2話 冷たい四角

保健室の扉を開けると、消毒液の匂いがした。

窓際の机には、四角い冷却パックがいくつか積まれている。白い不織布の袋に包まれたそれらは、体育祭の朝には場違いなほど静かだった。外では太鼓が鳴り、誰かが走っている。靴音が廊下を通り過ぎるたび、床がかすかに震える。それなのに、この部屋だけは時間の流れから少し外れていた。

早川先生は、こちらを見上げなかった。

机の上に広げた名簿の端を揃え、使いかけのテープカッターで細長い紙を切っている。紙は体育祭の変更届だった。切り口が斜めにならないよう、先生は一度だけ刃を戻し、今度はゆっくり押し切った。

「座って」

それだけ言って、先生はようやく顔を上げた。

悠斗をベッドの端に座らせる。右足を床から浮かせた瞬間、彼の口元が歪んだ。僕はその変化を見ないふりができず、けれど見ていることを悟られたくもなくて、腕に抱えた走順表へ視線を落とした。

相良悠斗。

アンカー。

黒い文字は、朝の階段に置き去りにされたはずなのに、紙の上ではまだ走ることをやめていない。

「靴を脱がせるよ」

「自分でできる」

「できるなら、足を上げたまま靴ひもをほどいてみて」

「それは……できる」

「じゃあ、やって」

悠斗は返事の代わりに、ほどけた靴ひもへ手を伸ばした。指先が結び目に触れる。いつもなら一度引けばほどける結び目が、今日は妙に固かった。彼は二度、三度と指を動かしたが、うまくいかない。

「見てる?」

「見てない」

「見てるだろ」

「靴ひもを見てる」

「同じだよ」

僕は何も言わず、ベッドの脇にしゃがんだ。悠斗の手の上から自分の指を重ねる。汗で湿ったひもは、指先にぬるく貼りついた。

「貸して」

「蓮に結んでもらうと、走れなくなりそう」

「もう走ってる場合じゃないだろ」

「それ、先生の前で言うなよ。俺が本当に終わる」

「終わるって言うな」

僕の声が思ったより大きくなった。

窓の外で、笛が短く鳴った。誰かが「集合!」と叫び、その声が校舎の壁にぶつかって戻ってくる。悠斗は僕の手元を見ながら、少しだけ笑った。

「怒る元気はあるんだな」

「怒ってない」

「じゃあ、焦ってる」

「……焦ってる」

認めると、喉の奥に詰まっていたものが少し動いた。

僕は靴ひもをほどき、ゆっくり靴を脱がせた。靴下の上からでも、足首の腫れが分かる。赤くなった皮膚が、布地を内側から押し上げていた。そこに触れる前から、痛みの形が見えてしまうようだった。

早川先生がベッドの横に来る。手袋をはめる音が、ぱち、と小さく鳴った。

「痛む場所は」

「外側」

「動かせる範囲でいい。つま先を上げて」

悠斗が足先を動かす。

ほんのわずかな動きだった。それでも彼の肩が跳ね、息が途切れた。僕はベッドの縁を握った。自分が痛いわけではないのに、指の関節が白くなる。

「そこまで」

先生は足首を固定するように手を添えた。腫れの具合を確かめ、冷却パックを一つ取り出す。包装を破ると、乾いた紙の音がした。中の薬剤を押しつぶすように先生が折る。次の瞬間、白い袋の内部で小さな音が連なり、冷気が手袋越しに広がっていく。

四角い冷却パックは、見る間に硬くなった。

先生が布で包み、悠斗の足首へ当てる。冷たさに、悠斗の膝がわずかに震えた。

「冷たい?」

「いや、南国」

「質問に答えて」

「冷たいです」

冗談の形を取った声は、最後まで続かなかった。

包帯が巻かれていく。白い布が足首を一周するたび、悠斗の足が少しずつ固定されていく。動かないようにするための処置なのに、僕には、走る可能性まで一緒に巻き込んでいるように見えた。

「骨に異常があるかは、今ここでは判断できない。ただ、走れる状態ではないね」

先生は淡々と言った。

その言葉が、保健室の床に置かれた。

誰も拾わない。拾えば、元の場所へ戻せなくなる気がした。

「今日のリレー、何時ですか」

僕は聞いた。

「招集は十一時前。変更を出すなら、それまでに」

「まだ、時間はあります」

「あるね」

「だったら、少し冷やせば――」

「蓮」

先生に名前を呼ばれただけで、言葉が止まった。

先生は、名簿から僕へ視線を移した。叱る目ではなかった。だから余計に、逃げ道がなくなった。

「冷やすのは必要。休ませるのも必要。けれど、それと走れるかどうかは別の話だよ」

「でも、悠斗はアンカーで……」

「それは知っている」

「昨日まで練習していて、クラスもそのつもりで、本人も……」

「それも知っている」

「だったら、最初から外すみたいに言わないでください」

言ったあとで、しまったと思った。先生に向けた言葉ではない。僕自身に向けた言葉だった。けれど、出てしまったものは戻らない。

悠斗が僕を見た。笑っていない。

早川先生は、机の上から走順表のコピーを取り上げた。原本ではなく、変更用に作っていた控えだった。紙の端を指で撫で、アンカーの欄を確認する。

「外すと決めた人は、ここにはいない」

「でも、走れない状態だと」

「走れない可能性が高い。それは事実だね。だから、走らせないための準備をする。走順を変えるための準備もする。準備をすることと、悠斗を切り捨てることは同じではない」

先生の言葉は静かだった。大声で励まされるより、ずっと厳しい。僕の中で勝手に結びついていたものを、一つずつほどいていく。

「じゃあ、誰が決めるんですか」

「君は、誰が決めると思っている?」

僕は答えられなかった。

先生は、テープカッターの横に赤ペンを置いた。

「担任が決めれば、手続きとしては簡単だよ。けれど、今日のリレーが君たちにとって何なのかまで、私が決めることはできない。勝ちたいのか。悠斗を走らせたいのか。誰かに代わってもらうのか。全部を同時には選べない場面もある」

「先生は、そういう言い方をしますけど」

悠斗が初めて口を挟んだ。

「実際に足を痛めたのは俺です。俺を外すのが正しいなら、正しいって言ってください。俺がごねてるだけなら、そう言ってください。蓮に紙を持たせて、俺たちに考えさせて、先生は安全なところにいるみたいで、ずるくないですか」

早川先生は、すぐには答えなかった。

保健室の外で、台車の車輪が廊下を転がっていく。給水用のペットボトルがぶつかり、ケースの中で氷が鳴った。

「ずるいと思うよ」

先生は言った。

「大人が全部決めるのは、たぶん簡単だ。走るな、代わりを入れろ、体育祭より怪我が大事だ。どれも間違ってはいない。でも、それだけで今日を終えたら、君たちは自分で何を引き受けたのか分からないままになる。私は、君たちからその部分まで取り上げたくない」

「でも、失敗したら」

「失敗したら、失敗した人間を責めるのではなく、何を選んだのかを見ればいい」

「そんな綺麗にできますか」

「できないだろうね」

先生は冷却パックの位置を直した。白い四角が包帯の上で少しずれる。先生は端を持ち上げ、テープを細く切って固定した。貼りつける指が迷わない。

「だから、綺麗にしようとしなくていい。決めたあとに、痛いところが残るのは普通だよ。残った痛みを、誰のせいにするかまで君たちが決める必要はない」

悠斗は、包帯の先を見たまま黙った。

僕は走順表を開いた。何度も折り返していたせいで、紙の中央に薄い線ができている。アンカーの欄を指でなぞる。相良悠斗の名前。その横についた小さな丸。昨日、悠斗が勝手に書いたものだ。

「先生」

「うん」

「変更届を出すなら、代わりに走る人の名前が必要ですよね」

「必要だね」

「走順をずらす場合は?」

「全員の確認がいる。招集にも間に合わせる」

「僕が走る場合は、他の区間を誰かに……」

「蓮」

悠斗が低く呼んだ。

僕は顔を上げた。

「お前、走るつもりか」

「分からない」

「またそれかよ」

「僕だって速くはないけど、アンカー区間を空けるわけにはいかないだろ」

「速くないとか、そういう話じゃない」

「じゃあ何の話だよ」

「お前が俺の代わりになろうとしてる話だ」

悠斗の声に、苛立ちが混じった。痛みを隠していたときより、ずっと正直な響きだった。

「俺の名前が欄から消える。そこにお前の名前を書く。そうしたら、俺の代わりを用意したことになる。けど、俺はそれでいいって言ってない」

「じゃあ、どうしろっていうんだよ」

「俺を走らせろとは言ってない」

「だったら――」

「俺の代わりになるなって言ってる」

悠斗は、冷却パックの上に置かれた自分の足を見つめていた。

「俺がアンカーにこだわったのは、俺が一番速いからだけじゃない。最後に名前を呼ばれるやつが、前のやつらの全部を受け取るからだ。失敗したやつも、途中で抜かれたやつも、転んだやつも、最後には同じ襷を渡す。俺はそれを、最後まで持っていたかった」

「だったら、自分で走れよ」

「走れないかもしれないから言ってる」

その言葉は、冷却パックより冷たかった。

「蓮。俺の代わりをして、俺のいないレースにするな。俺が走れないなら、俺がいない分まで走るんじゃなくて、俺がここにいるって分かる走りにしてくれ。意味、分かるか」

分からなかった。

分からないのに、分かってしまう部分があった。悠斗は自分の名前を消されたくないのではない。自分がいないことを理由に、誰かが萎縮したり、勝負を諦めたりするのが嫌なのだ。けれど、その願いを正面から言うのが怖くて、僕に「任せる」と押しつけている。

「それ、ずるいよ」

僕は言った。

「何が」

「自分で言えないことを、僕に決めさせる」

「お前なら決められると思ってる」

「それが重いんだよ」

「俺の足より?」

「比べるな」

悠斗は、初めて目を逸らさなかった。

「比べてない。お前なら持てると思ってるだけだ」

窓の外から、歓声が上がった。何かの練習で、誰かが成功したらしい。保健室の中には、その声が遠い波のように届いた。

早川先生は、机の上の水筒を僕へ差し出した。見覚えのある、僕のものだった。朝、母が弁当と一緒に入れてくれた水筒。冷たい水が満杯に入っている。

「少し飲んで」

「大丈夫です」

「大丈夫かどうかは聞いていないよ」

僕は受け取った。蓋を開け、ひと口だけ飲む。冷たい水が喉を通った。急いで飲み込もうとすると、かえってむせそうだったので、少しずつ舌の上に置いてから飲んだ。

水筒の底に、母が貼った小さな紙が見えた。朝は気づかなかった。短い文字で、ただ一行だけ書いてある。

――帰るまでが今日。

それだけだった。

体育祭の勝敗にも、悠斗の怪我にも触れていない。けれど、その言葉を見た瞬間、僕の中で張りつめていたものが少しだけ位置を変えた。

帰るまで。

勝つまででも、誰かを満足させるまででもない。今日を終えて、明日へ戻るまで。

僕は水筒の蓋を閉めた。

「先生、変更用の用紙をください」

早川先生は何も言わず、先ほど切り分けた紙の一枚を僕の前へ滑らせた。赤ペンも一緒に置く。

「何を書くか、決めたの?」

「まだです」

悠斗が舌打ちした。

「おい」

「でも、誰に確認するかは決めます。候補を出して、本人に聞く。走る人の体調も見る。悠斗を走らせないなら、走らせない理由をみんなに伝える。勝つために必要だから、じゃなくて、怪我を悪化させないために止めるって」

「俺が納得しなかったら?」

「そのときは、納得しないままでも進める」

口にした途端、自分の声が少し震えた。

「悠斗の気持ちを無視するって意味じゃない。でも、悠斗が悔しいからって、足を壊すのを見ているわけにはいかない。僕は、お前の今日を守るために、今日の走りを止めることがある」

悠斗は黙っていた。

包帯の白と、冷却パックの白が重なっている。冷たさは痛みを消してはいない。ただ、痛みがこれ以上広がらないように、四角い形で押さえている。

「……それ、俺を外すってことか」

「お前を置いていかないってことだよ」

悠斗の目が、ほんの少し揺れた。

早川先生は、僕の書きかけの用紙を見た。名前の欄はまだ空いている。けれど、空欄はさっきまでとは違って見えた。決められない穴ではなく、これから誰かが引き受ける余地だった。

先生はテープを一本切り、用紙の端を机に固定した。

「では、教室へ戻ろうか」

「悠斗も?」

「俺は行く」

悠斗はベッドから立とうとした。

「無理に立たない」

「立つ。走らないけど、行く。俺がいないところで話を決められるのは嫌だ」

「座っていても、置いていかれるとは限らないよ」

早川先生が言った。

「でも、行くかどうかを決めるのは悠斗だ」

悠斗は先生を見た。いつものように反発するかと思ったが、何も言わなかった。代わりに、包帯の巻かれた足を見下ろし、両手でベッドの縁を押さえた。

僕はその隣に立った。

肩を貸す前に、悠斗が手を伸ばした。僕の腕ではなく、走順表の端をつかむ。

「それ、俺にも持たせろ」

「破るなよ」

「破らない。名前を見るだけ」

僕は紙を二人の間に広げた。

相良悠斗の名前が、白い紙の上に残っている。隣には、まだ誰の名前もない。

保健室の扉の向こうで、太鼓がまた鳴った。今度は試しではなく、始まりを告げるような音だった。悠斗の指が紙の端を押さえ、僕の指が反対側を押さえる。二人で持っているのに、紙は少しも軽くならない。

それでも僕は、先ほどまでのように一人で折り返すことはしなかった。

走順表を開いたまま、僕たちは保健室を出た。白い冷却パックの冷たさが、悠斗の足首に残っている。僕の手のひらには、紙の角の硬さが残っていた。

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