第9話 言わなかったこと、言えなかったこと

保健室前の廊下は、グラウンドの熱気から少し切り離されている。
窓の外では太鼓と放送と足音が重なっていた。けれど、ここだけは静かだった。静かすぎて、互いの息づかいがよく聞こえる。廊下の床に落ちた細かな土埃まで見える気がした。
僕は走順表を胸に当てたまま、保健室の入口に立っていた。
アンカーの欄には、まだ相良悠斗の名前が残っている。朝から何度も触れたせいで、紙の角は柔らかくなっていた。けれど、名前の黒い線だけは、何度指でなぞっても薄くならない。
保健室の中で、悠斗は丸椅子に腰かけていた。
右足首には白い包帯が巻かれ、その上に新しい冷却パックが当てられている。布越しでも冷たさが分かるほど、白い四角は硬く、角ばっていた。悠斗は痛みを隠すように、左足の靴ひもを何度も結び直している。
ほどいて、結ぶ。
結んで、またほどく。
「まだ、そんな顔してんのかよ」
僕の視線に気づいて、悠斗が笑った。
口元だけが上がり、目は笑っていなかった。笑いのあとに、視線が床へ落ちる。その一瞬が、いつもの軽口よりも大きく見えた。
「別に、そんな顔してない」
「してるって。今日だけで百回は見たぞ、その顔」
「悠斗こそ、靴ひも結びすぎじゃないか。逆にほどけやすくなる」
「これは儀式だよ。走る前の」
「走らないだろ、今日は」
言った途端、靴ひもをつまんでいた指が止まった。
悠斗はすぐに笑い直した。けれど、作り直した笑顔はさっきより薄かった。
「……分かってるよ、それくらい」
「分かってるなら、どうして」
「指が勝手に動くんだ。走る準備をしろって、身体のほうが言ってくる。頭で分かってても、身体が納得しない」
僕は返事をしなかった。
早川先生は保健室の奥で、使い終わった冷却パックを保冷バッグへ戻していた。中身が溶けて四角い形を失ったパックが、布の袋の中で頼りなく傾く。先生はそれを乱雑に放り込まず、端を揃えて重ねた。
それから、椅子と椅子の間に細い通路を作った。
悠斗の隣から、僕の立っている場所まで、誰か一人が通れるほどの幅だった。
先生は僕を見ない。
けれど、その通路が、ここに立てと言っているように思えた。
「悠斗の足、まだ痛い?」
「痛むに決まってるだろ。冷やしてるから、痛みが一枚、薄い布の向こうにいる感じ」
「走れないってことだよね」
「分かってるって言っただろ」
「分かってるなら、どうして走る準備をするんだよ」
「蓮、お前だって紙を何度も折ってるだろ」
僕は走順表を見た。
確かに、紙の中央には深い折り目ができている。折って、開いて、また折った跡だ。決めるために見ていたはずなのに、実際には決めないために触り続けていた。
「紙と靴ひもは違う」
「同じだよ。どっちも、ほどけたら結び直すものだ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから言ってる」
悠斗は冷却パックの角を指で押さえた。結露した水滴が、包帯の上をゆっくり滑っている。
「任せるって、言っただろ」
その声は柔らかかった。けれど、逃げ道を塞ぐ形をしていた。
僕はその言葉を、ずっと都合よく受け取っていたのだと思う。悠斗が僕を信じている。僕に頼っている。そう思えば、決められない自分を少しだけ許せた。
でも、任せるというのは、励ましではなかった。
走れない現実を受け取れ。
僕の代わりに、僕の悔しさを引き受けろ。
そういう命令に近かった。
「お前はさ」
僕は言った。
「任せるって言えば、僕が何とかすると思ってるだろ」
「思ってる」
「そこがずるいんだよ」
「知ってる」
「僕が何とかできるかどうかも聞かないで、勝手に渡してくる。お前が走るはずだった区間も、クラスの期待も、負けたくない気持ちも、全部」
「うん」
「うん、じゃない」
声が廊下へ響いた。
窓の外の太鼓が、一度だけ途切れた。遠くで誰かが叫び、また靴音が重なる。こちらの声を聞いた者がいたかもしれない。そう思うと、喉が急に狭くなった。
悠斗は笑わなかった。
「俺、怖いんだよ」
短い言葉だった。
けれど、その言葉のあとに、何もない沈黙が続いた。悠斗は本気の話になるほど言葉を短くする。普段なら、そこで冗談を挟んで逃げるはずだった。
今日は逃げなかった。
「足が痛いことじゃない。走れないことを、みんなに見られるのが怖い。俺がアンカーじゃなくてもリレーは始まる。俺の名前が消えて、別の誰かが最後を走る。そいつが抜かれたら、俺がいないせいにされる。勝ったら勝ったで、俺がいなくてもよかったってことになる」
「誰もそんなふうに考えない」
「考えるさ。俺は考える」
「僕は考えない」
「お前は考える。考えるから、まだ俺の名前を消せない」
言い返せなかった。
早川先生が、机の上の名簿を閉じた。紙と紙が触れる、小さな音がした。
「俺がアンカーにこだわったのは、俺が一番速いからだけじゃない」
悠斗は言った。
「最後に名前を呼ばれるやつは、前のやつらの全部を受け取るんだよ。途中で抜かれたやつも、バトンを落としそうになったやつも、練習で失敗したやつも、最後には同じ襷を渡す。俺は、それを持ってゴールまで行きたかった」
「中学のときの負けのため?」
「それもある」
悠斗は包帯の巻かれた足を見た。
「中三の最後のリレーで、俺はゴール前で抜かれた。相手の靴音が、耳のすぐ後ろで鳴った。あの音がずっと残ってる。負けは消えなかった。でも、最後まで走り切ったことだけは、誰にも取り消せなかった」
彼は冷却パックを押さえる手に力を込めた。
「今日も、走り切りたかった。勝つためだけじゃない。俺が最後まで走ったのを見て、誰かが明日へ持って帰れるものを残したかった。……でも、今の俺は走れない」
最後の言葉は、ほとんど息だった。
僕は走順表を開いた。
「それを、僕にどうしろっていうんだ」
「お前が決めろよ」
「俺の代わりじゃなくて」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが崩れた。
僕は悠斗の代わりになろうとしていた。自分がアンカーを走れば、悠斗の空欄を埋められると思っていた。クラスが勝てば、悠斗の悔しさも無駄にならないと思っていた。
けれど、それは悠斗のいないレースを、僕の脚で隠そうとしているだけだった。
「代わることと、引き受けることは違うんだな」
「たぶん」
「お前がたぶんって言うなよ」
「蓮にうつった」
悠斗は少し笑った。その笑いには、ようやく自分のものらしい息が混じっていた。
「俺の代わりをして、俺のいないレースにするな。俺が走れないなら、俺がいない分まで走るんじゃなくて、俺がここにいるって分かる走りにしてくれ」
「それは、走る人間に言うことか?」
「走る人間だけに言ってない」
悠斗は僕を見た。
「声を出す。選手を呼ぶ。バトンの位置を確認する。テントから見てる。俺にもできることはある。俺が最後を走れないなら、最後に渡るものを、別の形でつなぐ」
その言葉を聞いたとき、グラウンドの向こうで笛が鳴った。入場の列が動き始めたらしい。足音が一斉に揃い、床を通してこちらへ伝わってくる。
「でも、勝てなかったら」
「勝てなかったら、負けたって言えばいい」
「悔しくないのか」
「悔しいに決まってるだろ」
悠斗の顔から、笑いが消えた。
「悔しい。今すぐ立って、走って、神谷を抜きたい。あいつの背中を見たら、たぶん足が壊れても追いかける。けど、それで本当に最後まで走ったことになるのか? 足を壊して、みんなに止められて、それでも俺が俺のためだけに走ったら、今日残るのは俺の意地だけだ」
悠斗は一度、息を整えた。
「俺は、意地を残したいんじゃない。俺が走れなくても、みんなが前を向けるようにしたい。そう思ってたから、アンカーが欲しかったんだ」
初めて聞いた。
悠斗が、勝つことの先にあるものを口にするのを。
僕は紙を持ち直した。アンカー欄に書かれた相良悠斗の名前は、消すべきものではなくなっていた。名前を残したまま、本人の役割を変える。そういう選択が、ようやく見えた。
保健室の入口で、早川先生が赤ペンを持ち上げた。
「書くかい」
先生の声は、いつも通り静かだった。
「はい」
「何を?」
僕はすぐには答えなかった。
窓の外では、応援旗が風をはらんでいる。赤い布の結び目が揺れ、その端がほどけかけていた。けれど、誰かが走ってきて、結び直した。結び目は少し歪んだまま、それでも旗を支えている。
「アンカーは、別の人に変えます」
悠斗の指が止まった。
「俺を外すってことだな」
「そうだよ」
僕は悠斗を見る。
「走らせない。先生の判断を受け入れる。お前が悔しいことも、納得できないことも、僕が勝手に軽くしない。けど、お前を一人で悔しがらせない。お前の名前を消すんじゃなくて、走れないお前が何をするかを、走順表の外側に書き足す」
「外側って、どこだよ」
「僕の横。アンカーの後ろ。選手が戻ってくる場所。全部」
「ずいぶん欲張りだな」
「お前が任せるって言ったから」
悠斗はしばらく僕を見ていた。
やがて、膝の上の赤い鉢巻きを僕へ差し出した。
「これ、持ってろ」
「自分で持てよ」
「俺が持つと、たぶん投げる」
「投げるな」
「だから任せる」
僕は鉢巻きを受け取った。汗と布の匂いがした。端のほつれが指に触れる。ほどけかけているのに、完全には離れていない。
「それから」
悠斗が続けた。
「俺の前で名前を消せ」
僕は走順表を開いた。
黒い文字の横にある小さな丸を、最後に一度だけ見た。悠斗が「気合いが逃げる」と言ってつけた丸だ。僕は赤ペンを取り、名前の上へ線を引いた。
紙が擦れる音がした。
相良悠斗の名前は消えた。
けれど、悠斗がいなくなったわけではない。
僕はその下に、代走の名前を書くための空欄を残した。空白は、もう逃げ道ではなかった。誰かが引き受けるための場所だった。
「……消えたな」
悠斗が言った。
「うん」
「思ったより、普通だな」
「普通じゃない」
「そうだな」
悠斗は包帯の端を見下ろした。冷却パックの角から水滴が落ち、床に小さな丸い跡を作る。
「でも、これでいい。俺が走れないことを、俺がいないことにしなかった」
早川先生は、変更用紙へ必要な項目を書き込んだ。赤ペンの先が紙の上を滑る。記入を終えると、先生はテープを短く切って、用紙を走順表の裏へ固定した。
「蓮」
「はい」
「次に決めるのは、誰に走ってもらうかだね」
「はい」
「それから、悠斗に何を任せるか」
先生は悠斗を見る。
「声を出すだけでは足りないかもしれない。君は走者の動線を見て、受け渡しの位置を伝えられる。できることを考えておいて」
「先生、俺を働かせる気満々ですね」
「座っているだけだと性格が悪くなるそうだから」
悠斗が一瞬黙り、それから吹き出した。
僕も笑った。
笑いは短かった。外の太鼓にすぐ飲み込まれた。それでも、笑ったあとに残ったものは、朝の教室で無理に作った笑いとは違った。痛みも、悔しさも、まだそのまま残っている。その上に、ほんの少しだけ別の感情が重なっていた。
信じる、というのは、相手の望みを全部叶えることではない。
叶えられないことを伝え、それでも相手を置いていかない方法を探すことだ。
僕はそれを、ようやく自分の手で決めた。
廊下の向こうで、給水用のケースが運ばれていく。ペットボトル同士がぶつかり、氷が鳴った。誰かが走っている。誰かが呼ばれている。体育祭は、僕たちの迷いを待たずに進んでいる。
「行こう」
僕が言うと、悠斗は椅子の背をつかんだ。
「肩、貸すか?」
「今度は聞くんだな」
「決めるのはお前だろ」
「じゃあ、少しだけ」
悠斗が立ち上がる。僕は肩を貸した。さっきよりも、彼の体重を重く感じなかった。軽くなったわけではない。僕が一人で支えようとしなくなったからだ。
早川先生は、僕たちの後ろから変更用紙と保冷バッグを持ってついてくる。保健室の扉を出る前に、先生は机の上に残ったテープの端をきれいに折り返した。
廊下へ出る。
窓から差し込む光が、悠斗の包帯を白く照らした。グラウンドから流れ込む土埃が、汗の匂いと混ざっている。遠くで放送が次の競技を告げ、太鼓がそれを追いかけるように鳴った。
僕は走順表を脇に抱え、悠斗の肩を支えた。
紙の上から名前は消えた。
それでも、僕の隣には悠斗がいる。
結び直した靴ひもが、彼の左足の上で固く締まっていた。右足の包帯は、走るためではなく、これ以上壊さないために巻かれている。
僕たちはゆっくり歩いた。
一歩。
悠斗の呼吸が乱れる。
二歩。
僕は彼の足元を見る。
三歩。
廊下の先で、クラスメイトの声がした。
「蓮! 変更、間に合う?」
僕は返事をする前に、一拍置いた。
「間に合わせる」
今度は、逃げるための言葉ではなかった。
悠斗が僕の肩を軽く叩く。
「言い切ったな」
「お前の真似」
「似合わないけど、悪くない」
保健室前の静けさが、背中の向こうへ遠ざかっていく。太鼓と放送と靴音が、再び大きくなる。ざわめきの中で、僕たちは別々の速度で歩いている。それでも、同じ方向へ進んでいた。
襷は、まだほどけていない。
ただ、一人の肩から別の誰かへ渡るために、結び目の形を変え始めていた。
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