3話 教室のざわめき

教室へ戻ると、三年B組はすでに体育祭の顔になりかけていた。

黒板の隅には、誰かが太い赤チョークで「優勝」と書いている。その下では応援合戦の振り付けを確認する女子たちが、机を後ろへ寄せるために椅子を引きずっていた。窓際では、進路の話を半分だけ聞きながらスマートフォンを覗いている男子がいる。模試の結果、願書の提出日、部活の引退試合。そういう明日のことを抱えたまま、今日だけは最後の行事に乗ろうとしている人たちだった。

窓の外では、赤組の旗が朝の光を受けて揺れていた。

布が風をはらむたび、赤い影が教室の床を横切る。そのたびに机の脚やスニーカーの先が薄く染まった。

「戻った」

僕が言うと、何人かが一斉に顔を上げた。

視線が、僕の腕から悠斗の足元へ落ちる。誰も口にしないのに、見ている場所だけは同じだった。白い包帯の端と、そこへ添えられた冷却パック。保健室の匂いまで連れてきたような気がして、僕は無意識に走順表を胸へ押しつけた。

「おいおい、主役が遅刻かよ」

悠斗が先に言った。

片足をかばいながら、自分の席まで歩く。誰かが椅子を引こうとしたが、悠斗は手だけで制した。

「いいって。俺、怪我人としては歩けるほうだから」

「歩けるほうって何だよ」

後ろの席の男子が笑った。笑い声は途中で細くなり、教室の天井へ届く前に落ちた。

悠斗は気にした様子もなく、椅子へ腰を下ろした。けれど、座る瞬間に机の端をつかんだ。指の関節が白くなる。その手を見ていた僕に気づいたのか、悠斗はすぐに掌を伏せた。

「見るなよ。今のは、椅子が不安定だっただけ」

「椅子は動いてない」

「じゃあ床が悪い」

「床のせいにするな」

「階段も悪い」

いつもの調子だった。

いつもの調子を作ろうとしていることだけが、いつもと違った。

僕は教卓の前に立った。早川先生はまだ教室に戻っていない。保健室で、変更用の紙を持ってあとから来ると言っていた。先生がいないことが、かえって僕を前へ押し出している気がした。

机の間に残った通路が、やけに狭い。みんなの鞄、応援旗、脱ぎ捨てられた上履き。普段なら気にならないものが、どれも誰かの進路を塞いでいるように見えた。

「悠斗、大丈夫なの?」

前の席の女子が、振り返りながら聞いた。

その声には心配があった。けれど、「大丈夫」と答えてほしい期待も混じっている。彼女自身、それに気づいていないのかもしれない。

悠斗は笑った。

「大丈夫大丈夫。ちょっと足首が体育祭を先取りしてるだけ」

「意味分かんない」

「分からなくていい。分かったら保健体育の成績が上がる」

また笑いが起きた。

今度はさっきより大きかった。けれど、笑い終わったあとに残った沈黙は、さっきより深かった。

僕は走順表を開いた。

紙を広げる音だけで、教室のいくつかの視線がこちらへ集まった。机の上で紙の端を揃える。折り目を伸ばす。何度もやってきた作業なのに、指先がうまく動かなかった。

「リレーのことなんだけど」

そこまで言ったところで、後ろから声がした。

「アンカー、どうする?」

声の主は、陸上部の男子だった。悠斗と一緒に練習していた選手の一人で、普段から走順の確認をしていた。彼は悠斗を見ずに、走順表だけを見ていた。

「悠斗が無理なら、誰か入れないとまずいだろ。招集、もうそんなに余裕ないし」

「代走って、今から決められるの?」

別の女子が聞く。

「決めるしかないんじゃない。最後くらい勝ちたいって言ってたの、みんなじゃん」

「でも、悠斗は……」

そこで言葉が止まった。

悠斗は自分の机の上に置いた赤い鉢巻きを見ていた。手を伸ばし、端のほつれをつまむ。普段なら、そんなものは気にせず首へ巻きつけるはずなのに、今日は細い糸を指で何度も撫でていた。

「俺は走れるって」

悠斗が言った。

声は明るかった。だが、その明るさは教室全体に届く前に、どこかで引っかかった。

「先生は走れる状態じゃないって言ってた」

僕が言うと、悠斗の指が止まった。

「蓮、先生の言い方を勝手に短くするなよ」

「短くしてない」

「してる。先生は『今は走らせない』って言っただけだろ」

「それは、走れる状態じゃないってことだよ」

「だから、今はだろ。まだ競技まで時間がある」

「時間があるからって、腫れが引くとは限らない」

「分かってる」

「分かってるなら――」

そこで僕は口を閉じた。

悠斗の目が、まっすぐこちらを向いていた。怒っているわけではない。ただ、言葉の先にあるものを待っている目だった。お前は何を決める、と。

教室の後ろで、誰かが机の脚を引いた。ぎ、と乾いた音がした。

「本人が走りたいって言ってるなら、走らせてもいいんじゃない?」

窓際の男子が言った。彼は応援団の腕章をつけていて、今朝からずっと声を出していたせいか、喉が少し枯れていた。

「もちろん無理は駄目だけどさ。悠斗がいないと、正直きついだろ。相手の白組、神谷がアンカーなんだし」

その名前が出ると、教室の空気が一段硬くなった。

神谷真琴。白組のエース。前日の練習で、彼は一度もこちらを煽らなかった。ただ、走るたびに記録を更新し、その数字だけで赤組の不安を増やしていた。

「だからって、怪我を悪化させてまで走らせるの?」

前の席の女子が言い返した。

「そういう意味じゃないけど、勝つなら最速を出すしかないだろ」

「勝つためなら、怪我人を使うの?」

「使うって言い方は――」

「同じでしょ」

声が重なった。

机を囲むように、意見が左右へ振れる。誰も悠斗を責めていない。けれど、悠斗をどう扱うかという話になると、彼の身体が物のように教室の中央へ置かれていく。

そのことが、僕には耐えられなかった。

「悠斗を使うとか、外すとか、そういう言い方をやめてくれ」

思ったより低い声が出た。

教室が静かになる。

「悠斗は選手で、僕たちのクラスメイトだ。怪我をしたから、勝つための道具になるわけじゃない」

「じゃあ、どうするんだよ」

陸上部の男子がこちらを見た。

「きれいなことを言ってる場合じゃないだろ。走順変更の締切はある。アンカーが決まらなければ、全員が困る。悠斗を走らせないなら、誰かが走るしかない。誰かを出すなら、その人間には勝つ責任が乗る。それを決めるのは誰だ?」

返事ができなかった。

僕の唇だけが、声にならない形で動いた。

机の上の走順表が、急に薄く見えた。紙一枚に名前を並べれば、問題が整理されると思っていた。けれど、そこに名前を書くということは、その人の足や呼吸や恐怖まで、勝手に一つの欄へ押し込むことだった。

「蓮が決めるんじゃないの?」

誰かが言った。

責める声ではなかった。だからこそ逃げにくかった。

「実行委員の補佐なんだろ。先生が来るまでに、候補くらい出せるじゃん」

「補佐だから、最終決定は先生が……」

「またそれ?」

別の声が重なった。

「蓮、いつもそうじゃん。準備はしてくれるけど、最後に決めるところになると先生とか代表に振る」

胸の奥が、細い針で刺された。

その言葉を言った女子は、すぐに口元を押さえた。言いすぎたと思ったのだろう。けれど、取り消してほしいとは思えなかった。むしろ、ずっと見ないふりをしていたものを、教室の真ん中へ置かれた気がした。

中学の頃の教室が、ふいに重なった。

クラスの係を決めるとき、二人の女子が同じ役を希望した。僕はどちらも外さないように、仕事を半分ずつに分けようとした。結果、責任の所在が曖昧になり、二人とも最後には何もしたくないと言った。担任に呼ばれた僕は、「みんなが納得する方法を考えました」と説明した。

先生は困った顔で、こう言った。

――お前が間を埋めるから、誰も本音を言わない。

その意味を、僕はまだ全部分かっていなかった。

でも今、教室の沈黙が教えてくれる。誰も本音を言わないのではない。僕が決めないまま場をつないでいるから、みんなが自分の言葉を出す場所を失っている。

「蓮」

悠斗が呼んだ。

僕は彼を見る。

悠斗は赤い鉢巻きを膝の上で握っていた。笑おうとしているのに、口元が動かない。

「俺、みんなの前で言うわ」

「何を」

「走るか、走らないか」

「それは、今決めなくていい」

「またそれ言うのかよ」

「先生も、まだ時間があるって――」

「時間があるから何だよ。時間があれば、俺の足は勝手に元通りになるのか。お前が紙を何度折り直しても、俺がアンカーの欄に戻るのか」

悠斗の声が教室を切った。

大きくはなかった。けれど、普段の軽口を知っている僕には、その静けさの方が怖かった。

「俺は走りたい。走れるなら走る。走れないなら、走れない。そこを曖昧にしたまま、みんなに心配させるのが一番嫌だ」

「じゃあ、走れないって認めるのか」

陸上部の男子が聞いた。

悠斗はすぐには答えなかった。

視線が、机の下の足へ落ちる。包帯の白が、制服の裾から少しだけ見えている。冷却パックの角が、布の上でゆっくり結露していた。水滴が一つ、床へ落ちた。

「認めたくはない」

悠斗は言った。

「でも、認めたくないからって、みんなに黙ってろとは言えない。俺が走るなら、俺が責任を持つ。走れないなら、走れないなりに責任を持つ。……ただ、俺がいないものとして話を進められるのは嫌だ」

最後の言葉だけが、少し掠れていた。

誰も返さなかった。

窓の外から太鼓が聞こえた。一定の間隔で叩かれる音が、教室の沈黙を測るように響いている。応援団の女子が持っていた赤い旗の棒を、無意識に握り直した。

「じゃあ、どうするんだよ」

さっきの男子が、今度は少し声を落として言った。

「悠斗が走れない可能性は高い。俺たちは勝ちたい。どっちも本当だろ。どっちかを消して話すなよ」

その言葉に、何人かが頷いた。

勝ちたいという気持ちを、口にすることが悪いような空気になっていた。怪我を心配することと、優勝を望むことは、本来なら同じ教室に置けるはずなのに、誰かがどちらかを選ばなければならないように感じている。

僕は黒板の「優勝」を見た。

赤い文字の端が、チョークの粉で少し崩れている。誰かが強く書いたせいで、最後の「勝」の下に細い亀裂が入っていた。

「候補を出す」

自分の声を聞いて、僕自身が驚いた。

悠斗が顔を上げる。

「蓮?」

「悠斗を走らせるかどうかは、今すぐ僕一人では決めない。でも、代わりに走れる人を確認する。走順をずらせるかも見る。全員の状態を聞いて、変更できるものを整理する」

僕は走順表の裏へ、使い古したシャープペンシルで線を引いた。

「ただし、悠斗を無理に走らせる案は、最初から外す。足を悪化させないことを優先する。それで勝てなくなっても、僕はその判断をする」

鉛筆の芯が、紙の上で小さく鳴った。

何人かが息を呑むのが分かった。悠斗は黙って僕の手元を見ている。怒っているのか、納得しているのか、表情からは読み取れない。

「勝てなくなっても、って……」

誰かが呟いた。

「勝つために考える。でも、怪我をした人間を勝敗のために削ることはしない。それだけ」

僕は一度、言葉を止めた。

ここで「みんなが納得するように」と付け足せば、いつもの場所へ戻れる。けれど、それを言えばまた、誰かに決めることを渡すことになる。

「納得できない人がいても、今は進める。あとで僕に言ってくれ。怒ってもいいし、僕の判断が間違っていたと思うなら、そう言ってくれ。けど、何も決めないまま時間だけ過ぎるのは、もうやめる」

教室の空気が、ほんの少し変わった。

柔らかくなったわけではない。緊張が消えたわけでもない。ただ、全員の視線が一つの方向へ集まり始めた。悠斗の足ではなく、僕の持つ紙へ。

その紙の上には、まだアンカーの欄に相良悠斗の名前が残っている。

消すことも、書き換えることもできないまま、名前だけがそこにある。

「蓮」

悠斗が言った。

「何」

「俺を外すときは、ちゃんと言えよ」

「分かってる」

「気を遣って、あとでこっそり変えるな。俺の名前を消すなら、俺の前で消せ」

「……分かった」

「それから、俺が走れないって決めたあとも、俺に仕事を寄越せ」

「仕事?」

「声を出す。選手を呼ぶ。バトンを渡す位置を確認する。何でもいい。走らないからって、俺を席に置いたままにするな」

悠斗はそこで、いつもの笑い方をしようとした。

少し遅れて、ようやく口元が上がる。

「俺、座ってるだけだと、たぶん性格が悪くなる」

「今でも十分悪い」

「なら、走らせたほうが平和だろ」

「走らせないために、仕事を頼む」

「それ、俺を信用してるのか、監視してるのか分からないな」

「両方」

今度は、教室のあちこちから小さな笑いが起きた。

さっきのように無理に押し出した笑いではなかった。まだ不安は残っている。悠斗の足も、走順表の欄も、そのままだ。それでも、誰かが息を吐く音が聞こえた。

早川先生が教室へ入ってきた。

片手に変更用の書類、もう片方に水の入ったケースを持っている。教室の空気を見渡すと、何も言わず、まず窓際の机へケースを置いた。ペットボトル同士が触れ合い、かすかな音を立てる。

それから、黒板の「優勝」の文字の下に残ったチョークの粉を、指先で払った。

「話はできたようだね」

「まだ途中です」

僕は答えた。

「途中でいい。行事は、始まる前から完成しているものではないから」

先生は変更用紙を教卓へ置いた。端を揃え、赤ペンをその上にまっすぐ置く。

「蓮、候補を出すなら、名前だけでなく、本人の意思と体調も確認して。悠斗については、走らせない前提で準備しておこう」

悠斗が顔を上げた。

「先生、それはもう決定ですか」

「私の判断としては、そうだね」

「俺が走りたいと言っても?」

「聞くよ。ただし、聞くことと認めることは別だ」

悠斗は何か言い返そうとして、口を閉じた。包帯の上に置かれた手が、ゆっくり握られる。

先生は僕を見る。

「君は、今から忙しくなる。選手の確認、実行委員への連絡、変更届。それから、クラスに説明すること」

「はい」

「全部一人でやらなくていい。誰に何を任せるかも、君が決めて」

その言葉の重さは、走順表より軽かった。

けれど、受け取ると手の中で形を変えた。仕事を任せることは、誰かに負担をかけることだと思っていた。だから僕は、何でも自分で抱え、遅れて、結局みんなを待たせていた。

悠斗が机を指で叩いた。

「じゃあ俺、応援の声出しやる。アンカーの後ろで、最後まで叫ぶ」

「足、動かすなよ」

「声は足じゃない」

「途中で立とうとするな」

「立たないって。たぶん」

「たぶん禁止」

「厳しいな、蓮」

そう言いながら、悠斗は少しだけ肩の力を抜いた。

僕は変更用紙を取り上げた。赤ペンの先を確認し、走順表の裏へ候補者の名前を書き始める。誰に声をかけるか、どの順番で確認するか。頭の中で人の配置が組み上がっていく。

けれど、紙の上の線だけでは足りない。

僕は最初に、クラス全員へ向き直った。

「今から、一人ずつ聞く。走れるか、走りたいか、ではなくて、任せられるかどうかを確認する。無理な人は無理と言っていい。速さだけで決めない。決めたあとに、その人を一人にしないために決める」

言い終わると、喉が乾いていることに気づいた。

誰かが水のケースからペットボトルを一本取り出し、僕へ差し出した。ラベルには冷たい水滴が並んでいる。

「飲んどけ。顔、白い」

名前を呼ばなくても分かる、悠斗の声だった。

僕は受け取って、蓋を開けた。一気には飲まず、少しずつ口に含む。冷たい水が喉の奥を通り、張りつめていた息がようやく身体へ戻ってきた。

教室のざわめきは、まだ消えていない。

それでもさっきまでのように、中心のない音ではなかった。誰かが椅子を動かし、誰かが名前を呼び、誰かが応援旗のひもを結び直している。ばらばらだった音が、ゆっくり一つの方向へ集まっていく。

窓の外で、赤い旗が大きく揺れた。

その布の端が、結び目のところで一度だけほどけかける。けれど、風に引かれながらも、完全には落ちなかった。

僕は走順表を持ち直した。

紙の上には、まだ相良悠斗の名前がある。

消すかどうかを決めるためではない。そこにいる人間を、どう次へ渡すかを決めるために、僕は初めて、教室の全員の顔を正面から見た。

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教室のざわめき - 走れない朝 - 誰でも作家life