第5話 保健室の白い光

保健室の扉を開けると、消毒液の匂いがした。
外では入場を促す太鼓が鳴り始めている。けれど、扉が閉まった途端、その音は厚い布の向こうへ押し込められた。聞こえなくなったわけではない。低い振動だけが床を伝い、椅子の脚やベッドの金具をかすかに震わせている。
窓際のカーテンが、朝の風に揺れていた。
蛍光灯の白い光が、悠斗の顔から血の気を奪っているように見えた。彼はベッドの端に腰かけ、痛めた右足を少し浮かせている。足首には、さっきまでなかった腫れがはっきりと出ていた。
早川先生は、こちらを見上げなかった。
机の上に広げた名簿の端を揃え、使いかけのテープカッターで細長い紙を切っている。体育祭の変更届らしい。切り口が斜めになると、先生は一度だけ刃を戻し、今度はゆっくりと押し切った。
「そこへ座って」
声が小さい。
それなのに、外の太鼓よりよく聞こえた。
悠斗をベッドへ座らせる。右足が床から離れた瞬間、彼の口元が歪んだ。僕はその変化を見ないふりができず、けれど見ていることを悟られたくもなくて、腕に抱えた走順表へ視線を落とした。
相良悠斗。
アンカー。
紙の上では、まだ彼は走ることをやめていない。
「靴、脱がせるよ」
「自分でできる」
「できるなら、足を上げたまま靴ひもをほどいて」
「それくらいできるって」
悠斗は言いながら、ほどけた靴ひもへ手を伸ばした。
結び目に触れた指が、止まる。
いつもなら一度引けばほどけるはずのひもを、彼は二度、三度とつまみ直した。指先に力が入らないのか、結び目が固くなったのか、僕には判別できなかった。ただ、普段なら走る前に何度も整えている手つきが、今日は靴ひもを前にして迷っている。
「見てる?」
「靴ひもを見てる」
「同じだろ」
僕はベッドの脇にしゃがんだ。
「貸して」
「蓮にほどいてもらうと、そのまま走れなくなりそうだな」
「もう走る話をしてる場合じゃないだろ」
「先生の前でそれ言うなよ。俺が本当に終わる」
「終わるって言うな」
声が、思ったより大きく出た。
窓の外で、笛が短く鳴った。誰かが「集合!」と叫び、その声が校舎の壁に跳ね返ってくる。悠斗は僕の手元を見ながら、わずかに笑った。
「怒る元気はあるんだな」
「怒ってない」
「じゃあ焦ってる」
「……焦ってる」
認めると、喉の奥に詰まっていたものが少し動いた。
僕は靴ひもをほどき、ゆっくり靴を脱がせた。靴下の上からでも、足首の腫れが分かる。赤くなった皮膚が、布地を内側から押し上げている。触れる前から、痛みの輪郭が見えてしまう気がした。
早川先生がベッドの横へ来た。手袋をはめる音が、ぱち、と小さく鳴る。
「痛む場所は」
「外側」
「指先を動かして」
悠斗がつま先を動かす。
ほんのわずかな動きだった。それでも肩が跳ね、息が途切れた。僕はベッドの縁を握った。自分が痛いわけではないのに、指の関節が白くなる。
「そこまで」
先生は足首に手を添え、腫れの具合を確かめた。机の上から冷却パックを一つ取り出し、包装を破る。乾いた紙の音がする。中の薬剤を押しつぶすように折ると、袋の中で小さな音が続いた。
白い四角が、少しずつ硬くなっていく。
先生は布を一枚かませて、それを悠斗の足首へ当てた。
「冷たい?」
「いや、南国」
「質問に答えて」
「冷たいです」
冗談の形を取った声は、最後まで続かなかった。
先生が包帯を巻き始める。白い布が足首を一周するたび、悠斗の足が固定されていく。動かないようにするための処置なのに、僕には、走る可能性まで一緒に巻き込まれているように見えた。
「骨に異常があるかは、ここでは判断できない。ただ、走れる状態ではないね」
先生は淡々と言った。
その言葉が、保健室の床へ置かれた。
誰も拾わない。拾えば、元の場所へ戻せなくなる気がした。
「リレーは何時ですか」
僕が聞く。
「招集は十一時前。変更を出すなら、それまでに」
「まだ時間はあります」
「あるね」
「だったら、少し冷やせば――」
「蓮」
名前を呼ばれただけで、続きが消えた。
先生は名簿から僕へ視線を移した。叱っているわけではない。だからこそ、逃げ道がなかった。
「冷やすのは必要。休ませるのも必要。けれど、それと走れるかどうかは別の話だよ」
「でも、悠斗はアンカーで……」
「知っている」
「昨日まで練習して、クラスもそのつもりで、本人も……」
「それも知っている」
「だったら、最初から外すみたいに言わないでください」
言ってから、しまったと思った。
先生に向けた言葉ではなかった。悠斗の名前を、紙の上から消すのが怖い自分に向けた言葉だった。
早川先生は、机の上から走順表のコピーを取り上げた。紙の端を指で撫で、アンカーの欄を確認する。
「外すと決めた人は、ここにはいない」
「でも、走れない状態だと」
「走れない可能性が高い。それは事実だね。だから、走らせないための準備をする。走順を変えるための準備もする。準備をすることと、悠斗を切り捨てることは同じではない」
先生は冷却パックの角度を直した。ずれた端を持ち上げ、細く切ったテープで包帯に留める。指先に迷いがない。
「じゃあ、誰が決めるんですか」
「君は、誰が決めると思っている?」
僕は答えられなかった。
先生はテープカッターの横へ赤ペンを置いた。
「担任が決めれば、手続きとしては簡単だよ。走るな、代わりを入れろ、怪我を悪化させるな。どれも間違ってはいない。でも、今日のリレーが君たちにとって何なのかまで、私が決めることはできない」
「先生は、そうやって選ばせるけど」
悠斗が口を挟んだ。
「実際に足を痛めたのは俺です。俺を外すのが正しいなら、正しいって言ってください。俺が意地を張ってるだけなら、そう言ってください。蓮に紙を持たせて、俺たちに考えさせて、先生は安全なところにいるみたいで、ずるくないですか」
先生はすぐには答えなかった。
廊下を台車が通り過ぎる。給水用のペットボトルがケースの中でぶつかり、氷が鳴った。外の騒ぎは遠いのに、その音だけがはっきり届いた。
「ずるいと思うよ」
先生は言った。
「大人が全部決めるのは簡単だ。走るな、代わりを入れろ、体育祭より怪我が大事だ。どれも正しい。でも、それだけで今日を終えたら、君たちは自分で何を引き受けたのか分からないままになる」
「失敗したら?」
「失敗したら、失敗した人間を責めるのではなく、何を選んだのかを見ればいい」
「そんなに綺麗にできますか」
「できないだろうね」
先生は一度、悠斗の足首から手を離した。
「決めたあとに、痛いところが残るのは普通だよ。残った痛みを、誰のせいにするかまで君たちが決める必要はない」
悠斗は包帯の先を見たまま黙っていた。
僕は走順表を開いた。中央に薄い折り目がある。アンカーの欄には、相良悠斗の名前。その横には、昨日、悠斗が僕のシャープペンでつけた小さな丸が残っている。
「変更届を出すなら、代わりに走る人の名前が必要ですよね」
「必要だね」
「走順をずらす場合は?」
「全員の確認がいる」
「僕が走る場合は、他の区間を誰かに――」
「蓮」
悠斗が低く呼んだ。
僕は顔を上げた。
「お前、走るつもりか」
「分からない」
「またそれかよ」
「アンカーを空けるわけにはいかないだろ」
「速いかどうかの話じゃない」
「じゃあ何の話だよ」
「お前が俺の代わりになろうとしてる話だ」
悠斗の声に苛立ちが混じった。痛みを隠していたときより、ずっと正直だった。
「俺の名前を消して、そこにお前の名前を書く。そうしたら、俺の代わりを用意したことになる。でも、俺はそれでいいとは言ってない」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ」
「俺を走らせろとは言ってない」
「だったら――」
「俺の代わりになるなって言ってる」
悠斗は冷却パックの上に置かれた自分の足を見つめた。
「俺がアンカーにこだわったのは、俺が一番速いからだけじゃない。最後に名前を呼ばれるやつが、前のやつらの全部を受け取るからだ。途中で抜かれたやつも、転んだやつも、失敗したやつも、最後には同じ襷を渡す。俺はそれを持って、ゴールまで行きたかった」
「だったら、自分で走れよ」
「走れないかもしれないから言ってる」
その言葉は、冷却パックより冷たかった。
「俺が走れないなら、俺がいない分まで走るんじゃなくて、俺がここにいるって分かる走りにしてくれ。意味、分かるか」
すぐには分からなかった。
けれど、悠斗が自分の名前を消されたくないのではないことだけは、少しずつ見えてきた。自分の不在を理由に、誰かが縮こまったり、勝負を諦めたりするのが嫌なのだ。なのに、それを自分の言葉で頼めないから、僕に「任せる」と渡してくる。
「それ、ずるいよ」
「何が」
「自分で言えないことを、僕に決めさせる」
「お前なら決められると思ってる」
「それが重いんだよ」
「俺の足より?」
「比べるな」
悠斗は初めて、僕から目を逸らさなかった。
「比べてない。お前なら持てると思ってるだけだ」
窓の外で、歓声が上がった。何かの練習がうまくいったらしい。保健室の中には、その声が遠い波になって届いた。
早川先生が、机の上の水筒を僕へ差し出した。朝、母が弁当と一緒に入れてくれたものだ。
「少し飲んで」
「大丈夫です」
「大丈夫かどうかは聞いていないよ」
僕は水筒を受け取った。蓋を開け、ひと口だけ飲む。急いで飲み込むとむせそうだったので、冷たい水を少しずつ喉へ送った。
底に、小さな紙が貼ってあるのが見えた。
朝は気づかなかった。母の字で、短く一行だけ書かれている。
――帰るまでが今日。
体育祭の勝敗にも、悠斗の怪我にも触れていない。
それなのに、張りつめていたものの位置が、少しだけ変わった。
勝つまででも、誰かを満足させるまででもない。今日を終えて、家へ帰るまで。帰ってからも、この一日を自分のものとして抱えていくまで。
僕は水筒の蓋を閉めた。
「先生、変更用紙をください」
先生は何も言わず、切り分けた紙を一枚、僕の前へ滑らせた。赤ペンも一緒に置く。
「何を書くか、決めたの?」
「まだです」
悠斗が小さく舌打ちした。
「おい」
「でも、誰に確認するかは決めます。候補を出して、本人に聞く。走る人の体調も見る。悠斗を走らせないなら、走らせない理由をみんなに伝える」
「俺が納得しなかったら?」
「納得しないままでも進める」
声が少し震えた。
「悠斗が悔しいからって、足を壊すのを見ているわけにはいかない。お前を外すんじゃない。お前を戻れなくなるところまで追い込まないために、止めることがある」
悠斗の視線が、包帯の白へ落ちる。
「それ、俺を置いていくってことか」
「違う」
僕は走順表を握り直した。
「お前を置いていかないために、走らせないこともあるってことだよ」
悠斗の目が、わずかに揺れた。
早川先生は、変更用紙の端をテープで机へ固定した。紙がずれないように、端をきれいに揃えてから貼る。
「では、教室へ戻ろうか」
「悠斗も?」
「俺は行く」
悠斗はベッドから立ち上がろうとした。
「無理に立たないで」
「立つ。走らないけど、行く。俺がいないところで話を決められるのは嫌だ」
「座っていても、置いていかれるとは限らないよ」
先生が言った。
「でも、行くかどうかを決めるのは悠斗だ」
悠斗は一瞬、先生を見た。反発するかと思ったが、何も言わなかった。包帯を巻かれた足を見下ろし、ベッドの縁へ両手を置く。
僕はその隣へ立った。
肩を貸そうとしたとき、悠斗が手を伸ばした。僕の腕ではなく、走順表の端をつかむ。
「それ、俺にも持たせろ」
「破るなよ」
「破らない。名前を見るだけ」
僕は紙を二人の間に広げた。
相良悠斗の名前が、白い紙の上に残っている。隣には、まだ誰の名前もない。
保健室の外で、太鼓がまた鳴った。今度は試しではなく、始まりを告げる音だった。
悠斗の指が紙の端を押さえ、僕の指が反対側を押さえる。二人で持っているのに、紙は少しも軽くならない。
それでも、先ほどまでのように一人で折り返すことはなかった。
走順表を開いたまま、僕たちは保健室を出た。白い冷却パックの冷たさが、悠斗の足首に残っている。僕の手のひらには、紙の角の硬さが残っていた。
廊下の向こうから、入場を知らせる放送が流れ始める。
ざわめきの中で、僕は初めて、決めることと抱えることが同じではないのだと知った。誰かを走らせない決断にも、その人を次へ渡すための手が必要になる。
その手を、僕はまだ離せなかった。
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