかは、人間の意図で変えられます。物証の間に空いた時間と同じように、記録の間にも、誰かが作った空白があります」
佐倉はしばらく黙っていた。それから、窓の外を見たまま言った。
「あなたの言うことは、正直、最初は面倒だと思いました。美術館の職員が、事件でもない話を大げさに扱っているだけかと。ですが」
言葉を切って、彼は古賀の方を向いた。
「花器の底から出た花粉の量は、確かに一輪の供花では説明がつきません。あれは物です。物が語っている以上、無視できない」
三枝が資料を抱えて戻ってきた。夜勤日誌、防犯ログの写し、鍵の保管簿。三つの束を机に並べる手つきは、いつもと同じように角を揃え、静かだった。
佐倉は三枝に軽く目礼し、すぐに防犯ログを開いた。指の腹で頁を押さえ、時刻の列を上から下へなぞる。彼は同じ箇所を二度見していた。一度目は流れを摘み、二度目は数字の並びだけを確かめる。
「ここです」
佐倉が指を止めた。
深夜二時十七分から二時二十三分。六分間、記録が途切れている。
「システムの不具合ではないんですか」
古賀が訊くと、佐倉は首を横に振った。
「不具合なら、前後の記録の書式も乱れます。これは、記録そのものが正常に見えます。ただ、その六分間だけが、抜き取られたように綺麗にない」
「抜き取られた、というのは」
「消されたのではなく、最初から書き込まれなかった可能性が高いということです。カメラが止まっていたか、記録媒体側で一部だけ削除されたか。どちらにしても、偶然の不具合とは考えにくい」
三枝が保管簿を開いた。
「同じ日、同じ時間帯に、館長室の鍵束が保管棚から出されています。返却の記録もある。ただ、使用者の欄が空白です」
「空白?」
「はい。誰が取り出し、誰が戻したかの記載がありません。館長室に出入りできる人間は限られています。館長、副館長、事務長。それから、緊急時の代理として、私と修復担当の責任者が持つことになっています」
佐倉は保管簿の空白を見た。
「空白は、記録のミスですか」
「通常はありえません。鍵束の出し入れは、必ず署名する運用です。夜間であっても、警備員が立ち会って記録します」
「立ち会った警備員は?」
「森下です。彼の日誌には、この時間帯の記述がありません」
「記述がないのは、忘れたからか、気づかなかったからか、それとも」
佐倉はそこで言葉を止めた。古賀が代わりに言った。
「見なかったことにされたか」
佐倉は腕を組み直した。窓からの光が、彼の目の下にできた薄い疲れを照らしている。四十六歳の刑事は、事件を早く収束させることに慣れているはずだった。だが、いま彼の顔には、事件を急いで閉じようとする気配がなかった。
「これは、器物損壊でも不法侵入でもありません」
佐倉は言った。
「これは、内部の誰かが、内部の権限を使って、内部の空白を作った記録です。侵入者を探す話ではない。館の中を、通れる道を持っている人間の話です」
古賀はその言葉を、静かに受け止めた。驚きはなかった。むしろ、自分の中で薄く見えていた輪郭が、外側からの確認によって、少しだけ濃くなったという感覚だった。
「森下さんに確認できますか」
「します。ですが、正直に言うと、記録がない以上、彼を追い詰めることはできません。記録の空白は、証拠にはなりません。証拠になるのは、その空白を作った理由と、その理由を持つ人物です」
「理由を持つ人物というのは」
佐倉はすぐには答えなかった。腕を組んだまま、封印展示室の扉を見つめている。
「まだ言えません。証拠のない確信は言わない、と決めています」
その言葉は、古賀にとって不満ではなかった。むしろ、彼女自身が普段から自分に課している態度と同じだった。断定を急ぐことは、記録を正すことではなく、記録をまた別の形で歪めることになる。
「一つだけ、伺ってもいいですか」
古賀が言うと、佐倉は視線をこちらへ戻した。
「あなたが最初に失敗したという話。その容疑者は、その後どうなりましたか」
佐倉は少しの間、答えなかった。窓の外で、埠頭のクレーンが荷を持ち上げ、ゆっくりと旋回している。
「引っ越しました。名前も変えたと聞きました。私は、その人の名前を今でも覚えています。忘れるわけにはいかない」
「覚えていることが、償いになりますか」
「なりません。ただ、忘れることは、二度目の罪になります」
古賀は、その言葉を手帳の余白に書き留めなかった。書かなくても、忘れないと分かっていた。
三枝が保管簿を閉じ、資料の角を揃えた。窓の外では、光がわずかに傾き、回廊の壁に長い影を伸ばしている。封印展示室のカーテンは、今日もひとつも動かなかった。
けれど、扉の向こうにある沈黙は、もう単なる空白ではなかった。誰かが、権限という名の道を使い、そこへ触れていた。その手が誰のものであるかは、まだ記録の外にある。
古賀は花器の置かれていた場所を、もう一度見た。床の艶の乱れは、清掃によって少しずつ薄れかけている。だが、そこに残った半歩の右寄りの痕跡だけは、まだ消えていなかった。
美術館の静けさは、何も起きていないからではない。起きたことが、記録という薄い布の下で、上手に置き換えられてきたからだ。古賀はその布の縫い目を、今、初めて外側から確かめてもらえたのだと思った。
回廊の奥で、窓の隙間から入り込む冷たい風が、埃をわずかに巻き上げる。誰もいないはずの空間に、まだ名前を持たない人間の輪郭が、少しずつ形を持ち始めていた。
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