8話 白いエースの目

テント列の影は短かった。

朝の陽射しは、グラウンドの土を白く乾かし、踏まれた場所から細かな埃を立ち上らせている。赤組と白組のテントは、風に煽られた布の音と、金具の触れ合う音を絶えず吐き出していた。放送のスピーカーが誰かの名前を呼び、途中で雑音を噛む。太鼓の試し打ちが、そのたびに胸の底へ沈んだ。

僕は赤い腕章と走順表を重ねて握っていた。

紙の角が指に食い込んでいる。何度も折り返して確認したせいで、表の端は柔らかくなっていた。昨日までなら、その柔らかさを準備の証拠だと思えた。何度も触れ、何度も確かめたから、抜けはない。そう信じられた。

今日は違う。

紙のほうが、僕の手の中で疲れているように見えた。

アンカーの欄には、まだ相良悠斗の名前がある。

黒い文字の横には、朝、悠斗が勝手につけた小さな丸が残っていた。気合いが逃げるから消すなと言っていた丸だ。けれど今は、その丸が逃げ場を塞ぐ印のように見える。

赤組のテントへ戻ろうとしたとき、白いゼッケンが視界へ入った。

神谷真琴が立っていた。

白組の選手たちは、少し離れたところでストレッチをしている。誰かが短い声をかけ、誰かが靴ひもを結び直す。その中で神谷だけは輪から外れ、黒い靴底で土の硬さを確かめるように、片足をわずかに動かしていた。

ゼッケンには皺がない。肩の線もまっすぐだった。走る前から、走り終えたあとの形まで決まっているように見える。

神谷は僕の顔を見なかった。

視線は、僕の手にある走順表へ落ちていた。

「まだ決めていないのか」

声は低かった。

責める響きではない。白黒のついていないものを、そのまま置いておくことへの不快感が混じっていた。

僕は返事をする前に、一拍置いた。

「決める途中だ」

「途中は答えにならない」

「答えを出すために動いている」

「動いているようには見えない」

神谷の視線が、走順表の端へ移る。紙は僕の指の形に合わせて、小さく波打っていた。

「紙を潰して、何か決まるのか」

「決めるのは紙じゃない」

「なら、なぜそんなに抱えている」

僕は走順表を少し下げた。

「悠斗を走らせない準備をしている。代わりの候補も探す」

「それで?」

「本人の状態を確認して、クラスにも説明して、走順変更の手続きをする」

「それで、いつ決める」

「招集までには」

「遅い」

「時間はまだある」

「時間があるから迷っているのか。時間がないから迷っているのか。どちらだ」

答えが出なかった。

グラウンドの向こうで、白組の旗が風をはらんだ。支柱が軋み、布の影が土の上を走っていく。隣のテントでは、誰かがスポーツドリンクの蓋を開けた。一気に飲み干す喉の音が、妙に近く聞こえた。

神谷は僕の沈黙を待った。

待っているのに、待ってくれている感じがしない。答えが出るまで、ただそこに立っているだけだった。

「相良が走れないなら、赤組はアンカーを失った。そこを認めろ」

「失ったとは決めていない」

「決めていないから、失っていないのか?」

「そういう言い方をするな」

「言い方の問題じゃない。現実の問題だ」

神谷が一歩近づいた。黒い靴底の縁から、白い土が細く崩れ落ちる。

「怪我人を走らせない。それは正しい。走れる選手を出す。それも正しい。なら、何が止めている」

「悠斗の気持ちがある」

「気持ちで足首は治らない」

「分かっている」

「分かっていないから、まだ相良の名前を消していない」

言葉が、紙より深く胸へ食い込んだ。

僕はアンカー欄を見下ろした。

相良悠斗。

この名前を消せば、走る人間は決まる。代わりの名前を書けば、変更は形になる。紙の上では、それだけのことだ。

けれど、黒い線を引いた瞬間、悠斗の腫れた足首も、遅れていた笑顔も、何度も結び直していた靴ひもも、全部を「もう終わったこと」にしてしまう気がした。

「名前を消せば、勝てるのか」

僕は聞いた。

神谷の目が、初めて僕の顔へ上がった。

「少なくとも、走る人間は決まる」

「決めれば、勝負に集中できる?」

「できる」

「本当に?」

「本当に、の意味が分からない」

「悠斗を外したあとで、僕たちは何も気にせず走れるのか。足元に包帯を巻いたまま、テントから見ている悠斗を置いて、勝つことだけを考えられるのか」

「考えろ」

神谷は即答した。

「それが勝負だ」

「そうやって切り捨てられるものなら、みんな迷わない」

「迷うことと、考えないことは違う。相良が走れないなら、走れない人間を無理に走らせない。そのうえで勝つ方法を考える。それだけだ」

「簡単に言うな」

「簡単だとは言っていない」

神谷の声は変わらなかった。

「難しいからといって、決めない理由にはならない。お前は相良を守りたいのか、クラスを守りたいのか、それとも自分が嫌われない場所を守りたいのか。そこを曖昧にしたまま、優しい顔をするな」

胸の奥で、何かが擦れた。

嫌いな言い方だった。

けれど、嫌いなだけで、間違っているとは言えなかった。

「僕は、誰かを置いていきたくない」

「全員を連れていく方法があると思っているのか」

「思っているわけじゃない」

「なら、分かっているだろう。何かを選べば、何かは選ばれない」

「だから、選びたくない」

「違う」

神谷は足元へ視線を落とした。彼の足首は、白いリストバンドより下で静かに動いている。走るために整えられた身体が、迷いを持たないふりをしている。

「お前は、選びたくないんじゃない。選んだあとに残る顔を見たくないだけだ」

風が吹いた。

走順表の端がめくれ、僕は反射的に押さえた。指先に乾いた土がつき、紙の白へ薄い跡を残す。

神谷はその手元を見た。

「俺は、勝ちたい」

その言葉は、唐突に聞こえた。けれど、白組のテントから聞こえる声も、整えられたゼッケンも、何度も回された足首も、全部そこへつながっていた。

「今日が最後だから、ではない。最後だから手を抜く理由がなくなるだけだ。俺は、相良がいない赤組に勝ちたい。怪我人を使わず、それでも負けた赤組に勝ちたい。そうでなければ、俺が走った意味が薄まる」

「勝つ相手を選ぶのか」

「選ばない。条件が変わったなら、その条件で勝つ」

「悠斗が走れないことを、勝つ材料にする?」

「する」

神谷は言い切った。

「勝負は、起きたことを材料にするものだ。相良が怪我をしたことを、なかったことにして走るほうが卑怯だろう。お前たちが代走を立てるなら、その代走を含めた赤組と走る。俺はそこで勝つ。情けで速度を落とすつもりはない」

腹の底が冷えた。

神谷は冷たい。けれど、冷たいからこそ、勝負の外側へ逃げない。悠斗の負傷を、気まずい事故として隠してしまえば、僕たちは走りながらずっとそれを振り返る。見ないふりをしたものほど、足元にまとわりつく。

「君は、何でも結果にできるんだな」

「何でもではない」

「できるように聞こえる」

「結果にできないものを、結果のふりで誤魔化すなと言っているだけだ」

神谷は一度、手のひらを制服の脇で拭った。白い土が付いたのかもしれない。表情は変わらないのに、その動作だけがわずかに乱れていた。

「相良は、走れない自分を見られるのが嫌なんだろう」

僕は顔を上げた。

「知っているのか」

「見れば分かる」

「君が言うと、全部簡単に聞こえる」

「簡単じゃない」

神谷の声が、ほんの少しだけ低くなった。

「俺も、負けたあとに何も言えなかったことがある。中学の最後のリレーで、僅差で抜かれた。次の走者に渡した時点では、まだ勝てた。けれど、最後に抜かれた」

僕は黙って聞いた。

「周りは惜しかったと言った。次があると言った。俺は、あれ以来そういう言葉が嫌いだ」

「次がある、って?」

「あるかどうか分からないものを、あることにして終わらせる言葉だ。負けたなら負けたと言えばいい。悔しいなら悔しいと言えばいい。俺は言えなかった。だから、勝つことだけを残した」

神谷の告白は、感情を削った記録のようだった。

それでも、その言葉の奥にあるものは見えた。負けた自分を誰にも触らせず、数字と記録だけで固めた傷。勝ち続けることでしか、そこから離れられなかった人間の呼吸が、わずかに乱れている。

「悠斗も、勝つことだけを残そうとしている」

「そうかもしれない」

「お前は?」

「僕?」

「相良の悔しさを、勝つことで埋めようとしている。だから決められない」

図星だった。

僕は、悠斗が走れないことを彼の負傷として受け止めるのが怖かった。代走を立てて、勝って、今日の朝を「それでも勝った日」に変えれば、悠斗の悔しさも無駄にならずに済むと思っていた。

でも、それは悠斗の悔しさを、僕が勝手に処理しようとしているだけだ。

「僕は、勝つために誰かを置いていくのが嫌なんだ」

「それは、勝ちたくないという意味か」

「違う」

「なら、言葉を選び直せ」

神谷は僕の目を見た。

「勝ちたい。だが、そのために何を捨てるかを自分で決める。そう言えばいい。誰かを置いていくのが嫌なら、置いていかない方法を探せ。無理なら、置いていく痛みごと引き受けろ。勝利は、綺麗な手でしか掴めないものじゃない」

遠くで、入場の合図を知らせる笛が鳴った。

テント列のあちこちで、生徒たちが立ち上がる。椅子の脚が土を擦り、応援旗が持ち上げられる。赤と白の布が、同じ風を受けて膨らんだ。

ざわめきは大きくなっていく。

けれど僕の周りには、音のない場所が残っていた。

神谷が踵を返す。

「神谷」

呼び止めると、彼は振り返らずに止まった。

「もし、悠斗が走れないと決めたら」

「決めるのはお前だろう」

「それでも聞きたい。僕たちが代走を出して、アンカーで君と走ることになったら、手を抜かない?」

「当然だ」

「悠斗が見ていても?」

「当然だ」

「悠斗が、走れないままでも?」

神谷は、そこで初めて振り返った。

「だからだ」

黒い靴底が、白い土の上でまっすぐこちらを向く。

「相良が見ているなら、なおさら手を抜かない。あいつが走れないことを、あいつのいない勝負にするな。走れない人間がそこにいるなら、その視線も含めて走れ。お前たちが本気で代わりを立てるなら、俺はその代わりを一人の走者として扱う」

言葉が、胸の中へ落ちた。

神谷はそれ以上何も言わず、白組の列へ戻っていった。歩幅は一定で、背中に迷いがない。けれど、白い土の上に残った靴跡は、彼の身体の重さに合わせて少しだけ深かった。

僕は走順表を開いた。

アンカー欄の「相良悠斗」の文字を、指先でなぞる。紙の上の黒い線は、朝から何も変わっていない。変わったのは、それを見る僕のほうだった。

消すことは、置いていくことではない。

残すことも、走らせることではない。

名前を紙の上に置いたまま、その人間がどこにいて、何を引き受けられるのかを決める。その決定を、僕がしなければならない。

「蓮!」

赤組のテントから、クラスメイトの声が飛んできた。

「悠斗はまだ保健室前だって! 早川先生が呼んでる!」

僕は走順表を胸へ押し当てた。

走らなければならない、と身体が先に動きかける。けれど、足を踏み出す前に、僕は一度だけ深く息を吸った。乾いた土と、汗と、テントの布の匂いが混じっている。

急ぐ。

ただし、焦って誰かを置いていかない。

僕は白い土を蹴った。黒い靴底の跡が、後ろへ一つ残る。テント列の間を抜け、校舎の入口へ向かう。

そのとき、背中で太鼓が鳴り始めた。

今度は試し打ちではなかった。入場を促す、規則正しい音だった。

走順表の端が、胸の中で小さく震えている。

僕はそれを押さえたまま、保健室へ続く廊下へ走り込んだ。

← 横にスクロールして読み進められます