第6話 間を埋める手

教室へ戻ると、空気はもう変わっていた。
誰かが「悠斗、大丈夫なのか」と訊き、別の誰かが「代走、どうする」と返す。窓際では進路指導のプリントが開かれたままになっていて、その上に体育祭の配布物と何本ものペンが重なっていた。黒板の隅には、太い赤チョークで書かれた「優勝」の文字がある。最後の画だけが強く擦られたせいで、下の部分に細い亀裂が走っていた。
ざわつきは大きいのに、中心がなかった。
声があちこちから飛び、誰も相手の顔を見ない。視線は悠斗の包帯へ落ち、走順表へ移り、また机の上へ逃げていく。話し合いではなく、話し合いになる前の音だった。
僕は悠斗の肩を支えながら、教室の中ほどまで歩いた。床に置かれた鞄を避け、応援旗の棒をまたぎ、椅子の脚を靴先で少しずつ寄せる。普段なら気にも留めないものが、今日は全部、誰かの進路を塞いでいるように見えた。
「自分で歩けるって」
悠斗が言った。
「歩けるのと、歩かせていいのは違う」
「先生みたいなこと言うなよ」
「先生に言われた」
「じゃあ、先生みたいなこと言ってるんじゃなくて、先生の伝書鳩だな」
「鳩なら飛べ」
「足がこれだから、羽が生えるかもしれない」
いつもの調子だった。
ただ、笑いが半拍遅れた。
悠斗は自分の席へ腰を下ろすとき、机の端をつかんだ。指の関節が白くなる。僕がそこを見ていると気づいたのか、すぐに掌を伏せて、赤い鉢巻きのほつれをつまんだ。
ほつれた糸を、爪先で何度も撫でている。
「悠斗、大丈夫?」
前の席の女子が振り返った。
声には心配があった。けれど、それと同じくらい、「大丈夫だよ」と答えてほしい期待も含まれていた。そう答えれば、皆が次の話へ進める。誰も悪者にならずに済む。
悠斗は顔を上げた。
「大丈夫。足首がちょっと体育祭を先取りしてるだけ」
「意味分かんない」
「分からなくていい。分かったら保健体育の成績が上がる」
笑いが起きた。さっきまでの沈黙を押し広げるには、少し大きすぎる笑いだった。
笑いが消えたあと、教室は前より静かになった。
僕は教卓の前へ出た。腕章の端が、机の角に引っかかる。外してしまおうかと思ったが、赤い布を指で直し、そのまま立った。
「リレーのことを話す」
言葉が落ちると、椅子を引く音も、スマートフォンを伏せる音も止まった。
「悠斗が走れない場合、アンカーをどうするか決めないといけない。走順を変えるか、代わりを入れるか。変更の締切は、招集前」
「本人が走りたいって言ってるなら、走らせればいいんじゃないの?」
窓際の男子が言った。応援団の腕章をつけ、声を出しすぎた喉を何度も咳払いしている。
「もちろん、本当に無理なら駄目だけどさ。悠斗が最後を走るって、みんなそのつもりだっただろ。相手は神谷だし、勝ちたいなら悠斗がいたほうがいい」
「でも、先生は走らせないって」
「先生は今の状態ではって言っただけだろ。競技までまだ時間がある」
「時間があれば治るの?」
前の席の女子が返した。
「そういう話じゃなくて、勝負の話。最後の体育祭なんだから、多少は――」
「多少って何?」
声が重なった。
「足首を痛めてるんだよ。悪化したらどうするの」
「じゃあ、誰が代わりに走るんだよ」
「それは……」
言葉が途切れる。
誰も悠斗を責めてはいない。だからこそ、話は彼の身体だけを中央へ置いたまま進んでいく。走らせるか、外すか。勝つために使うか、安全のために退かせるか。本人の意思が、二つの選択肢の隙間へ押し込まれていた。
「使うとか、外すとか、そういう言い方をやめてくれ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
教室が静まる。
「悠斗は道具じゃない。怪我をしたから、勝つために使うか、邪魔になるから置いていくかを決めるものじゃない」
「じゃあ、どうするんだよ」
陸上部の男子が僕を見る。悠斗と一緒に練習してきた選手で、普段から走順の確認をしていた。
「綺麗なことを言っても、締切は待たない。悠斗を走らせないなら、誰かが走る。誰かを出すなら、その人に責任が乗る。順番を変えるなら、別の誰かの準備を崩す。そこを決めるのは誰だ?」
返事ができなかった。
喉のあたりに触れようとした指を、途中で止める。走順表は手の中で柔らかくなっていた。何度も折り返した端が、汗を吸ってわずかに波打っている。
「蓮が決めるんじゃないの?」
誰かが言った。
責める声ではなかった。だから、逃げにくかった。
「実行委員の補佐なんだろ。先生が戻るまでに候補くらい出せるじゃん」
「補佐だから、最終的には先生か代表が……」
「またそれ?」
今度は別の声だった。
「蓮って、準備は全部やるけど、最後に決めるところになると誰かに渡すよね」
胸の奥に細い針が入った。
中学の教室が、急に重なった。
二人の女子が同じ係をやりたいと言い出したとき、僕は仕事を半分ずつに分けた。誰も外さない方法だと思った。けれど責任は曖昧になり、最後には二人とも相手がやると思っていたと言った。担任に呼ばれた僕へ、先生は困った顔で言った。
――お前が間を埋めるから、誰も本音を言わない。
当時は、その言葉を褒め言葉に近いものだと思っていた。場を荒らさずに済ませる力だと。
今になって、教室の沈黙が意味を教えてくる。
僕が空白を埋めるから、誰も決める場所に立てない。僕が誰かの顔色を見て話を柔らかくするから、誰も自分の恐れを、そのまま口にできない。
「蓮」
悠斗が呼んだ。
彼は膝の上で鉢巻きを握っていた。笑おうとしているのに、口元が動かない。
「俺、みんなの前で言う」
「何を」
「走るか、走らないか」
「今すぐ決めなくていい」
「またそれかよ」
「状態を見てから――」
「時間があるから何だよ。時間があれば、俺の足は勝手に元通りになるのか。お前が紙を折り直せば、俺の名前が元の位置に戻るのか」
悠斗の声は大きくなかった。けれど、普段の軽口を知っている僕には、その静けさのほうが怖かった。
「俺は走りたい。走れるなら走る。走れないなら、走れない。そこを曖昧にしたまま、みんなに心配させるのが一番嫌だ」
「じゃあ、走れないって認めるのか」
陸上部の男子が訊いた。
悠斗は机の下へ視線を落とした。包帯の白が制服の裾から覗いている。冷却パックの角に結露した水滴が、床へ落ちた。
「認めたくはない」
悠斗は言った。
「でも、認めたくないからって、黙ってろとは言えない。俺が走るなら、俺が責任を持つ。走れないなら、走れないなりに責任を持つ。ただ、俺がいないものとして話を進められるのは嫌だ」
最後の声だけが掠れた。
窓の外で太鼓が鳴る。一定の間隔で繰り返す音が、教室の沈黙を測っているようだった。
「じゃあ、どうするんだよ」
応援団の男子が言う。
「俺たちは勝ちたい。悠斗は走りたい。どっちも本当だろ。どっちかを消して話すなよ」
数人が頷いた。
その瞬間、僕は黒板の「優勝」を見た。赤い文字は熱を持っている。けれど、その下に走った亀裂は、見ないふりをしても消えない。
「候補を出す」
声が出た。
今度は、自分で選んで出した声だった。
「悠斗を走らせるかどうかは、僕一人で今すぐ決めない。でも、代わりに走れる人を確認する。走順をずらせるかも見る。本人の意思と体調を聞いて、変更できる形を作る」
僕は走順表を裏返し、使い古したシャープペンシルを走らせた。
「ただし、悠斗を無理に走らせる案は外す。足を悪化させないことを優先する。それで勝てなくなっても、その判断は僕がする」
「勝てなくなっても?」
誰かが呟いた。
「勝つために考える。でも、怪我をした人を勝敗のために削ることはしない」
言葉が教室の中へ広がっていく。
「納得できない人がいても、今は進める。怒ってもいい。僕の判断が間違っていると思うなら、あとで言ってくれ。けど、誰かが決めるまで黙って時間を使い切るのは、もうやめる」
空気は柔らかくならなかった。
それでも、中心ができた。僕の手の中の紙へ、全員の視線が集まっている。
「蓮」
悠斗が言った。
「何」
「俺を外すときは、ちゃんと言えよ。気を遣って、あとでこっそり名前を変えるな。俺の名前を消すなら、俺の前で消せ」
「分かった」
「それから、俺が走れないって決めたあとも、仕事を寄越せ」
「仕事?」
「選手を呼ぶ。バトンの受け渡しを見る。声を出す。何でもいい。走らないからって、席に置いたままにするな」
悠斗は、ようやく笑おうとした。
「俺、座ってるだけだと性格が悪くなる」
「今でも十分悪い」
「なら、走らせたほうが平和だろ」
「走らせないために、仕事を頼む」
「それ、信用してるのか監視してるのか分からないな」
「両方」
小さな笑いが起きた。
無理に押し出したものではなかった。不安はまだ残っている。それでも、張りつめた糸に初めて指が触れたような笑いだった。
そのとき、早川先生が教室へ入ってきた。
片手に変更用紙、もう片方に水のケースを持っている。先生は何も言わず、まず窓際の机へケースを置いた。ペットボトル同士が触れ、氷がかすかに鳴る。それから黒板の「優勝」の下へ残っていたチョークの粉を、指先で払った。
「話はできたようだね」
「まだ途中です」
僕が答えると、先生は一度だけ頷いた。
「途中でいい。始まる前から完成している行事はないから」
先生は変更用紙の端を揃え、赤ペンをその上へまっすぐ置いた。
「蓮。候補を出すなら、名前だけでなく、本人の意思と体調も確認して。悠斗については、走らせない前提で準備しておこう」
「先生、それは決定ですか」
悠斗が訊いた。
「私の判断としては、そうだね」
「俺が走りたいと言っても?」
「聞くよ。ただし、聞くことと認めることは別だ」
悠斗は反論しかけ、口を閉じた。包帯の上に置かれた手がゆっくり握られる。
先生は僕へ視線を戻した。
「選手の確認、実行委員への連絡、変更届。それからクラスへの説明。全部一人でやらなくていい。誰に何を任せるかも、君が決めて」
任せる。
その言葉が、悠斗の口から出たときとは違う形で胸に落ちた。誰かに預けることは、責任を捨てることだと思っていた。だから、僕は何でも自分で持ち、遅れ、最後には誰かを待たせていた。
僕は教室を見回した。
「応援団の人は、選手の招集を手伝ってほしい。陸上部は、走順を変えた場合のバトン位置を見てくれ。女子は、悠斗をテントまで移動させる場所を確保して。無理な人は言ってくれ」
声が返る。
「分かった」
「俺、招集やる」
「テントの端、空けとく」
誰も大きな返事はしなかった。けれど、一人が動くと、次の一人も動いた。机が寄せられ、紙が回され、応援旗の棒が壁際へ立てかけられる。
悠斗が机を指で叩いた。
「俺は声出し。アンカーの後ろで最後まで叫ぶ」
「足は動かすなよ」
「声は足じゃない」
「立とうとするな」
「立たないって。たぶん」
「たぶん禁止」
「厳しいな、蓮」
僕は変更用紙を手に取った。赤ペンの先を確かめる。候補者の名前を書く前に、誰へ何を訊くかを紙の裏へ並べた。
紙の上の線だけでは足りない。
名前の先には、足があり、呼吸があり、断る理由があり、引き受けたい気持ちがある。僕はそれらを一つずつ聞いてから、初めて欄を埋めるつもりだった。
「まず、走れる人じゃなくて、任せられる人に聞く」
僕は言った。
「速さだけで決めない。決めたあと、その人を一人にしないために決める」
喉が乾いていた。
悠斗が水のケースから一本取り出し、僕へ差し出した。ラベルの表面を冷たい水滴が滑っている。
「飲んどけ。顔が白い」
僕は受け取った。
一気には飲まず、少しずつ口に含む。冷たい水が喉を通り、身体の内側へ戻ってくる。朝、母が弁当を包んだ柔らかな布の感触が、鞄の中でまだ残っていた。学校の熱気に飲まれそうになったとき、家の静けさは言葉ではなく、こういう小さな手触りで戻ってくる。
誰かが椅子を動かした。
誰かが選手の名前を呼んだ。
誰かがほどけかけた応援旗のひもを結び直した。
ばらばらだった音が、少しずつ一つの方向へ集まっていく。
窓の外で、赤い旗が大きく揺れた。結び目の端が一度だけほどけかける。けれど、完全には落ちなかった。
僕は走順表を持ち直した。
アンカーの欄には、まだ相良悠斗の名前がある。
消すかどうかを決めるためではない。ここにいる人間を、誰がどこで、どんな形で次へ渡すのかを決めるために。
僕は初めて、クラス全員の顔を正面から見た。
誰も、同じ気持ちではない。
勝ちたい人もいる。怪我を心配する人もいる。今日を早く終えて受験へ戻りたい人もいる。けれど、その違いを隠したまま一つになる必要はなかった。
違うままでも、同じ襷を持てる。
そのためには、誰かが先に手を伸ばさなければならない。
僕は紙を一枚、隣の席へ渡した。
「この名前の人に、順番に聞いてくれる?」
渡された生徒が、少し驚いた顔で頷く。
「うん。聞く」
その返事を聞いてから、僕は教室の外へ向き直った。放送のスピーカーが、次の競技の案内を読み上げている。廊下には靴音が重なり、グラウンドからは乾いた土の匂いが流れ込んでくる。
体育祭は、僕たちが迷い終わるのを待ってくれない。
だからこそ、迷いを抱えたまま動くしかなかった。
早川先生が、教卓の端を指で整える。悠斗が鉢巻きのほつれを結び直す。僕は走順表の端を揃え、それを今度は一人で抱え込まず、皆の手へ渡していく。
間を埋めるのではなく、間に人を立たせる。
その違いを、僕はまだうまく言葉にできなかった。ただ、教室の空気がほんの少しだけ前へ動いたことだけは分かった。
窓の外で、赤い旗が風を受けている。
結び目は、まだ完全ではない。
それでも、誰かの手から誰かの手へ、確かに渡り始めていた。
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