7話 ほどけかけた結び目

保健室前の廊下は、グラウンドの喧騒から一枚壁を隔てているだけなのに、まるで別の校舎のように静かだった。

窓の外では、太鼓の音がまだ試し打ちを続けている。応援団の誰かが声を張り、それに対して別の誰かが返す。放送のスピーカーが名前を呼び、その名前が校庭の熱に溶けて消えていく。けれど廊下の空気だけは、そのすべてから少し遅れて動いているようだった。薄い。呼吸をするたび、その薄さが肺の奥まで届いてくる気がした。

僕は走順表を胸に当てたまま、保健室の入口近くに立っていた。

紙の端は、もう何度も指で押さえたせいで柔らかくなっている。表面の白さも、朝よりわずかに灰色がかって見えた。アンカーの欄には、まだ相良悠斗の名前が残っている。その文字は、もう単なる記録ではなかった。悠斗が積み重ねてきた練習の朝、クラスが彼にかけた期待、僕自身が見て見ぬふりをしてきた迷い――それら全部が、たった数文字の重みに縮められて、紙の上に載っていた。

保健室の扉は開け放たれたままで、中の様子が廊下からも見えた。

悠斗は丸椅子に腰かけ、右足を投げ出すようにして座っている。包帯の白は、朝よりも太く、しっかりと足首を包んでいた。その白さが、廊下の蛍光灯の光を反射して、やけに眩しく見える。彼は靴を履き直そうとしているところだった。左足のスニーカーの紐を、意味もなく何度も結び直している。ほどいては結び、結んではまたほどく。その動作に、いつもの軽やかさはなかった。

「まだ、そんな顔してんのかよ」

僕の視線に気づいたのか、悠斗が先に口を開いた。

顔を上げた彼の表情は、笑っていた。いつもの、教室を明るくするための笑い方だった。口角が上がり、目が少し細くなる。けれどその笑いの後ろで、視線がほんの一瞬だけ、床のあたりへ落ちた。ほんの一瞬。瞬きよりも短い時間だった。

僕はその落差を見てしまった。

見なかったことにはできなかった。悠斗の笑顔と、その裏に一瞬だけ覗いた暗さの差が、僕の胸の中に小さな棘のように刺さって残った。

「別に、そんな顔してない」

「してるって。お前、鏡見たことある? 今日だけで百回はそういう顔してるぞ」

「悠斗こそ、靴ひもそんなに結び直して、逆にほどけやすくなってるんじゃないの」

「これは儀式だ。走る前の儀式」

「走らないだろ、今日は」

言ってしまってから、しまったと思った。悠斗の指が、靴ひもの上でぴたりと止まる。彼はすぐに何でもない顔を作り直したが、その作り直しの速さが、かえって痛々しかった。

「……分かってるよ、それくらい」

悠斗の声が、少しだけ低くなった。

「分かってるけど、指が勝手に動くんだ。走る準備をしろって、身体のほうが先に言ってくる。頭で分かってても、身体が納得しない」

その言葉に、僕は何も返せなかった。

保健室の奥では、早川先生が保冷バッグの位置を静かにずらしていた。使い終わった冷却パックを、テーブルの端へ寄せる。パックはすでに柔らかくなり、中の薬剤が偏って、四角い形を保てなくなっていた。冷たさを失ったものは、こんなにも頼りない形になるのだと、僕はどこか他人事のように思った。

先生は何も言わなかった。

けれど、パックを寄せる動作と一緒に、椅子と椅子の間に細い通路のような空間ができた。悠斗の椅子と、僕が立っている場所との間。誰かがそこを通れるように、あるいは誰かがそこに立てるように、わざと空けられたような通路だった。

先生は僕を見なかった。名簿に視線を落としたまま、テープカッターの刃をゆっくりと戻している。それなのに、その通路は、まるで「そこに立て」と言っているように見えた。

僕は動けなかった。

代走を立てるのか。悠斗を残すのか。誰に、どんな言葉で、どんな順番で伝えるのか。頭の中で選択肢が渦を巻いていたが、どれを選んでも、誰かの表情が曇る想像しか浮かばなかった。代走を出すと言えば、悠斗の目の奥がまた沈む。悠斗を無理に走らせないと強く言えば、彼のプライドがこれ以上削られる。何も言わなければ――何も言わなければ、僕はまた、いつものように時間を先に流してしまうだけだ。

「蓮」

悠斗が僕の名前を呼んだ。

「なに」

「お前、また考え込んでるだろ。分かるんだよ、その顔」

「悠斗の顔のほうが分かりやすいと思うけど」

「俺は分かりやすくていいんだよ。分かりやすいのが俺の武器だ。お前は逆だろ。何を考えてるか分からないふりして、実は誰よりも全部見えてる」

その指摘は、思ったより深く刺さった。僕は答える代わりに、走順表の端を指でなぞった。紙の繊維が、皮膚に引っかかる感触がある。

「悠斗の足、痛む?」

「痛むに決まってるだろ。冷やしても熱が残ってる」

「じゃあ、走れないってことだよね」

「分かってるって言っただろ」

「分かってるなら、なんで靴ひも結んでるの」

悠斗は答えなかった。

代わりに、彼は自分の右足――包帯の巻かれたほうの足を、じっと見下ろした。白い布の下に、赤く腫れた皮膚が隠れている。その腫れは、朝の階段で彼が失ったものの形をしていた。走る権利、最後の見せ場、クラスへの約束。すべてが、あの白い布の下に押し込められている。

「なあ、蓮」

しばらくして、悠斗が口を開いた。声の調子が、さっきまでとは違っていた。軽さが抜けて、代わりに何か固いものが残っている。

「お前、俺がなんでアンカーにこだわったか、知ってるか」

「クラス最速だから、じゃないの」

「それだけじゃない」

悠斗は視線を上げた。今度は逸らさなかった。まっすぐに、僕の目を見ていた。

「中三のとき、最後のリレーで抜かれたことがあるんだ。バトンを持って、あと少しでゴールってところで、後ろから追い上げられて。抜かれた瞬間の音、今でも覚えてる。相手の靴が地面を蹴る音が、俺の耳のすぐ後ろで鳴った。それだけだ。それだけなのに、何年経っても忘れられない」

僕は黙って聞いていた。悠斗がこんなふうに、過去の負けを自分から話すのは初めてだった。いつもなら、負けの話題は冗談で流してしまう。今日は違った。

「あのとき、俺は最後まで足を止めなかった。抜かれても、諦めずに走り切った。でも、それで何か報われたかっていうと、そうじゃなかった。負けは負けだ。悔しさは悔しさのまま残った。ただ、走り切ったことだけは、誰にも取り消せなかった」

悠斗は一度、言葉を切った。廊下の外で、太鼓の音がまた響いた。試し打ちではなく、今度は少し長く、規則正しいリズムを刻んでいた。

「今日のアンカーは、俺にとってあの負けを塗り替えるチャンスだった。ただ勝つためだけじゃない。走り切ったことに、ちゃんと意味を持たせたかった。最後まで立ってた、それだけじゃなくて、誰かがそれを見て、何か持って帰れるような走りをしたかったんだ」

「誰かって、誰」

「分からない。お前かもしれないし、クラスの誰かかもしれない。分からないけど、そういう走りがしたかった」

僕は走順表を握る手に力を込めた。紙が、かすかに鳴った。

「それを、今、僕に言うんだ」

「今しか言えないからだよ」

悠斗は短く言った。

「走れるうちは、こんなこと考えもしなかった。走ればいいと思ってた。足が動く限り、言葉にする必要なんてなかった。でも、今日、階段で転んで、初めて分かった。俺が走れなくても、リレーは行われる。俺の代わりが誰かいて、その誰かが走る。その現実の前で、俺は初めて、自分が何を望んでいたのか、言葉にしなきゃいけなくなった」

早川先生が、テーブルの上の名簿をそっと閉じた。音は立てなかった。けれど、その動作が、この会話をこれ以上急かさないという意思表示のように見えた。

「悠斗」

僕は言った。

「僕、まだ決めてない。代わりに誰が走るかも、悠斗を外すかどうかも」

「知ってる」

「でも、決めるとき、悠斗が今言ったことを、無視しないようにする」

「無視されても困る。俺は俺の希望を言っただけで、お前に決定権を押しつけたいわけじゃない」

「押しつけてるよ、十分に」

僕がそう言うと、悠斗はほんの少しだけ笑った。今度の笑いは、さっきまでの作られたものとは違って、力が抜けた自然な形をしていた。

「押しつけてるかもな」

彼は靴ひもの結び目を、最後にもう一度だけ確かめた。指先が結び目を軽く引く。ほどけない固さを確認するように。

「でも、蓮になら押しつけていいと思ってる。それがずるいのは分かってる。分かってて、それでもお前に渡してる」

その言葉の意味を、僕はすぐには飲み込めなかった。ずるさを自覚しながら、それでも渡す。悠斗にとって、それがどれほどの覚悟だったのか、僕にはまだ全部は分からない。けれど、少なくとも、それが軽い言葉でないことだけは伝わってきた。

窓の外を、影が横切った。

太鼓の音が、また少し変わった。試し打ちの緩やかなリズムから、もっと明確な、開始を告げる連打へ。グラウンドでは、僕たちのクラスとは別の組が、すでに入場の準備を整えているらしい。放送のスピーカーが、次の招集時刻を読み上げる声が、廊下の壁を通してかすかに響いてきた。

体育祭は、僕たちの迷いを待ってくれない。

そのことを、頭では分かっていた。分かっていながら、僕はまだ、走順表を折り返す指を止められずにいた。何度も、何度も。折っては伸ばし、伸ばしては折る。紙の中央にできた折り目が、もう元には戻らない深さになっている。

ふと、自分の指先を見た。

汗で湿った紙の角が、いつのまにか丸くなっていた。鋭かったはずの角が、指の熱と湿り気で、少しずつ形を失っている。それは、僕がこれまでどれだけの時間、この紙を握りしめたまま、決めることを先送りにしてきたかの記録のようだった。

決めないことは、もう守りではなかった。

その事実が、ようやく僕の中に落ちてきた。誰も傷つけないための沈黙のつもりだった。けれど、沈黙している間にも時間は進み、悠斗は靴ひもを結び直し続け、早川先生は冷却パックを黙って寄せ続け、教室では誰かが僕の代わりに答えを探そうとしていた。僕が決めないことは、誰も傷つけないことにはならない。むしろ、決めるべき人間がそこにいないまま、みんなが手探りで動き続けることを強いていた。

「先生」

僕は保健室の中へ向かって、声をかけた。

早川先生が顔を上げる。急かす色も、促す色も、その表情にはなかった。ただ、僕の言葉を待つ静けさだけがあった。

「もう少しだけ、時間をください。招集までに、必ず決めます」

「時間はもう、私が管理するものじゃないよ」

先生は静かに言った。

「時計が管理してる。私にできるのは、君が決めるまでの間、崩れないように場を整えることだけだ」

その言葉に、僕は小さく頷いた。

悠斗が、椅子から立ち上がろうとした。右足に体重をかけないよう、慎重に、けれど自分の意思で。

「どこ行くんだよ」

「教室。俺の口からも、みんなに言いたいことがある」

「歩けるの」

「歩ける。ゆっくりなら」

僕は反射的に手を伸ばしかけたが、悠斗はそれを目で制した。

「今日だけは、自分の足で歩かせろ。支えるのは、後でいい」

その言い方には、さっきまでの軽口とは違う、静かな強さがあった。僕は伸ばしかけた手を、そのまま下ろした。

廊下の窓から差し込む光が、悠斗の背中を薄く照らしている。片足を庇いながら、それでも一歩ずつ、彼は自分の意思で前へ進んでいく。その後ろ姿を見ながら、僕は走順表を、もう一度だけ開いた。

アンカーの欄の名前は、まだそこにある。

消すためでも、そのままにするためでもなく、僕はその名前をもう一度、自分の目でしっかりと確かめた。相良悠斗という文字と、その横にある小さな丸。悠斗が僕のシャープペンで勝手に書き足した印。気合いが逃げるから消すなと言った、あの朝の声が、耳の奥でまだ響いている。

僕は紙を胸に抱え直し、悠斗の後を追って歩き出した。

太鼓の音が、廊下の向こうから確かな輪郭を持って響いてくる。それはもう、僕たちの迷いを待つ音ではなかった。

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