4話 白い土と、黒い靴底

入場前のグラウンドは、まだ競技が始まっていないのに熱を持っていた。

乾いた土が、靴底に踏まれるたび白く粉を吹く。テント列のロープは朝の風に細かく震え、金具を打つ音が、遠くで一定の間隔を刻んでいる。放送のスピーカーは誰かの名前を呼びかけたあと、途中で雑音を噛んだ。太鼓の試し打ちだけが、ほかの音より近く、腹の奥へ響いた。

僕は赤い腕章と走順表を重ねて握っていた。

紙の角が指に食い込んでいる。何度も折り返して確認したせいで、表の端は柔らかくなっていた。昨日までなら、その柔らかさに安心したはずだった。きちんと準備した証拠だと思えたからだ。

今は、紙のほうが先に疲れているように見えた。

階段で悠斗が足を捻ってから、グラウンドのすべてが硬い。土も、テントの支柱も、誰かが結び直している靴ひもも、触れれば指を切りそうだった。保健室で巻かれた包帯の白さが、目の奥に残っている。

赤組のテントへ戻る途中、僕の前に人影が立った。

神谷真琴だった。

白組のゼッケンは皺ひとつなく、肩の線もまっすぐだった。周囲では白組の選手たちが短い声を交わし、ストレッチをしている。真琴だけはその輪から少し離れ、靴底で土の硬さを確かめるように、片足をわずかに動かしていた。

真琴は僕の顔を見なかった。

視線は、僕の手にある走順表へ落ちている。

「まだ決めていないのか」

声は低かった。責める響きというより、白黒のついていないものを、そのまま置いておくことへの不快感が滲んでいる。

僕は返事をする前に一拍置いた。

「決める途中だ」

「途中は答えにならない」

「答えを出すために動いている」

「動いているようには見えない」

真琴の目が、走順表の角に止まった。握りしめすぎて、紙が小さく波打っている。

「紙を潰して、何か決まるのか」

「決めるのは紙じゃない」

「なら、なぜそんなに抱えている」

僕は走順表を持つ手を少し下げた。

真琴は感情を荒げていない。怒鳴られるより、ずっと逃げにくい話し方だった。彼の言葉は、余計なものを削って、こちらが見ないようにしている場所だけを正確に突いてくる。

「悠斗を走らせない準備をしている。代わりの候補も探す」

「それで?」

「本人の状態を確認して、クラスにも説明して、走順変更の手続きをする」

「それで、いつ決める」

「招集までには」

「遅い」

「時間はまだある」

「時間があるから迷っているのか。時間がないから迷っているのか。どちらだ」

答えが出なかった。

グラウンドの向こうで、白組の応援旗が大きく揺れた。布が風を受け、支柱が軋む。隣のテントでは誰かがスポーツドリンクの蓋を開け、一気に飲み干している。喉を鳴らす音まで聞こえそうだった。

真琴は僕の沈黙を待った。

「相良が走れないなら、赤組はアンカーを失った。そこを認めろ」

「失ったとは決めていない」

「決めていないから、失っていないのか?」

「そういう言い方をするな」

「言い方の問題じゃない。現実の問題だ」

真琴は一歩だけ近づいた。白い土が、黒い靴底の縁から細く崩れる。

「怪我人を走らせるな。それは正しい。走れる選手を出せ。それも正しい。なら、何が止めている」

「悠斗の気持ちがある」

「気持ちで足首は治らない」

「分かっている」

「分かっていないから、まだ相良の名前を消していない」

走順表のアンカー欄が、胸の中へ押し込まれたように重くなった。

相良悠斗。

その横にある小さな丸は、朝の階段へ戻るための印にも、そこから先へ進むための印にも見えた。僕は紙を開けば、名前を消すことができる。代わりの名前を書くこともできる。けれど、黒い線を引いた瞬間、悠斗の足首の腫れや、教室で遅れていた笑顔まで、全部「なかったこと」にしてしまう気がした。

「名前を消せば、勝てるのか」

僕は聞いた。

真琴の目が初めて僕の顔へ上がった。

「少なくとも、走る人間は決まる」

「決めれば、勝負に集中できる?」

「できる」

「本当に?」

「本当に、の意味が分からない」

「悠斗を外したあとで、僕たちは何も気にせず走れるのか。足元に包帯を巻いたまま、テントから見ている悠斗を置いて、勝つことだけを考えられるのか」

「考えろ」

真琴は即答した。

「それが勝負だ」

「そうやって切り捨てられるものなら、みんな迷わない」

「迷うことと、考えないことは違う。相良が走れないなら、走れない人間を無理に走らせない。そのうえで勝つ方法を考える。それだけだ」

「簡単に言うな」

「簡単だとは言っていない」

真琴の声は変わらなかった。

「ただ、難しいからといって、決めない理由にはならない。お前は相良を守りたいのか、クラスを守りたいのか、それとも自分が嫌われない場所を守りたいのか。そこを曖昧にしたまま、優しい顔をするな」

胸の奥で、何かが擦れた。

嫌いな言い方だった。けれど、嫌いなだけで、間違っているとは言えなかった。

「僕は、誰かを置いていきたくない」

「全員を連れていく方法があると思っているのか」

「思っているわけじゃない」

「なら、分かっているだろう。何かを選べば、何かは選ばれない」

「だから、選びたくない」

「違う」

真琴は足元へ視線を落とした。

「お前は、選びたくないんじゃない。選んだあとに残る顔を見たくないだけだ」

風が吹き、走順表の端がめくれた。

僕は反射的に紙を押さえた。指先に乾いた土が付着している。白い粉が、紙の角へ移った。

真琴はその手元を見ていた。

「俺は、勝ちたい」

唐突な言葉だった。

けれど、唐突ではないのだと思う。白組のテントから聞こえる声も、彼の整えられたゼッケンも、何度も回された足首も、全部そこへつながっていた。

「今日が最後だから、ではない。最後だから手を抜く理由がなくなるだけだ。俺は、相良がいない赤組に勝ちたい。怪我人を使わず、それでも負けた赤組に勝ちたい。そうでなければ、俺が走った意味が薄まる」

「勝つ相手を選ぶのか」

「選ばない。条件が変わったなら、その条件で勝つ」

「悠斗が走れないことを、勝つ材料にする?」

「する」

真琴は言い切った。

「勝負は、起きたことを材料にするものだ。相良が怪我をしたことを、なかったことにして走るほうが卑怯だろう。お前たちが代走を立てるなら、その代走を含めた赤組と走る。俺はそこで勝つ。情けで速度を落とすつもりはない」

その言葉に、腹の底が冷えた。

真琴は冷たい。けれど、冷たいからこそ、勝負の外側へ逃げない。悠斗の負傷を、気まずい事故として隠してしまえば、きっと僕たちは走りながらずっとそれを振り返る。見ないふりをしたものほど、足元にまとわりつく。

「君は、何でも結果にできるんだな」

「何でもではない」

「できるように聞こえる」

「結果にできないものを、結果のふりで誤魔化すなと言っているだけだ」

真琴は一度、手のひらを制服の脇で拭った。白い土が付いたのかもしれない。表情は変わらないのに、その動作だけがわずかに乱れていた。

「相良は、走れない自分を見られるのが嫌なんだろう」

僕は顔を上げた。

「知っているのか」

「見れば分かる」

「君が言うと、全部簡単に聞こえる」

「簡単じゃない。俺も、負けたあとに何も言えなかったことがある」

真琴の声が、ほんの少しだけ低くなった。

「中学の最後のリレーで、俺は僅差で抜かれた。次の走者に渡した時点では、まだ勝てた。けれど、最後に抜かれた。周りは惜しかったと言った。次があると言った。俺は、あれ以来そういう言葉が嫌いだ」

「次がある、って?」

「あるかどうか分からないものを、あることにして終わらせる言葉だ。負けたなら負けたと言えばいい。悔しいなら悔しいと言えばいい。俺は言えなかった。だから、勝つことだけを残した」

それは告白というより、記録の読み上げに近かった。

それでも、真琴が自分から過去を口にするのを、僕は初めて聞いた。

「悠斗も、同じように勝つことだけを残そうとしている」

「そうかもしれない」

「お前は?」

「僕?」

「相良の悔しさを、勝つことで埋めようとしている。だから決められない」

図星だった。

僕は悠斗が走れないことを、彼の負傷として受け止めるのが怖かった。何か別の形に変えたかった。代走を立てて、勝って、今日の朝を「それでも勝った日」にすれば、悠斗の悔しさが無駄にならずに済むと思っていた。

でも、それは悠斗の悔しさを僕が勝手に処理しようとしているだけだ。

「僕は、勝つために誰かを置いていくのが嫌なんだ」

「それは、勝ちたくないという意味か」

「違う」

「なら、言葉を選び直せ」

真琴は僕の目を見た。

「勝ちたい。だが、そのために何を捨てるかを自分で決める。そう言えばいい。誰かを置いていくのが嫌なら、置いていかない方法を探せ。無理なら、置いていく痛みごと引き受けろ。勝利は、綺麗な手でしか掴めないものじゃない」

遠くで、入場の合図を知らせる笛が鳴った。

テント列のあちこちで、生徒たちが立ち上がる。椅子の脚が土を擦り、応援旗が持ち上げられ、赤と白の布が同時に風をはらんだ。ざわめきが広がっていく。けれど僕の周りには、音のない場所が残っていた。

真琴は踵を返した。

「神谷」

呼び止めると、彼は振り返らずに止まった。

「もし、悠斗が走れないと決めたら」

「決めるのはお前だろう」

「それでも聞きたい。僕たちが代走を出して、アンカーで君と走ることになったら、手を抜かない?」

「当然だ」

「悠斗が見ていても?」

「当然だ」

「悠斗が、走れないままでも?」

真琴はそこで初めて振り返った。

「だからだ」

黒い靴底が、白い土の上でまっすぐこちらを向く。

「相良が見ているなら、なおさら手を抜かない。あいつが走れないことを、あいつのいない勝負にするな。走れない人間がそこにいるなら、その視線も含めて走れ。お前たちが本気で代わりを立てるなら、俺はその代わりを一人の走者として扱う」

言葉が、胸の中へ落ちた。

真琴はそれ以上、何も言わなかった。白組の列へ戻っていく。歩幅は一定で、背中に迷いがない。けれど、白い土の上に残った靴跡は、彼の身体の重さに合わせて少しだけ深かった。

僕は走順表を開いた。

アンカー欄の「相良悠斗」の文字を、指先でなぞる。紙の上の黒い線は、朝から何も変わっていない。変わったのは、それを見る僕のほうだった。

消すことは、置いていくことではない。

残すことも、走らせることではない。

名前を紙の上に置いたまま、その人間がどこにいて、何を引き受けられるのかを決める。その決定を、僕がしなければならない。

「蓮!」

赤組のテントから、クラスメイトの声が飛んできた。

「悠斗はまだ保健室前だって! 早川先生が呼んでる!」

僕は走順表を胸に押し当てた。

走らなければならない、と身体が先に動きかける。けれど、足を踏み出す前に、僕は一度だけ深く息を吸った。乾いた土と、汗と、テントの布の匂いが混じっている。

急ぐ。

ただし、焦って誰かを置いていかない。

僕は白い土を蹴った。黒い靴底の跡が、後ろへ一つ残る。テント列の間を抜け、保健室へ続く校舎の入口へ向かう。

背中で、太鼓が鳴り始めた。

今度は試し打ちではなかった。入場を促す、規則正しい音だった。

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白い土と、黒い靴底 - 走れない朝 - 誰でも作家life